私たちは、少しぎごちなさそうに腕を組んだまま、例の小さな木橋を渡った。それからその流れの反対の側に沿って、サナトリウムへの道に這入って行った。その途中にずっと続いている野薔薇の生墻は、既にその白い小さな花をことごとく失った跡だった。そんな葉ばかりになってしまっている野薔薇の茂みは、それらが花を一ぱいつけていた頃のことを、殆んど強制的に私に思い出させはしたけれど、私はそれがどんなになっていようとも、もうそれには少しも感動できなくなっていた。それほどあの頃からすべてが変っていた。そしてそれが何もかも自分の責任のような気がされて、私はふっと気が鬱いだ。……が、それらの生墻の間からサナトリウムの赤い建物が見えだすと、私は気を取り直して、黄いろいフランス菊がいまを盛りに咲きみだれている中庭のずっと向うにある、その日光室を彼女に指して見せた。丁度、その日光室の中には快癒期の患者らしい外国人が一人、籐椅子に靠れていたが、それがひょいと上半身を起して、私たちの方をもの憂げな眼ざしで眺め出した。――それから私たちは、なおもその流れに沿って、そこいらへんから次第にアカシアの木立に縁どられだす川沿いの道を、何処までも真直に進んで行った。それらのアカシアの花ざかりだった頃は、その道はあんなにも足触りが軟かで、新鮮な感じがしていたのに、今はもう、あちこちに凸凹ができ、汚らしくなり、何んだかいやな臭いさえしていた。その上、それらのアカシアの木立は、まだみんな小さいので、はげしい日光から私たちを充分に庇うことが出来ないので、その川沿いの道はそれまでの道よりも一層暑いように思えた。私たちは途中からそれらのアカシアの間をくぐり抜けて、丁度サナトリウムの裏手にあたる、一面に葦の這っている、いくぶん荒涼とした感じのする大きな空地へ出た。其処からは、村の峠が、そのまわりの数箇の小山に囲繞されながら、私たちの殆んど真向うに聳えていた。――梅雨期には、その頃の私自身の心の状態のせいだったかも知れないが、その奥には何かしら神秘的なものがあるように思えてならなかった。その峠も、いまは何物をも燃やさずにはおかないような夏の光線を全身に浴びながら、何んだか炎のようにゆらめいているような感じで、私たちに迫っていた。…… 彼女は、その燃ゆるような山なみを、サナトリウムの赤い屋根を前景に配置しながら、描いてみたいと言った。そしてそれを適当な角度から描くために、そんなはげしい光線の直射するのにも無頓著のように、その空地のやや小高いところを選ぶと、三脚台を据えて、その上へ腰かけ、斜めにかぶった運動帽の下からときどきまぶしそうな顔を持ち上げながら、その下図をとりだした。……私は彼女の仕事の邪魔にならないように、いつものように彼女を其処に一人きり残しながら、再びさっきの土手に出て、やや大きなアカシアの木蔭を選んで、そこに腰を下ろしていた。そうして私の前の小さな流れの縁を一羽の鶺鴒が寂しそうにあっちこっち飛び歩いているのにぼんやり見入っていると、突然、私の背後のサナトリウムの方からその土手をうんうん言いながら重たそうに荷車を引いてくる者があるので、私は道をあけようとして立ち上った。見ると、それは一台の塵芥車だった。私は、とんでもないものがこんなところを通るんだなあと思いながら、道ばたの灌木の中へすっぽりと身体を入れながら、よそっぽを向いていた。が、その塵芥車がやっと私の背後を通り過ぎたらしいので何気なくちらりとそれへ目をやると、その箱車のなかには、鑵詰の鑵やら、唐もろこしの皮やら、英字新聞の黄ばんだのやら、草花の枯れたのやらが、一種汚らしい美しさで、ぎっしりと詰まっていた。そしてその車の通った跡には、いつまでも腐った果物に似た匂いが漂っていた。……私はこんな塵芥車のようなものにも、いかにもこの外国人の多い村らしい独得な美しさのあるのを面白がって、それをちょっと見送った後、再びさっきのアカシアの木蔭へぼんやり腰を下ろしていると、ものの数分と経たないうちに、私はまたしても私の背後へ近づいてくる車の音でもって、立ち上らなければならなかった。それもまた、前のとそっくり同じような、塵芥車だった。そしてそれから小一時間ばかりの間に、私はこの土手を通りすぎる同じような塵芥車を、ほとんど十台ぐらい数えることが出来た。――何処かこの先きの方にでも、きっとこの村の芥棄て場があるんだなと、それにはじめて気がつくや否や、私は漸っとのことで、このサナトリウムの土手がこんなに凸凹になり、汚らしくなっている原因にも気がつきだした。そうしてそれとほとんど一緒に、もうこんなにこの村には沢山の外国人がはいり込んでいるのかなあと思いながら、私はすこし呆気にとられたように、いましがた私の背後を通り過ぎて行ったばかりの、その最後の塵芥車をいつまでも見送っていた。……
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暗い道
「どっちへ向いて行くんだか、私にはちっとも分らないわ」彼女はいくらか上ずったような声で言った。 「実は僕にも分らなくなっちゃったのさ……」私はそう返事をしながら、彼女の方を見やったが、その白い顔の輪廓がもうほとんど見分けられないくらいの暗さになりだしていた。実際私自身にもこんな風に私たちの歩いている山径の見当がちょっと付きかねていたのだけれど、私はわざとそれを冗談のように言い紛らわせていたのだった。 ――その日、私が私の「美しい村」の物語の中に描いた、二人の老嬢たちのもと住まっていた、あの見棄てられた、古いヴィラの話を彼女にして聞かせると、それをしきりに見たがったので、私自身はもうそんなものは見たくもなかったのだけれど、その荒れ果てたヴェランダから夕暮れの眺めがいかにも美しかったのを思い出して、夕食後、ともかくもそのヴィラまで登って行ってみることにした。恐らくあの家はまだあのまんまになっているだろうと予想しながら。……が、だんだんそのヴィラが近づいてくるにつれ、私は何んだか急にそんな自分の夢の残骸のようなものを見に行くのが厭な気がし出したので、そろそろ日が暮れかけて来たのをいい口実に、まだ山径がこれからなかなか大へんだからと言って、私たちはその途中から引っ返すことにした。――その帰り途、私はその代りに、まだ彼女が知らないというベルヴェデエルの丘の方へ彼女を案内するため、いましがた登ってきたのとは異った山径を選んでいるうちに、どう道を間違えたのか、そのへんからもう下り道になってもよさそうな時分だのに、いつまでもそれが爪先き上りになっていて、私たちはその村の中心からはますます反対の方へ向いつつあるような気がしてきた。まだこの村にこんな私の知らない部分があることを心のうちでは驚きながら、しかし私はそのへんをいかにも知り抜いているように装いながら、さっさと彼女を導いて行った。が、私たちはともすると無言になるのだった。……いつのまにやらもうすっかり日が暮れていた。私たちの歩いている道の両側の落葉松などが伸び切って、すこし立て込んでいたりすると、私はほとんど彼女の着ているワンピイスの薔薇色さえ見さだめがたい位であった。ただときどき彼女の肩が私の肩にぶつかるので、自分の傍に彼女を近ぢかと感じながら歩いていた。そうかと思うと、木立の間からだしぬけにその奥にあるヴィラの灯りが下枝ごしに私たちの肩に落ちて来て、知らず識らずに身をすり寄せていた私たちを思わず離れさせた。――そんなヴィラの数がだんだん増え出して来たらしいことが、いくらか私たちをほっとさせていた。…… 突然、私は心臓をしめつけられたように立ち止まった。私はそれらのヴィラに見覚えがあり出すのと同時に、これをこのまま行けば、私がこの日頃そこに近寄るのを努めて避けるようにしていた、私の昔の女友達の別荘の前を通らなければならないことを認めたのだ。そして私は、その一家のものが二三日前からこの村に来ていることを宿の爺やから聞いて知っていたのだ。しかしもうさんざん彼女を引っ張りまわした挙句だったし、私もかなり歩き疲れていたので、この上廻り道をする気にはなれずに、私は心ならずもその別荘の前を通り抜けて行くことにした。……だんだんその別荘が近づいて来るにつれ、私はますます心臓をしめつけられるような息苦しさを覚えたが、さて、いよいよその別荘の真白な柵が私たちの前に現われた瞬間には、その柵の中の灯りの一ぱいに落ちている芝生の向うに、すっかり開け放した窓枠の中から、私の見覚えのある古い円卓子の一部が見え、その上には、人々が食事から立ち去ってからまだ間もないと言ったように、丸められたナプキンだの、果物の皮の残っている皿だの、珈琲茶碗だのが、まだ片づけられずに散らかったまま、まぶしいくらい洋燈の光りを浴びてきらきらと光っているのを、私は自分でも意外なくらいな冷静さをもって認めることが出来た。いい具合に其処には誰も居合わさなかったせいか、それともまたそれは、その瞬間までに、私のなかの不安が、既にその絶頂を通り越してしまっていたせいであったろうか? ともかくも、私はかなり平静に近い気持で、ただちょっと足を早めたきりで、その白い柵の前を通り過ぎることが出来た。……そんな私の心のなかの動揺には気づこう筈がなく、彼女は急に早足になった私のあとから、何んだか怪訝そうについて来ながら、 「まだ、なかなか?」とすこし不安らしく私に声をかけた。 「うん……ますます見当がつかないんだ」 「そんなことばかし言って……」彼女はそんな私の本気とも冗談ともつかないような態度にとうとう腹を立てたように見える。そうしてそんな私を非難するような口吻で、 「早く帰らない?」と言った。 「じゃ、一人でお帰りなさい」と私はいまはもう微笑らしいものさえ浮べながら返事をした。 「意地わる!」 「だって、ほら、其処知っているでしょう?」と私は、私たちの行く手の暗がりの中に小さなせせらぎが音立てているのを指しながら、「水車の道じゃないの?」と快活そうに言った。「まあ、本当に……」と彼女はまだ何んだかそれが信じられないと言った風に自分の周囲を見廻わしていた。私たちはすでに、林のなかを抜け出して、昔、水車場のあった跡に佇ずんでいたのだった。――そこで道が二股に分かれて、一方は「水車の道」、もう一方は「本通り」へと通じていた。どっちからでも、もうすぐ其処の宿屋へは帰れるのだが、水車の道の方からだと例のかなり嶮しい坂道を下りなければならなかったので、私たちは本通りの方から帰ることにした。で、その後者の道をとって、その突きあたりから本通りの方へ曲ろうとした途端に、私は、その本通りの入口の、ちょうど宿屋の前あたりから、ぽうっと薄明るくなりだしている圏の中に、五六人、一かたまりになった人影がこちらを向いて歩いてくるのを認めた。私はどきっとして立ち止まった。どうやらそれが私の昔の女友達どもらしく見えたからだ。……私は急に、私のそばにいる彼女の腕をとって、向うから苦手の人が来るらしいので捕まると面倒くさいからと早口に言訣しながら、いま来たばかりの水車場の方へ引っ返していった。そうして再びさっきの小川の縁に並んで立ちながら、その人達がそのまま本通りの方から来るか、それとも宿屋の裏の坂を抜けてくるか、どっちから来るだろうと、両方の道へ注意を配っていた。……そしてそっちにばかり注意を奪われていたので、私たちは、私たちの背後の、いましがた其処から私たちの出てきたばかりの林の中から、数人のものが懐中電気を照らしながら、出てくるのには全然気がつかずにいた。突然私たちはその懐中電気のまぶしい光りを浴びせられた。私たちはびっくりしてその小川の縁を離れた。……しかし懐中電気を手にしていた男の方でも、そんなところに思いがけず私たちが突っ立っていたのに、面喰ったらしかったが、その一人が私だと気がつくと、 「××君じゃない?」と私の名前をためらいがちに言った。そう言われて、私が一層驚いて、まぶしそうに顔をしかめながら振り向いて見ると、それは私の学生時代からの友人であった。それと同時に、私はその友人の背後に、若い女たちが二三人、まだ不審そうに闇を透かしながらこちらを見つめているのに気がついた。それはその友人の若い妻君や妹たちであった。私は彼女たちにちょいと会釈をして、それから気まり悪そうに微笑しながら、 「なあんだ、君たちか! ――何時、こっちへ来たの?」 「昨日来た。さっき君んところへ寄ったら留守だと言うんで、それから細木さんのところへ行って見たんだ。あそこの家もみんな出払っているんだ……」 私はその友人の言葉を聞き終えるか終えないうちに、本通りの方の曲り角から一かたまりの人影がこっちへ曲って来だしたのを認めた。 「じゃあ、構わないから、僕んところへ寄って行けよ」 そう言い棄てて、私はさっさと一人で水車の道の方へ歩き出した。そうして私は二三のヴィラの前を通り過ぎてから、その先きの、真っ暗だけれど、私には勝手の知れた、草ぶかい坂道をずんずん一人先きに降りていった。やがて他の連中も、そんな私の後から一塊りになって、一箇の懐中電気を頼りにしながら、きゃっきゃっと言って降りて来た。…… 「まあ、こんな道あるの、私、ちっとも知らなかったわ」 坂の中途で、友人の若い妻君がそんなことを誰にともなく言ったらしいのが、もうその時はその小さな坂を降り切ってしまっていた私のところまで、手にとるように聞えて来た。私は丁度、その友人の妻君も確か数年前にその坂道で私の出会った少女たちの中に雑っていたことを思い出すともなく思い出していたところだった。――その出会いは私にはあんなにも印象深いのに、嘗つてのその少女たちの一人であった彼女の方では、(恐らく他の少女たちも同様に)そんな私との出会いのことなどは少しも気に留めていないで、すっかり忘れてしまっているのかなあと思った。が、一方ではまた何んだか、そんなことを言って彼女が私をからかっているのじゃないかしら、とそんな気もされた。ひょいと彼女の口を衝いて出たらしいそんな言葉を私はひとりで気にしながら、いつまでもそっぽを向いて皆の降りてくるのを待っていると、突然、そのうちの誰かが足を滑らして、「あっ!」と小さく叫んで、坂の中途にどさりと倒れたらしい気配がした。見上げると、その坂の中途にまだ転がっているらしいものがまるで花ざかりの灌木のように見えた。そして他のものがみんな立ち止まって、その一番最後に降りてきた少女の方をふり返っているのを、私はただぽかんとして眺めながら、その場を一歩も動こうとしないで突っ立っていた。そうして私は毎朝のようにこの坂を昇り降りしているあの跛の花売りのことをひょっくり思い浮べ、あいつはまた何だってこんなあぶなっかしい坂道をわざわざ選んで通るのだろうかしらと、全然いまの場合とは何んの関係もないようなことを考え出していた。……
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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