しかし私は最初のうちはその少女を、唯、そんな風に私の窓からだの、或いは廊下などでひょっくり擦れちがいざま、目と目とを合わせないようにして、そっと偸み見ていたきりであった。そんな具合で、私は彼女の顔を、まだ一度も、まともに眺めたことがなく、それに私の見たときは、いつも静止していないで、しかもそれぞれに異った角度から光線を受けていたせいか、見る度毎に、その顔は変化していた。或る時は、そのやや真深かにかぶった黄いろい麦藁帽子の下から、その半陰影のなかにそれだけが顔の他の部分と一しょに溶け込もうとしないで、大きく見ひらかれた眼が、きらきらと輝いていた。またそんな帽子をかぶらずに、庭園の中などで顔いっぱいに強い光線を浴びながら、まぶしそうにその眼を半分閉ざしているおかげで、平生の特徴を半分失いながら、そしてその代りにその瞬間までちっとも目立たないでいた脣だけが苺のように鮮かに光りながら、ほとんど前のとは別の顔に変ってしまうこともあった。 そのうちに私たちがやっと短い会話を取り交わすようになり、それと共に、屡しば、私は彼女の顔をまともから眺めるようになったのにも拘らず、彼女の顔がなおも絶えず変化しているのに愕いた。或る時は、その顔はあんまり血色がよく、すべすべしているので、私のためらいがちな視線はいくどもその上で空滑りをしそうになった。また他の時はすこし疲れを帯びたように沈んで、不透明で、その皮膚の底の方にはなんだか菫色のようなものが漂っているように見えた。そうかと思うと、その皮膚がすっかり透明になり、ぽうっと内側から薔薇色を帯びているようなこともあった。ときどき以前に見たのと何処か似たような顔をしていることもあった。が、その顔は決して二度と同じものであることはなかった。 或る日のこと、私は自分の「美しい村」のノオトとして悪戯半分に色鉛筆でもって丹念に描いた、その村の手製の地図を、彼女の前に拡げながら、その地図の上に万年筆で、まるで瑞西あたりの田舎にでもありそうな、小さな橋だの、ヴィラだの、落葉松の林だのを印しつけながら、彼女のために、私の知っているだけの、絵になりそうな場所を教えた。その時、私のそんな怪しげな地図の上に熱心に覗き込んでいる彼女の横顔をしげしげと見ながら、私は一つの黒子がその耳のつけ根のあたりに浮んでいるのを認めた。その時までちっともそれに気がつかないでいた私には、何んだかそれはいま知らぬ間に私の万年筆からはねたインクの汚点かなんかで、拭いたらすぐとれてしまいそうに思えたほどだった。 翌日、私は彼女が私の貸した地図を手にして、早速私の教えたさまざまな村の道を一とおり見歩いて来たらしいことを知った。それほど私の助言を素直に受入れてくれたことは、私に何んとも言いようのない喜びを与えた。
そんな村の地図を手にして、彼女がひとりで散歩がてら見つけて来た、或るささやかな渓流のほとりの、蝙蝠傘のように枝を拡げた、一本の樅の木の下に、彼女が画架を据えている間、私はその画架の傍から、数本のアカシアの枝を透しながらくっきりと見えている、程遠くの、真っ白な、小さな橋をはじめて見でもするように見入っていた。それは六月の半ば頃、私が峠から一緒に下りてきた二人の子供たちと別れた、あの印象の深い小さな橋であった。――私は、彼女がしゃがみながら、パレットへ絵具をなすりつけ出すのを見ると、彼女の仕事を妨げることを恐れて、其処に彼女をひとり残したまま、その渓流に沿うた小径をぶらぶら上流の方へと歩いて行った。しかし私は絶えず私の背後に残してきた彼女にばかり気をとられていたので、私の行く手の小径の曲り角の向うに、一つの小さな灌木が、まるで私を待ち伏せてでもいたように隠れていたのに少しも気づかずに、その曲り角を無雑作に曲ろうとした瞬間、私はその灌木の枝に私のジャケツを引っかけて、思わずそこに足を止めた。見ると、それは一本の花を失った野薔薇だった。私はやっとのことで、その鋭い棘から私のジャケツをはずしながら、私はあらためてその花のない野薔薇を眺めだした。それが白い小さな花を一ぱいつけていた頃には、あんなにも私がそれで楽しんでいた癖に、それらの花がひとつ残らず何処かに立ち去ってしまった今は、そんな灌木のあることにすら全然気づこうとしなかった私に対して、それが精一杯の復讐をしようとして、そんな風に私のジャケツを噛み破ったかのようにさえ私には思えた。……そういう花のすっかり無くなった野薔薇をしばらく前にしながら、私はいつか知らず識らずに、それらの白い小さな花のように何処へともなく私から去っていった少女たちのことを思い出していた。……この頃、ともすると、一人の新しい少女のために、そんな昔の少女たちのことを忘れがちであったが、そう言えば、彼女たちがこの村においおいとやって来る時期ももう間ぢかに迫っているのだ。彼女たちが来ないうちに私はこの村をさっと立ち去ってしまった方がいい。そうしなくっちゃいけない。――そう自分で自分に言って聞かせるようにしながら、その一方ではまた、この頃やっと自分の手に這入りかけている新しい幸福を、そうあっさりと見棄てて行けるだろうかどうかと疑っていた。そうして私は自分の気持をそのどちらにも片づけることが出来ずに、自分で自分を持て余しながら、かれこれ一時間近くもその山径をさまよっていた。そうしてその挙句、私がやっと気がついた時には、そんな風に歩きながら自分でも知らずに何度も指で引張っていたものと見えて、私の鼠色のジャケツの肩のところに出来たその小さな綻びは、もう目立つくらいに大きくなっていた。――私はとうとう踵を返して、再び渓流づたいにその山径を下りてきた。そうして私は自分の行く手に、真っ白な、小さな橋と、一本の大きな蝙蝠傘のような樅の木を認めだすと、私はすこし歩みを緩めながら、わざと目をつぶった。その木蔭になって見えずにいるものを、私のすぐ近くに、不意に、思いがけぬもののように見出したかったのだ。……とうとう私は我慢し切れずに私の目を開けてみた。しかし彼女は私からまだ十数歩先きのところにいた。そうしてその木蔭にしゃがみながらそれまでパレットを削っていたらしい彼女が、その時つと立ち上って、私にはすこしも気がつかないように、描きかけのカンバスを画架からとりはずすと、それを道ばたの草の上へいかにも投げやりに、乱暴なくらいにほうり出したところだった。ほうり出された大きなカンバスは、しかしひとりでにふんわりとなりながら、草の上へ倒れて行った。それを見ると、私は彼女のそばへ駈けつけた。 「僕が持っていて上げよう」 「いいわ……いつもひとりでするんですから」 「意地わる!」 「意地わるでしょう」 私は彼女とそんな風に子供らしく言い合いながら、無理にカンバスを引ったくると、それを自分の肩にあてがいながら、彼女と並んで村の街道を宿屋の方へと歩いて行った。ときおり私たちは散歩をしている西洋人や村の子供たちとすれちがった。彼等のもの珍らしそうな視線は私たちを――殊にまだこの村に慣れない彼女を気づまりにさせているらしかった。私は私で、そういう彼女をつとめて気軽にさせようと思って、私の空いている方の手を自分の肩の上へやりながら、 「ほら、こんな穴が出来ちゃった……さっき一人で散歩しているとき野薔薇にひっかかったのさ」 そう言って、その肩の穴がもっと大きくなるのも構わずに、それをよく彼女に見せようとして、自分のジャケツを引張って見せたりした。そうして私はこんなにまで私と打ち解け合いだしているこの少女を振り棄てて、自分ひとりこの村を立ち去るなんぞということは、到底出来そうもないと考え出していた。
私の「美しい村」は予定よりだいぶ遅れて、或る日のこと、漸っと脱稿した。すでに七月も半ばを過ぎていた。そうして私はそれを書き上げ次第、この村から出発するつもりであったのに、私はなおも、そういう一人の少女のために、一日一日と私の出発を延ばしながら、私がその物語の背景に使った、季節前の、気味悪いくらいにひっそりした高原の村が、次第次第に夏の季節にはいり、それと同時にこの村にもぽつぽつと避暑客たちが這入り込んでくるのを、私は何んだか胸をしめつけられるような気持で、目のあたりに迎えていた。 私はしばしばその少女と連れ立って、夕食後など、宿の裏の、西洋人の別荘の多い水車の道のあたりを散歩するようになっていた。そんな散歩中、ときおり、一月前までは私と一しょに遊び戯れたりしたことさえある村の子供たちと出会うようなこともあったが、彼等は私たちの傍を素知らぬ顔をして通り抜けていった。もう私を覚えていないのだろうか、それとも私がそんな見知らない少女と二人づれなのを異様に思ってそうするのだろうか? ……しかしそれらの子供たちも、そのうちだんだんに、そんな林の中で最初のうちは私たちのよく見かけたものだった、さまざまな小鳥などと共に、その姿をほとんど見せないようになった。そしてその代り、私たちとすれちがいながら、私たちに好奇的な眼ざしを投げてゆく、散歩中の人々や、自転車に乗った人々などがだんだんに増えて来た。それらの中には私と顔見知りの人たちなども雑っていた。私はいつかこんなところをひょっくり昔の女友達にでも出会いはしないかと一人で気を揉んでいたが、ときどき、そんな散歩の途中に、ふと向うからやってくる人々のうちに遠見がどこかそれらに似たような人があったりすると、私は慌てて、その人たちを避けるために、道もないような草の茂みのなかへ彼女を引っ張りこんで、何んにも知らない彼女を駭かせるようなこともあった。 そんな風に、私は彼女と暮方近い林のなかを歩きながら、まだ私が彼女を知らなかった頃、一人でそこいらをあてもなく散歩をしていたときは、あんなにも私の愛していた瑞西式のバンガロオだの、美しい灌木だの、羊歯だのを、彼女に指して見せながら、私はなんだか不思議な気がした。それ等のものが今ではもう私には魅力もなんにも無くなってしまっていたからだ。そうして私は彼女の手前、それ等のものを今でも愛しているように見せかけるのに一種の努力をさえしなければならなかった。それほど、私自身は私のそばにいる彼女のことで一ぱいになってしまっているのだった。……そうしてそんな薄ぐらい道ばたなどで、私は私の方に身を靠せかけてそれ等のものをよく見ようとしている彼女のしなやかな肩へじっと目を注ぎながら、そっとその肩へ私の手をかけても彼女はそれを決して拒みはしないだろうと思った。そして私は或る時などは、その肩へさりげないように私の手をかけようとして、彼女の方へ私の上半身を傾けかけた。私の心臓は急にどきどきしだした。が、それよりももっとはげしく彼女の心臓が鼓動しているのを、その瞬間、私は耳にした。そしてそれが私に、そういう愛撫を、ほんのそのデッサンだけで終らせた。……私はまだその本物を知らないのだけれど、それが与えるのとちっとも異わないような特異な快さを、そのデッサンだけでもう充分に味ったように思いながら。
一体、「水車の道」というのは、郵便局やいろんな食料品店などのある本通りの南側を、それと殆んど平行しながら通っているのだが、それらの二つの平行線を斜かいに切っている、いくつかの狭い横町があった。そんな横町の一つに、その村で有名な二軒の花屋があった。二軒とも藁屋根の小さな家だったが、共に、その家の五六倍ぐらいはあるような、大きな立派な花畑に取り囲まれていた。そしてその二つの花畑を区切って、いつも気持のよいせせらぎの音を立てながら流れているのは、数年前まで、そのずっと上流のところでごとごとと古い水車を廻転させていたところの、あの小さな流れであった。そしてその一方の花畑などは、水車の道を越して、更らにその道の向うまで氾濫していた。……つい先頃までは、あんなに何処もかしこも花だらけであったこの村では、この二軒の花屋は、ほとんどその存在さえ人々から忘れられていた位であったが、やがてその季節が過ぎ、それらの野生の花がすっかり散って、それと入れ代りに今度は、これらの畑で人工的に育て上げられた、さまざまな珍らしい花が、一どにどっと咲き出したものだから、その横町を通り抜ける者は誰しもその美しい花畑に眸をみはらないものは無いくらいであった。だが、その二軒並んだ花屋の前を通りすがりに、注意をしてそれらの店の奥に坐っている花屋の主人たちに目を止めた者は、一層の愕きのためにその眸をもっと大きくせずにはいられなかったであろう。と言うのは、その一方の店の奥にきょとんと坐っている白い碁盤縞のシャツを着た小柄な老人を認めたのち、次の花屋の前にさしかかると、何んとその奥にも、つい今しがたもう一方の奥に見かけたばかりのと寸分も異わない、小柄な老人が、やはり同じような白い碁盤縞のシャツを着て、きょとんと腰をかけ、往来の方を眺めているのに気づくだろうからだ。ただ異うのは、そんな二人のそばに坐っているのが、一方はいつも髪の毛をくしゃくしゃにさせた、肥っちょの女房であったし、もう一方はそれと好対照をしている位に痩せっぽちの、すこし藪睨みらしい女房であることだ。つまり、その二軒の花屋の老いたる主人たちは、ほとんど瓜二つと云っていいほどの、兄弟なのであった。その上、可笑しいことには、この花屋の兄弟はとても仲が悪くて、夏場だけはお互に仲好さそうに口を利き合いながら商売をしているが、さて夏場が過ぎてしまうと、すぐに性懲りもなく喧嘩をし始め、冬の間などは、お互に一言も口を利かずに過ごすようなことさえあると言うことだった。――そんな風変りな二軒の花屋のある横町には、道ばたに数本の小さな樅と楓とが植えられてあったが、その一番手前の小さな楓の木に、ついこの間のこと、「売物モミ二本、カエデ三本」という真新しい木札がぶらさげられた。そしていまや、その横町の両側の花畑には、向日葵だの、ダリヤだの、その他さまざまの珍らしい花が真っさかりであった。…… 私はそんな二軒の花屋の物語を彼女に聞かせながら、その私の大好きな横町へ、彼女の注意を向けさせた。 水車の道の上へ大きな枝を拡げている、一本の古い桜の木の根元から、その道から一段低くなっている花畑の向うに、店の名前を羅馬字で真白にくり抜いた、空色の看板が、さまざまな紅だの黄だのの花とすれすれの高さに、しかしそれだけくっきりと浮いて見えている。――そんな角度から見た一軒の花屋の屋根とその花畑を、彼女は或る日から五十号のカンバスに描き出した……。 しかしその水車の道はそのへんの別荘の人たちが割合に往き来するので、彼女のまわりにはすぐ人だかりがして困るらしかったが、私は一遍もその絵を描いている場所へ近づこうとはしないでいた。そんな人目につき易い場所で私が彼女と親しそうにしているのを、私の顔見知りの人々に見られたくなかったからだ。で、私は自分の部屋に閉じこもったきりで、この頃やっと書き上げたばかりの原稿へ最後の手入れをし続けていた。(しかし、その間一番余計に私の考えていたのは、やっぱり彼女のことであった。)――が、私はその花屋を描いているところを遠くからなりと、一度見て置きたいと思って、或る朝、宿屋の裏の坂を上りながら水車の道まで出ていって見た。そうして私は、その道の向うの、大きな桜の木の下に立って、パレットを動かしている彼女と、それから彼女の横からその画布を覗き込みながら、一人のベレ帽をかぶった若い男が、何やら彼女に話しかけているのを認めた。私はそんな男が早く彼女のそばを立ち去ってくれればいいにと、すこしやきもきしながら、待っていた。―― 「誰れ? いまの人……」やっとその男が立ち去ったのを見ると、私は急いで彼女の方へ近づいて行きながら、いかにも何気なさそうに訊いた。 「画家さんなんですって……何んだか、あんまり何時までも見ていらっしゃるんで、私、厭になっちゃった……」 彼女はわざとらしく顔をしかめて見せた。それからすこし恐いような眼つきをして花畑の一部を見つめだした。熱心に絵を描こうとしているときの彼女が、こんな男のような、きびしい眼つきになるのを私はよく知っていたものだから、私はそれっきり黙っていた……。 そんな風に、私がちょっとでも彼女から離れている間に、私なしに、彼女がこの村で一人きりで知り出しているすべてのものが、私に漠として不安を与えるのだった。或る日、彼女は、昔は其処に水車場があったと私の教えた場所のほとりで、屡しば、背中から花籠を下ろして、松葉杖に靠れたまま汗を拭いている、跛の花売りを見かけることを私に話した。彼女の話すようなものをついぞ見かけたことのない私には、そんな跛の花売りのようなものと彼女が屡しば出会うことすら、自分でも可笑しいくらい、気になってならなかった。
或る朝、私は私の窓から彼女が絵具箱をぶらさげて、裏の坂を昇ってゆくのを見送った後、そのまんまぼんやり窓にもたれていると、しばらくしてからその同じ坂を、花籠を背負い、小さな帽子をかぶった男が、ぴょこんぴょこんと跳ねるような恰好をして昇ってゆくのが認められた。よく見ると、その男は松葉杖をついているのだ。ああ、こいつだな、彼女がモデルにして描きたいと言っていた跛の花売りというのは! ……そういう後姿だけではよくわからなかったが、その男は、この村の花売り共が大概よぼよぼの老人ばかりなのに、まだうら若い男らしかった。それが一層片輪の故にそんな花売りなんかしていることを物哀れに感じさせた。――そうして、その悲しげな跛の花売りを、私は自分自身の眼で見知るや否や、彼女がその姿を絵に描いてみたいと言っていただけでもって、その跛の花売りに私の抱いていた、軽い嫉妬のようなものは、跡方もなく消え去った。…… しかし、数日前水車の道で彼女に親しげに話しかけていたところを私の目撃した、あの画家だという、ベレ帽をかぶっていた青年は、その顔なんか明瞭には覚えていなかったが、それだけ一層、その男の漠とした存在は、何かしら私を不安にさせずにはおかなかった。彼女はその画家のことはそれっきり何んにも私に話さなかったが、ひょっとしたら彼女はそれまでに何遍もその画家に出会っており、そして私の知らない間に互に親しくなりだしているのではないかと云うような懸念さえ私は持ちはじめていた。そうして或る日のこと、そういう私の懸念を一そう増させずにはおかないような出会いを私たちはその画家としたのだった。――やっと彼女が花屋の絵を描き上げたので、次の絵を描く場所を捜すために、或る晴れた朝、私は彼女と一緒に、すこし遠いけれど、サナトリウムの方へひさしぶりで出かけてみることにした。私たちが、小さな集りのあるらしい、少人数の西洋人の姿が窓ごしにちらちら見える、教会の前を通りぬけて、その裏の、いつも人気のない橡の林の中へはいろうとした途端、私たちの行く手の、その林のなかの小径をば、一人の男が、帽子もかぶらずに、スケッチ・ブックらしいものを手にしながら、ぶらぶらしているのを私たちは認めた。「いつかの画家さんよ……又、お会いしたわ」――彼女にそう注意をされるまでは、私はその男が、この頃何の理由もなく私を苦しめ出している、そのベレ帽の画家と同じ男であることには気づかなかった位であった。それほど私はその画家については何んにも見覚えがなかったのだ。私は、私たちの方へぶらぶら歩いてくるその男からは、つとめて私の視線をはずしながら、急に早口にとりとめもないことを彼女に話し出した。私は彼女が私の話に気をとられてその男の方へはあんまり注意しないようにと仕掛けたのだ。しかし彼女は私の言うことには何んだか気がなさそうに応えるだけであった。そして彼女は、私がそばにいるのでひどく曖昧にされたような好意に充ちた眼ざしで、その男の方を見つめていた。少くとも私にはそんな気がした。すると、その男の方でも、私の知らないこの前の出会いの際に、彼女と交換した親しげな視線の続きとでも言ったような意味ありげな視線を彼女の方へ投げかけながら、そして思い出し笑いのようなものをふいと浮べながら、軽く会釈をして、私たちのそばを通り抜けて行った。 私はなんだか急に考えごとでもし出したかのように黙り込んだ。私たちはその橡の林を通り抜けて、いつか小さな美しい流れに沿い出していた。しかし私はいま自分の感じていることが何処まで真実であるのか、そんなことはみんな根も葉もないことなんじゃないかと疑ったりしながら、気むずかしそうに沈黙したまま、自分の足許ばかり見て歩いていた。そうして私は、そんな自分の疑いに対するはっきりした答えを恐れるかのように、いつまでも彼女の方を見ようとはしないでいた。が、とうとう私は我慢し切れなくなってそんな沈黙の中からそっと彼女の横顔を見上げた。そして私は思ったよりももっと彼女がその沈黙に苦しんでいるらしいのを見抜いた。そういう彼女の打ち萎れたような様子は私にはたまらないほどいじらしく見えた。突然、後悔のようなもので私の胸は一ぱいになった。……私がほとんど夢中で彼女の腕をつかまえたのは、そんなこんがらがった気持の中でだった。彼女はちょっと私に抵抗しかけたが、とうとうその腕を私の腕のなかに切なそうに任せた。……それから数分経ってから初めて、私はやっと自分の腕の中に彼女がいることに気がついたように、何んともかんとも言えない歓ばしさを感じ出した。
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