四十四
文学の毒に中られた者は必ず終に自分も指を文学に染めねば止まぬ。私達が即ち然うであった。先ず友が何か下らぬ物を書いて私に誇示した。すると私も直ぐ卑しい負ぬ気を出して短篇を書いた。どうせ碌な物ではない。筋はもう忘れて了ったが、何でも自分を主人公にして、雪江さんが相手の女主人公で、紛紜した挙句に幾度となく姦淫するのを、あやふやな理想や人生観で紛らかして、高尚めかしてすじり捩った物であったように記憶する。自惚は天性だから、書上げると、先ず自分と自分に満足して、これなら当代の老大家の作に比しても左して遜色は有るまい、友に示せたら必ず驚くと思って、示せたら、友は驚かなかった。好い処もあるが、もう一息だと言う様なことをいう。私は非常に不平だった。が、局量の狭い者に限って、人の美を成すを喜ばぬ。人を褒れば自分の器量が下るとでも思うのか、人の為た事には必ず非難を附けたがる、非難を附けてその非難を附けたのに必ず感服させたがる。友には其癖があったから、私は友の評を一概に其癖の言わせる事にして了って、実に卑劣な奴だと思った。 何とかして友に鼻を明させて遣りたい。それには此短篇を何処かの雑誌へ載せるに限ると思った。雑誌へ載せれば、私の名も世に出る、万一したら金も獲られる、一挙両得だというような、愚劣な者の常として、何事も自分に都合の好い様にばかり考えるから、其様な虫の好い事を思って、友には内々で種々と奔走して見たが、如何しても文学の雑誌に手蔓がない。其中に或人が其は既に文壇で名を成した誰かに知己になって、其人の手を経て持込むが好いと教えて呉れたので、成程と思って、早速手蔓を求めて某大家の門を叩いた。 某大家は其頃評判の小説家であったから、立派な邸宅を構えていようとも思わなかったが、定めて瀟洒な家に住って閑雅な生活をしているだろうと思って、根岸の其宅を尋ねて見ると、案外見すぼらしい家で、文壇で有名な大家のこれが住居とは如何しても思われなかった。家も見窄らしかったが、主人も襟垢の附た、近く寄ったら悪臭い匂が紛としそうな、銘仙か何かの衣服で、銀縁眼鏡で、汚い髯の処斑に生えた、土気色をした、一寸見れば病人のような、陰気な、くすんだ人で、ねちねちとした弁で、面を看合せると急いで俯向いて了う癖がある。通されたのは二階の六畳の書斎であったが、庭を瞰下すと、庭には樹から樹へ紐を渡して襁褓が幕のように列べて乾してあって、下座敷で赤児のピイピイ泣く声が手に取るように聞える。 私は甚く軽蔑の念を起した。殊に庭の襁褓が主人の人格を七分方下げるように思ったが、求むる所があって来たのだから、質樸な風をして、誰も言うような世辞を交ぜて、此人の近作を読んで非常に敬服して教えを乞いに来たようにいうと、先生畳を凝と視詰めて、あれは咄嗟の作で、書懸ると親類に不幸が有ったものだから、とかいうような申訳めいた事を言って、言外に、落着いて書いたら、という余意を含める。私は腹の中で下らん奴だと思ったが、感服した顔をして媚びたような事を言うと、先生万更厭な心持もせぬと見えて、稍調子付いて来て、夫から種々文学上の事に就いて話して呉れた。流石は大家と謂われる人程あって、驚くべき博覧で、而も一家の見識を十分に具えていて、ムッツリした人と思いの外、話が面白い。後進の私達は何の点に於ても敬服しなければならん筈であるが、それでも私は尚お軽蔑の念を去る事が出来なかった。で、終局に只ほんの看て貰えば好いように言って、雑誌へ周旋を頼む事は噫にも出さないで、持って行った短篇を置いて、下宿へ帰って来てから、又下らん奴だと思った。
四十五
某大家は兎に角大家だ。私は青二才だ。何故私は此人を軽蔑したのか? 襟垢の附いた着物を着ていたとて、庭に襁褓が乾してあったとて、平生名利の外に超然たるを高しとする私の眼中に、貧富の差は無い筈である。が、私は実際先生の貧乏臭いのを看て、軽蔑の念を起したのだ。矛盾だ。矛盾ではあるが、矛盾が私の一生だ。 医者の不養生という。平生思想を性命として、思想に役せられている人に限って、思想が薄弱で正可の時の用に立たない。私の思想が矢張り其だった。 けれど、思想々々と大層らしく言うけれど、私の思想が一体何んだ? 大抵は平生親しむ書巻の中から拾って来た、謂わば古手の思想だ。此蒼褪めた生気のない古手の思想が、意識の表面で凝って髣髴として別天地を拓いている処を見ると、理想だ、人生観だというような種々の観念が美しい空想の色彩を帯びて其中に浮游していて、腹が減いた、銭が欲しいという現実界に比べれば、に美しいように見える。浮気な不真面目な私は直ぐ好い処を看附けたという気になって、此別天地へ入り込んで、其処から現実界を眺めて罵しっていたのだ。我存在の中心を古手の思想に託して、夫で自ら高しとしていたのだ。が、私の別天地は譬えば塗盆へ吹懸けた息気のような物だ。現実界に触れて実感を得ると、他愛もなく剥げて了う、剥げて木地が露われる。古手の思想は木地を飾っても、木地を蝕する力に乏しい。木地に食入って吾を磨くのは実感だのに、私は第一現実を軽蔑していたから、その実感を得る場合が少く、偶得た実感も其取扱を誤っていたから、木地の吾を磨く足にならなかった。従って何程古手の思想を積んで見ても、木地の吾は矢張故のふやけた、秩序のない、陋劣な吾であった。 こうして別天地と木地の吾とは別々であったから、別天地に遊んでいる時と、吾に戻った時とは、勢い矛盾する。言行は始終一致しない。某大家に対しても、未だ会わぬ中は多少の敬意を有っていたけれど、一たび其人の土気色した顔が見え、襟垢が見え、襁褓が見えて想像中の人が現実の人となると、木地の吾が、貧乏だから下らんと、別天地では流行せぬ論法で論断して之を軽蔑して了ったのだ。 唯当時私はまだ若かったから、陋劣な吾にしても、私の吾には尚お多少の活気が有って、多少の活機を捉え得た。文壇の大家になると、古手の思想が凝固まって、其人の吾は之に圧倒せられ、纔に残喘を保っているようなのが幾らもある。斯ういう人が、現実に触れると、気の毒な程他愛の無い人になる。某大家が即ち其であった。だから、人生を論じ、自然を説いて、微を拆き、幽を闡く頭はあっても、目前で青二才の私が軽蔑しているのが、先生には終に見えなかったのだ。
四十六
二三日して行って見ると、先生も友と同じ様に、好い処も有るが、もう一息だというような事を言う。嘘だ。好い処も何も有るのじゃない。不出来だと直言が出来なくて斯う言ったのだ。先生も目が見えん人だが、私も矢張自分の事だと目が見えんから、其を真に受けて、書直して持って行くと、先生が気の毒そうに趣向をも少し変えて見ろと云う。言う通りに趣向をも少し変えて持って行くと、もう先生も仕方がない、不承々々に、是で好いと云う。なに、是で好い事は些も無いのだが、先生は気が弱くて、もう然う然うは突戻し兼たのだ。先生に曰わせると、之を後進に対する同情だという。何の同情の事が有るものか! 少しでも同情が有るなら、頭から叱付けて、文学などに断念させるが好いのだ。是が同情なら、同情は「え切らん」の別名だ。どうせ思想に囚われて活機の分らぬ人の為る事だから、お飾の思想を一枚剥れば、下からいつも此様な愛想の尽きた物が出て来るに不思議はないが、此方も此方だ、其様な事は少しも見えない。本当に是で好い事だと思って、其言葉の尾に縋って、何処かの雑誌へ周旋をと頼んだ。こんなのを盲目の紛れ当りと謂うのだろう。機を制せられて、先生も仕方がなさそうに是も受込む。私達の応対は活きた人には側で聴いていられたものであるまい。 一月程して私の処女作は或雑誌へ出た。初恋が霜げて物にならなかった事を書いたのだからとて、題は初霜だ。雪江さんの記念に雪江と署名した。先生が筆を加えて私の文は行方不明になった処も大分あったが、兎も角も自分の作が活字になったのが嬉しくて嬉しくて耐らない。雑誌社から送って来るのを待ちかねて、近所の雑誌店へ駆付けて、買って来て、何遍か繰返して読んでも読んでも読飽かなかった。真面目な人なら、此処らで自分の愚劣を悟る所だろうが、私は反て自惚れて、此分で行けば行々は日本の文壇を震駭させる事も出来ようかと思った。 聊かながら稿料も貰えたから、二三の友を招いて、近所の牛肉店で祝宴を開いて、其晩遂に「遊び」に行った。其時案外不愉快であったのは曾て記した通り。皆嬉しさの余りに前後を忘却したので。 これが私の小説を書く病付きで又「遊び」の皮切であったが、それも是も縁の無い事ではない。私の身では思想の皮一枚剥れば、下は文心即淫心だ。だから、些とも不思議はないが、同時に両方に夢中になってる中に、学校を除籍された。なに、月謝の滞りが原因だったから、復籍するに造作はなかったが、私は考えた、「寧その事小説家になって了おう。法律を学んで望み通り政治家になれたって、仕方がない。政治家になって可惜一生を物質的文明に献げて了うより、小説家になって精神的文明に貢献した方が高尚だ。其方が好い……」どうも仕方がない。活眼を開いて人生の活相を観得なかった私が、例の古手の旧式の思想に捕われて、斯う思ったのは仕方がないが、夫にしても、同じ思想に捕われるにしても、も少し捕えられ方が有りそうなものだった。物心一如と其様な印度臭い思想に捕われろではないが、所謂物質的文明は今世紀の人を支配する精神の発動だと、何故思れなかったろう? 物質界と表裏して詩人や哲学者が顧みぬ精神界が別にあると、何故思れなかったろう? 人間の意識の表面に浮だ別天地の精神界と違って、此精神界は着実で、有力で、吾々の生存に大関係があって、政治家は即ち此精神界を相手に仕事をするものだと、何故思われなかったろう? 此道理をも考えて、其上で去就を決したのなら、真面目な決心とも謂えようが……ああ、しかし、何の道思想に捕われては仕方がない。私は思想で、自ら欺いて、其様な浅墓な事を思っていたが、思想に上らぬ実際の私は全く別の事を思っていた。如何な事を思っていたかは、私の言う事では分らない、是から追々為る事で分る。
四十七
私は其時始て文士になろうと決心した、トサ後には人にも話していたけれど、事実でない。私は生来未だ曾て決心をした事の無い男だ。いつも形勢が既に定って動かすべからずなって、其形勢に制せられて始て決心するのだから、学校を除籍せられたばかりでは、未だ決心が出来なかった。唯下宿に臥転んでグズリグズリとして文士に為りそうになっていたのだ。 始めて決心したのは、如何してか不始末が国へ知れて父から驚いた手紙の来た時であった。行懸りで愚図々々はしていられなくなったから、始めて斯うと決心して事実を言って同意を求めてやると、父からは怒った手紙が来る、母からは泣いた手紙が来る。親達が失望して情ながる面は手紙の上に浮いて見えるけれど、こうなると妙に剛情になって、因襲の陋見に囚われている年寄の白髪頭を冷笑していた。親戚の某が用事が有って上京した序に、私を連れて帰ろうとしたが、私は頑として動かなかった。そこで学資の仕送りは絶えた。 こうなるは最初から知れていながら、私は弱った。仕方がないから、例の某大家に縋って書生に置いて貰おうとすると、先生は相変らずグズリグズリと煮切らなかったが、奥さんが飽迄不承知で、先生を差措いて、御自分の口から断然断られた。私は案外だった。頼めば二つ返事で引受けて呉れるとばかり思っていたから、親戚の者が連れて行こうとした時にも、言わでもの広言迄吐いて拒んだのだが、こう断られて見ると、何だか先生夫婦に欺かれたような気がして、腹が立って耐らなかった。世間の人は皆私の為に生きているような気でいたからだ。 もう斯うなっては、仕方がない、書けても書けんでも、筆で命を繋ぐより外仕方がない。食うと食わぬの境になると、私でも必死になる。必死になって書いて書いて書捲って、その度に、悪感情は抱いていたけれど、仕方がないから、某大家の所へ持って行って、筆を加えて貰った上に、売って迄貰っていた。其が為には都合上門人とも称していた。然うして一二年苦しんでいる中に、どうやら曲りなりにも一本立が出来るようになると、急に此前奥さんに断られた時の無念を想出して、夫からは根岸のお宅へも無沙汰になった。もう先生に余り用はない。先生は或は感情を害したかも知れないが、先生が感情を害したからって、世間が一緒になって感情を害しはすまいし……と思ったのではない、決して左様な軽薄な事は思わなかったが、私の行為を後から見ると、詰り然う思ったと同然になっている。 先生には用が無くなったが、文壇には用が有るから、私は広く交際した。大抵の雑誌には一人や二人の知己が出来た。こうして交際を広くして置くと、私の作が出た時に、其知己が余り酷くは評して呉れぬ。無論感服などする者は一人もない。私などに感服しては見識に関わる。何かしら瑕疵を見付けて、其で自分の見識を示した上で、しかし、まあ、可なりの作だと云う。褒る時には屹度然う云う。私は局量が狭いから、批評家等が誰も許しもせぬのに、作家よりも一段上座に坐り込んで、其処から曖昧な鑑識で軽率に人の苦心の作を評して、此方の鑑定に間違いはない、其通り思うて居れ、と言わぬばかりの高慢の面付が癪に触って耐らなかったが、其を彼此言うと、局量が狭いと言われる。成程其は事実だけれど、そう言われるのが厭だから、始終黙って憤っていた。其癖批評家の言う所で流行の趨く所を察して、勉めて其に後れぬようにと心掛けていた……いや、心掛けていたのではない、其様な不見識な事は私の尤も擯斥する所だったが、後から私の行為を見ると矢張然う心掛けたと同然になっている。
四十八
久らく文壇を彷徨している中に、当り作が漸く一つ出来た。批評家等は筆を揃えて皆近年の佳作だと云う。私は書いた時には左程にも思わなかったが、然う言われて見ると、成程佳作だ。或は佳作以上で、傑作かも知れん。私は不断紛々たる世間の批評以外に超然としている面色をしていて、実は非難されると、非常に腹が立って、少しでも褒められると、非常に嬉しかったのだ。 当り作が出てからは、黙っていても、雑誌社から頼みに来る、書肆から頼みに来る。私は引張凧だ……トサ感じたので、なに、二三軒からの申込が一時一寸累なったのに過ぎなかった。 嬉しかったので、調子に乗って又書くと、又評判が好い。斯うなると、世間の注目は私一身に叢まっているような気がして、何だか嬉しくて嬉しくて耐らないが、一方に於ては此評判を墜しては大変という心配も起って来た。で、平生は眼中に置かぬらしく言っていた批判家等に褒られたいが一杯で、愈文学に熱中して、明けても暮れても文学の事ばかり言い暮らし、眼中唯文学あるのみで、文学の外には何物もなかった。人生あっての文学ではなくて、文学あっての人生のような心持で、文学界以外の人生には殆ど何の注意も払わなかった。如何なる国家の大事が有っても、左程胸に響かなかった代り、文壇で鼠がゴトリというと、大地震の如く其を感じて騒ぎ立てた。之を又真摯の態度だとかいって感服する同臭味の人が広い世間には無いでもなかったので、私は老人がお宗旨に凝るように、愈文学に凝固まって、政治が何だ、其日送りの遣繰仕事じゃないか? 文学は人間の永久の仕事だ。吾々は其高尚な永久の仕事に従う天の選民だと、其日を離れて永久が別に有りでもするような事を言って、傲然として一世を睥睨していた。 文学上では私は写実主義を執っていた。それも研究の結果写実主義を是として写実主義を執たのではなくて、私の性格では勢い写実主義に傾かざるを得なかったのだ。 写実主義については一寸今の自然主義に近い見解を持って、此様な事を言っていた。 写実主義は現実を如実に描写するものではない。如実に描写すれば写真になって了う。現実の(真とは言わなかった)真味を如実に描写するものである。詳しく言えば、作家のサブジェクチウィチー即ち主観に摂取し得た現実の真味を如実に再現するものである。 人生に目的ありや、帰趨ありや? 其様な事は人間に分るものでない。智の力で人生の意義を掴まんとする者は狂せずんば、自殺するに終る。唯人生の味なら、人間に味える。味っても味っても味い尽せぬ。又味わえば味わう程味が出る。旨い。苦中にも至味はある。其至味を味わい得ぬ時、人は自殺する。人生の味いは無限だけれど、之を味わう人の能力には限りがある。 唯人は皆同じ様に人生の味を味わうとは言えぬ。能く料理を味わう者を料理通という。能く人生を味わう者を芸術家という。料理通は料理人でない如く、能く人生を味わう芸術家は能く人生を経理せんでも差支えはない。 道徳は人生を経理するに必要だろうけれど、人生の真味を味わう助にはならぬ。芸術と道徳とは竟に没交渉である。 是が私の見解であった。浅薄はさて置いて、此様な事を言って、始終言葉に転ぜられていたから、私は却て普通人よりも人生を観得なかったのである。
四十九
私の文学上の意見も大業だが、文学については先あ其様な他愛のない事を思って、浮れる積もなく浮れていた。で、私の意見のようにすると、味わるるものは人生で、味わうものは作家の主観であるから、作家の主観の精粗に由て人生を味わう程度に深浅の別が生ずる。是に於て作家は如何しても其主観を修養しなければならん事になる。 私は行々は大文豪になりたいが一生の願だから、大に人生に触れて主観の修養をしなければならん。が、漠然人生に触れるの主観を修養するのと言ってる中は、意味が能く分っているようでも、愈実行する段になると、一寸まごつく。何から何如手を着けて好いか分らない。政治や実業は人生の一現象でも有ろうけれど、其様な物に大した味はない筈である。といって教育でもないし、文壇は始終触れているし、まあ、社会現象が一番面白そうだ。面白いというのは其処に人生の味が濃かに味わわれる謂である。社会現象の中でも就中男女の関係が最も面白そうだが、其面白味を十分に味わおうとするには、自分で実験しなければならん。それには一寸相手に困る。人の恋をするのを傍観するのは、宛も人が天麩羅を喰ってるのを観て其味を想像するようなものではあるけれど、実験の出来ぬ中は傍観して満足するより外仕方がない。が、新聞の記事では輪廓だけで内容が分らない。内容を知るには、恋する男女の間に割込んで、親しく其恋を観察するに限るが、恋する男女が其処らに落こちても居ない。すると、当分まず恋の可能を持っている若い男女を観察して満足して居なければならん。が、若い男を観察したって詰らない。若い男の心持なら、自分でも大抵分る。恋の可能を持っている若い女の観察が当面の急務だ。と、こう考え詰めて見ると、私の人生研究は詰り若い女の研究に帰着する。 で、帰着点は分ったが、矢張実行が困難だ。若い女を研究するといって、往来に衝立っていて通る女に一々触れもされん。勢い私の手の届く所から研究に着手する外はない。が、私の手の届く所だと、まず下宿屋のお神さんや下女になる。下宿屋のお神さんは大抵年を喰ってる。若いお神さんはうッかり触れると危険だ。剰す所は下女だが、下女ではどうも喰い足りない。忙がしそうにしている所を捉まえて、一つ二つ物を言うと、もう何番さんかでお手が鳴る。ヘーイと尻上りに大きな声で返事をして、跡をも閉めずにドタドタと座敷を駈出して行くのでは、余り没趣味だ。下女が没趣味だとすると、私の身分ではもう売女に触れて研究する外はないが、これも大店は金が掛り過るから、小店で満足しなければならん。が、小店だと、相手が越後の国蒲原郡何村の産の鼻ひしゃげか何かで、私等が国さでと、未だ国訛が取れないのになる。往々にして下女にも劣る。尤も是は少し他に用事も有ったから、其用事を兼ねて私は絶えず触れていたが、どうしても、どう考えて見ても、是では喰い足らん。どうも素人の面白い女に撞着って見たい。今なら直ぐ女学生という所だが、其時分は其様な者に容易に接近されなかったから、私は非常に煩悶していた。 馬鹿なッ! 其様な事を言って、私は女房が欲しくなったのだ。
五十
人生の研究というような高尚な事でも、私なぞの手に掛ると、詰り若い女に撞着りたいなぞという愚劣な事になって了う。普通の人なら青年の中は愚を意識して随分愚な真似もしようけれど、私は其を意識しなかった。矢張私共でなければ出来ぬ高尚な事のように思って、切に若い女に撞着りたがっている中に、望む所の若い女が遂に向うから来て撞着った。 それは小石川の伝通院脇の下宿に居る時であった。此下宿は体裁は余り好くなかったが、それでも所謂高等下宿で、学生は大学生が一人だったか、二人だったか、居たかと思う。余は皆小官吏や下級の会社員ばかりで、皆朝から弁当を持って出懸けて、午後は四時過でなければ帰って来ぬ連中だから昼の中は家内が寂然とする程静かだった。 私は此家で一番上等にしてある二階の八畳の部屋を占領していた。なに、一番上等といっても、元来下宿屋に建てた家だから、建前は粗末なもので、動もすると障子が乾反って開閉に困難するような安普請ではあったが、形の如く床の間もあって、年中鉄舟先生やら誰やらの半折物が掛けてあって、花活に花の絶えたことがない……というと結構らしいが、其代り真夏にも寒菊が活てあったりする。造花なのだ。これは他の部屋も大同小異だったが、唯た一つ他の部屋にはなくて、此部屋ばかりにある、謂わば此部屋の特色を成す物があった。それは姿見で、唐草模様の浮出した紫檀贋いの縁の、対うと四角な面も長方形になる、勧工場仕込の安物ではあったけれど、兎も角も是が上等室の標象として恭しく床の間に据えてあった。下にもまだ八畳が一間あったが、其処には姿見がなかった。同じような部屋でありながら、間代が其処より此処の方が三割方高かったのは、半分は此姿見の為だったかとも思われる。 部屋は此通り余り好くはなかったが、取得は南向で、冬暖かで夏涼しかった。其に一番尽頭の部屋で階子段にも遠かったから、他の客が通り掛りに横目で部屋の中を睨んで行く憂いはなかった。 も一つ好い事は――部屋の事ではないが、此家は下宿料の取立が寛大だった。亭主は居るか居ないか分らんような人で、お神さん一人で繰廻しているようだったが、快活で、腹の大きい人で、少し居馴染んだ者には、一月二月下宿料が滞っても、宜しゅうございます、御都合の好い時で、といってビリビリしない。収入の不定な私には是が何よりだったから、私は二年越此家に下宿して居た。 或日朝から出て昼過に帰ると、帳場に看慣れぬ女が居る。後向だったから、顔は分らなかったが、根下りの銀杏返しで、黒縮緬だか何だかの小さな紋の附いた羽織を着て、ベタリと坐ってる後姿が何となく好かったが、私がお神さんと物を言ってる間、其女は振向いても見ないで、黙って彼方向いて烟草を喫っていた。 部屋へ来る跡から下女が火を持って来たから、捉まえて聞くと、今朝殆ど私と入違いに尋ねて来たのだそうで、何でもお神さんの身寄だとかで、車で手荷物なぞも持って来たから、地方の人らしいと云う。唯其切で、下女の事だから要領を得ない。 「如何な女だい?」 「あら、今御覧なすったじゃ有りませんか?」 「後向きで分らなかった。」 「別品ですよ」、といって下女は莞爾々々している。 「丸顔かい?」 「いいえ、細面でね……」 「色は如何なだい? 白いかい?」 下女は黙って私の面を見ていたが、 「大層お気が揉めますのね。何なら、もう一遍下へ行って見ていらしッたら……」 誰にでも翻弄されると、途方に暮れる私だから、拠どころなく苦笑として黙って了うと、下女は高笑して出て行って了った。
五十一
軈て夕飯時になった。部屋々々へ膳を運ぶ忙がしそうな足音が廊下に轟いて、何番さんがお急ぎですよ、なぞと二階から金切声で聒しく喚く中を、バタバタと急足に二人ばかり来る女の足音が私の部屋の前で止ると、 「此方が一番さんで、夫から二番さん三番さんと順になるンですから何卒……」 というのは聞慣れた小女の声で、然う言棄てて例の通り端手なくバタバタと引返して行く。 と、跡に残った一人が障子の外に蹲まった気配で、スルスルと障子が開いたから、見ると、彼女だ、彼女に違いない。私は急いで余所を向いて了ったから、能くは、分らなかったが、何でも下女の話の通り細面で、蒼白い、淋しい面相の、好い女だ……と思った。年頃は二十五六……それとも七か……いや、八か……女の歳は私には薩張分らない。もう羽織はなしで、紬だか銘仙だか、夫とも更と好い物だか、其も薩張分らなかったが、何しても半襟の掛った柔か物で、前垂を締めて居たようだった。障子を明けると、上目でチラと私の面を見て、一寸手を突いて辞儀をしてから、障子の影の膳を取上て、臆した体もなくスルスルと内へ入って来て、「どうもお待せ申しまして」、といいながら、狼狽している私の前へ据えた手先を見ると、華奢な蒼白い手で、薬指に燦と光っていたのは本物のゴールド、リングと見た。正可鍍金じゃ有るまい、飯櫃も運び込んでから、 「お湯はございますか知ら。」 と火鉢の薬鑵を一寸取って見て、 「まだ御座いますようですね。じゃ、お後にしましょう。御緩くりと……」 と会釈して、スッと起った所を見ると、スラリとした後姿だ。ああ、好い風だ、と思っている中に、もう部屋を出て了って、一寸小腰を屈めて、跡を閉めて、バタバタと廊下を行く。 別段異った事もない。小娘でないから、少しは物慣れた処もあったろうが、其は当然だ。風に一寸垢脱のした処が有ったかも知れぬが、夫とても浮気男の眼を惹く位の価値で大した女ではなかったのに、私は非常に感服して了った。尤も私の不断接している女は、厭にお澄しだったり、厭に馴々しかったりして、一見して如何にも安ッぽい女ばかりだったから、然ういうのを看慣れた眼には少しは異って見えたには違いない。 何物だろうと考えて見たが、分らない。或は黒人上りかとも思ってみたが、下町育ちは山の手の人とは違う。此処のお神さんも下町育ちだと云う。そういえば、何処か様子に似た処もある。或は下町育ちかも知れぬとも思った。 素性は分らないが、兎に角面白そうな女だから、此様なのを味わったら、女の真味が分るかも知れん。今に膳を下げに来たら、今度こそは勇気を振起して物を言って見よう、私のように黙って居ては、何時迄経っても接近は出来ん、なぞと思っていると、隣室で女の笑い声がする。下女の声ではない。今のに違いない。隣の俗物め、もう捉まえて戯言でも言ってると見える。
五十二
其晩膳を下げに来るかと心待に待っていたら、其には下女が来て、女は顔を見せなかった。翌朝は女が膳を運んで来たが、卒となると何となく気怯れがして、今は忙しそうだから、昼の手隙の時にしよう、という気になる。で、言うべき文句迄拵えて、掻くようにして昼を待っていると、昼が来て、成程手隙だから、他の者は遊んでいて小女が膳を運んで来る。 三四日経った。いつも女の助けるのは朝晩の忙がしい時だけで、昼は顔も出さない。考えて見ると、奉公人でないから其筈だが、私は失望した。顔は度々合せるから漸く分ったが、能く見ると、雀斑が有って、生際に少し難が有る。髪も更少し濃かったらと思われたが、併し何となく締りのあるキリッとした面相で、私は矢張好いと思った。名はお糸といってお神さんの姪だとか云う。皆下女からの復聞だ。 何とかして一日も早く接近したいが、如何も顔を合せると、物が言えなくなる。昼間廊下で行逢った時など、女は小腰を屈めて会釈するような、せんような、曖昧な態度で摺脱けて行く。其様な時に接近したがってる事は色にも出さずに、ヒョイと、軽く、些と話に入らッしゃい、とか何とか言ったら、最終には来るようになるかも知れんとは思うけれど、然う思うばかりで、私の口は重たくて、ヒョイと、軽く、其様な事が言えない。 度々面を合せても物を言わんから、段々何だか妙に隔てが出来て来て、改めて物を言うのが最う変になって来る。此分だと、余程何か変った事が、例えば、火事とか大地震とかがあって、人心の常軌を逸する場合でないと、隔ての関を破って接近されなくなりそうだ。ああ、初て部屋へ来た時、何故私は物を言わなかったろうと、千悔万悔、それこそ臍を噬むけれど、追付かない。然るに、私は接近が出来ないで此様なに煩悶しているのに、隣の俗物は苦もなく日増しに女に親しむ様子で、物を言交す五分間がいつか十分二十分になる。何だか知らんが、睦まじそうに密々話をしているような事もある。一度なんぞ女に脊中を叩かれて俗物が莞爾々々している所を見懸けた。私は気が気でない…… 藻掻いていると、確か女が来てから一週間目だったかと思う、朝からのビショビショ降りが昼過ても未だ止まない事があった。鬱陶敷て、気が滅入って、幾ら書いても思う様に書けないから、私はホッとして、頭を抱えて、仰向に倒れて茫然としていたが、 「早く如何かせんと不好!」 と判然と独言をいって起反った。独言は小説に関係した事ではないので、女の事なので。 すると、余り遠くでない、去迚近くでもない何処かで、ポツンポツンと意気な音がする。隣の家で能く琴を浚っているが、三味線を弾いてた事はない。それに隣にしては近過ぎる。家には弾く者は無い筈だが……と耳を澄していると、軈て歌い出す声は如何しても家だ。例のに違いない。 私は起上ってブラリと廊下へ出た。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] 下一页 尾页
|