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土曜日の夜、というよりも、もう日曜の朝だった。ダンスがこわれて、ドクタアは、与えられた階上の寝室へあがって行った。こういう家は、泊りがけの客を考えて、まるでINNのように建てられてあるのが常だ。だから、これが小説だと、「みんな一本ずつ蝋燭を貰って、階段の手すりを撫でながら寝室を志した。彼らの跫音によって、古い樫材で腰板を張った壁が鳴った。天井は、お休み・お休みという口々の音を反響して暗く笑った」というところだが、とにかく、ドクタアは自分の部屋を探し当てて寝支度にかかった。燕尾服の直ぐあとで、パジャマのゆるやかさは殊に歓迎された。彼は、医師だけに空気の流通を思って、窓と廊下の戸をすこし開けたまま、灯を消してベッドに這い上った。 そして、暫らくうとうとした。が、彼の浅い眠りは、間もなく、しきりに軽く彼の肩を突つく柔かい手で破られた。 ぼうっとほの白いものが、寝台の横に立っている。 薄桃色の裾長な絹を引っかけた女の姿だった――なんかと勿体ぶらずに、手っ取早く「豆をこぼして」しまうと、要するに、こうだ。 女は、その日の午後、はじめてドクタアに紹介されたばかりの、倫敦の知名な実業家の娘で、しかも、父母や兄弟と一緒にこのW・Eに来ているのだった。 その彼女が、深夜、独り寝のドクタアの室へ扉の隙間から流れ込んできたのである。 誰かが急病!――と、咄嗟の職業的意識に狼狽て撥ね起きたドクタアと、今にも彼のベッドへ這入りこみそうな彼女とは、早速こんな低声のやりとりを開始した。 『何です? どうしたんです? 何か起ったんですか。』 『ええ。いいえ、あたし、あんまり足が冷たいもんですから――。』 『足――?』 善良なドクタアが愕いてるうちに、彼女は容赦なく割り込んで来てしまった。だから、このあとは、まるで夫婦のように、暗い寝室のBEDのなかでの問答なのである。 『困りますなあ。出て行って下さい。後生ですから。』 ドクタアは、出来るだけ遠くの端に硬直して嘆願したことだろう。 『あら! なぜそう「大戦以前」でいらっしゃいますの?』 彼女は心から無邪気に笑った。 『いいじゃあありませんか。あたしのほうから来たんですもの――そして、うちの人にもお友達にも、あたしが押しかけたのですとその通り言いますから。そうすると、みんないつだって喜んでいます。』
昨夜あなたは僕の腕の中にあった。 僕の腕はまだその感触でしびれてる! おお、それなのに夢だなんて! Say, was it a dream ? Was it a drea――m ?!
――というロジェル・エ・ギャレのはなしなんですが、いかがです、お気に召しましたか。 すべての古いものは、その古いが故に、それだけで価値を失ってしまった。今日では、それはすでに無智であり、罪悪でしかない。私達は、まずこの機械と工業の心もちにぴったり当てはまる、新しい生活上の規約を要求して真剣だ。これは、現在の欧羅巴に充満する一つの時代情緒である。それほどどこにでも、誰の胸にも強く感じられるのだ。だから、多数の「次世紀」の少年少女達が喚声を上げて旧道徳への突撃を開始している。彼らは、かつて「しべりあで新しい宗教が発掘」されたように、いま自分達の身辺に、全然あたらしい美醜と善悪と大小の標準を査定しようと焦っているのだ。それには母の大地を掘り下げるように、じっさい大地ほども根づよい既成観念のことごとくを滅茶々々に破壊する戦争行為が第一だ。そして、この地均し時代の階梯においてのみ、究極は離れなければならない運命のインテリゲンツィヤと労農階級も、楽しく共同の作業を進めることが出来るのである。 この種の闘士は、国境と人種と形式を超えて親密に相識だ。私たちは、巴里で倫敦で伯林で、ストックホルムで、羅馬で、そして聖モリッツで、これらのたくさんの未知の青年男女を街上の知人にもったことを誇っている。 若い人たちのあいだにおける性道徳の衰退――なんかとリンゼイ判事あたりが慨世的に噪ぎ立ててるうちに、英吉利では、早や一つの新戦法が発明されて、どんどん実用に供されている。それは婚約という古い習慣を応用した逆手である。つまり、婚約者同志なら何をしようと勝手だろうというんで、はじめから相互に結婚の意思なく、盛んに婚約の成立を宣言しては、矢継ぎ早やに取消すのだ。そしてその婚約の期間中、ふたりは準夫婦というより純夫婦のごとく振舞い、また、社会もそう受け入れざるを得ないことを、彼らはよく承知している。これは、今後も当分効果のある新手として目下大流行である。何しろ、婚約者だというんだから老年の「支配階級」も手が出ない。そこで、婚約しては破り、婚約しては破り――この「性道徳の衰退」から一個のあらたな性道徳が生れようとさえしている。もっとも、これは離婚という父母達の遊戯を、息子やむすめが忠実に真似し出したところから来ているのかも知れないが――「性の欧羅巴」はどこへ往きつくか。現行諸制度の社会的権威が、そろそろこの辺から崩れかけたのではあるまいか。とにかく英吉利では「結婚を目的としない婚約」が性道徳の破壊行為として八釜しく論じられ、一方には、それほどの問題となるまでに、若い男女間に広く実行されている。霧の白いハイド・パアクの隅で、頭の上で高架線の唸るガアドの暗黒で、何と夥しい「婚約者」の群が痛快に性道徳を衰退させていることだろう! そして、婚約者のすることだから、誰も文句は言えない! 黙って、見ずに、さっさと通り過ぎて行く――。 ところで、ナタリイ・ケニンガムは二つの愛称を所有していた。ナニイとNANだ。で、母親のケニンガム夫人は、その二個の名前をいろいろに使うことによって、何とかして「大戦後の娘」の信頼をつなぎ止めて置こうと、それはそれは惨めな努力を続けていた。言うまでもなく、このケニンガムは、倫敦から来て、サン・モリッツのオテル・ボオ・リヴァジュに、私達やロジェル・エ・ギャレと朝夕顔を合わして滞在してるのだった。 今までの場面がすべて倫敦なのでも判るように、こういうことにかけては、見かけによらず、英吉利のほうがよほど突進的で、したがって事件に富んでいる。仏蘭西は、これから見ると、柄になくおとなしい。一たい巴里人なんかでも、一般に想定されてるとは正反対に、極く伝習的な、着実な人間なんだが、それが地方へ出ると一層古めかしくて、ふらんすの田舎では、いまだに半職業的な媒妁人が、たいがい一村にひとりぐらいいて、世界的に有名な日本のMIAIに似た結婚方法を司っている。 『ベギュル・ヌウという鬼を御存じですか。』 近くに椅子を寄せて私の妻と話し込んでいる、ロジェル・エ・ギャレの知人――ホテルでの――だという三十前後の仏蘭西女の声だった。 先刻から何かしきりに妻と問答していたのだ。 私とロジェル・エ・ギャレは、言葉を中止して、二人とも仏蘭西語の方へ注意を向けた。そして、非常に疲れた人のように正面を見詰めたまま、その話を聴き取ろうと静かにした。私たちの話題がそっちへ伝染して行って、妻と彼女も、結婚を中心とする雑談を始めていた。それがこの仏蘭西の女に、自分の結婚を思い出させたのだった。 彼女は言った。 『私は、ブリタニイのカルナク――あの「石の兵士」に近い村で、お祖母さん一人の手で育てられたのです。カルナクは、荒れた野のうえに一哩以上もの大石垣が走っていて、地球の若かった頃を思わせる伝説の部落です。そして、そこの酒場は影のような人々で一ぱいですし、その人々はまた、土の香と官能の夢しか何ひとつ持ち合せがないのです。このカルナクの部落で、私と祖母は、鶏と兎を飼って暮らしました。祖母は、誰にでもすこし気が変だと思われていました。幾つぐらいでしたろう? 顔に千三十八の皺があって、顎髯が生えていました。』
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『子供達はその顎髯を怖がって、祖母が市場へ買物に出ると、みんな木へ登って、葉と枝のあいだから悪口を落とすことにきめていました。すると、黒いエプロンに白の帽子をかぶった祖母が、大きな杖を振り上げて、あちこちの方角へ罵声と白眼を投げるのです。言葉はブリトン語でした。そして私たちは牛酪を作って、旅行者へ売りました。 祖母は、確かに一つの性格でした。昔からの怪談と、鬼どもの話だけはすっかり諳誦していて、村の人は、信じはしませんでしたが、祖母のお話を聞くことだけは、誰も好きなようでした。祖母は、ただ人に怖がられるのが面白かったのかも知れません。色んな人が、夢や前兆のことを訊くために祖母を訪れました。そして、それが、不思議に、みんな祖母の言う通りになるのです。 一度こんなことがありました。 ケリュウ爺さんという村の麺麭屋が、或る晩、自分の前を走って行く Begul-Nouz を見たと言って、蒼くなって祖母のところへ駈け込んで来ました。このベギュル・ヌウという鬼のことを御存じですか。これは、結婚と葬式の前触れをする役目の小悪魔なのです。そこで祖母は、骨だらけの指をケリュウ爺さんの鼻先で動かしながら、お前さんは一月うちに死ぬか結婚するかどっちかだと明言したものです。お爺さんは三度も女房に別れた人で、もう一ぺん結婚するくらいなら、お葬式のほうが増しだなんて言っていましたが、それがどうでしょう! 次ぎの月の六日には、どこからか渡って来た頭髪の赤い、若い女と一しょになって祖母のところへお礼に参りました。これには村中が大笑いに笑って、聖マルネリの寺院に、まるで灯の山のようにお蝋燭が上りました。 ブリタニイの女は、牛に似ています。 その牛のようだった私も、いつしか若い男達の眼を惹くようになりつつありました。牛を教会へ連れて行って、お水をかけてもらう日があります。これが大変です。何人もの男たちが、私の牛を引いてってやろうとまるで喧嘩のように申し出るのです。聖ジャンの祭礼の晩には、村の広場に篝り火を焚いて、青年たちが夜どおし真鍮の盥を叩く例です。が、私だけは家に閉じ込められて、ただその騒ぎを遠くに聞いていなければなりませんでした。 なぜって、お祖母さんは、カルナク村の結婚世話人をしていたからです。これは、年頃になったどこかの息子と、どっかの娘を、自分が仲に立って結婚させて、両方の親達からお礼を貰う一つの商売でした。じっさい、この結婚口利き業が、祖母の収入の殆ど全部ですのに、自分の孫である私の結婚となると、いま考えてみても可笑しいほど、祖母はむきになって反対したものでした。それも、私を手離すのが淋しかったのと、もう一つは、あり勝ちな軽い嫉妬の形を変えた心もちからだったのでしょうが、結婚の仲介を稼業にしているくせに、或いは、それを稼業にしていればこそ、かえって、と言い直しましょうか、とにかく私の縁談には、冷淡以上に、惨酷なほどの態度をとっていましいた。そのために、言い寄ってくる男たちもいつの間にか遠のいて、私は、大きな身体に子供のような服を着せられて、相変らず牛の乳をしぼったり、枯草を乾したりなんかばっかりさせられて、いました。もし若い男が私に話しかけでもしようものなら、祖母は狂気のように飛び出して行って、顎髯を振る、指を曲げて様々な悪霊の形を作って見せる、さては杖をかざして、ブリトン語で呪文を唱えながら白眼みつける、という始末ですから、とうとう村中の男が、誰も、私には、冗談は愚か、視線の一つも投げてくれないということになってしまいました。 が、結婚の問題は、ぼんやりながら始終私の頭にありました。若い女は、何よりも「遅くなる」ことを恐れるものです。しかし、そうかと言って、私から祖母に言い出すことは出来ませんでした。カルナクでは、女はただじっと待っていなければならないことに決められているのです。 村外れの石山に、ケルト族の墓標だと言い伝えられて来た、円い大きな自然石があります。男性の形で、Croez-Moken ――つまり、若い女が、夜更けに出かけて行ってその上に腰かけるか、跨ぐかすると、きっと一年以内に結婚が出来るという迷信のある石です。私は、今でも一番よくあの辺を覚えているほど、祖母の眼を忍んでは毎晩のように腰かけに行きました。 ところが、その夜は大雨で、私は自家にいなければなりませんでした。あなたは、ブリタニイの雨を御存じですか。大粒な水滴が地面を穿って叩きつけるのです。私たちは、早くから扉を閉めて寝に就きました。が、雨風の音で眠れないので、私は長いこと床のなかで眼をさましていました。すると、ちょうど真夜中でしたが、俄かに起き上った祖母が、戸口や窓のところに立って、しきりに外部を窺っている様子なのです。どうしたんだろう――と思いましたが、そのうちに私も、眠さに負けてしまったとみえます。眼が覚めた時は美しい朝で、祖母はもう床を出て、心配そうに部屋中を歩き廻っていました。 ゆうべ祖母は、確かにあのベギュル・ヌウの跫音を聞いたと言うのです。その小鬼が、一晩じゅう雨に紛れてこの家のまわりを迂路ついていた――祖母は、それを自分のお葬式の報せであると取りました。 『しかし、』と思い切って私は、祖母に注意してみました。『しかし、ベギュル・ヌウなら、お葬式のほかに結婚の先ぶれもすると言うじゃありませんか。きっと、近いうちに、私達のところへ結婚が来るのでしょう。』 すると、祖母は大声に笑い出して、私の小さな希望を失望の破片に変えてしまったのです。 『馬鹿な! 私のようなお婆さんに今になって結婚がやって来るなんて! 冗談もいい加減にするがいい。』 祖母はその後長く生きていました。そして、カルナクの村に、毎年幾組かの新夫婦をふやして行きました。が、私の結婚だけは、とうとう彼女の頭へ来なかったとみえます。私が結婚したのは、彼女の死後、ひとりで巴里へ出て、よほど経ってからのことでした。それでも、いまでも仏蘭西の田園や漁村には、私の若かった頃のような娘や、祖母と同じマッチ・メイカアや、村はずれの跨ぎ石や、ベギュル・ヌウの鬼などが揃っていて、古風な楽しい日が続いています。』 瑞西ウィンタア・スポウツのいろいろ。 スキイング――ホテル所属の斜面で美しい動作の習練にばかり熱中する人と、クロス・カントリイの遠走にのみ力を入れる型と、二種類ある、が、両方が或る程度まで平行しなければ、一人前のスキイヤアとは言われない。 テレマアク――軟雪の上に片膝ついて、他足を外側から前へ持って来てタアンする。 Ski-joring ――シイ・ヨウリングと読む。スキイで立って、馬に綱をつけて引っ張らせる。相当走らせるには、まず単独スキイの心得を必要とすること、言うまでもあるまい。 スラロム――むこうの困難な角度に立っている旗を廻って来るスキイ競走だ。一人ずつ走って、タイムで優劣がきまる。 スキイ・ジャンピング――ジャンピングには、スキイヤアは雪杖を持たない。なめらか雪のトラックを辷って来て、一線に小高く築いた踏切りへ達すると、スキイヤアはそのはずみで空へ飛ぶ。同時に両手を円く廻して飛行を助けるのだ。下が急傾斜になっているから、しぜん遠くへ届く。記録の計り方は、踏切線から、スキイの背部の落ちた地点までを取ることになっている。転べば除外される。 スケイティング――瑞西のスケイティングには、大陸式と国際式の二類型ある。 前者は、言い換えれば英吉利風で、手も足も、身体全体を直線的に動かしてスケイトしなければならない。インタナショナルの方は、足の使い方も自由だし、運動を助けるために身体をどう曲げてもいいことになっているから、初めての人にはこのほうが這入りやすい。曲スケイティングには、短かいスケイトが適当とされているが、氷ホッケイや競争には長スケイトが用いられている。 その他、いま言った氷上ホッケイだの、カアリングだの、バビングだの、テイリングだの、ルウズィングだのと、これらがまた幾つにも別れて、瑞西あたりのウィンタア・スポウツになると、かなり複雑なゲエムに進化しているが、そのなかでも、最も勇敢で、したがって一ばん危険の多いのが、俗に「骸骨」と呼ばれるトボガン橇である。これは鋼鉄のスケルトンの上に板を渡して、走者はそのうえに、頭を下にして腹這いになる。うしろに出ている靴の爪先きにスパイクがついていて、それで舵を取るのだ。時として肘や膝にもプロテクタアを当てがい、人によっては顔に厚い保護面を被ることもある。滑路の両側には高い雪の塀を造って、橇が横へ外れないようにしてあるが、往々にしてそれを越えてすっ飛ぶことが珍らしくない。聖モリッツのとぼがんの記録は、ついに一時間七十哩を突発している。例のモリッツ名物CRESTA・RUNというのがこれである。 言うまでもなくモリッツのウィンタア・スポウツは、じつに大仕掛けなものだ。たとえば、スキイ・ジャンピングの競技場などでも、他のレゾルトでは、スキイ穿きで見物に来た人が、ずらりと雪の上に立って取り巻いているくらいのものだが、サン・モリッツとなると、瑞西の国旗を立て並べてお祭りさわぎの装飾をする。ジャンプ場なんか、まるでウィンブルドンの中央テニス・コウトの観がある。広い座席が何段にも重なって、一等席は倫敦一流の劇場以上の切符代を取ってるくらいだ。そこへ、巨鳥のようにジャンパアが落ちてくると、パティの実写機が光る。運動記者の鉛筆はノウト・ブックを走り、メガフォンがその時々の結果を報告して号令のように轟く。 スケイトも同じだ。聖モリッツあたりのリンクで、軽業のような目ざましいスケイティングをやってる連中を見ると、大抵は専門家ばかりである。橇競馬は瑞西じゅうどこにでもあるが、サン・モリッツはゲエムの馬が違う。頭部に色彩の美しい飾りを附けていて、橇もほかのより大きく立派に出来ている。 夜はダンスだ。どんなホテルでも舞踏交響楽のないところはない。昼間、男女の区別もわからないほど荒っぽい毛織物に包まれて雪と氷を生活していた紳士淑女が、短時間のあいだに流行の礼装に早変りして、ステイムと酒の香の温かい床に「触れ」を与えながら、夜が更けて、やがて、夜の明けるのを知らない。 例えばこの、オテル・ボオ・リヴァジュのバワリイKIDS大ジャズ・バンド。
Was it a dream ? Say, was it a dream ?!
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