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古事記物語(こじきものがたり)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-12 9:38:27 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

 

大鈴(おおすず)小鈴(こすず)


       一

 仁徳天皇(にんとくてんのう)には皇子(おうじ)が五人、皇女(おうじょ)が一人おありになりました。その中で伊邪本別(いざほわけ)、水歯別(みずはわけ)、若子宿禰(わくごのすくね)のお三方(さんかた)がつぎつぎに天皇のお位におのぼりになりました。
 いちばんのお兄上の伊邪本別皇子(いざほわけのおうじ)は、お父上の亡(な)きおあとをおつぎになって、同じ難波(なにわ)のお宮で、履仲天皇(りちゅうてんのう)としてお位におつきになりました。
 そのご即位(そくい)のお祝いのときに、天皇はお酒をどっさり召(め)しあがって、ひどくお酔(よ)いになったままおやすみになりました。
 すると、じき下の弟さまの中津王(なかつのみこ)が、それをしおに天皇をお殺し申してお位を取ろうとおぼしめして、いきなりお宮へ火をおつけになりました。火の手は、たちまちぼうぼうと四方へ燃え広がりました。お宮じゅうの者はふいをくって大あわてにあわて騒(さわ)ぎました。
 天皇は、それでもまだ前後もなくおよっていらっしゃいました。それを阿知直(あちのあたえ)という者が、すばやくお抱(かか)え申しあげ、むりやりにうまにお乗せ申して、大和(やまと)へ向かって逃(に)げ出して行きました。
 お酔いつぶれになっていた天皇は、河内(かわち)の多遅比野(たじひの)というところまでいらしったとき、やっとおうまの上でお目ざめになり、
「ここはどこか」とおたずねになりました。阿知直(あちのあたえ)は、
中津王(なかつのみこ)がお宮へ火をお放ちになりましたので、ひとまず大和(やまと)の方へお供(とも)をしてまいりますところでございます」とお答え申しました。
 天皇はそれをお聞きになって、はじめてびっくりなさり、
「ああ、こんな多遅比(たじひ)の野の中に寝(ね)るのだとわかっていたら、夜風(よかぜ)を防ぐたてごもなりと持って来ようものを」
と、こういう意味のお歌をお歌いになりました。
 それから埴生坂(はにうざか)という坂までおいでになりまして、そこから、はるかに難波(なにわ)の方をふりかえってご覧(らん)になりますと、お宮の火はまだ炎々(えんえん)とまっかに燃え立っておりました。天皇は、
「ああ、あんなに多くの家が燃えている。わが妃(きさき)のいるお宮も、あの中に焼けているのか」という意味をお歌いになりました。
 それから同じ河内(かわち)の大坂(おおさか)という山の下へおつきになりますと、向こうから一人の女が通りかかりました。その女に道をおたずねになりますと、女は、
「この山の上には、戦道具(いくさどうぐ)を持った人たちがおおぜいで道をふさいでおります。大和(やまと)の方へおいでになりますのなら、当麻道(たじまじ)からおまわりになりましたほうがよろしゅうございましょう」と申しあげました。
 天皇はその女の言うとおりになすって、ご無事に大和(やまと)へおはいりになり、石上(いそのかみ)の神宮(じんぐう)へお着きになって、仮にそこへおとどまりになりました。
 すると二ばんめの弟さまの水歯別王(みずはわけのみこ)が、その神宮へおうかがいになって、天皇におめみえをしようとなさいました。天皇はおそばの者をもって、
「そちもきっと中津王(なかつのみこ)と腹(はら)を合わせているのであろう。目どおりは許されない」とおおせになりました。王(みこ)は、
「いえいえ私はそんなまちがった心は持っておりません。けっして中津王(なかつのみこ)なぞと同腹(どうふく)ではございません」とお言いになりました。天皇は、
「それならば、これから難波(なにわ)へかえって、中津王(なかつのみこ)を討(う)ちとってまいれ。その上で対面しよう」とおっしゃいました。

       二

 水歯別王(みずはわけのみこ)は、大急ぎでこちらへおかえりになりました。そして中津王(なかつのみこ)のおそばに仕えている、曾婆加里(そばかり)というつわものをお召(め)しになって、
「もしそちがわしの言うことを聞いてくれるなら、わしはまもなく天皇になって、そちを大臣にひきあげてやる。どうだ、そうして二人で天下を治めようではないか」とじょうずにおだましかけになりました。すると曾婆加里(そばかり)は大喜びで、
「あなたのおおせなら、どんなことでもいたします」
 と申しあげました。皇子(おうじ)はその曾婆加里(そばかり)にさまざまのお品物をおくだしになったうえ、
「それでは、そちが仕えているあの中津王(なかつのみこ)を殺してまいれ」とお言いつけになりました。曾婆加里(そばかり)は、
「かしこまりました」と、ぞうさもなくおひき受けして飛んでかえり、王(みこ)がかわやにおはいりになろうとするところを待ち受けて、一刺(ひとさ)しに刺(さ)し殺してしまいました。
 水歯別王(みずはわけのみこ)は、曾婆加里(そばかり)とごいっしょに、すぐに大和(やまと)へ向かってお立ちになりました。その途中、例の大坂(おおさか)の山の下までおいでになったとき、命(みこと)はつくづくお考えになりました。
「この曾婆加里(そばかり)めは、私(わし)のためには大きな手柄(てがら)を立てたやつではあるが、かれ一人からいえば、主人を殺した大悪人である。こんなやつをこのままおくと、さきざきどんな怖(おそ)ろしいことをしだすかわからない。今のうちに手早くかたづけてしまってやろう。しかし、手柄(てがら)だけはどこまでも賞(ほ)めておいてやらないと、これから後、人が私(わし)を信じてくれなくなる」
 こうお思いになって急にその手だてをお考えさだめになりました。それで曾婆加里(そばかり)に向かって、
今晩(こんばん)はこの村へとまることにしよう。そしてそちに大臣の位をさずけたうえ、あすあちらへおうかがいをしよう」とおっしゃって、にわかにそこへ仮のお宮をおつくりになりました。そしてさかんなご宴会(えんかい)をお開きになって、そのお席で曾婆加里(そばかり)を大臣の位におつけになり、すべての役人たちに言いつけて礼拝をおさせになりました。
 曾婆加里(そばかり)はこれでいよいよ思いがかなったと言って大得意(だいとくい)になって喜びました。水歯別王(みずはわけのみこ)は、
「それでは改めて、大臣のおまえと同じさかずきで飲み合おう」とおっしゃりながら、わざと人の顔よりも大きなさかずきへなみなみとおつがせになりました。そして、まずご自分で一口めしあがった後、曾婆加里(そばかり)におくだしになりました。曾婆加里(そばかり)はそれをいただいて、がぶがぶと飲みはじめました。
 王(みこ)は曾婆加里(そばかり)の目顔(めがお)がそのさかずきで隠(かく)れるといっしょに、かねてむしろの下にかくしておおきになった剣(つるぎ)を抜(ぬ)き放して、あッというまに曾婆加里(そばかり)の首を切り落としておしまいになりました。
 それからあくる日そこをお立ちになり、大和(やまと)の遠飛鳥(とおあすか)という村までおいでになって、そこへまた一晩(ばん)おとまりになったうえ、けがれ払(ばら)いのお祈りをなすって、そのあくる日石上(いそのかみ)の神宮へおうかがいになりました。そしておおせつけのとおり、中津王(なかつのみこ)を平(たい)らげてまいりましたとご奏上(そうじょう)になりました。
 天皇はそれではじめて王(みこ)を御前(ごぜん)へお通しになりました。それから阿知直(あちのあたえ)に対しても、ごほうびに蔵(くら)の司(つかさ)という役におつけになり、たいそうな田地(でんぢ)をもおくだしになりました。

       三

 天皇は後に大和(やまと)の若桜宮(わかざくらのみや)にお移りになり、しまいにおん年六十四でおかくれになりました。そのおあとは、弟さまの水歯別王(みずはわけのみこ)がお継(つ)ぎになりました。後に反正天皇(はんしょうてんのう)とお呼(よ)び申すのがこの天皇のおんことです。
 天皇はお身のたけが九尺(しゃく)二寸五分(ぶ)、お歯の長(なが)さが一寸(すん)、幅(はば)が二分(ぶ)おありになりました。そのお歯は上下とも同じようによくおそろいになって、ちょうど玉をつないだようにおきれいでした。河内(かわち)の多遅比(たじひ)の柴垣宮(しばがきのみや)で、政(まつりごと)をおとりになり、おん年六十でおかくれになりました。

       四

 反正天皇(はんしょうてんのう)のおあとには、弟さまの若子宿禰王(わくごのすくねのみこ)が允恭天皇(いんきょうてんのう)としてお位におつきになり、大和(やまと)の遠飛鳥宮(とおあすかのみや)へお移りになりました。
 天皇は、もとからある不治のご病気がおありになりましたので、このからだでは位にのぼることはできないとおっしゃって、はじめには固(かた)くご辞退(じたい)になりました。しかし、皇后やすべての役人がしいておねがい申すので、やむなくご即位(そくい)になったのでした。
 するとまもなく新羅国(しらぎのくに)から、八十一そうの船で貢物(みつぎもの)を献(けん)じて来ました。そのお使いにわたって来た金波鎮(こんばちん)、漢起武(かんきむ)という二人の者が、どちらともたいそう医薬のことに通じておりまして、天皇の永(なが)い間のご病気を、たちまちおなおし申しあげました。そのために天皇はついにおん年七十八までお生きのびになりました。
 天皇は日本じゅうの多くの部族の中で、めいめいいいかげんなかってな姓(せい)を名のっているものが多いのをお嘆(なげ)きになり、大和(やまと)のある村へ玖訂瓮(くかえ)といって、にえ湯のたぎっているかまをおすえになって、日本じゅうのすべての氏姓(しせい)を正しくお定めになりました。そのにえ湯の中へ一人一人手を入れさせますと、正直(しょうじき)にほんとうの姓(せい)を名のっている者は、その手がどうにもなりませんが、偽(いつわ)りを申し立てているものは、たちまち手が焼けただれてしまうので、いちいちうそとほんとうとを見わけることができました。

       五

 天皇がおかくれになったあとにはいちばん上の皇子(おうじ)の、木梨軽皇子(きなしのかるのおうじ)がお位におつきになることにきまっておりました。ところが皇子はご即位(そくい)になるまえに、お身持ちの上について、ある言うに言われないまちがいごとをなすったので、朝廷(ちょうてい)のすべての役人やしもじもの人民たちがみんな皇子をおいとい申して、弟さまの穴穂王(あなほのみこ)のほうへついてしまいました。
 軽皇子(かるのおうじ)はこれでは、うっかりしていると、穴穂王(あなほのみこ)方(がた)からどんなことをしむけるかもわからないとお怖(おそ)れになり、大前宿禰(おおまえのすくね)、小前宿禰(こまえのすくね)という、きょうだい二人の大臣のうちへお逃(に)げこみになりました。そしてさっそくいくさ道具をおととのえになり、軽矢(かるや)といって、矢(や)の根を銅でこしらえた矢などをも、どっさりこしらえて、待ちかまえていらっしゃいました。
 それに対して、穴穂王(あなほのみこ)のほうでもぬからず戦(いくさ)の手配(てくば)りをなさいました。こちらでも穴穂矢(あなほや)といって、後の代(よ)の矢と同じように鉄の矢じりのついた矢を、どんどんおこしらえになりました。そしてまもなく王(みこ)ご自身が軍務をおひきつれになって、大前(おおまえ)、小前(こまえ)の家をお攻(せ)め囲(かこ)みになりました。
 王(みこ)はちょうどそのとき急に降り出したひょうの中を、まっ先に突進(とっしん)して、門前へ押(お)しよせていらっしゃいました。
「さあ、みんなもわしのとおり進んで来い。ひょうの雨は今にやむ。そのひょうのやむように、すべてを片づけてしまうのだ。さあ来い来い」という意味をお歌いになって、味方の兵をお招きになりました。
 すると大前(おおまえ)、小前(こまえ)の宿禰(すくね)は、手をあげひざをたたいて、歌い踊(おど)りながら出て来ました。
「何をそんなにお騒(さわ)ぎになる。宮人(みやびと)のはかまのすそのひもについた小さな鈴(すず)、たとえばその鈴が落ちたほどの小さなことに、宮人も村の人も、そんなに騒ぐにはおよびますまい」
 こういう意味の歌を歌いながら穴穂王(あなほのみこ)のご前(ぜん)に出て来て、
「もしあなたさま、軽皇子(かるのおうじ)さまならわざわざお攻めになりますには及びません。ご同腹(どうふく)のお兄上をお攻めになっては人が笑(わら)います。皇子さまは私がめしとってさし出します」と申しあげました。
 それで穴穂王(あなほのみこ)は囲みを解(と)いて、ひきあげて待っておいでになりますと、二人の宿禰(すくね)は、ちゃんと軽皇子(かるのおうじ)をおひきたて申してまいりました。

       六

 軽皇子(かるのおうじ)には、軽大郎女(かるのおおいらつめ)とおっしゃるたいそう仲(なか)のよいご同腹(どうふく)のお妹さまがおありになりました。大郎女(おおいらつめ)は世(よ)にまれなお美しい方で、そのきれいなおからだの光がお召物(めしもの)までも通して光っていたほどでしたので、またの名を衣通郎女(そとおしのいらつめ)と呼(よ)ばれていらっしゃいました。
 穴穂王(あなほのみこ)の手(て)にお渡(わた)されになった軽皇子(かるのおうじ)は、その仲のよい大郎女(おおいらつめ)のお嘆(なげ)きを思いやって、
「ああ郎女(いらつめ)よ。ひどく泣(な)くと人が聞いて笑(わら)いそしる。羽狹(はさ)の山のやまばとのように、こっそりと忍(しの)び泣きに泣くがよい」という意味の歌をお歌いになりました。
 穴穂王(あなほのみこ)は、軽皇子(かるのおうじ)を、そのまま伊予(いよ)へ島流しにしておしまいになりました。そのとき大郎女(おおいらつめ)は、
「どうぞ浜べをお通りになっても、かきがらをお踏(ふ)みになって、けがをなさらないように、よく気をつけてお歩きくださいまし」という意味の歌を、泣き泣きお兄上にお捧(ささ)げになりました。
 大郎女(おおいらつめ)はそのおあとでも、お兄上のことばかり案じつづけていらっしゃいましたが、ついにたまりかねてはるばる伊予(いよ)までおあとを追っていらっしゃいました。
 軽皇子(かるのおうじ)はそれはそれはお喜びになって、大郎女(おおいらつめ)のお手をとりながら、
「ほんとうによく来てくれた。鏡のように輝き、玉のように光っている、きれいなおまえがいればこそ、大和(やまと)へも帰りたいともだえていたけれど、おまえがここにいてくれれば、大和(やまと)もうちもなんであろう」とこういう意味のお歌をお歌いになりました。
 まもなくお二人は、その土地で自殺しておしまいになりました。


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