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古事記物語(こじきものがたり)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-12 9:38:27 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 

白い鳥


       一

 第十二代景行天皇(けいこうてんのう)は、お身の丈(たけ)が一丈(じょう)二寸(すん)、おひざから下が四尺(しゃく)一寸もおありになるほどの、偉大なお体格でいらっしゃいました。それからお子さまも、すべてで八十人もお生まれになりました。
 天皇はその中で、後におあとをお継(つ)ぎになった若帯日子命(わかたらしひこのみこと)と、小碓命(おうすのみこと)とおっしゃる皇子(おうじ)と、ほかにもう一方(ひとかた)とだけをおそばにお止めになり、あとの七十七人の方々(かたがた)をことごとく、地方地方の国造(くにのみやつこ)、別(わけ)、稲置(いなぎ)、県主(あがたぬし)という、それぞれの役におつけになりました。
 あるとき天皇は、美濃(みの)の、神大根王(かんおおねのみこ)という方の娘(むすめ)で、兄媛(えひめ)弟媛(おとひめ)という姉妹(きょうだい)が、二人ともたいそうきりょうがよい子だという評判をお聞きになって、それをじっさいにお確(たし)かめになったうえ、さっそく御殿(ごてん)にお召使(めしつか)いになるおつもりで、皇子の大碓命(おおうすのみこと)にお言いつけになって、二人を召(め)しのぼせにお遣(つか)わしになりました。
 すると、大碓命(おおうすのみこと)は、その二人の者をご自分のお召使いに取っておしまいになり、別に二人の姉妹(きょうだい)の女を探(さが)し出して、それを兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)だといつわって、天皇にお目通りをおさせになりました。
 天皇はそれがほかの女であるということを、ちゃんとお見抜きになりました。しかしうわべでは、あくまでだまされていらっしゃるようにお見せかけになって、二人をそのまま御殿(ごてん)にお置きになりました。その代わりお手近(てぢか)のご用は、わざとほかの者にお言いつけになって、それとなく二人をおこらしめになりました。
 大碓命(おおうすのみこと)はそんな悪いことをなすってからは、天皇の御前(ごぜん)へお出ましになるのをうしろぐらくおぼしめして、さっぱりお顔をお見せになりませんでした。
 天皇はある日、弟さまの皇子(おうじ)の小碓命(おうすのみこと)に向かって、
「そちが兄は、どういうわけで、このせつ朝夕の食事のときにも出て来ないのであろう。おまえ行って、よく申し聞かせよ」とおっしゃいました。
 しかし、それから五日もたっても、大碓命(おおうすのみこと)は、やっぱりそのままお顔出しをなさらないものですから、天皇は小碓命(おうすのみこと)を召(め)して、
「兄はどうして、いつまでも食事(しょくじ)に出て来ないのか。おまえはまだ言わないのではないか」とお聞きになりました。
「いいえ、申し聞かせました」と命(みこと)はお答えになりました。
「では、どういうふうに話したのか」
「ただ朝早く、おあにいさまがかわやにはいりますところを待ち受けて、つかみくじき、手足をむしりとって、死体をこもにくるんでうッちゃりました」と、命(みこと)はまるでむぞうさにこう言って、すましていらっしゃいました。
 天皇はそれ以来、小碓命(おうすのみこと)のきつい荒(あら)いご気性(きしょう)を怖(おそ)ろしくおぼしめして、どうかしてそれとなく命をおそばから遠ざけようとお考えになりました。それでまもなく命を召(め)して、
「実は西の方に熊襲建(くまそたける)という者のきょうだいがいる。二人とも私の命令に従わない無礼なやつである。そちはこれから行って、かれらを打ちとってまいれ」とおおせになりました。それで命は、急いで伊勢(いせ)におくだりになって、大神宮(だいじんぐう)にお仕えになっている、おんおば上の倭媛(やまとひめ)にお別れをなさいました。
 するとおば上からは、ご料(りょう)のお上着(うわぎ)と、おはかま着(ぎ)と、懐剣(かいけん)とを、お別れのお印(しるし)におくだしになりました。
 命はそれからすぐに、今の日向(ひゅうが)、大隅(おおすみ)、薩摩(さつま)の地方へ向かっておくだりになりました。そのとき命は、まだお髪(ぐし)をお額(ひたい)にお結(ゆ)いになっている、ただほんの一少年でいらっしゃいました。

       二

 命は、その土地にお着きになり、熊襲建(くまそたける)のうちへ近づいて、ようすをおうかがいになりますと、建(たける)らは、うちのまわりへ軍勢をぐるりと三重(じゅう)に立て囲(かこ)わせて、その中に住まっておりました。そして、たまたまちょうどその家ができあがったばかりで、近々にそのお祝いの宴会(えんかい)をするというので、大さわぎでしたくをしているところでした。
 命(みこと)はそのあたりをぶらぶら歩きまわって、その宴会(えんかい)の日が来るのを待ちかまえていらっしゃいました。そして、いよいよその日になりますと、今までお結(ゆ)いになっていたお髪(ぐし)を、少女のようにすきさげになさり、おんおば上からおさずかりになったご衣裳(いしょう)を召(め)して、すっかり小女(こおんな)の姿(すがた)におなりになりました。そして、ほかの女たちの中にまじって、建(たける)どもの宴会(えんかい)のへやへはいっておいでになりました。
 すると熊襲建(くまそたける)きょうだいは、命をほんとうの女だとばかり思いこんでしまいまして、その姿のきれいなのがたいそう気にいったので、とくに自分たち二人の間にすわらせて、大喜びで飲みさわぎました。
 命は、みんながすっかり興(きょう)に入ったころを見はからって、そっと懐(ふところ)から剣(つるぎ)をお取り出しになったと思いますと、いきなり片手で兄の建(たける)のえり首をつかんで、胸(むね)のところをひと突(つ)きに突き通しておしまいになりました。
 弟の建(たける)はそれを見ると、あわててへやの外へ逃げ出そうとしました。
 命(みこと)は、それをもすかさず、階段(かいだん)の下に追いつめて、手早く背中(せなか)をひっつかみ、ずぶりとおしりをお突き刺(さ)しになりました。
 建(たける)はそれなりじたばたしようともしないで、
「どうぞその刀をしばらく動かさないでくださいまし。一言(ひとこと)申しあげたいことがございます」と、言いました。それで命(みこと)は刀をお刺(さ)しになったなり、しばらく押(お)し伏(ふ)せたままにしていらっしゃいますと、建(たける)は、
「いったいあなたはどなたでございます」と聞きました。
「おれは、大和(やまと)の日代(ひしろ)の宮(みや)に天下(てんか)を治めておいでになる、大帯日子天皇(おおたらしひこてんのう)の皇子(おうじ)、名は倭童男王(やまとおぐなのみこ)という者だ。なんじら二人とも天皇のおおせに従わず、無礼なふるまいばかりしているので、勅命(ちょくめい)によって、ちゅう伐(ばつ)にまいったのだ」と、命(みこと)はおおしくお名乗りになりました。
 建(たける)はそれを聞いて、
「なるほど、そういうお方に相違ございますまい。この西の国じゅうには、私ども二人より強い者は一人もおりません。それにひきかえ大和(やまと)には、われわれにもまして、すばらしいお方がいられたものだ。おそれながら私がお名まえをさしあげます。これからあなたのお名まえは倭建命(やまとたけるのみこと)とお呼(よ)び申したい」と言いました。
 命は建(たける)がそう言いおわるといっしょに、その荒(あら)くれ者を、まるで熟(じゅく)したまくわうりを切るように、ずぶずぶと切り屠(ほふ)っておしまいになりました。
 それ以来、だれもかれも命のご武勇をおほめ申して、お名まえを倭建命(やまとたけるのみこと)と申しあげるようになりました。
 命は、それから大和(やまと)へおひきかえしになる途中で、いろんな山の神や川の神や、穴戸(あなど)の神と称(とな)えて、方々の険阻(けんそ)なところにたてこもっている悪神(わるがみ)どもを、片(かた)はしからお従えになった後、出雲(いずも)の国へおまわりになって、そのあたりで幅(はば)をきかせている、出雲建(いずもたける)という悪者をお退治(たいじ)になりました。
 命(みこと)はまずその建(たける)の家へたずねておいでになって、その悪者とごこうさいをお結びになりました。そして、そのあとで、こっそりといちいという木を刀のようにお削(けず)りになり、それをりっぱな太刀(たち)のように飾(かざ)りをつけておつるしになって、建(たける)をさそい出して、二人で肥(ひ)の河(かわ)の水を浴びにいらっしゃいました。そして、いいかげんなころを見はからって、ご自分の方が先におあがりになり、ごじょうだんのように建(たける)の太刀をお身におつけになりながら、
「どうだ、二人でこの刀のとりかえっこをしようか」とおっしゃいました。建(たける)はあとからのそのそあがって来て、
「よろしい取りかえよう」と言いながら、うまくだまされて命のにせの刀をつるしました。命は、
「さあ、ひとつ二人で試合をしよう」とお言いになりました。そして二人とも刀を抜(ぬ)き放すだんになりますと、建(たける)のはにせの刀ですから、いくら力を入れても抜けようはずがありません。命は建(たける)がそれでまごまごしているうちに、すばやくほんものの刀を引き抜いて、たちまちその悪者を切り殺しておしまいになりました。そして、そのあとで、建(たける)が抜けない刀を抜こうとして、まごまごとあわてたおかしさを、歌につくってお笑(わら)いになりました。

       三

 命(みこと)はこんなにして、お道筋(みちすじ)の賊(ぞく)どもをすっかり平(たい)らげて、大和(やまと)へおかえりになり、天皇にすべてをご奏上(そうじょう)なさいました。
 すると天皇は、またすぐにひき続いて、命に、東の方の十二か国の悪い神々や、おおせに従わない悪者どもを説(と)き従えてまいれとおおせになって、ひいらぎの矛(ほこ)をお授(さず)けになり、御※友耳建日子(みすきともみみたけひこ)という者をおつけ添(そ)えになりました。
 命はお言いつけを奉じて、またすぐにおでかけになりました。そして途中で伊勢(いせ)のお宮におまいりになって、おんおば上の倭媛(やまとひめ)に再度(さいど)のお別れをなさいました。そのとき命はおんおば上に向かっておっしゃいました。
「天皇は私を早くなくならせようとでもおぼしめすのでしょう。でも、こないだまで西の方の賊を討(う)ちにまいっておりまして、やっと、たった今かえったと思いますと、またすぐに、こんどは東の方の悪者どもを討ちとりにお出しになるのはどういうわけでございましょう。それもほとんど軍勢(ぐんぜい)というほどのものもくださらないのです。こんなことからおして考えてみますと、どうしても私を早く死なせようというお心持としか思われません」命はこうおっしゃって涙(なみだ)ながらにお立ちになろうとしました。
 おんおば上は、命のそのお恨(うら)みをおやさしくおなだめになったうえ、もと神代(かみよ)のときに、須佐之男命(すさのおのみこと)が大(だい)じゃの尾の中からお拾いになった、あの貴(とうと)いお宝物(たからもの)の御剣(みつるぎ)と、ほかに袋(ふくろ)を一つお授けになり、まん一、急なことが起こったら、この袋(ふくろ)の口をお解(と)きなさい、とおおせになりました。
 命はそれから尾張(おわり)へおはいりになって、そこの国造(くにのみやつこ)の娘(むすめ)の美夜受媛(みやずひめ)のおうちにおとまりになりました。そして、かえりにはまた必(かなら)ず立ち寄(よ)るからとお言いのこしになって、さらに東の国へお進みになり、山や川に住んでいる、荒(あら)くれ神や、そのほか天皇にお仕えしない悪者どもをいちいちお説(と)き従えになりました。そしてまもなく相模(さがみ)の国へお着きになりました。
 するとそこの国造(くにのみやつこ)が、命をお殺し申そうとたくらんで、
「あすこの野中に大きな沼(ぬま)がございます。その沼の中に住んでおります神が、まことに乱暴(らんぼう)なやつで、みんな困(こま)っております」と、おだまし申しました。
 命はそれをまにお受けになって、その野原の中へはいっておいでになりますと、国造(くにのみやつこ)は、ふいにその野へ火をつけて、どんどん四方から焼きたてました。
 命ははじめて、あいつにだまされたかとお気づきになりました。その間(ま)にも火はどんどんま近に迫(せま)って来て、お身が危(あやう)くなりました。
 命はおんおば上のおおせを思い出して、急いで、例の袋のひもをといてご覧(らん)になりますと、中には火打(ひうち)がはいっておりました。
 命はそれで、急いでお宝物(たからもの)の御剣(みつるぎ)を抜(ぬ)いて、あたりの草をどんどんおなぎ払いになり、今の火打(ひうち)でもって、その草へ向かい火をつけて、あべこべに向こうへ向かってお焼きたてになりました。命はそれでようやく、その野原からのがれ出ていらっしゃいました。そしていきなり、その悪い国造(くにのみやつこ)と、手下(てした)の者どもを、ことごとく切り殺して、火をつけて焼いておしまいになりました。
 それ以来そのところを焼津(やいず)と呼びました。それから、命(みこと)が草をお切りはらいになった御剣(みつるぎ)を草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)と申しあげるようになりました。
 命はその相模(さがみ)の半島(はんとう)をおたちになって、お船で上総(かずさ)へ向かってお渡(わた)りになろうとしました。すると途中で、そこの海の神がふいに大波(おおなみ)を巻(ま)きあげて、海一面を大荒(おおあ)れに荒れさせました。命の船はたちまちくるくるまわり流されて、それこそ進むこともひきかえすこともできなくなってしまいました。
 そのとき命がおつれになっていたお召使(めしつかい)の弟橘媛(おとたちばなひめ)は、
「これはきっと海の神のたたりに相違ございません。私があなたのお身代わりになりまして、海の神をなだめましょう。あなたはどうぞ天皇のお言いつけをおしとげくださいまして、めでたくあちらへおかえりくださいまし」と言いながら、すげの畳(たたみ)を八枚(まい)、皮畳(かわだたみ)を六枚に、絹畳(きぬだたみ)を八枚重(かさ)ねて、波の上に投げおろさせるやいなや、身をひるがえして、その上へ飛びおりました。
 大波(おおなみ)は見るまに、たちまち媛(ひめ)を巻(ま)きこんでしまいました。するとそれといっしょに、今まで荒れ狂っていた海が、ふいにぱったりと静まって、急に穏(おだや)かななぎになってきました。
 命はそのおかげでようやく船を進めて、上総(かずさ)の岸へ無事にお着きになることができました。
 それから七日目に、橘媛(たちばなひめ)のくしがこちらの浜へうちあげられました。命はそのくしを拾わせて、あわれな媛(ひめ)のためにお墓をお作らせになりました。
 橘媛(たちばなひめ)が生前に歌った歌に、

  さねさし、
  さがむの小野(おの)に、
  もゆる火の、
  火中(ほなか)に立ちて、
  問いしきみはも。

 これは、相模(さがみ)の野原で火攻めにお会いになったときに、その燃える火の中にお立ちになっていた、あの危急なときにも、命(みこと)は私のことをご心配くだすって、いろいろに慰(なぐさ)め問うてくだすった、ほんとに、お情け深い方よと、そのもったいないお心持を忘(わす)れない印(しるし)に歌ったのでした。
 命はそこから、なおどんどんお進みになって、いたるところで手におえない悪者どもをご平定(へいてい)になり、山や川の荒(あら)くれ神をもお従えになりました。
 それでいよいよ、再(ふたた)び大和(やまと)へおかえりになることになりました。
 そのお途中で、足柄山(あしがらやま)の坂の下で、お食事をなすっておいでになりますと、その坂の神が、白いしかに姿をかえて現われて、命を見つめてつっ立っておりました。
 命(みこと)は、それをご覧(らん)になると、お食べ残しのにらの切(きれ)はしをお取りになって、そのしかをめがけてお投げつけになりました。すると、それがちょうど目にあたって、しかはばたりと倒(たお)れてしまいました。
 命はそれから坂の頂上へおあがりになり、そこから東の海をおながめになって、あの哀(あわ)れな橘媛(たちばなひめ)のことを、つくづくとお思いかえしになりながら、
「あずまはや」(ああ、わが女よ)とお嘆(なげ)きになりました。それ以来そのあたりの国々をあずま[#「あずま」に傍点]と呼(よ)ぶようになりました。

       四

 命は、そこから甲斐(かい)の国へお越(こ)えになりました。そして酒折宮(さかおりのみや)という御殿(ごてん)におとまりになったときに、

  にいばり、つくばを過ぎて、
  いく夜(よ)か寝(ね)つる。

とお歌いになりますと、あかりのたき火についていた一人の老人が、すぐにそのおあとを受けて、

  かかなべて、
  夜(よ)には九夜(ここのよ)、
  日には十日(とおか)を。

と歌いました。それは、
蝦夷(えびす)どもをたいらげながら、常陸(ひたち)の新治(にいばり)や筑波(つくば)を通りすぎて、ここまで来るのに、いく夜寝たであろう」とおっしゃるのに対して、
「かぞえて見ますと、九夜(ここのよ)寝て十日目(とおかめ)を迎えましたのでございます」という意味でした。
 命はその答えの歌をおほめになって、そのごほうびに、老人を東国造(あずまのくにのみやつこ)という役におつけになりました。
 それから信濃(しなの)へおはいりになり、そこの国境(くにざかい)の地の神を討(う)ち従えて、ひとまずもとの尾張(おわり)までお帰りになりました。
 命はお行きがけにお約束をなすったとおり、美夜受媛(みやずひめ)のおうちへおとまりになりました。そして草薙(くさなぎ)の宝剣(ほうけん)を媛(ひめ)におあずけになって近江(おうみ)の伊吹山(いぶきやま)の、山の神を征伐(せいばつ)においでになりました。
 命はこの山の神ぐらいは、す手でも殺すとおっしゃって、どんどんのぼっておいでになりました。すると途中で、うしほどもあるような、大きな白いいのししが現われました。命は、
「このいのししに化(ば)けて出たのは、まさか山の神ではあるまい。神の召使(めしつかい)の者であろう。こんなやつは今殺さなくとも、かえりにしとめてやればたくさんである」とおいばりになって、そのままのぼっておいでになりました。
 そうすると、ふいに大きなひょうがどッと降りだしました。命(みこと)はそのひょうにお襲(おそ)われになるといっしょに、ふらふらとお目まいがして、ちょうどものにお酔(よ)いになったように、お気分が遠くおなりになりました。
 それというのは、さきほどの白いいのししは、山の神の召使ではなくて、山の神自身が化けて出たのでした。それを命があんなにけいべつして広言(こうげん)をお吐(は)きになったので、山の神はひどく怒(おこ)って、たちまち毒気(どくき)を含(ふく)んだひょうを降らして、命をおいじめ申したのでした。
 命は、ほとんどとほうにくれておしまいになりましたが、ともかく、ようやくのことで山をおくだりになって、玉倉部(たまくらべ)というところにわき出ている清水(しみず)のそばでご休息をなさいました。そして、そのときはじめて、いくらかご気分がたしかにおなりになりました。しかし命はとうとうその毒気のために、すっかりおからだをこわしておしまいになりました。
 やがて、そこをお立ちになって、美濃(みの)の当芸野(たぎの)という野中までおいでになりますと、
「ああ、おれは、いつもは空でも飛んで行けそうに思っていたのに、今はもう歩くこともできなくなった。足はちょうど船のかじのように曲がってしまった」とおっしゃって、お嘆(なげ)きになりました。そしてそのまままた少しお歩きになりましたが、まもなくひどく疲(つか)れておしまいになったので、とうとうつえにすがって一足(ひとあし)一足(ひとあし)お進みになりました。
 そんなにして、やっと伊勢(いせ)の尾津(おつ)の崎(さき)という海ばたの、一本まつのところまでおかえりになりますと、この前お行きがけのときに、そのまつの下でお食事をお取りになって、つい置(お)き忘(わす)れていらしった太刀(たち)が、そのままなくならないで、ちゃんと残っておりました。
 命(みこと)は、
「おお一つまつよ、よくわしのこの太刀(たち)の番をしていてくれた。おまえが人間であったら、ほうびに太刀をさげてやり、着物を着せてやるのだけれど」と、こういう意味の歌を歌ってお喜びになりました。それからなおお歩きになって、ある村までいらっしゃいました。
 命は、そのとき、
「わしの足はこんなに三重(みえ)に曲がってしまった。どうもひどく疲(つか)れて歩けない」とおっしゃいました。しかしそれでも無理にお歩きになって、能褒野(のぼの)という野へお着きになりました。
 命は、その野の中でつくづくと、おうちのことをお思いになり、

  あの青山(あおやま)にとりかこまれた、
  美しい大和(やまと)が恋しい。
  しかし、ああ私(わたし)は、
  その恋しい土地へも、
  帰りつくことはできない。
  命(いのち)あるものは、
  これからがいせんして、
  あの平群(へぐり)の山の、
  くまがしの葉を、
  髪(かみ)に飾(かざ)って祝い楽しめよ。

という意味をお歌いになり、

  はしけやし、
  わぎへの方(かた)よ、
  雲いたち来(く)も。
   (おおなつかしや、
    わが家(や)のある、
    はるかな大和(やまと)の方から、
    雲が出て来るよ。)

と、お歌いになりました。
 そして、それといっしょにご病勢(びょうせい)もどっとご危篤(きとく)になってきました。
 命(みこと)は、ついに、

  おとめの、
  床(とこ)のべに、
  わがおきし、
  剣(つるき)の太刀(たち)。
  その太刀はや。

と、あの美夜受媛(みやずひめ)のおうちにおいていらしった宝剣(ほうけん)も、とうとう再(ふたた)び手にとることもできないかとお歌いになり、そのお歌の終わるのとともに、この世をお去りになりました。
 早うまのお使いは、このことを天皇に申しあげにかけつけました。
 大和(やまと)からは、命のお妃(きさき)やお子さまたちが、びっくりしてくだっておいでになりました。そして、命のご陵(りょう)をお作りになって、そのぐるりの田の中に伏(ふ)しまろんで、おんおんおんおんと泣いていらっしゃいました。
 するとおなくなりになった命は、大きな白い鳥になって、お墓の中からお出ましになり、空へ高くかけのぼって、浜辺(はまべ)の方へ向かって飛んでおいでになりました。
 お妃(きさき)やお子さまたちは、それをご覧(らん)になると、すぐに泣き泣きそのあとを追いしたって、ささの切り株(かぶ)にお足を傷つけて血だらけにおなりになっても、痛(いた)さを忘(わす)れて、いっしょうけんめいにかけておいでになりました。
 そしてしまいには、海の中にまではいって、ざぶざぶと追っかけていらっしゃいました。
 白い鳥はその人々をあとにおいて、海の中のいそからいそにと伝わって飛んで行きました。
 お妃(きさき)は潮(しお)の中を歩きなやみながら、おんおんお泣きになりました。
 その鳥は、とうとう伊勢(いせ)から河内(かわち)の志紀(しき)というところへ来てとまりました。それで、そこへお墓を作って、いったんそこへお鎮(しず)め申しましたが、しかし鳥は、あとにまた飛び出して、どんどん空をかけて、どこへともなく逃(に)げ去ってしまいました。

       五

 命(みこと)には、お子さまが男のお子ばかり六人おいでになりました。その中の、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)とおっしゃる方は、後にお祖父上(そふうえ)の天皇のおつぎの成務天皇(せいむてんのう)のおあとをお継(つ)ぎになりました。すなわち仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)でいらっしゃいます。
 命が諸方を征伐(せいばつ)しておまわりになる間は、七拳脛(ななつかはぎ)という者が、いつもご料理番としてお供について行きました。
 御父上(おんちちうえ)の景行天皇(けいこうてんのう)は、おん年百三十七でおかくれになりました。

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