その七
紅塵万丈の都門の中にも、武蔵野の俤のこる四ツ谷練兵場、兵隊屋敷をずつと離れて、権田原に近き草叢の中に、露宿せし一人の書生。寐ぬに明けぬと告渡る鳥より先に起き出て、びつしよりと湿りたる襟元を、気味悪さうに掻き合せながら。 『ああつまらない、実に残念だ。世間は広く人間は多きも、恐らく至る所に逆遇を蒙る、僕の如き者も珍しいだらう。昨霄飯田町を飛出して、二里ばかりの道を夢中に、青山の知己まで便つて行けば、彼奴めたいがい知れとる事に、泊まつて行けともいはないんだ。頼むのも残念だからと思つて、露宿をやつてみたが、やつぱりあんまりいい心持はしないわ。どうしても人間の居る所へ、行かねばならぬかなあ。さうだ僕も人間だ、血あり肉ある身躰だ。健康を害してはつまらんからな。だが待てよ、無一物ではやつぱり食客だ、食客もつまらんなあ。どうしやうかしらむ。いやさうじやない、艱難汝を珠にすだ。さうださうだ、これ程の艱難を下さるる僕は、よほど天帝の寵児であるに相違ない。非常な大任を負はさるべき身躰であるに相違ない。してみると僕の身躰は、なかなか麁末に扱ふ訳にはゆかないぞ。むむ、よしこれからは一ツ、忍耐といふ事を遣つてみやう。張良が履を捧げたところだね。それでなくツちやあ事は成就しないからな。ただ困るのは黄石公だ、今の世にそんな奴が居やうかなあ。と、いづこを目的に行くでもなく、ふらふらと赤坂離宮の裏手まで来かかりしに、背後より肩をソと突く者あり。 『大村、たいさう早いね。どこへ行つたんだ』 これも同じ兵子帯連ながら、大きに工面よき方と見へて。新しき紺飛白の単衣裾短かに、十重二十重に巻付けしかの白金巾は、腰に小山を築出して、ただみる白き垣根のゆるぎ出たらむ如くなり。 『うむ、君か』 と大村が力なき返辞を恠しみて。 『どうしたんだ。つまらむ顔をしてるじやないか』 『むむ』 『どこか悪いか』 『むむ』 『またうむか、よせよせうなるなあ。どうしたんだ一躰』 『どうもしない、歩行とる』 『ハハハハ君、君やあどうかしてるぜ。気を注けなきあいかんぞ』 『なぜ』 『なぜツて君、その顔色はどうだ。まるで草の中から這出したやうだぜ』 『うむツ』 と大村は少し驚き。 『ど、どうして君はそれを知つとる』 『知る筈じやあないか、今現に見とるんだから』 『うツ、見たつて、己れが出るところをかい』 『ハハハハ馬鹿、そんな屁理屈をいふもんじやない。形容詞だ』 『さうか、さうならさうといへばよいに』 やや安心の躰なりしが、なほも心の咎めてや。 『君、真に形容詞か』 『知れた事さ』 兵子帯は、無造作にいひ放ちしが、いかにも不気味といふ風にて。 『真実に君どうかしてゐるよ。どこまで行く、僕が送つてやらう』 しきりに注目しながら連れ立つを、大村は迷惑がり。 『小田君先へ行くよ、急ぐから』 『急ぐなら僕も急ぐさ。その方が勝手だ』 ともども早足に歩みながら、なほも友情禁じ難くや。 『君真実に顔色が悪いよ。いつそ僕の許へ来ないか。僕は今国野の許に居るんだ』 『う、国野ツて、国野為也か。あれは黄石公とはゆくまいか』 『君何をいつてるんだ。国野だよ、知つとるだらう、開明党の』 『知つとるさ。だから聞くんだ』 『聞くまでもないじやないか。本職の代言も甘いが、それは流行らないから、利器の持腐りだ。だが政治家としての大名は、子供でも知つとるじやないか』 『さうさ、だから確かめたいんだ、どういふ人物かを』 『うむさうか、それなら分つとる。そりやあ非常な人傑さね。世間では破壊党と誤解されとるが、どうして僕等に対しては、まるで君子だ、驚くべき謙徳家だ。実に書生を愛するよ。だから誰でも身命を擲つてもよい気になるんだ。既にこの僕の仕着せなんぞも』 と小田はわざわざ袖口を引張つて見せ。 『先生がこないだ時計を質に遣つて買つてくれたんだ。十人の書生に一様の仕着せさ。ゑらいじやないか、それで自分は甘んじて、鎖ばかり下げて歩行てるんだ。どうだ猪飼なんぞに、真似も出来やあしまい。僕なんぞも、今まであすこに居たら、やつぱり妻君の小言ばかり喰つとるのさ。君も相変らずかね』 『いや変つた』 『どう変つた。少しはよくなつたか』 『なあに、出ツちまつたんだ』 『そりやあゑらい。そしてどこに居る』 『どこにも居ない』 『どこにもツて君、寐起きする処が、あらうじやないか』 『ない』 『ふざけたまふな、喰仆しに行きあしないよ』 『そ、さういふ事をいふからいかん。僕がそんな卑劣な男かい。じやあいはう、昨霄は練兵場で寝たんだ』 『むむ、さうか、それで分つた。だから僕が草の中から、這出したといつたに、ギツクリしたんだな』 『うむ』 『ハハハハこれは大笑ひ、実に一奇談だ。それでやうやく安心した。実はね君があんまり、とんちんかんな挨拶ばかりするもんだから、僕は少々心配してたんだが、それならばいい、もう大丈夫だ。そして君これから行く処があるのかい』 『いやそれはまだ極まらんのだ』 『さうかひ。それじやあやつぱり、僕と一所に、先生の許へ来ないか、神田だ。僕も実のところ昨日青山の親族までいつて、昨霄帰る筈なのが遅くなつたんだから、そこをごまくわすに都合がいいんだ。いやこれは僕の内情だ。それよりか君、おそらく先生のやうな人は、外にあるまいよ。君が居る気なら一ツ頼んでやらう』 『どうだかなあ、君買被つとるんじやないか』 『どうして。何しろまあ来てみるがいい』 話しながら行く程に、二人の足はいつしか学習院の前を過ぎ、四ツ谷見附にさしかかるに。老幹拮掘たるお濠端の松が枝、曙光を受けて青緑掬すべく、さながら我を歓迎するかの趣あるにぞ。大村はここに濛々の境を脱し、微かながらも快哉を叫ぶを、小田はおもむろに顧みて。 『どうだ君、四ツ谷見附がさしづめ下の※橋[#「土へん+已」、161-4]だ。そして今時の黄石公は不性だから、居宅へ張良が逢ひに行くとはどうだ。ハハハハ』
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