紫琴全集 全一巻 |
草土文化 |
1983(昭和58)年5月10日 |
1983(昭和58)年5月10日第1刷 |
その一
『監獄といへばあたまから、善人の行くべき処でないと思ふ人が多い。なるほどそれは国事犯者の少数と、ある一二の項目に触れて禁錮された、人々とを除いたならば、まるつきり、純潔無垢なるものの、行くべき処でないには相違ない。さらば青天白日とかいふ、監獄の外に居るものは、既往と将来とは知らず、現在では、純潔無垢なものばかりかといふに、なかなかさうはゆかぬてや。この中にはかの有名なる、判官の弄花事件もあつた、議員の収賄事件もあつた。顕れた事実は少数だが、それに類した事が、現在いくら行はれつつあるかもしれぬ。否行はれてゐるのである。先づ例を卑近な辺に採らふならば、わづかの金を振りまはして、格外の手数料、利子などを貪り、貧民の生血を吸つてゐる恠物もある。がこれらは咎め立するほどの、価値ある罪人ではない。それよりも、もつと大きな罪人には、尸位素餐、爵禄を貪つてゐる上に、役得といふ名の下に、いろいろな不埓を、働いてゐる徒輩もある。がまだその上には上がある。君国を売る奸賊、道徳を売る奸賊、宗教を売る奸賊、これらはあらゆる奸賊の中でも、最も許し難き奸賊ではないか。しかるにこれらの大奸賊といふものに、なつてくれば、なかなか公然と張つてある法網に触れて、監獄といふ、小さな箱の中へ這入るやうな、頓間な事はしない。俯仰天地に恥ぢずといつたやうな顔をして、否むしろ社会の好運児、勲爵士として好遇され、畏敬され、この美なる神州の山川を汚し、この広大なる地球を狭しと、横行濶歩してゐるではないか。されば天地間、いづれに行くとしても罪人の居ない処はない。いはばこの娑婆は、未決囚をもつて充満されてゐる、一個の大いなる監獄といつてよいのである。ただその中で思慮の浅い、智恵の足りない、行為の拙なものが、人為の監獄に投ぜらるるまでなのである。しからば監獄を限りて、罪人の巣窟と思ふのは、大いなる浅見ではないか。故に予はむしろこの小さき、否愚かしき、真個憫むべき人間を捉へて、罪人といふのに忍びぬのである。』 と、さすがに職業柄だけに、市ヶ谷監獄署面会人控所にて、大気焔を吐きたまふは、この頃某県より東京へ転貫の、猪飼弁三といふ弁護士殿なり。地方は知らず、東京では、あまり新しき御議論でもなけれど、場所が面会人控所だけに、打集へる人々、いづれも多少監獄内に縁故ある身とて、そぞろ同情の想ひに動かされ、それ位の事と思ふ人も、実にもつともと頭を垂るるほどの仕儀、ましてぽつと出の田舎親爺、伜の不所存ゆゑ、こんなおつかない処へ来ねばなんねえと、正直を看板の赤毛布に包まれたる連中などは、いづれもあつと感じ入り、今更のやうに弁護士殿のお顔打仰ぎ、一躰何ていえお人だんべいと連れの男に囁く、ここ大当りの光景に、猪飼先生いよいよ反身になりたまひ、傍に苦笑する二三の人あるにも心注かず。かつて覚えの政談演説に、国許でやんやといはせたる時の事など、咄嗟の間に憶ひ出て、おほんと一声衆囂を制し、 『しかるをいはんやここは面会人控所ではないか。檻内の者はとにかく、面会を乞ふものその者に、果たして何の罪がある。これ実に世のいはゆる晴天白日の人、即ち天下公衆の一人ではないか。それも罪三族を夷すといふ、蒙昧な時代ならばいざ知らず、この昭代でありながら、面会人までも罪人同様に、かくの如く薄汚なく、かくの如く疎雑なる、はたまたかくの如く不待遇極まる建築所に、控えさせておくといふは、これあに昭代の微瑕ではないか。殊にその中には予輩の如き、名誉職の職務上来りをるものあるをや』 と、はつきりといひ切りたきところを、さすが結尾の一節だけは、舌鋒を鈍らし、むにやむにやとお口の内に噛み殺したまひしは、天晴れお見上げ申したる御仁躰なり。 されどかく、しばしば感歎を促されては、さうは問屋がと余談に移るものあるを、弁護士殿は苦々しげに見てゐたまひしが、ふと傍に控えたる少年の、これこそはさもさも同情の想ひ、眉宇に溢れたるを、うい奴と発見したまひ。 『君はいつも見る顔だが、一躰何の事件で来てゐるのだ。よく感心にたびたび遣つて来るの』 君と呼ばれたる少年は、年の頃十五六、小柄なれば七位にもや。浅黒き顔に黒木綿の羽織、麁末なる身装ながら、どこやら冒しがたき威風ありげに見ゆるも、眼光の人を射ればか。じろりと弁護士が前半面を見下して 『はあ、父が来てゐるのです』 『ふむ、未決か、既決か』 『既決といふ外はありません、昨日確定裁判を下されたのですから。それがどうしたです』 妙に人に喰つてかかりさうなる気色を、弁護士殿は、微笑をもて迎へながら。 『ふむ、さうか、それはいけなかつたな。一躰どういふ、罪名を付せられたのだな』 少年は猪飼への答といふよりも、むしろ己が感慨に迫られて、我知らず口を開き。 『そ、それが実に間違つとるんです。全躰は人の委託金ですが、使用の特権をその所有者から許されてゐたんです。だから良し費消したところで、民事の制裁を受くべきものであるに、彼奴為にするところあつて、突然と予審廷へ告訴したんです。しかるにもとより懇意な間柄であるから、合意といふ証左が、父の手許に取つてない。為にとうとう委託物費消といふ汚穢なる罪名を付せらるるの、残念なる次第に立到つたのです。実にまるで誣告されたんです、不当なる判決を下されたんです、立派な冤罪に逢つたんです』 はなはだしく憤慨して腕を扼し、思はず高声にいひ放ちしが、辺りに佇める押丁と顔見合せ、さすがに口を噤みたり。弁護士殿は、やをら巻煙草の灰をはたき、 『ふふむ、さうか、委託物費消か、いやよくある奴だ』 少し冷やかなる調子なりしが、理性は前刻の、卓論を繰返して黙するを許さず。 『まあいいさ、さう怒る事もない。軽罪だから直き出られるさ。最長期としたところで知れたものだからな』 少年は勃然として、弁護士の顔を見上げ、 『三年です、その人に依つては、長くもない時日でしやう。だが一日の破廉恥罪と、十年の国事犯罪とは、あなたはどちらをお取りになりますか。父はいやしくも郷里では、県会の副議長にも挙げられた人間です、地方の政党幹事をも、遣つてゐた人物です。そして初期の衆議院には、いくばくの国民を代表した代議士であり、のみならず僕の家は、近県に誰知らないものはない、数百年連綿の旧家です。その士、その家の主人が、破廉恥罪の名によつて、今後三年を囹圄の裡に送るが、それが短い日月でしやうか、父に取つての軽罪でしやうか。父の生涯と、自分の生涯は、これでもつて全く葬られてしまつたんです。栄誉ある家系に、拭ひ難き汚泥を塗られたんです。それでもあなたは、軽罪とおつしやるですか。えツ』 骨鳴り、肉躍る少年の気色に、弁護士少し敬重の意を傾け、自から詞も丁寧に、 『いや失言しました、ごもつともです。もつとも再審は御請求なさるでしやうな』 『もちろんしました、二回まで上告して、二年の時日を未決檻に、空しく送つた上の今日です』 『なるほど』 『実に今の判官には目がないです。文字の外には、読むべき証拠を見得ないです。だから僕は充分法律を研究して、無辜の同胞を救ひたいといふ、考えを持つてゐるんです。どうでしやう弁護士になるには、どの位かかりませう』 『別に造作はないです、四五年もやれば沢山です。一躰御郷里はどこですか、東北ですか、西南ですか』 『東北です』 『では宮城か、福島辺でいらつしやるですか』 『はあ先づその辺です』 折から押丁の声として、大村耕作面会人、大村一郎――ツと罵るかの如く呼立つるに、少年はチヨツと舌打して、弁護士に目礼を施し、奮然として出で行きぬ。跡に弁護士殿は自問自答。 『ふむ、大村耕作といつたな、なるほど忘れてゐた、さうだ、それだ。では彼子は国にゐた時分、七八歳だつたから、僕の顔を見覚えない筈だ。感心に気骨があるやつだ、今度逢つたら是非聞いて見なくツちやあ。随分大村には世話になつたんだから』
その二
神田鎌倉河岸の葬具屋に並びて、これも白木の看板麗々しく、東京地方裁判所所属弁護士、猪飼弁三事務所の、その名は満都に隠れあれど、まんざら三百でなきは、八百屋のお払ひ滞らぬにも知られ、米屋酒屋の掛乞よりは、訴訟人の足繁きに、さても東京は結搆な処と、東京の有難さ身に染みたる奥方の、詞のなまり、身のつくりも、やつとお国の垢抜けしに、我もいささか肩身広き心地してと、口の悪き三が湯屋での陰口も、露知りたまはぬ奥方は、三を唯一無二の、幕僚と信じたまひ、またしても旦那どののお手柄ばなし、今度は五千円の訴訟に勝ちたまひし、やがては一万円の公事にもと、耳のお正月はさせたまへど、ついしか双子の一反驕りたまはぬは、根がお国出の悲しさと、三はこれを御奉公の疵にはすれどそれだけまた勤めよき処もあればと、奉公人の方より主人の相場入るるを、奥様夢にも知りたまはば、さても東京は恐ろしい所と、この一ツでも呆れたまふべけれど、全く御存じなき内が、田舎の香失せぬ、有難きところなるべし。 されば上は玄関番の書生より、下は台所の斑に至るまで、勤めやうでは、勤めにくくもなき筈を。いかはしけむ、書生の一人、大村一郎といふ無骨もの。これのみはとかく奥様の御意に召さず、またしてもお小言戴くを三の笑止がり。あの奥様は威張らせてさへ置けば御機嫌よきに、逆らひなさるから、お前様は損だよ。手よりは口の方上手に働かすが、このお邸の肝要ぞやと、六韜三略無束脩に皆伝せし深切を、一郎は有難しとも一礼せず。それは婦女子のすべき事だ、僕なんぞにそんな事は出来ぬ、またする気もない。有りのままでお気に入らずばそれまでだ、お前なんぞの指図は受けぬと、強情ものの一徹に、いふて除けしを、むつと癪に障え。それよりは矛を倒まにして、とかく一郎の事を悪しざまにいふ、曰く因縁御存じなき奥方は、これをも三が忠勤の一ツには数へたまひながら、相変らず襟一掛をとのお気は注かぬに、どれもこれもと、三はおのれ一人、江戸ツ児なるを口惜しがりぬ。 奥様は今がた旦那どの、玄関に見送らせたまひ。書斎のお掃除、これのみは、小間使の手にも掛けず、御自分のもちになりたるを片付けたまひ。さも大仕事したる跡なるかのやうに、ぺたり仲の間の火鉢の傍によりかかりたまひ。ああ草臥れたと長煙管お手にしたまふ。この所作はまだちと似合ひあそばさぬやうなり。 三は来たなと、今まで板場に骨休めし身を、急に起こして立働く、流しもとの忙しさ、奥様殊勝と見遣りたまひ。 『お前もちつとお休みな、今日は横浜へお出になつたのだから、夕方でなくツちやあ、お帰りはあるまいよ。お昼食は要らないのだから、まあ安心さ』 三はぬらしたばかりの手を、大形に拭き拭き 『さやうでいらつしやいますか、道理でいつもより、お早くお出掛だと存じましたよ、じやあ今日はお留守事に、お洗濯でもいたしますか』 『ああどうせして貰ひたいんだけれど、まあ少し位後でもいいよ。どふもお天気が変だから』 いひながら、お庭の方を見遣りたまひ、旦那どののお机の上に、視線を触れて。 『おおさうさう忘れてゐた、郵便を出させろとおつしやつたんだに。大村は居るかえ』 『はいいかがでございますか、ちよいと』 と立ちて大村さん大村さんと呼びながら玄関の襖を明け、 『おやまたどつか行ツちまつたんだよ。奥様居りませんでございます。いつでもね、あなた』 と、三ははや奥様の、御立腹を促し顔なり。 『さうかえ、まただんまりで出て行つたんだらう。真実に困るねえ、大村にも。今日は誰も居ないんだからつて、さういひ付けといたんだに、また無断で出たのかねえ。困るねえ、いくら無作法だつて、あんな男もないもんだよ』 奥様は大村の為に、郵便の事は忘れ果てたまひたるらし。三は大なる腰を、敷居際にどつと据え。 『さやうでございますとも、真実にいけ好かない人でございます。奥様の前でございますが、私達にでもああしろかうしろツて、旦那様よりか、いつそ威張つてるんでございますもの。どこの書生さんだつて、あんな書生さんもないものでございます。私も随分これまで書生さんの在るお邸に、御奉公も致しましたが、大村さんのやうな方は始めてでございますよ。だから私はこちら様へ上りました当季は、御親類の、若旦那様ででもいらつしやるかと存じましたに、尋常の書生さんでもつて、あれでは、どう致して通れるもんではございません』 『ああさうだともさうだとも。だから私はいつも旦那様にさう申し上げてゐるんだけれど、御自分で連れていらしつたもんだから、打遣つて置け打遣つて置けとおつしやるんだもの。真実に困つちまうよ。あれでは書生を置いとく、甲斐がないじやないか』 『真実にさやうでございますねえ。お庭のお掃除一ツしやうじやなし、自分で遣う洋燈まで、人に世話を焼かせておいて、勉強で候のツて、さう威張る訳もないじやございませんか。旦那様の御用ではございますまいし、自分の勉強をさせて戴くのを、鼻に掛けてるんでございますもの、でもそれだけならまだしもでございますが、奥様が何かおつしやつても、直ぐ風船球のやうに膨れるんでございますもの。奥様あんな書生さんをお置きあそばさないでも、いくらもよい書生さんがございますよ。旦那様にさうおつしやつて御覧あそばせな』 とはどこにか思召の、書生様ありと思し。奥様はむろんといふ風に、煙管をポンと叩きたまい。 『仕方がないのよ、いくら申し上げたつても』 『おやなぜでございます』 奥様はじれつたさうに、火箸もて、雁首をほじりたまひながら、 『なぜツてね、別に躰した訳もないんだがね、旦那様があれの親にお世話、いゑ何ね、世話になんぞおなりあそばしやあしないんだけれど、同じ国でお知己であつたもんだから、それでよんどころなく、めんどうを見ておやりあそばすのさ』 『へー、あんな人にでも親がございますか』 『ホホホホ可笑な三だよ、誰だつてお前親はあらうじやないか』 『へー、でもあなたついしか、親の事なんぞ、申した事がございませんもの。もつとも私達に話すなんて、そんな優しい人じやございませんけれど』 『そりやあその筈さ、あつてないやうなものだから』 『へー、じやああんな人ですから、親だつても、寄せ付けないんでございますか』 『何ね、さうじやないんだよ、父親は監獄に這入つてるんだもの』 『おやおやおや、奥様、じやあ盗人の子でございますの。まあ驚きましたねえ。道理で』 と、三は呆るる事半ばかり、何をか自問自答の末、急にしよげたる調子にて。 『奥様つまらない事を致しましたねえ私の銭入も、全くあの人に、取られたのでございますねえ』 『え、銭入ツて何』 『はいこないだ失くなしました』 『ふむむむ、いつか通りで買つて来たつて、見せたのかえ』 『へい、それにはしたを少々ばかし、入れておいたのでございますが、それがさつぱりこないだから、知れないんでございますもの』 『だつてお前、それはこのあいだ遺失したといつたじやないか』 『へい、遺失したんだとあきらめておりますのでございますが、さう承つて見ますると、少し変でございますよ。どうもあなた、遺失した覚えがございませんのですもの』 この三いつも遺失したものを、心に覚えてすると見へたり。奥様もやうやく釣り込まれたまひ。 『さうそりやあ何ともいへないよ。まあよく考へて御覧、まさかとは思ふんだけれど、いよいよとなれば調べなければならないから。何しろあれの親も、盗人じやあないが、お金を遣ひ込んで這入つたんだといふからね』 折しも次間に人の気配、奥様誰ぞと声かけたまへば、大村でござるといふ声の、噛付くやうに聞こへしにぞ、さてはと奥様お奥へ逃入りたまふに、三もとつかは流しもとへ退らむとしての出合頭、ぬつと入来る一郎に突当られてアイタタタタ。馬鹿奴ツ、眼を明いて見ろの一声に、当られ損の叱られ徳、疵もつ足の痛さにつけても、三はいよいよ抵抗の気を昂めぬ。
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