その三
それよりは一郎三との衝突日に烈しきを、あはれ調停の任に当りたまふべき奥方の。何事ぞいつも三の神輿をかつぎ出されたまひ、三が肩には奥様の、光明輝く悲しさに。一郎は毎度泣寐入の、夜毎の夢にも、かの陰口のみは忘れかね。己れやれよくもこの一郎を、盗み根性ありとまで評せしよな。他事はともあれこれのみはと、半夜の衾を蹴つて起き出る、力は山を抜くべきも、ぬきさしならぬ食客の身の悲しさは、理非を旦那どのの前に争はむ力の抜けて。おのれ馬鹿女め、今に見よと、両の拳には、一心に青雲を握り詰むれど、これとて雲を握む話と、嘲られてはそれまでと、恥を忍び垢を含む一郎が無念無言を。覚えあればぞあの無言、情の剛きあの人に、似ぬ温和しさはてつきりさうと、いよいよ乗ずる三の蔭口、車夫の力松、小間使のおせかまで、異な眼つきにて我を見る、返す返すの心外さに、もう堪忍がと立上る、その足許には奥様の合槌、打つて出られぬ口惜しさの、積り積りて的の外れ。かくまで我を痛罵する、あの蔭口を、猪飼の知らぬ筈はなし。知らずばかれこれ不明、不明にあらずばこれ不仁、いづれに我が先生と仰ぐべき器にあらずと。一念ここに僻みてよりは、斜めに見る眼の観察は狂ひ。その以前より猪飼が仕向け、その意を得ずとも思はれて、今は猪飼に対する、敬意を欠くにも至りしにぞ。さらでもかねて奥の訴訟、なるほどここをいひをつたと、証拠を竢つて判断する、旦那殿は商売柄。一号証より、二号証、三が詞も参考の、一ツに供するやうになりては、また一郎を、善しと思はぬ気色見ゆるにぞ。負けじ魂の一郎が口惜しさ。この人までもさあらむには、何の青雲ここにのみ日は照らじ。高山大嶽至る所、我が攀ぢ登るに任すにあらずや。百難を排し千艱を衝いても、やがては天下に濶歩すべき、この大健児の、首途を見よやといはぬばかり。敵手に取つて不足なき、敵には背後の見せ易く、奥様と三に忍びし一郎の、旦那殿には忍び得で。溝水も泡立つ七月の天、およそものその平を得ざれば、なるほど音高き日和下駄響かせて、我からそこを追出しは、とつて十九の血性漢なりし。
その四
飯田町何丁目の、通りを除けし格子造り、表は三間奥行も、これに合ひたる小住居ながら。伊予簾の内や床しき爪弾の音に、涼みながら散歩する人の足を止めて覗へば。奥深からぬ縁側に、涼しさの翠も滴る釣しのぶ、これと並びては岐阜提灯の影、ほの暗けれど。くつきりと際立ちし襟もとの、白さは隠れぬ四十女、後姿のどこやらに、それ者の果ての見へ透きて、ただは置かれぬ代物と、首傾けて過ぎ行くを。向ふ側の床机に集ひし町内の、若い衆達の笑止がり。いかに青葉好ましき夏なればとて、葉桜に魂奪はれて、傍の初花に心注かぬとは、さてもそそくさき男かな。その母よりも美しき、その娘にお気は注かぬのか。とはまたきつい御深切、通りかかりの人にまで、あの娘を風聴したきほどの、深切があるならば、とてもの事に母子の素生、それはお調べ届きしか。さりとては野暮な沙汰、男気なしの女暮しで、三日に挙げず、料理の御用、正宗の明瓶を屑屋があてに来るといへば、いはずと知れた商売柄、知れぬは弗箱の在所ばかり。さあその弗箱の在所が己れは気にかかる。かかつたところで仕方なし、こればかりは政府でさへも、所得税は徴収せぬに、要らぬ詮索止めにせいと、さすが差配の息子殿は真面目なり。 折から来かかる一人の男、安価香水の香にぷむと。先払はせて、びらりと見へし薄羽織、格子戸明けて這入ると同時に、三味の音色はぱたりと止まりぬ。 『おや中井さんお出でかえ、さあずつとお上り』 と榛原の団扇投げ与ふるは、かの四十女なり。 『へい奥様、お嬢様』 と中井はどこまでも、うやうやしく挨拶して。 『いやどうも厳しいお暑さでございます、せつせつと歩行て参つたもんですから』 と言ひ訳して、ぱたぱたと袖口より風を入れ、厭味たつぷりの絹手巾にて滑らかなる額を押拭ふは、いづれどこやらの後家様で喰ふ、雑業も入込みし男と見へたり。 『これでさつぱり致しました。しかしお邸はたいへんお風通しが宜しいやうで』 と、事新しくそこら見廻すを、年増は軽くホホと受けて。 『中井さんお邸なんて、そんな事はよしておくれ。真実に今の躰裁では赤面するからね。これでも住居には違ひないんだけれど』 『いやごもつともでござります』 と、ここほろりとなりしといふ見得にて、わざと声の調子を沈ませ。 『実に浮世でござりますな。これでもと申しては、失礼でございますが、私どもにとりましては、結構な住居でございますが、さう思召すも、御無理ではございません。あつは世が世でいらつしやいましたならば』 といふに年増は掌を振りて 『もうもう、そんな時代な台辞で、私を泣かせておくれでない。それよりかお前この節は、たいそう景気がよいさうだから、もう幾度か歌舞伎座へ行つたんだらう。そんな話でもしておくれ。くさくさしていけないから』 『ヘヘヘヘこれは大失策、大失礼を致しました。ついおいとしいおいとしいが先に立つもんでございますから。肝要のお話が後になつて、禁句が先へ出違ひと、申すはこれも今夕の禁句ホイ』 と掌にて我が額を叩き、可笑味たくさんの身振にて、ずつと膝を進ませ。 『実はその少し耳よりなお話で伺つたのでございますがやはりおちは歌舞伎座と申す訳。ヘヘヘ失礼ながら奥様お嬢様には、まだどちらへも御縁はお極りあそばしませぬか』 こなたも耳よりなる話に、年増もぐつと乗出して、思ひ出したやうに手を叩き、氷と、そして何かお肴をと急に小女にいひ付くるも、現金なる主人振なり。中井はしめたと腰据えて。 『実はその何でございます。名前は少し申し上げかねますが、さる新華族様の若殿が』 『ふむむむむむ』 と冒頭第一、気受けよき様子に、中井はいよいよ乗地になり 『実はその若殿様と申すは、御養子様なんでいらつしやいますが。その奥方のお姫様と申すが、まだ十五のおぼこ気ばかりではなく。一躰にちと訳のある御性質で、とても奥様のお勤めが、お出来あそばさぬと申すところから。そこは通つた大殿様、新華族様だけにお呑込みも早く。乃公に遠慮は要らぬから、奥の代はりになる者を、傍近く召使ふがよいと。さばけた仰せに若殿様も、御養子のお気兼なく、お心のままと申す訳になつたのでございますが。さてさうなつて見ますると若殿様も、うつかりしたものをお邸へ、お呼びとりになると申す訳に、参りませぬと申すのもさういふ訳でございますから、奥方は表向きのお装飾物ばかり、内実はそのお方が、御同族方への御交際向きから、下々への行渡り、奥様同様のおきりもりを、あそばさねばならぬ訳でございますから。御当人様ではまるで奥様を、お探しになるやうな思召、婢妾といふやうなものでは、とてもそれだけの用に立たない。その当人の器量次第では、妾と思はぬ、奥として待遇ふほどに、そこを万々承知して一ツよい奴、いゑ何よいお嬢様上りのものを、周旋してくれまいかとの、仰せを蒙りましたので。なるほどこれはごもつともと、私も首をひねりまして、是非どふかお世話をと、存じますのではございますが、さてさうなりますとむづかしいもので、私もまるで御媒介の、大役を仰せ付かつたやうなもの。お妾様ではないないの、奥様と申すがむづかしいところどうもちよつとござりませぬので。ヘヘヘヘいゑ決してこちら様の、お嬢様をと申す訳ではござりませぬ。お懇意なお先にでも、ひよつとそんな方が、いらつしやいますまいかと存じまして。ヘヘヘヘいやどうもむづかしい探し物で』 としきりに妾といふを気にする様子を、年増は別に心に留めず。 『いいじやあないか、お妾だつて。それならまるで奥様同様だわね。それで何かえ、お手当はどういふんだえ』 『へいそれはもう、どうでもお話がつきませうでございます。華族様の若殿様でいらつしやる上、二三年前外国へ御修業にお出になつて、私共には分りませんが、何だか片仮名で有難さうな、お肩書が付いてゐるんでございますから、ただ今は御自分様で、お小遣金は御充分に、お取りになつてをりまするところへ、親御様から表向きの、お手当はあらうと申す訳でございますから、失礼ながらお二人や、お三人口位は、楽々とお過ぎになる位の事は、充分に出まする見込でげす。どうせあなたそれでなくちやあ、埋まらない話でございますからヘヘヘヘいやまたどうにもその辺は私が』 と存外談話のてうしもよく、運ぶ肴の前に並べば。 『そりやあいい話だね。まあ一ツお飲り。私もおあひをしやうから』 と、一口飲みて中井へさし、それよりは二人にて、さしつ抑えつ飲みながらの密議、互ひにしばしばうなづき合ひ。 『じやあその返事次第、歌舞伎座へ是娘を連れて、ゆくとしやう。お前の方でも手ぬかりなく』 『それは万々承知の、助六は堀越が一世一代、その狂言の当りよりも、こちの揚巻さまが大当り、やんやといはせて見せまする』 『ホホホホ、お前の承知も久しいもんだ。いつかの写真が、やうやく今日御用に立つたといふ訳だから』 『これはきついお小言、ありやうは奥様と申すに、あまりどつとした口はないもので』 『それはいふだけお前が野暮だよ。旦那のお顔に対しても、こちらからはどこまでも、生真面目に出掛けらあね』 『いやこれは重々恐れいつたいは、こんな事にひけとらぬ中井才助、今日といふ今日、始めて一ツの学問を』 『ホホホホ馬鹿におしでない。そんな事はどうでもよいから、そこをどうぞ甘くね』 『もちろん仰せにや及ぶべきでげす。じや奥様これでお暇乞を、明日は早朝に先方へ参りまして、茶屋と日限を取極めました上、いづれ重ねて御挨拶を。随分重くろしいのが、気に入る方でございますから、当日はお嬢様極彩色でお出掛を』 と、無礼の詞も慾故には、許す母娘がにこにこ顔。おさうさう様といふ声も、いつになき別誂へ。小女までも心得て、直す雪駄のちやらちやらと。揃ひも揃ひし馬鹿者めと。鍵の手になりし三畳の間より、ぬつと出で来し一人の書生鼠にしては珍柄の、垢染の浴衣腕まくりして、座敷の真中にむづと坐し、罪なき皿小鉢睨め廻すは、この家に似合はぬ客人なりかし。
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