その八
世に奥様なき家ほど、不取締なるものはあるまじ。一廉のお邸の、障子は破れ、敷台には十文以上の足の跡、縦横無尽に砂もて画かれ、履脱ぎには歯磨きの、唾も源平入り乱れ、かかる住居も国野てふ、その名に怖ぢて、誰批難するものはなく。かへつてこれを先生が、清貧の標幟と渇仰するも、人、その人にあればにや。一郎は小田が導きにて、詞を費すまでもなく、父が名にも不憫加はりて、門下に在るを許されしかど。始めは例の半信半疑、心ならぬ日を送る内にも、なるほど小田がいひしに違はず。上下和楽を無礼講、礼なきに似て礼あるも、弟子の心、服せばか。ものある時は牛飲馬食、一夜の隙に酒池肉林、傾け尽くすその楽しき、師弟の間に牆壁を置かず。ものなき時は一書生の、湯銭にも事欠く代はりには、先生が晩餐の膳に、菜根を咬んで甘んずる、無私公平の快さ、良し土用中十日風呂へ這入らねばとて、これが不快きものでなし。現に我がこの家へ来りし時も、浴衣の見苦しければとて、惜気もなく新しき浴衣脱ぎ与へられてよりは、洗濯のつど着るものに事欠きたまふ様子、何とこれが権畧と見られうぞと。次第に心解け初めては、日となく夜となく新しき、感服の種子加はりて。一郎が胸にはついぞ覚えなき感謝の念のむらむらと、頭を擡げし気味悪さ。己れツ人間といふろくでなきものに対し、そんな事では困るぞと。かねて嫌ほど経験の、その反動の憤懣憎悪、伴ひ来むが恐ろしさに。我と我が身の心の戦ひ、独り角力の甲斐はなく、あはれやこれも先生が、慈愛の前にはころりころり。その抵抗力をひしがれて、夏も氷の張詰めし、胸はうざうざ感服と、感謝の念に熔けさうなり。 さあれ一応二応の、敗れには屈せぬ一郎、なほも数年の鉄案を、確かむる大敵ござんなれと。冷えし眼に水せき込みて、覗へば覗ふほど。我に利なきの戦いは、持長守久の外なしと。疑ひの臍さし堅めて、手を拱き眼をつぶりたる一郎の。果ては魔力かよしさらば、彼いかんに人情の奥を究め、人心の弱点に投じて、かくも巧みに人を籠絡するとても、我こそはその化けの皮、引剥いてくれむづと。ここにも思ひを潜めたれど、先生は居常平々淡々、方畧も術数も、影の捉ふべきものだになき、無味一様の研究に倦みて。幾十日の后不満ながらも、得たる成績取調べしに。その魔力ぞと思しきは、無私公平、己れを捨てて他を愛する、高潔の思想に外ならざりき。ここに至りて頓悟したる一郎、よしこれとても最巧の、利己てふものにあらばあれ。その名正しくその事美なり、我この人に師事せざるべからずと。それよりはその始め、一種異様の、強項漢なりし一郎の、変れば変る変りかた、為也が前には骨なく我なく、ただこれ感激てふ熱血の通ふ、一塊肉と、なり果てしぞ、不可思議なる。 それよりは一郎、人の平和に暇の出来、一意専念法律の、書冊にのみ親しみて、己が前途にのみ急ぐを。同門の書生といふよりは、壮士輩の嘲りて、 『おい大村、また書物と首ツ引かひ。よせよせそんな馬鹿な真似は。今からゑんやらやつと漕付けたところで何だい。仕入の弁護士か、志願して、判事に登用されたところで、奏任の最下級じやないか。先生の幕下に属しながら、そんな小さな胆玉でどうなるか。せめて政談演説の、下稽古でもやつてみろい。舌三寸で天下を、動かす事が出来るんだ。僕なんぞは書物といつたら、いつから見ないか知れやしない。それでも政党内閣の代になつて、先生が外務大臣にでもなりや、僕はさしづめ英仏の、公使位には登用されるんだ、その内にやあまたたびたび交迭があつて、いつかは内閣の椅子も、譲られうといふもんだ。君もせつかく書物が好きなら、せめて国際法でも調べておいて、秘書官位にや遣つて貰ふやうにするがいい。ハハハハ』 と面搆へだけは先生に譲らぬ、虎髯撫で下ろして冷笑するは。この家に古参の壮士の都督殿なり。 小田はさすが忠実に、 『君実に悪い事はいはなひから、少しは周囲の、光景といふ事に気を注けてくれたまへ。先生がかうたくさんに書生を置いとくのは、何も門下から学者を出さうといふつもりではない。いはば緩急の用に応ずる、壮士を準備しておくといふも、一ツの目的なんだから、君間には撃剣でもやつてみたまへ。それぢやあまるでいつも君が痛罵しとつた、尸位素餐の官吏も同じ事ぢやないか』 とこれは重きを、未来の警部にでも置けるらし。皮肉家の一人さし出て。 『君等は大村の人物を、誤解しとるから、そんな失敬な事をいふんだ。大村の厳父は政論壇上に立ちながら、ことさらに国事犯閥を避けて、平民的常事犯をもて問はるるの所為を選んだ人傑ではないか。してみると今この令息が、先生の下風に立つて、功名の前途を取るを屑しとせず。三百代言的弁当料を得るの方針を取るも、乃父に譲らぬ人傑じやないか』 と、どつと笑ふもこの日頃。為也の別て、一郎が気骨を愛し、古参を超えて任用の、一ツは秘蔵の愛嬢が、教科書の復読をさへに、これに托したるを妬めば、得意につけ、失意につけ、さても至るところ冷笑の多き世や。
その九
従前の一郎ならば、かかる事にも眼に角立てべきなれど、今は為也が無言の徳に化せられ、鋒芒を収めたる一郎。よし笑はば笑へ罵れば罵れよ。我には我のせむやうありと。なほも孜々机にのみ倚りかかる。不性を咎むる奥様のなく、三も大勢の書生様の噂、一々身に引受けむ暇のなければ、幸いに女性の崇りはなけれど。今年十五の御愛嬢、母御におくれたまひしが、もの読む事を好みたまひて。一郎が不骨なるその代わり、他の書生輩の如く騒々しからず。丁寧綿密にその質問に、応じくるるが嬉しさに、大村大村と慕ひたまふ。これのみいつも婦人を、敵に取りし一郎の、上もなき有難迷惑ながら。その無邪気にて清楚なる姿容、凜たる気性の寒梅一枝、霜を凌げる趣ある。いづれはこれも師の俤と。なれてはさして迷惑ならず。せめてはこれを報恩の、一端にもと志す、殊勝なる心掛。さすがに性の順に復りて、真面目の見へ初めしに、そのお覚はいよいよめでたく。国事の私事に忙しき御身も、今宵は珍らしく来客の絶えたればと、特に一郎を呼び入れたまふ。先生とは始めての対座、理想の慈父とは仰ぎながら、さてさし向ひては語らひし事のなき。身はさながらに恋人の、前に出たる処女の如く。他人にならば張肱の、拳の置き場はいづくぞと。やつとの事で膝の脇、かくし処を求めしが、精いつぱいの動作なりし。 先生は例の、淡泊なる調子にて。 『どうだ。なかなかよく勉強してゐるやうだね。つい始終忙しいもんだから、聞きもしないが、御親父は御壮健かね』 人も人、言も言。一郎は覚えず熱涙一滴。 『はい達者で居るやうでござります』 『さうか、それは結構だ。選挙の際には、随分卑劣の手段が行はれるからね』 先生は何をか、憶ひ出て感慨一番したまひし後。 『それで何か、君は何をやるつもりなんだ』 『はい、いろいろな妄想も起こつて参りますが、ともかく父を引受けねばならぬ身躰でござりますから。第一着に弁護士で地歩を固め、その以上の事は、後に決定致したい考へです』 『なるほどそれも宜しい。空論空産では仕方がないからね。しかし君の志望は、別にあるといふ事は知つとるから。順序を追つて、充分に遣るが宜しい。出来るだけの保護は必ず与へるから』 対話はこれに過ぎざりしも、言々急所を刺したればか。一郎はこの一二言に、百万の味方を得たるよりも心強く。さてこそ我を知る人は、この先生の外にはあらじ。我はこの知遇に対しても、将来必ず為すところあらざるべからずと、深くも心に刻み込みぬ。
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