三吉が出発の日は、達雄夫婦を始め、正太、お仙まで、朝のうちに奥座敷へ集った。三吉も夏服に着更えて、最早(もう)秋海棠(しゅうかいどう)などの咲出した裏庭を皆なと一緒に眺めながら、旅の脚絆(きゃはん)を当てた。ここへ来がけに酷(ひど)く馬車で揺られたと言って、彼は背中のある部分だけ薄く削取(けずりと)られたような上着を着ていた。 三吉がこの山の中で書いたものは――達雄夫婦の賜物(たまもの)のように――手荷物の中に納めてあった。彼の心は暗い悲惨な過去の追想から離れかけていた。その若い思想(かんがえ)を、彼は静かなところで纏(まと)めてみたに過ぎなかった。 通いで来る嘉助親子も、東京の客が発つというので、その朝は定時(いつも)より早く橋を渡って来た。 朝飯の後、一同炉辺で別離(わかれ)の茶を飲だ。姉は名残が尽きないという風で、 「でも、よく来てくれた。何時でも来られそうなものだが、なかなか思うようにはいきません」 「どうして、それどこじゃない」と嘉助も引取って、「三吉様はこれで何度郷里(くに)へ帰らッせるなし」 「僕ですか、ずっと前に老祖母(おばあ)さんの死んだ時に一度、母親(おっか)さんの葬式の時に一度――今度で三度目です」と三吉が言う。 「彼(あれ)は八歳(やっつ)の時分に郷里(くに)を出たッきりよなし」とお種は嘉助の方を見て。 「これで、旧(むかし)の家でも焼けずに在ると、帰る機会が多いんだがナア」と達雄も快濶(かいかつ)らしく笑った。 前の晩のうちに頼んで置いた乗合馬車の馬丁(べっとう)が、その時、庭口へ声を掛けに来た。 「叔父さん、馬車が来ました」と正太が言って、叔父の手荷物を提(さ)げながら、一歩(ひとあし)先(さき)へ出て行った。 「では、私はここで御免蒙りますから――」とお種は炉辺で弟に別離(わかれ)を告げた。 「皆さんに宜敷(よろしく)――実にも御無沙汰(ごぶさた)するがッて、宜敷言っておくれや――お前さんもまあ折角(せっかく)御無事で――」 挨拶(あいさつ)もそこそこに、三吉はお仙やお春などにも別れて、橋本の家を出た。達雄はそこまで見送ると言って、三吉と一緒に石段を降りた。 崖下(がけした)には乗合馬車が待っていた。車の中には二三の客もあった。この車はお六櫛(ぐし)を売る宿(しゅく)あたりまでしか乗せないので、遠く行こうとする旅人は其処(そこ)で一つ山を越えて、更に他の車へ乗替えなければ成らなかった。 「直樹さんと来た時は沓掛(くつかけ)から歩きましたが、途中で虻(あぶ)に付かれて困りましたッけ」 「ええ、蠅(はえ)だの、蚋(ぶよ)だの……そういうものは木曾路(きそじ)の名物です。産馬地(うまどこ)の故(せい)でしょうね」 こんな言葉を、三吉と正太とは車の上と下とで取換(とりかわ)した。 ノンキな田舎のことで、馬車は容易に出なかった。三吉は車の周囲(まわり)に立って見送っている達雄や嘉助や若い手代達にも話しかける時はあった。待っても待っても他に乗合客が見えそうもないので、馬丁(べっとう)はちょっと口笛を吹いて、それから手綱(たづな)を執った。車は崖について、朝日の映(あた)った道路を滑(すべ)り始めた。二月ばかり一緒にいた人達の顔は次第に三吉から遠く成った。
三
弟の三吉が帰るという報知(しらせ)を、実は東京の住居(すまい)の方で受取った。小泉の実と橋本の達雄とは、義理ある兄弟の中でも殊(こと)に相許している仲で、旧(ふる)い家を相続したことも似ているし、地方の「旦那衆」として知られたことも似ているし、年齢(とし)から言ってもそう沢山違っていなかった。 実は、達雄のように武士として、又薬の家の主人(あるじ)としての阿爺(おやじ)を持たなかったが、そのかわりに、一村の父として、大地主としての阿爺を持った。父の忠寛は一生を煩悶(はんもん)に終ったような人で、思い余っては故郷を飛出して行って国事の為に奔走するという風であったから、実が十七の年には最早家を任せられる程の境涯にあった。彼は少壮(としわか)な孝子で、又可傷(いたま)しい犠牲者であった。父の亡くなる頃は、彼も地方に居て、郡会議員、県会議員などに選ばれ、多くの尊敬を払われたものであったが、その後都会へ出て種々な事業に携(たずさわ)るように成ってから、失敗の生涯ばかり続いた。製氷を手始めとして、後から後から大きな穴が開いた。 不図(ふと)した身の蹉跌(つまずき)から、彼も入獄の苦痛を嘗(な)めて来た人である。赤煉瓦(れんが)の大きな門の前には、弟の宗蔵や三吉が迎えに来ていて、久し振で娑婆(しゃば)の空気を呼吸した時の心地(こころもち)は、未だ忘れられずにある。日光の渇(かわき)……楽しい朝露……思わず嬉しさのあまりに、白い足袋跣足(たびはだし)で草の中を飛び廻った。三吉がくれた巻煙草(まきたばこ)も一息に吸い尽した。千円くれると言ったら、誰かそれでも暗い処へ一日来る気は有るか、この評定(ひょうじょう)が囚人の間で始まった時、一人として御免を蒙(こうむ)ると答えない者はなかった。その娑婆で、彼は新しい事業を経営しつつあるのである。 直樹の父親もまた同郷から出て来た事業家であった。この人と実兄弟とは、長い間、親戚のように往(い)ったり来たりした。直樹の父親の旦那(だんな)は、伝馬町(てんまちょう)の「大将」と言って、紺暖簾(こんのれん)の影で采配(さいはい)を振るような人であったが、その「大将」が自然と実の旦那でもあった。旦那は、実の開けた穴を埋めさせようとして、更に大きく注込(つぎこ)んでいた。 格子戸の填(はま)った、玄関のところに小泉商店とした看板の掛けてある家の奥で、実は狭い庭の盆栽に水をくれた。以前の失敗に懲りて、いかなる場合にも着物は木綿で通すという主義であった。彼の胸には種々なことがある。故郷の広い屋敷跡――山――畠――田――林――すべてそういう人手に渡って了(しま)ったものは、是非とも回復せねばならぬ。祖先に対しても、又自分の名誉の為にも。それから嵩(かさ)なり嵩なった多くの負債の仕末をせねば成らぬ。 新しく起って来た三吉が結婚の話――それも良縁と思われるから、弟に勧めて、なるべく纏(まと)まるように運ばねばならぬ。こう思い耽(ふけ)っているところへ、弟が旅から帰って来た。 「只今(ただいま)」 と三吉は玄関のところから日に焼けた顔を出した。
もし正太に適当な嫁でも有ったら、こんなことまで頼まれて帰って来た三吉の眼には、いかにも都の町中(まちなか)の住居(すまい)が窮屈に映った。玄関の次の部屋には、病気でブラブラしている宗蔵兄がいる。片隅(かたすみ)へ寄せて乳呑児(ちのみご)が寝かしてある。縁側のところには、姪(めい)のお俊が遊んでいる。その次の長火鉢(ながひばち)の置いてある部屋は勝手に続いて、そこには嫂(あによめ)のお倉と二十(はたち)ばかりに成る下女とが出たり入ったりして働いている。突当りの窓の外は直ぐ細い路地で、簾越(すだれご)しに隣の家の側面も見える。 夕飯時に近かった。実は長火鉢の側に膳(ぜん)を控えて、先ずオシキセをやりながら、三吉から橋本の家の様子を簡単に聴取(ききと)った。 「木曾の姉さんからの御土産(おみやげ)です」 とお倉はオズオズとした調子で言って、三吉が持って来た蜂の子の煎付(いりつ)けたのを皿に載せて出した。 実が家長としての威厳は何時(いつ)までも変らなかった。彼は、家の外では極(きわ)めて円滑な人として通っていたが、家の者に対(むか)っては厳格過ぎる位。丁度往時(むかし)故郷の広い楽しい炉辺(ろばた)で、ややもすると嫌味(いやみ)なことを言う老祖母(おばあ)さんを前に置いて、碌々(ろくろく)口も利(き)かずに食った若夫婦の時代と同じように、何時まで経ってもそう打解けた様子を妻に見せなかった。 「お種さんも御変りは御座いませんか」 こうお倉は三吉に尋ねながら、弟や娘の為にも膳を用意した。 宗蔵は三吉と相対(さしむかい)に胡坐(あぐら)にやった。「どうも胡坐をかかないと、食ったような気がしないネ――へえ、久し振で田舎(いなか)の御馳走(ごちそう)に成るかナ」 こんなことを言って、細く瘠(や)せた左の手で肉叉(ホオク)や匙(さじ)を持添えながら食った。宗蔵は箸(はし)が持てなかった。で、こういうものを買って宛行(あてが)われている。 「宗さん、不相変(あいかわらず)いけますね」と三吉が戯れて言った。 「不相変いけますねとは、失敬な」と宗蔵は叱るように。 「ええええ、いけるどころじゃない」とお倉は引取って、「病人のくせに、宗さんの食べるには驚いちまう」 宗蔵は兄の前をも憚(はばか)らないという風で、食客同様の人とも見えなかった。それがまた実には小癪(こしゃく)に触(さわ)るかして、病人なら病人らしくしろという眼付をしたが、口に出して何も言おうとはしなかった。平素(ふだん)から実は宗蔵とあまり言葉も交さなかった。唯――「一家の団欒(だんらん)、一家の団欒」この声が絶ず実の心の底に響いていた。 食後に、三吉は番茶を飲みながら、旅の話を始めた。実は娘の方を見て、 「俊、お前の習った画を三吉叔父さんにお目に懸けないか」 こう言われて、お俊は奥座敷の方から画手本だの画草紙だのを持って来た。 「お蔭様で、彼女(あれ)も先生の御宅へ通うように成りましたよ。日曜々々にネ」とお倉が横から。 「へえ、蘭から習わせるネ」と三吉も開けてみて、「西洋画とは大分方法(やりかた)が違うナ――お俊ちゃんは好(すき)だから、必(きっ)と描けるように成りましょう」 「娘には反(かえ)ってこの方が好い」と宗蔵も言った。「なにも、女の画家(えかき)に成らなくたっても可(い)いんだから」 実は娘の習った画を嬉しそうに眺めて、やがて町を散歩して来ると言って独(ひと)りで出て行った。彼は弟からシミジミ旅の話などを聞こうとしなかった。弟は話せないものと成っていた。
夫の前では言おうと思うことも言い得ないでいるお倉は、実が散歩に出て行った後、宗蔵や三吉の談話(はなし)の仲間に加わった。この三人は、実が長く家を留守にした間、互に艱難(かんなん)を嘗(な)め尽したという心の結合(むすびつき)が有る。弱いお倉、病身の宗蔵は、僅(わず)かに三吉を力にして、生命(いのち)を継(つな)いで来たようなものだった。 「姉さんも白く成りましたね」 と三吉は嫂(あによめ)の額を眺(なが)めた。お倉は髪を染めてはいるが、生際(はえぎわ)のあたりはすこし褪(さ)めて、灰色に凋落(ちょうらく)して行くさまが最早隠されずにある。 「吾夫(やど)もね、染めるのも可いが、俺(おれ)の見ないところで染めてくれ――なんて」と言って、お倉は笑って、「今からこんなお婆(ばあ)さんに成っては、真実(ほんと)に心細い……私はまだお嫁さんに来た時の気分でいるのに……」 「いや、全く姉さんはお嫁に来た時の気分だ――感心だ」と宗蔵が眼で笑いながら。 「人を馬鹿にしなさんな」 とお倉はいくらか国訛(くになまり)の残った調子で言った。この嫂は酷(ひど)く宗蔵を忌嫌(いみきら)っていたが、でも話相手には成る。 「それはそうと、三吉さん」と宗蔵は無感覚に成った右の手を左で癖のように揉(も)みながら、「君の留守に大芝居サ。八王子の方の豪家という触込(ふれこみ)で、取巻が多勢随(つ)いて、兄さんの事業(しごと)を見に来た男がある。なにしろ、君、触込が触込だから、是方(こっち)でも、朝晩のように宿舎(やどや)へ詰めて、話は料理屋でする、見物には案内する、酒だ、芸妓(げいしゃ)だ――そりゃあもう御機嫌(ごきげん)の取るだけ取ったと思い給え。ところが、それが豪家の旦那でも何でもない。散々御取持をさせて置いて、ぷいと引揚げて行って了(しま)った。兄さんも不覚だったネ。稲垣(いながき)まで付いていてサ。加(おまけ)に、君、その旦那を紹介した男が、旅費が無くなったと言って、吾家(うち)へ転(ころ)がり込んで来る……その男は可哀想(かわいそう)だとしたところで、旅費まで持たして、発(た)たして遣るなんて……ツ……御話にも何も成りゃしないやね」 「真実(ほんとう)に、あんな馬鹿々々しい目に遇(あ)ったことは無い――考えたばかりでも業(ごう)が煎(い)れる」と嫂も言った。 「僕は、君、悪(にく)まれ口(ぐち)を利くのも厭(いや)だと思うから、黙って見ていたがネ」と宗蔵は病身らしい不安な眼付をして、「この調子で進んで行ったら、小泉の家は今にどうなるだろうと思うよ」 「例の車の方はどんな具合ですか」こう三吉が聞いた。 「なんでも、未だ工場で試験中だということですが、事業が大き過ぎるんですもの」と嫂が言う。 「借財が大きいから自然こういうことに成って来る」と宗蔵も考えて、「なにしろまあ、ウマクやって貰わないことには……僕は兄さんの為に心配する……復(ま)た同じ事を繰返すように成る……留守居は、君、散々仕飽(しあ)きたからね」 宗蔵は噛返(かみかえ)しというを為(す)るのが癖で、一度食った物を復た口の中へ戻して、何やら甘(うま)そうに口を動かしながら話した。
では、どうすれば可いか、ということに成ると、事業家でない宗蔵や商売(あきない)一つしたことの無いお倉には、何とも言ってみようが無かった。で、宗蔵は復た物事が贅沢(ぜいたく)に流れて来たの、道具を並べ過ぎるの、ああいう火鉢は余計な物だの、と細(こまか)いことを数え立てた。嫂は嫂で、どうもこの節下女がすこしメカシ過ぎるというようなことまで心配して三吉に話した。 「三吉さん、貴方(あなた)からよく兄さんに話して下さい」とお倉は言った。「私が何を聞いたッて、まるで相手にしないんですもの――事業の方のことなんか、何事(なんに)も話して聞かせないんですもの」 「道具だってもそうだ」と宗蔵は思出したように、「奥の床の間を見給え、文晁(ぶんちょう)のイカモノが掛かってる。僕ならば友達の書いた物でも可いからホンモノを掛けて楽むネ」こう言って、何もかも不平で堪(た)えられないような、病人らしい、可傷(いたま)しい眼付をした。「僕に言わせると、ここの家の遣方(やりかた)は丁度あの文晁だ……皆な虚偽(うそ)だ……虚偽の生活(くらし)だ……」 あまり宗蔵が無遠慮な悪口をつき始めたので、お倉は夫の重荷を憐(あわれ)むような口調に成って行った。 「そう宗さんのように坊さんみたようなこと言ったって……何も交際(つきあい)の道具ですもの……もともと有って始めた事業じゃないんですもの……贅沢だ、贅沢だと言う人から、すこし考えてくれなくちゃ――こんな御菜(おかず)じゃ食われないの、何のッて」と言ってお倉は三吉の方を見て、「ねえ三吉さん、兄さんにお刺身を取ったって、家の者に附けない時は有りまさあね」 「食わないのは、損だから……」 こう宗蔵は捨鉢(すてばち)の本性を顕(あら)わして、左の手で巻煙草を吸付けた。 その時、「三吉さん、御帰りだそうですね」と声を掛けながら、格子戸を開けて入って来た人があった。この人は稲垣と言って、近くに家を借りて、実の事業を助けている。 「今ね、家へ帰って、飯を一ぱいやってそれから出て来ました」と稲垣は煙草入を取出した。「三吉さんが御帰りなすったと言うから、それじあ一つ見て来ようと思いまして――今日は工場へ行く、銀行を廻るネ、大多忙(おおいそがし)」 「どうも毎日御苦労様で御座います」とお倉が言う。 「いえ、姉さんの前ですけれど」と稲垣は元気よく、「これで車が一つガタリと動いて御覧なさい、それこそ大変な話ですぜ――万や二万の話じゃ有りませんぜ。私なぞは、どうお金を使用(つか)おうかと思って、今からそれを心配してる」 「真実(ほんと)に稲垣さんは御話がウマイから」とお倉は笑った。 「まあ、君なぞはそんな夢を見ていたまえ」と宗蔵も笑って、「時に、稲垣君、この頃はエライ芝居を打ったネ」 「え……八王子の……あの話は最早(もう)しッこなし」と稲垣は手を振る。 「実は、今、あの話を三吉さんにしましたところですよ」とお倉は力を入れて、「何卒(どうぞ)まあ事業(しごと)の方も好い具合にまいりますと……」 「姉さん、そんな御心配は……決して……実兄さんという人がちゃんと付いてます」 この稲垣の調子は、何処(どこ)までも実に信頼しているように聞えた。それにお倉は稍々(やや)力を得た。 娘のお俊は奥座敷の方へ行って独(ひと)りで何かしていたが、その時母の傍へ来た。この娘は、髪も未だそう黒くならない年頃で、鬢(びん)のあたりは殊(こと)に薄かった。毎朝美男葛(びなんかずら)で梳付(ときつ)けて貰って、それから学校へ行き行きしていた。 「お俊ちゃん、毎晩画を御習いですか」と稲垣はお俊の方を見て、「此頃(こないだ)習ったのを見て、驚いちまいました。どうしてああウマく描けるんでしょう」 「可笑(おか)しいんですよ」とお倉も娘の顔を眺めながら、「田舎娘だなんて言われるのが、どの位厭だか知れません――それを言われようものなら、プリプリ怒って了います」 「よくッてよ」とお俊は母の身体を動(ゆす)ぶるようにする。 「私の許(とこ)の娘もね」と稲垣はそれを言出さずにいられなかった。「お俊ちゃんが画をお習いなさるというから、西洋音楽でも習わせようかと思いまして……ピアノでも……ええ、三味線(しゃみせん)や踊を仕込むよりもその方が何となく高尚ですから……」 稲垣の話は毎時(いつでも)自分の娘のことに落ちて行った。それがこの人の癖であった。 「どれ程稲垣は娘が可愛いか知れない」と宗蔵は稲垣の出て行った後で言った。「あの男の御世辞と来たら、堪(こた)えられないようなことを言うが……しかし、正直な男サ」
宗蔵と三吉との年齢(とし)の相違(ちがい)は、三吉と正太との相違であった。この兄弟の生涯は、喧嘩(けんか)と、食物(くいもの)の奪合と、山の中の荒い遊戯(あそび)とで始まったようなもので。実に引連れられて東京へ遊学に出た頃は、未だ互に小学校へ通う程の少年であった。丁度それは二番目の兄の森彦が山林事件の総代として始めて上京して、当時流行(はや)った猟虎(らっこ)の帽子を冠りながら奔走した頃のことで。その後、宗蔵の方は学校からある紙問屋へ移った。そこに勤めている間、よく三吉も洗濯物を抱(かか)えて訪ねて行くと、盲目縞(めくらじま)の前垂を掛けた宗蔵がニコニコして出て来て、莚包(こもづつみ)の荷物の置いてある店の横で、互に蔵の壁に倚凭(よりかか)りながら、少年らしい言葉を取換(とりかわ)した。「宗様、宗様」と村中の者に言われて育って来た奉公人の眼中には、大店(おおだな)の番頭もあったものではなかった。何か気に喰(く)わぬことを言われた口惜(くやし)まぎれに、十露盤(そろばん)で番頭の頭をブン擲(なぐ)ったのは、宗蔵が年季奉公の最後の日であった。流浪はそれから始まった。横浜あたりで逢(あ)ったある少婦(おんな)から今の病気を受けたという彼の血気壮(さか)んな時代――その頃から、不自由な手足を提げて再び身内の懐(ふところ)へ帰って来るまで、その間どういう暗い生涯を送ったかということは、兄弟ですらよく知らない。母がまだ壮健(たっしゃ)でいる時、「宗蔵の身体には梅の花が咲いた」などと戯れて、何卒(どうか)して宗蔵の面倒を見て死にたい、と言いとおした。彼も今では、「三吉さん」とか、「オイ、君」とか話しかけて、弟より外に心を訴えるものの無い人である。 三吉が帰った翌日(あくるひ)、宗蔵は一夏の間の病苦を聞いて貰おうと思って、先ず弟の旅の獲物(えもの)から尋ねた。三吉は橋本の表座敷で木曾川の音を聞きながら書いた物を出して、宗蔵に見せた。一くさり、宗蔵は声を出して読んでみた。そして、「兄弟中で文学の解るものは、君と僕だけだよ」という心地(こころもち)を眼で言わせて、やがて部屋の片隅(かたすみ)に置いてある本箱の方へ骨と皮ばかりのような足を運んだ。 床の間には、父忠寛と同時代の人で、しかも同村に生れた画家(えかき)の遺(のこ)した筆が古風な軸に成って掛っている。鳥を飼う支那風の人物の画である。その質素な色彩(いろどり)といかにも余念なく餌をくれている人物の容子(ようす)とは、田舎にあった小泉の家に適(ふさ)わしいものである。 宗蔵は三吉が留守の間に書溜(かきた)めた和歌の草稿を取出して、それを弟の前に展(ひろ)げた。 「三吉さんとはすこし時代が違うが、僕はまた一夏かかって、こういうものを作りましたよ。一つ批評して貰おう。君は木曾のような涼しい処に居たから好いサ――僕のことを考えてみ給え、こんな蒸暑い座敷で、汗をダラダラ流して……今年の夏は苦しかったからね」 こう言って、自分の書いた歌を弟に読み聞かせた。三吉は、この兄の歌そのものより、箸(はし)も持てないような手で筆を持添えて、それを口に銜(くわ)えて、ぶるぶる震えてまでも猶(なお)腹(おなか)の中にあることを言表わそうとしたその労苦を思いやった。廃残の生涯とは言いながら、何か為(せ)ずには宗蔵もいられなかった。彼は病人に似合わない精力を有(も)っていた。手足は最早枯れかかって来ても、胴のあたりは大木の幹のように強かった。病気しても人一倍食うという宗蔵の憂愁(うれい)を遣るものは、僅かにこの和歌である。読み聞かせているうちに、痛憤とも、悔悟とも、冷笑とも、名の付けようの無い光を帯びた彼の眼から――ワンと口を開いたような大きな眼から、絶間(とめど)もなく涙が流れて来た。
「つくづく君の留守に考えたよ」と宗蔵は手拭(てぬぐい)を取出して、汗でも出たように顔中拭廻(ふきまわ)した。「今年の夏ほど僕も種々(いろいろ)なことを思ったことはないよ。アア」 「そんなに苦しかったんですかネ」と三吉も宗蔵の顔を眺(なが)めた。「木曾に居ても随分暑い日は有りました――東京から見ると朝晩は大変な相違(ちがい)でしたが」 「いや、暑いにも何にも。加(おまけ)に風通しは悪いと来てる。僕なぞはあの窓のところに横に成ってサ、こう熟(じっ)と身体を動かさずにいたこともあった。そうすると、君、阿爺(おやじ)のことが胸に浮んで来る……母親(おっか)さんのことも出て来る……」 冷い壁の下の方へ寄せて、隅(すみ)のところに小窓が切ってある。その小窓の側が宗蔵の病躯(びょうく)を横える場処である。 宗蔵は言葉を継いだ。「阿爺と言えば、阿爺の書いた物を大分君の留守に調べたよ。それから僕の持ってる書籍(ほん)で、君の参考に成るだろうと思うようなものも、可成(かなり)有るよ。ああいうものはいずれ君の方へ遣ろう。君に見て貰おう」 部屋の前は、山茶花(さざんか)などの植えてある狭い庭で、明けても暮れても宗蔵の眺める世界はこれより外は無かった。以前には稲垣あたりへよく話しに出掛けたものだが、それすら煩(うる)さく思うように成った。彼の許(ところ)へと言って別に訪ねて来る人も無かった。世間との交りは全く絶え果てた形である。 町の響が聞える…… 宗蔵は聞入って、「三吉さん、君だからこんな話をするんだが、僕だって、君、そう皆なから厄介者に思われて、ここの家に居たく無い。ことしの夏は僕もつくづく考えた……三四日ばかり何物(なんに)も食わずにいてみたことも有った……しかし人間は妙なものさね、死のうと思ったッて時が来なければ容易に死ねる訳のものでは無いね……」 こんなことを、さもさも尋常(あたりまえ)の話のように宗蔵が言出した。まるで茶でも飲み飯でも食うと同じように。 「どうかすると、『宗さんは御変りも御座いませんか』なんて、いかにも親切らしく言ってくれる人がある。あれは君、『へえ未だ生きてますか』というと同じことだ。僕の兄弟は、皆な――僕が早く死ねば可(い)いと思って待ってる。ははははは。食わしてくれれば食うし、食わしてくれなければそれまでサ」 復(ま)た例の調子が始まった、と三吉は思った。 この小泉の家の内の空気は、三吉に取って堪えがたく思われた。格子戸(こうしど)を開けて、空を見に出ると、ついそこが町の角にあたる。本郷から湯島へ通う可成(かなり)広い道路が左右に展(ひら)けている。
橋本から写真の着いた日は、実は用達(ようたし)に出て家にいなかったが、その他のものは宗蔵の部屋に集まって眺めた。稲垣の細君は亭主と言合ったとかで、平素(いつも)に似合わない元気の無い顔をして来ていた。めずらしい写真が来た為に、何時(いつ)の間にかこの細君も其方へ釣込まれた。 「まあ、それでも、橋本の姉さんは父親(おとっ)さんに克(よ)く肖(に)て来ましたこと」とお倉が思わず言出した。 宗蔵も眺め入って、「成程(なるほど)、阿爺にソックリだ」 「姉さんはそんなコワい顔じゃ有りませんがね――こうして見ると、阿爺が出て来たようです」と三吉も言った。 お種の写真顔は、沈鬱(ちんうつ)な、厳粛な忠寛の容貌(おもばせ)をそのまま見るように撮(と)れた。三吉の眼にも、木曾で毎日一緒に居た姉の笑顔を見るような気がしなかった。 「達雄さんもフケましたね」と復たお倉が言った。 「おばさん、御覧なさい」とお倉は稲垣の細君に指して見せて、「達雄さんと姉さんとは同年齢(おないどし)の夫婦なんですよ」 「へえ、木曾の姉さんはこういう方ですか」と細君も横から。 「正太さんはすこし下を向き過ぎましたね。お仙ちゃんが一番よく撮れました」とお倉が言う。 「どうしても、無心だで」こう宗蔵は附添(つけた)した。 三吉は、達雄の傍にいる大番頭が特に日蔭の場所を択(えら)んだことを言って笑った。嘉助の禿頭(はげあたま)は余計に光って撮れた。大きな石の多い庭、横手に高く見える蔵の白壁、日の映(あた)った傾斜の一部――この写真に入った光景(ありさま)だけでも、田園生活の静かさを思わせる。 「こういう処で暮したら、さぞ暢気(のんき)で宜(よ)う御座んしょうね――お金でも有って」と稲垣の細君が言った。「何卒(どうか)、まあ皆さんに早く儲(もう)けて頂いて……」 「真実(ほんと)に、今のような生活(くらし)じゃ仕様が有りません……まるで浮いてるんですもの……」 こうお倉も嘆息した。 故郷(ふるさと)にあった小泉の家――その焼けない前のことは、何時までもお倉に取って忘れられなかった。橋本の写真を見るにつけても、彼女はそれを言出さずにいられなかった。三吉は又(ま)たこの嫂の話を聞いて、旧(ふる)い旧い記憶を引出されるような気がした。門の内には古い椿(つばき)の樹が有って、よくその実で油を絞ったものだ。大名を泊める為に設けたとかいう玄関の次には、母や嫂(あによめ)の機(はた)を織る場所に使用(つか)った板の間もあった。広い部屋がいくつか有って、そこから美濃(みの)の平野が遠く絵のように眺められた。阿爺(おやじ)の書院の前には松、牡丹(ぼたん)なども有った。寒くなると、毎朝家のものが集って、土地の習慣として焼たての芋焼餅(いもやきもち)に大根おろしを添えて、その息の出るやつをフウフウ言って食い、夜に成れば顔の熱(ほて)るような火を焚(た)いて、百姓の爺(じじ)が草履(ぞうり)を作りながら、奥山で狐火(きつねび)の燃える話などをした、そういう楽しい炉辺もあった。
小泉の家の昔を説出した嫂は、更にずっと旧いことまで覚えていて、それを弟達に話し聞かせた。嫂に言わせると、幾百年の前、故郷の山村を開拓したものは兄弟の先祖で、その昔は小泉の家と、問屋と、峠のお頭(かしら)と、この三軒しかなかった。谷を耕地に宛(あ)てたこと、山の傾斜を村落に択んだこと、村民の為に寺や薬師堂を建立(こんりゅう)したこと、すべて先祖の設計に成ったものであった。土地の大半は殆(ほと)んど小泉の所有と言っても可い位で、それを住む人に割(さ)き与えて、次第に山村の形を成した。お倉が嫁(かたづ)いて来た頃ですら、村の者が来て、「旦那、小屋を作るで、林の木をすこしおくんなんしょや」と言えば、「オオ、持って行けや」とこの調子で、毎年の元旦には村民一同小泉の門前に集って先ず年始を言入れたものであった。その時は、祝の餅、酒を振舞った。この餅を搗(つく)だけにも、小泉では二晩も三晩もかかって、出入りの者がその度に集って来た。「アイ、目出度いのい」――それが元日村の衆への挨拶(あいさつ)で、お倉は胸を突出しながら、その時の父や夫の鷹揚(おうよう)な態度を真似(まね)て見せた。 この「アイ、目出度いのい」は弟達を笑わせた。 「真実(ほんと)に、有る物は皆な分けてくれて了ったようなものですよ」とお倉は思出したように、「それが旧(むかし)からの習慣で……小泉の家はそういうものと成っていましたから……吾夫(やど)もね、それも未だ少壮(わか)い時に、どうでもこうでも小泉の旦那に出て貰わんければ、村が治まらないなんて言われて、村長にまで引張り出されたことが有りましたよ。あの時だって、村の為に自分の物まで持出してサ……父親(おとっ)さんは又、癇(かん)の起る度に家を飛出す。峠の爺を頼んで連れて来て貰うたッて、お金でしょう。何度(なんたび)にか山や林を売りました。所詮(とても)これではヤリキレないと言って、それから吾夫(やど)が郡役所などへ勤めるように成ったんです。事業に手を出し始めてからだっても、そうですよ。一度でも自分に得したことは無い……何時(いつ)でも損ばかり……苦しいもんですから種々な人を使用(つか)う気に成る、そうしちゃあ他(ひと)の分まで皆な自分で背負込んで了う……それを思うと、私は吾夫(やど)が気の毒にも成ってサ」 思わず嫂は弟達や稲垣の細君を前に置いて話し込んだ。 「そうだ――自分に得したことの無い人だ」と三吉も言ってみた。 その日は宗蔵も珍しく機嫌よく、身体の不自由を忘れて、嫂の物語に聞恍(ききほ)れていた。実が刑余の人であるにも関(かかわ)らず、こういう昔の話が出ると、弟達は兄に対して特別な尊敬の心を持った。 主人の実は屋外(そと)から帰って来た。続いて稲垣も入って来た。夫の声が格子戸のところで聞えたので、急に稲垣の細君は勝手の方へ隠れて、やがて娘のことを案じ顔に裏口からコソコソ出て行った。 「家内は御宅へ参りませんでしたか」と稲垣は縁側から顔を出して尋ねた。 「ええ、今し方まで……」とお倉は笑いながら答える。 「オイ、稲垣君、君は細君を掃出(はきだ)したなんて――今、細君が愁訴(いいつけ)に来たぜ」と宗蔵も心やすだてに。 「いえ――ナニ――」と稲垣は苦笑(にがわらい)して、正直な、気の短かそうな調子で、「少しばかり衝突してネ……彼女(あいつ)は口惜(くやし)紛(まぎ)れに笄(こうがい)を折ちまやがった……馬鹿な……何処の家にもよくあるやつだが……」 「子供が有るんで持ったものですよ」とお倉は慰め顔に言って、寂しそうな微笑(えみ)を見せた。
木曾の姉からの写真を見た後、実は奥座敷へ稲垣を呼んで、銀行の帳簿を受取ったり、用向の話をしたりした。 稲垣は出て行った。実は更に三吉を呼んで、弟の為に結婚の話を始めた。 三吉も結婚期に達していた。彼の友達の中には、最早(もう)子供のある人も有り、妻を迎えたばかりの人も有り、婚約の定(き)まった人も有った。大島先生という人の勧めから始まって、彼の前にも結婚の問題が起って来た。その縁談を実が引取て、大島先生と自分との交渉に移したのである。 三吉の過去は悲惨で、他の兄弟の知らないような月日を送ったことが多かった。実が一度失敗した為に、長い留守を引受けたのも彼が少壮(としわか)な時からで、その間幾多の艱難(かんなん)を通り越した。ある時は死んでも足りないと思われる程、心の暗い時すらあった。僅(わず)かに夜が明けたかと思う頃は、辛酸を共にした母が亡くなった。彼には考えなければ成らないことが多かった。 大島先生から話のあった人は、六七年前、丁度十五位の娘の時のことを三吉も幾分(いくら)か知っており、嫂は又、その頃房州の方で一夏一緒に居たことも有って、大凡(おおよそ)気心は分っていたが、なにしろ三吉のような貧しい思をして来た人ではなかった。彼は負債も無いかわりに、財産も無い。再三彼は辞退してみた。しかし大島先生の方では、一書生に娘を嫁(かたづ)かせようという先方の親の量見をも能(よ)く知っているとのことで、「万事俺(おれ)が引受けた」と実はまた呑込顔(のみこみがお)でいる。こんな訳で、三吉はこの縁談を兄に一任した。 「お雪さんなら、必(きっ)と好かろうと思いますよ」とお倉もそこへ来て、大島先生から話のあった人の名を言って、この縁談に賛成の意を表した。 「なにしろ、大島先生の話では、先方(さき)の父親(おとっ)さんが可愛がってる娘(こ)だそうだ」と実も言った。「俺はまあ見ないから知らんが、父親さんに気に入る位なら必ず好かろう」 「私は能く知ってる」とお倉は引取て、 「脚気(かっけ)で房州の方へ行きました時に、あの娘(こ)と、それからもう一人同年齢位(おないどしぐらい)な娘と、学校の先生に連れられて来ていまして一月程一緒に居ましたもの――尤(もっと)もあの頃は年もいかないし、御友達と一緒に貝を拾って、大騒ぎするような時でしたがね――あの娘なら、私が請合う」 「それに、大島先生があの娘の家へ行って泊ってたことも有るそうだ」と復(ま)た実が言った。「その時話が出たものだろう。父親さんという人が又余程変ってるらしいナ」 こう実は種々(いろいろ)と先方の噂(うわさ)をして、「三吉も、それでもお嫁さんを貰うように成ったかナア――早いものだ」などと言って笑った。実が前垂掛で胡坐(あぐら)にやっている側には、大きな桐(きり)の机が置いてあって、その深い抽斗(ひきだし)の中に平常(いつも)小使が入れてある。お倉は夫の背後(うしろ)へ廻って要(い)るだけの銭の音をさせて、やがて用事ありげに勝手の方へ出て行った。 「宗さんを措(お)いて、僕が家を持つのも変なものですネ」と三吉は言出した。 「あんな者はダチカン」と実は思わず国の言葉を出した。「どれ程俺が彼(あれ)に言って聞かせて、貴様は最早死んだ者だ、そう思って温順(おとな)しくしておれ、悟(さとり)を開いたような気分でおれッて、平常(しょっちゅう)言うんだが……それが彼には解らない」 「どうしてあんな風に成っちまったものですかナア」 「放蕩(ほうとう)の報酬(むくい)サ」 「余程質(たち)の悪い婦女(おんな)にでも衝突(ぶつか)ったものでしょうかナア」 「皆な自分から求めたことだ。それを彼が思ったら、もうすこし閉口しておらんけりゃ成らん。土台間違ってる……多勢兄弟が有ると、必(きっ)とああいう屑(くず)が一人位は出て来る……何処(どこ)の家にもある」 宗蔵の話が出ると、実は口唇(くちびる)を噛(か)んで、ああいう我儘(わがまま)な、手数の掛る、他所(よそ)から病気を背負って転がり込んで来たような兄弟は、自分の重荷に堪えられないという語気を泄(もら)した。そればかりではない、実が宗蔵を嫌(きら)い始めたのは、一度宗蔵が落魄(らくはく)した姿に成って故郷の方へ帰って行った時からであった。その頃は母とお倉とで家の留守をしていた。お倉は未だ若かった。 「兄弟に憎まれれば、それだけ損だがナア」と実は嘆息するように言った。「いずれ宗蔵の為には、誰か世話する人でも見つけて、其方(そっち)へ預けて了おうと思う――別にでもするより外に仕様のない人間だ」
三吉も書生ではいられなくなった。家を持つ準備(したく)をする為には、定(きま)った収入のある道を取らなければ成らなかった。彼は学校教師の口でも探すように余儀なくされた。 ある日、実は弟に見せる物が有ると言って、例の奥座敷へ三吉を呼んだ。 「三吉さん――私もすこし兄さんに御話したいことが有る。御手間は取らせませんから、先へ私に話させて下さいな」 こう稲垣の細君が来て言って、三吉と一緒に実の居る方へ行った。実は直に細君の用事ありげな顔付きを看(み)て取った。 稲垣の細君は何遍か言淀(いいよど)んだ。「そりゃもう、皆さんの成さる事業(こと)ですから、私が何を言おうでは有りませんが……何時まで待ったら験(けん)が見えるというものでしょう。どうも吾夫(やど)の話ばかりでは私に安心が出来なくて……」 「ああ、車の方の話ですか」と実はコンコン咳(せき)をした後で言った。「ちゃんと技師に頼んで有りますからね。そんな心配しなくても、大丈夫」 「いえ――吾夫(やど)でも、小泉さんに御心配を掛けては済まない、そのかわり儲(もう)けさして頂く時には――なんて、そう言い暮しましてね。実際吾夫(やど)も苦しいもんですから、田舎から出て来た母親(おっか)さんを欺(だま)すやら、泣いて見せるやら、大芝居をやらかしているんですよ」 「お金の要ることが有りましたら、稲垣さんにもそう言って置きましたが――銀行に預けて有りますからね」 「そう言って頂けば私も難有(ありがた)いんですけれど……でも、何んとか前途(さき)の明りが見えないことには……何処まで行けばこの事業(しごと)が物に成るものやら……」と言って、細君は不安な眼付をして、「私がこんなことを言いに来たなんて、吾夫に知れようものなら、それこそ大叱責(おおしかられ)――殿方と違って女というものはとかくこういうことが気に成るもんですよ」 稲垣の細君は実の機嫌を損(そこ)ねまいとして、そう煩(うるさ)くは言わなかった。お俊の噂、自分の娘のことなどを少し言って、やがてお倉の居る方へ起(た)って行った。 実の机の上には、水引を掛けるばかりにした祝の品だの、奉書に認(したた)めた書付だのが置いてあった。兄は先方へ贈るように用意した結納(ゆいのう)の印を開けて弟に見せた。 「どうだ――大島先生から届けて貰うようにと思って、こういう帯地を見立てて来た――繻珍(しゅちん)だ」 「こんな物でなくっても可かったでしょうに」と三吉は言ってみた。 「兄貴が附いてて、これ位のことが出来ないでどうする――俺の体面に関(かか)わる」と実の眼が言った。 三吉は兄に金を費(つか)わせることを心苦しく思った。結婚の準備(したく)もなるべく簡単にしたい、借金してまで体裁をつくろう必要は無い、と思った。小泉実はそれでは済まされなかった。 お俊も小学校の卒業に間近く成って、これから何処の高等女学校へ入れたら可(よ)かろうなどと相談の始まる頃には、三吉の前にも二つの途(みち)が展(ひら)けていた。一つは西京の方に教師の口が有った。一つは往時(むかし)英語を学んだ先生から自分の学校へ来てくれないかとの手紙で、是方は寂しい田舎ではあり、月給も少かった。しかし三吉は後の方を択んだ。 春の新学期の始まる前、三吉は任地へ向けて出発することに成った。仙台の方より東京へ帰るから、この田舎行の話があるまで――足掛二年ばかり、三吉も兄の家族と一緒に暮してみた。復た彼は旅の準備(したく)にいそがしかった。彼は小泉の家から離れようとした。別に彼は彼だけの新しい粗末な家を作ろうと思い立った。
四
三吉は発(た)って行った。一月ばかり経って、実は大島先生からの電報を手にした。名倉の親達は娘を連れて、船に乗込む、とある。名倉とは、大島先生が取持とうとする娘の生家(さと)である。 「来る来るとは言っても、この電報を見ないうちは安心が出来なかった。先(ま)ず好かった――実に俺(おれ)は心配したよ」 こう実はお倉を奥座敷へ呼んで言って、早速稲垣をも呼びにやった。稲垣は飛んで来た。 「へえ、名倉さんでは最早(もう)御発ちに成ったんですか。船やら――汽車やら――遠方をやって来るなんて容易じゃ有りません」 と稲垣も膝(ひざ)を進める。賑(にぎや)かな笑声は急に家の内に溢(あふ)れて来た。 実の机の上には、何処(どこ)の料理店で式を挙げて、料理は幾品、凡(およ)そ幾人前、酒が幾合ずつ、半玉が幾人(いくたり)、こう事細かに書いた物が用意してあった。 「時に、銚子(ちょうし)を持つ役ですが」と実は稲垣の方を見て、「君の許(とこ)の娘を借りて、俊と、二人出そうと思いましたがね、それも面倒だし……いっそ雛妓(おしゃく)を頼むことにしました」 「その方が世話なくて好い」とお倉が言葉を添える。「雄蝶(おちょう)、雌蝶(めちょう)だなんて、娘達に教えるばかりでも大変ですよ」 「いや、そうして頂けば難有(ありがた)い」と稲垣も言った。「実は吾家(うち)でもその事で気を揉(も)んでいました。それから式へ出るのは、私だけにして下さい。簡単。簡単。皆な揃(そろ)って押出すのは、大に儲(もう)けた時のことにしましょう――ねえ、姉さん」 「真実(ほんと)に、そうですよ」とお倉は微笑(ほほえ)んで、「私なんか出たくも、碌(ろく)な紋付も持たない」 「まあ、姉さんのように仰(おっしゃ)るものじゃ有りません」と言って、稲垣は手を振って、「出たいと思えば、何程(いくら)でも出る方法は有りますがね――隣の娘なんか借着で見合をしましたあね、御覧なさい、それをまた損料で貸して歩く女も居る――そういう世の中ですけれど、時節というものも有りますからね」 「簡単。簡単」と実も力を入れて命令するように言った。 稲垣は使に出て行った。料理屋へは打合せに行く、三吉の方へは電報を打つ、この人も多忙(いそが)しい思いをした。その電報が行くと直ぐ三吉も出て来る手筈(てはず)に成っていた。 「宗蔵は暫時(しばらく)稲垣さんの方へ行っておれや」 と兄に言われて、宗蔵も不承々々に自分の部屋を離れた。彼は、不自由な脚(あし)を引摺(ひきず)りながら、稲垣の家の方へ移されて行った。 婚礼の日は、朝早く実も起きて庭の隅々(すみずみ)まで掃除した。家の内も奇麗に取片付けた。奥座敷に並べてある諸道具は、丁寧に鳥毛の塵払(ちりばらい)をかけて、机の上から箪笥(たんす)茶戸棚(ちゃとだな)まで、自分の気に入ったように飾ってみた。火鉢(ひばち)の周囲(まわり)には座蒲団(ざぶとん)を置いた。煙草盆(たばこぼん)、巻煙草入、灰皿なども用意した。こうして、独(ひと)りで茶を入れて、香の薫(かおり)に満ちた室内を眺め廻した時は、名倉の家の人達が何時(いつ)来て見ても好いと思った。床の間に飾った孔雀(くじゃく)の羽の色彩(いろどり)は殊(こと)に彼の心を歓(よろこ)ばせた。 弟の森彦からも、三吉の結婚を祝って来た。その手紙には、自分は今旅舎(やどや)住居(ずまい)の境遇であるから、式に出ることだけは見合せる、万事兄上の方で宜敷(よろしく)、三吉にも宜敷、としてあった。 「貴方、俊の下駄(げた)を買って来ました――見てやって下さい」 こう言って、お倉は娘と一緒に買物から帰って来た。 「どれ、見せろ」と実は高い表付の赤く塗った下駄を引取った。「こんな下駄を穿(は)かして、式に連れて行かれるものか。これは、お前、雛妓(おしゃく)なぞの穿くような下駄だ」 「だって、『母親(おっか)さん、これが好い、これが好い』ッて、あの娘(こ)が聞かないんですもの」とお倉が言う。 「親が附いて行って……こんなものはダチカン……鈴の音のしないような、塗って無いのが好い。取替えて来い」と実は叱るように言った。 「私も、そうも思ったけれど」とお倉は苦笑(にがわらい)しながら。 「母親さん、取替えて来ましょうよ」と娘は母の袂(たもと)を引いた。 生め、殖(ふや)せ、小泉の家と共に栄えよ――この喜悦(よろこび)は実が胸に満ち溢れた。彼は時の経つのを待兼ねた。遠方から着いた名倉の母、兄などは、先ず旅舎(やどや)で待つということで、実と稲垣とは約束の刻限に其方へ向けて家を出た。 丁度、お倉の実の姉のお杉も、手伝いながら来て、掛っている頃であった。このお杉の他に、稲垣の細君もやって来て、二人してお俊の為に晴の衣裳を着せるやら、帯を〆(しめ)させるやらした。直樹の老祖母(おばあ)さんも紋付を着てやって来た。目出度(めでたい)、目出度、という挨拶は其処(そこ)にも此処(ここ)にも取換(とりかわ)された。田舎(いなか)の方から引返して来た三吉は、この人達と一緒に、料理屋を指して出掛けた。日暮に近かった。
一同出て行った後、家に残った人達は散乱(ちらか)った物を片付けるやら、ざッと掃除をするやらした。その晩は平常(いつも)より洋燈(ランプ)の数を多く点(つ)けて、薄暗い玄関までも明るくした。急に家の内は改まったように成った。 「今晩は」 と稲垣の娘も入って来て、母親と一緒に成った。お杉、お倉なども長火鉢の周囲(まわり)に集った。 稲垣の細君は起(た)って行って、次の部屋に掛けてある柱時計を眺(なが)めて、それから復(ま)た娘の側へ戻った。 「最早それでも皆さんは料理屋の方へ被入(いら)しったでしょうか」と稲垣の細君が言ってみた。 「どうして、おばさん、未だナカナカですよ」とお倉は笑って、「名倉さんの旅舎(やどや)で御酒が出るんですもの。散々(さんざん)彼処(あすこ)で祝って、それからでなければ――」 「丁度今頃は御酒の最中だ」とお杉も言った。 「名倉さんの方では母親(おっか)さんと兄さんと附いていらしッたんですッてね。必(きっ)とまた吾家(うち)の阿爺(おやじ)が喋舌(しゃべ)っていましょうよ。遠方から来た御客様をつかまえて、ああだとか、こうだとかッて――しかし、母親さんも御大抵じゃ有りませんね、御嫁さんの仕度から何から一人で御世話を成さるんじゃ……」 こう稲垣の細君が言うと、娘は母に倚凭(よりかか)りながら、結婚ということを想像してみるような眼付をしていた。 部屋々々の洋燈は静かに燃(とぼ)った。お倉は一つの洋燈の向うに見える丸蓋(まるがさ)の置洋燈の灯を眺めて、 「私なぞも小泉へ嫁(かたづ)いて来る時は――真実(ほんと)に、まあ、昔話のように成って了(しま)った――最早親の家にも別れるのかと思って、ちょっと敷居を跨(また)ぐと……貴方(あなた)、涙がボロボロと零(こぼ)れて……」 稲垣の細君も思出したように、「誰でもそうですよ、あんな哀(かな)しいことは有りませんよ」 「もう一度私もあんな涙を零してみたい――」とお杉も笑って、乾いた口唇を霑(うるお)すようにした。「アアアア、こんなお婆さんに成っちゃ終(おしまい)だ……年を拾うばかしで……」 「厭(いや)だよ、この娘(こ)は――ブルブル震えてサ」と稲垣の細君は娘の顔を眺めて言った。 「何だか小母(おば)さんの身体まで震えて来た」 こうお杉は細君の手から娘を抱取るようにして笑った。 静かな夜であった。上野の鐘は寂(しん)とした空気に響いて聞えて来た。留守居の女達は、楽しい雑談に耽(ふけ)りながら、皆なの帰りを待っていた。 柱時計が十時を打つ頃に成って、一同車で帰って来た。急に家の内は人で混雑(ごたごた)した。 「どうも名倉さんの母親(おっか)さんには感心した。シッカリしたものだ」 こう実と稲垣とは互に同じようなことを言った。復た酒が始まった。その時、三吉の妻は家の人々や稲垣の細君などに引合わされた。 「お俊ちゃん、叔母さんが一人増えたことね」と稲垣の娘が言った。 「ええ、そうよ、お雪叔母さんよ」とお俊も笑った。 「稲垣さん、種々(いろいろ)御尽力で難有(ありがと)う御座いました」と実は更に盃を差した。 「酒はもう沢山」と稲垣は手を振って、「今夜のように私も頂いたことは有りません」 「こんな嬉しいことは無い」と実は繰返し言った。「私一人でも今夜は飲み明かさなくちゃ成らん」
「三吉――宗蔵はお前の方へ頼む。今度田舎へ行く序(ついで)に、是非一緒に連れてッてくれ」 こう実は、婚礼のあった翌日、三吉に向って茶話のように言出した。 巣を造るか造らないに最早(もう)こういう難題が持上ろうとは、三吉も思いがけなかった。お杉やお倉ですら持余(もてあま)している宗蔵だ。その病人の世話が、嫁(かたづ)いて来たばかりのお雪に届くであろうか、覚束(おぼつか)なかった。実の頼みは、茶話のようで、その実無理にも強(し)いるような力を持ていた。とにかく、三吉は田舎へ発つまでに返事をすることにした。 一方に学校を控えていたので、そう三吉もユックリする余裕は無かった。不取敢(とりあえず)、森彦、宗蔵の二人の兄に妻を引合せて行きたいと思った。 名倉の母達が泊っている宿からは、柳行李(やなぎごうり)が幾個(いくつ)も届いた。「まあ、大変な荷物だ」と稲垣も来て言って、仮にそこへ積重ねてくれた。 稲垣の家は近かった。三吉はお雪を連れて、その方に移されていた宗蔵を訪ねた。この病人の兄は例の縮(ちぢ)かまったような手を揉(も)んで、「遠方から御苦労様」という眼付をして、弟の妻に挨拶(あいさつ)した。 「宗さんには逢(あ)った。これから森彦さんの許(ところ)だ」と三吉は稲垣の家を出てから言った。 「その兄さんは何を為(な)さる方ですか」こうお雪が聞いた。 長いこと森彦は朝鮮の方に行っていた。東亜の形勢ということに眼を着けて、その間種々な方面の人に知己の出来たことや、時には貿易事業に手を出したことなどは、大体の輪廓だけしか身内の者の間に知られていなかった。それから帰って来て、以前尽力した故郷の山林事件の為に、有志者を代表して奔走を続けている。この兄は、一平民として、地方の為に働きつつあるとは言える。しかし、何――屋とか、何――者とか、一口に話せないような人であった。 「まあ、俺(おれ)と一緒に行って、逢ってみるが可い」 三吉はこんな風に言ってみた。 森彦の旅舎(やどや)へは、お俊も三吉夫婦に伴われて行った。二階の座敷には熊の毛皮などが敷いてあって、窓に寄せて、机、碁盤(ごばん)の類が置いてある。片隅(かたすみ)に支那鞄(かばん)が出してある。室内の心地(こころもち)よく整頓(せいとん)された光景(さま)を見ても、長く旅舎住居をした人ということが分る。 「よく来てくれた。私は兄貴の許(ところ)へ手紙を遣(や)って置いたが、名倉さんにもお目に懸らなくて失礼しました。今日は一つ、皆なに西洋料理でも御馳走(ごちそう)しよう」こう森彦は言って、茶盆を取出して置いて手を鳴らした。 「何か御用で御座いますか」と宿の内儀(かみさん)が入って来た。 「ヤ、内儀(おかみ)さん、これが弟の嫁です」と森彦はお雪を紹介した。「時に、何か甘い菓子を取りに遣(や)って下さい」 「では、僕も巻煙草を頼もう」と三吉が言った。 「三吉はえらく煙草を燻(ふか)すように成ったナ」と森彦はすこし顔をシカめた。この兄は煙草も酒もやらなかった。 昼食(ひる)には、四人で連立って旅舎を出た。森彦は弟達をある洋食屋の静かな二階へ案内した。そこで故郷の方に留守居する自分の家族の噂(うわさ)をした。
森彦にも遇(あ)わせた。三吉は更に、妻の友達にも、と思って、二人の婦人(おんな)の知人(しりびと)を紹介しようとした。お雪も逢ってみたいと言う。で、順にそういう人達の家を訪問することにした。 暮れてから、三吉は曾根(そね)という家の方へお雪を連れて行った。 曾根は、お雪が学校時代の友達の叔母にあたる人で、姉の家族と一緒に暮していた。細長い陶器(せともの)の火鉢を各自(めいめい)に出すのがこの家の習慣に成っていた。その晩はある音楽者の客もあって、火鉢が何個(いくつ)も出た。ここはすべてが取片付けてあって、あまり部屋を飾る物も置いて無い。子供のある家で、時々泣出す声も聞える。六つばかりに成る、色の白い、髪を垂下げた娘が、曾根の傍へ来て、三吉夫婦に御辞儀をした。 「まあ、可愛らしいお娘(こ)さんですね」 とお雪が言うと、娘は神経質らしい容子(しな)をして、やがてキマリが悪そうに出て行った。 お雪から見ると、曾根は年長(としうえ)だった。お雪の眼には、憂鬱(ゆううつ)な、気心の知れない、隠そう隠そうとして深く自分を包んでいるような、まだまだ若く見える女が映った。曾根は最早いろいろな境涯を通り越して来たような人であった。言葉も少なかった。 客もあったので、夫婦は長くも居なかった。小泉の兄の家へ帰ってから、三吉はこんな風に妻に尋ねてみた。 「どうだね、あの人達は」 「そうですね……」 とお雪は返事に窮(こま)った。交際(つきあ)って見た上でなければ、彼女には何とも言ってみようが無かった。 翌日(あくるひ)の午後、三吉達は東京を発つことにした。買物やら、荷造やら、いそがしい思をした。その時、三吉は実の居るところへ行って、一と先(ま)ず宗蔵の世話を断(ことわ)った。 「あれはすこし無理だった――俺の方が無理だった」 と実は笑いながら点頭(うなず)いた。 名倉の母や兄からは、停車場(ステーション)までは見送らないと言って、お雪の許へ箪笥を買う金を二十円ほど届けて来た。別離(わかれ)の言葉が取換(とりかわ)された。三時頃には、夫婦は上野の停車場へ荷物と一緒に着いた。多くの旅客も集って来ていた。
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