日本現代文學全集 6 幸田露伴集 |
講談社 |
1963(昭和38)年1月19日 |
1980(昭和55)年5月26日増補改訂版第1刷 |
其一
木理美しき槻胴、縁にはわざと赤樫を用ひたる岩畳作りの長火鉢に対ひて話し敵もなく唯一人、少しは淋しさうに坐り居る三十前後の女、男のやうに立派な眉を何日掃ひしか剃つたる痕の青と、見る眼も覚むべき雨後の山の色をとゞめて翠のひ一トしほ床しく、鼻筋つんと通り眼尻キリヽと上り、洗ひ髪をぐる/\と酷く丸めて引裂紙をあしらひに一本簪でぐいと留めを刺した色気無の様はつくれど、憎いほど烏黒にて艶ある髪の毛の一ト綜二綜後れ乱れて、浅黒いながら渋気の抜けたる顔にかゝれる趣きは、年増嫌ひでも褒めずには置かれまじき風体、我がものならば着せてやりたい好みのあるにと好色漢が随分頼まれもせぬ詮議を蔭では為べきに、さりとは外見を捨てゝ堅義を自慢にした身の装り方、柄の選択こそ野暮ならね高が二子の綿入れに繻子襟かけたを着て何所に紅くさいところもなく、引つ掛けたねんねこばかりは往時何なりしやら疎い縞の糸織なれど、此とて幾度か水を潜つて来た奴なるべし。 今しも台所にては下婢が器物洗ふ音ばかりして家内静かに、他には人ある様子もなく、何心なくいたづらに黒文字を舌端で嬲り躍らせなどして居し女、ぷつりと其を噛み切つてぷいと吹き飛ばし、火鉢の灰かきならし炭火体よく埋け、芋籠より小巾とり出し、銀ほど光れる長五徳を磨きおとしを拭き銅壺の蓋まで奇麗にして、さて南部霰地の大鉄瓶を正然かけし後、石尊様詣りのついでに箱根へ寄つて来しものが姉御へ御土産と呉れたらしき寄木細工の小繊麗なる煙草箱を、右の手に持た鼈甲管の煙管で引き寄せ、長閑に一服吸ふて線香の烟るやうに緩と烟りを噴き出し、思はず知らず太息吐いて、多分は良人の手に入るであらうが憎いのつそりめが対ふへ廻り、去年使ふてやつた恩も忘れ上人様に胡麻摺り込んで、強て此度の仕事を為うと身の分も知らずに願ひを上げたとやら、清吉の話しでは上人様に依怙贔屓の御情はあつても、名さへ響かぬのつそりに大切の仕事を任せらるゝ事は檀家方の手前寄進者方の手前も難しからうなれば、大丈夫此方に命けらるゝに極つたこと、よしまたのつそりに命けらるればとて彼奴に出来る仕事でもなく、彼奴の下に立つて働く者もあるまいなれば見事出来し損ずるは眼に見えたこととのよしなれど、早く良人が愈御用命かつたと笑ひ顔して帰つて来られゝばよい、類の少い仕事だけに是非為て見たい受け合つて見たい、慾徳は何でも関はぬ、谷中感応寺の五重塔は川越の源太が作り居つた、嗚呼よく出来した感心なと云はれて見たいと面白がつて、何日になく職業に気のはづみを打つて居らるゝに、若し此仕事を他に奪られたら何のやうに腹を立てらるゝか肝癪を起さるゝか知れず、それも道理であつて見れば傍から妾の慰めやうも無い訳、嗚呼何にせよ目出度う早く帰つて来られゝばよいと、口には出さねど女房気質、今朝背面から我が縫ひし羽織打ち掛け着せて出したる男の上を気遣ふところへ、表の骨太格子手あらく開けて、姉御、兄貴は、なに感応寺へ、仕方が無い、それでは姉御に、済みませんが御頼み申します、つい昨晩酔まして、と後は云はず異な手つきをして話せば、眉頭に皺をよせて笑ひながら、仕方のないも無いもの、少し締まるがよい、と云ひ/\立つて幾干かの金を渡せば、其をもつて門口に出で何やら諄押問答せし末此方に来りて、拳骨で額を抑へ、何も済みませんでした、ありがたうござりまする、と無骨な礼を為たるも可笑。
其二
火は別にとらぬから此方へ寄るがよい、と云ひながら重げに鉄瓶を取り下して、属輩にも如才なく愛嬌を汲んで与る櫻湯一杯、心に花のある待遇は口に言葉の仇繁きより懐かしきに、悪い請求をさへすらりと聴て呉れし上、胸に蟠屈りなく淡然と平日のごとく仕做されては、清吉却つて心羞かしく、何やら魂魄の底の方がむづ痒いやうに覚えられ、茶碗取る手もおづ/\として進みかぬるばかり、済みませぬといふ辞誼を二度ほど繰返せし後、漸く乾き切つたる舌を湿す間もあらせず、今頃の帰りとは余り可愛がられ過ぎたの、ホヽ、遊ぶはよけれど職業の間を欠いて母親に心配さするやうでは、男振が悪いではないか清吉、汝は此頃仲町の甲州屋様の御本宅の仕事が済むと直に根岸の御別荘の御茶席の方へ廻らせられて居るではないか、良人のも遊ぶは随分好で汝達の先に立つて騒ぐは毎なれど、職業を粗略にするは大の嫌ひ、今若し汝の顔でも見たらば又例の青筋を立つるに定つて居るを知らぬでもあるまいに、さあ少し遅くはなつたれど母親の持病が起つたとか何とか方便は幾干でもつくべし、早う根岸へ行くがよい、五三様も了つた人なれば一日をふてゝ怠惰ぬに免じて、見透かしても旦那の前は庇護ふて呉るゝであらう、おゝ朝飯がまだらしい、三や何でもよいほどに御膳を其方へこしらへよ、湯豆腐に蛤鍋とは行かぬが新漬に煮豆でも構はぬはのう、二三杯かつこんで直と仕事に走りやれ走りやれ、ホヽ睡くても昨夜をおもへば堪忍の成らうに精を惜むな辛防せよ、よいは弁当も松に持たせて遣るは、と苦くはなけれど効験ある薬の行きとゞいた意見に、汗を出して身の不始末を慚づる正直者の清吉。 姉御、では御厄介になつて直に仕事に突走ります、と鷲掴みにした手拭で額拭き/\勝手の方に立つたかとおもへば、既ざら/\ざらつと口の中へ打込む如く茶漬飯五六杯、早くも食ふて了つて出て来り、左様なら行つてまゐります、と肩ぐるみに頭をついと一ツ下げて煙草管を収め、壺屋の煙草入三尺帯に、さすがは気早き江戸ッ子気質、草履つつかけ門口出づる、途端に今まで黙つて居たりし女は急に呼びとめて、此二三日にのつそり奴に逢ふたか、と石から飛んで火の出し如く声を迸らし問ひかくれば、清吉ふりむいて、逢ひました逢ひました、しかも昨日御殿坂で例ののつそりがひとしほのつそりと、往生した鶏のやうにぐたりと首を垂れながら歩行いて居るを見かけましたが、今度此方の棟梁の対岸に立つてのつそりの癖に及びも無い望みをかけ、大丈夫ではあるものゝ幾干か棟梁にも姉御にも心配をさせる其面が憎くつて面が憎くつて堪りませねば、やいのつそりめと頭から毒を浴びせて呉れましたに、彼奴の事故気がつかず、やいのつそりめ、のつそりめと三度めには傍へ行つて大声で怒鳴つて遣りましたれば漸く吃驚して梟に似た眼で我の顔を見詰め、あゝ清吉あーにーいかと寝惚声の挨拶、やい、汝は大分好い男児になつたの、紺屋の干場へ夢にでも上つたか大層高いものを立てたがつて感応寺の和尚様に胡麻を摺り込むといふ話しだが、其は正気の沙汰か寝惚けてかと冷語を驀向から与つたところ、ハヽヽ姉御、愚鈍い奴といふものは正直ではありませんか、何と返事をするかとおもへば、我も随分骨を折つて胡麻は摺つて居るが、源太親方を対岸に立てゝ居るので何も胡麻が摺りづらくて困る、親方がのつそり汝為て見ろよと譲つて呉れゝば好いけれどものうとの馬鹿に虫の好い答へ、ハヽヽ憶ひ出しても、心配相に大真面目くさく云つた其面が可笑くて堪りませぬ、余り可笑いので憎気も無くなり、箆棒めと云ひ捨てに別れましたが。其限りか。然。左様かへ、さあ遅くなる、関はずに行くがよい。左様ならと清吉は自己が仕事におもむきける、後はひとりで物思ひ、戸外では無心の児童達が独楽戦の遊びに声喧しく、一人殺しぢや二人殺しぢや、醜態を見よ讐をとつたぞと号きちらす。おもへばこれも順競争の世の状なり。
其三
世に栄え富める人は初霜月の更衣も何の苦慮なく、紬に糸織に自己が好き/″\の衣着て寒さに向ふ貧者の心配も知らず、やれ炉開きぢや、やれ口切ぢや、それに間に合ふやう是非とも取り急いで茶室成就よ待合の庇廂繕へよ、夜半のむら時雨も一服やりながらで無うては面白く窓撲つ音を聞き難しとの贅沢いふて、木枯凄じく鐘の音氷るやうなつて来る辛き冬をば愉快いものかなんぞに心得らるれど、其茶室の床板削りに鉋礪ぐ手の冷えわたり、其庇廂の大和がき結ひに吹きさらされて疝癪も起すことある職人風情は、何ほどの悪い業を前の世に為し置きて、同じ時候に他とは違ひ悩め困ませらるるものぞや、取り分け職人仲間の中でも世才に疎く心好き吾夫、腕は源太親方さへ去年いろ/\世話して下されし節に、立派なものぢやと賞められし程確実なれど、寛濶の気質故に仕事も取り脱り勝で、好い事は毎他に奪られ年中嬉しからぬ生活かたに日を送り月を迎ふる味気無さ、膝頭の抜けたを辛くも埋め綴つた股引ばかり我が夫に穿かせ置くこと、婦女の身としては他人の見る眼も羞づかしけれど、何にも彼も貧が為する不如意に是非のなく、今ま縫ふ猪之が綿入れも洗ひ曝した松坂縞、丹誠一つで着させても着させ栄えなきばかりでなく見とも無いほど針目勝ち、それを先刻は頑是ない幼心といひながら、母様其衣は誰がのぢや、小いからは我の衣服か、嬉いのうと悦んで其儘戸外へ駈け出し、珍らしう暖い天気に浮かれて小竿持ち、空に飛び交ふ赤蜻を撲いて取らうと何処の町まで行つたやら、嗚呼考へ込めば裁縫も厭気になつて来る、せめて腕の半分も吾夫の気心が働いて呉れたならば斯も貧乏は為まいに、技倆はあつても宝の持ち腐れの俗諺の通り、何日其手腕の顕れて万人の眼に止まると云ふことの目的もない、たゝき大工穴鑿り大工、のつそりといふ忌しい諢名さへ負せられて同業中にも軽しめらるゝ歯痒さ恨めしさ、蔭でやきもきと妾が思ふには似ず平気なが憎らしい程なりしが、今度はまた何した事か感応寺に五重塔の建つといふ事聞くや否や、急にむら/\と其仕事を是非為る気になつて、恩のある親方様が望まるゝをも関はず胴慾に、此様な身代の身に引き受けうとは、些えら過ぎると連添ふ妾でさへ思ふものを、他人は何んと噂さするであらう、ましてや親方様は定めし憎いのつそりめと怒つてござらう、お吉様は猶ほ更ら義理知らずの奴めと恨んでござらう、今日は大抵何方にか任すと一言上人様の御定めなさる筈とて、今朝出て行かれしが未だ帰られず、何か今度の仕事だけは彼程吾夫は望んで居らるゝとも此方は分に応ぜず、親方には義理もあり旁た親方の方に上人様の任さるればよいと思ふやうな気持もするし、また親方様の大気にて別段怒りもなさらずば、吾夫に為せて見事成就させたいやうな気持もする、ゑゝ気の揉める、何なる事か、到底良人には御任せなさるまいが若もいよ/\吾夫の為る事になつたら、何の様にまあ親方様お吉様の腹立てらるゝか知れぬ、あゝ心配に頭脳の痛む、また此が知れたらば女の要らぬ無益心配、其故何時も身体の弱いと、有情くて無理な叱言を受くるであらう、もう止めましよ止めましよ、あゝ痛、と薄痘痕のある蒼い顔を蹙めながら即効紙の貼つてある左右の顳を、縫ひ物捨てゝ両手で圧へる女の、齢は二十五六、眼鼻立ちも醜からねど美味きもの食はぬに膩気少く肌理荒れたる態あはれにて、襤褸衣服にそゝけ髪ます/\悲しき風情なるが、つく/″\独り歎ずる時しも、台所の劃りの破れ障子がらりと開けて、母様これを見てくれ、と猪之が云ふに吃驚して、汝は何時から其所に居た、と云ひながら見れば、四分板六分板の切端を積んで現然と真似び建てたる五重塔、思はず母親涙になつて、おゝ好い児ぞと声曇らし、いきなり猪之に抱きつきぬ。
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] 下一页 尾页
|