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五重塔(ごじゅうのとう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-4 9:52:40 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


        其七

 木彫の羅漢のやうに黙※(二の字点、1-2-22)と坐りて、菩提樹の実の珠数ずゞ繰りながら十兵衞が埒なき述懐に耳を傾け居られし上人、十兵衞が頭を下ぐるを制しとゞめて、了解わかりました、能く合点が行きました、あゝ殊勝な心掛を持つて居らるゝ、立派な考へを蓄へてゐらるゝ、学徒どもの示しにも為たいやうな、老衲わしも思はず涙のこぼれました、五十分一の雛形とやらも是非見にまゐりませう、然し汝に感服したればとて今直に五重の塔の工事しごとを汝に任するはと、軽忽かるはずみなことを老衲の独断ひとりぎめで云ふ訳にもならねば、これだけは明瞭はつきりとことわつて置きまする、いづれ頼むとも頼まぬとも其は表立つて、老衲からではなく感応寺から沙汰を為ませう、兎も角も幸ひ今日は閑暇ひまのあれば汝が作つた雛形を見たし、案内して是より直に汝が家へ老衲を連れて行ては呉れぬか、とすこし辺幅やうだいを飾らぬ人の、義理すぢみち明かに言葉渋滞しぶりなく云ひたまへば、十兵衞満面に笑を含みつゝ米くごとく無暗に頭を下げて、はい、唯、唯と答へ居りしが、願ひを御取上げ下されましたか、あゝ有難うござりまする、野生わたくしうち御来臨おいで下さりますると、あゝ勿体ない、雛形は直に野生めが持つてまゐりまする、御免下され、と云ひさま流石ののつそりも喜悦に狂して平素つねには似ず、大袈裟に一つぽつくりと礼をばするや否や、飛石に蹴躓きながら駈け出して我家に帰り、帰つたと一言女房にも云はず、いきなりに雛形持ち出して人を頼み、二人して息せき急ぎ感応寺へと持ち込み、上人が前にさし置きて帰りけるが、上人これを熟視よくみたまふに、初重より五重までの配合つりあひ、屋根庇廂の勾配、腰の高さ、椽木たるき割賦わりふり九輪請花露盤宝珠くりんうけばなろばんはうじゆの体裁まで何所に可厭いやなるところもなく、水際立つたる細工ぶり、此が彼不器用らしき男の手にて出来たるものかと疑はるるほど巧緻たくみなれば、独りひそかに歎じたまひて、箇程の技倆を有ちながら空しく埋もれ、名を発せず世を経るものもある事か、傍眼わきめにさへも気の毒なるを当人の身となりては如何に口惜きことならむ、あはれ如是かゝるものに成るべきならば功名てがらを得させて、多年抱ける心願こゝろだのみそむかざらしめたし、草木とともに朽て行く人の身は固より因縁仮和合いんねんけわがふ、よしや惜むとも惜みて甲斐なく止めて止まらねど、仮令たとへ木匠こだくみの道は小なるにせよ其に一心の誠を委ね生命を懸けて、慾も大概あらましは忘れ卑劣きたなおもひも起さず、唯只鑿をもつては能く穿らんことを思ひ、かんなを持つては好く削らんことを思ふ心の尊さは金にも銀にもたぐへ難きを、僅に残す便宜よすがも無くて徒らに※(「亡+おおざと」、第3水準1-92-61)ほくばうの土にうづめ、冥途よみぢつとと齎し去らしめんこと思へば憫然あはれ至極なり、良馬しゆうを得ざるの悲み、高士世に容れられざるの恨みも詮ずるところはかはることなし、よし/\、我図らずも十兵衞が胸に懐ける無価の宝珠の微光を認めしこそ縁なれ、此度こたびの工事を彼にいひつけ、せめては少しの報酬むくいをば彼が誠実まことの心に得させんと思はれけるが、不図思ひよりたまへば川越の源太も此工事を殊の外に望める上、彼には本堂庫裏くり客殿作らせし因みもあり、然も設計予算つもりがきまではやし出して我眼に入れしも四五日前なり、手腕うでは彼とて鈍きにあらず、人の信用うけは遙に十兵衞に超たり。一ツの工事に二人の番匠、此にも為せたし彼にも為せたし、那箇いづれにせんと上人も流石これには迷はれける。

       其八

 明日辰の刻頃までに自身当寺へ来るべし、予て其方工事仰せつけられたきむね願ひたる五重塔の儀につき、上人直接ぢき御話示おはなしあるべきよしなれば、衣服等失礼なきやう心得て出頭せよと、厳格おごそかに口上を演ぶるは弁舌自慢の圓珍とて、唐辛子をむざとたしなくらへる崇り鼻のさきにあらはれたる滑稽納所おどけなつしよ平日ふだんならば南蛮和尚といへる諢名を呼びて戯談口きゝ合ふべき間なれど、本堂建立中朝夕顔を見しより自然おのづれし馴染みも今は薄くなりたる上、使僧らしう威儀をつくろひて、人さし指中指の二本でやゝもすれば兜背形とつぱいなり頭顱あたま頂上てつぺんを掻く癖ある手をも法衣ころもの袖に殊勝くさく隠蔽かくし居るに、源太も敬ひ謹んで承知の旨を頭下つゝ答へけるが、如才なきお吉は吾夫をかゝる俗僧づくにふにまで好くはせんとてか帰り際に、出したまゝにして行く茶菓子と共に幾干銭いくらか包み込み、是非にといふて取らせけるは、思へば怪しからぬ布施の仕様なり。圓珍十兵衞が家にもいたりて同じ事を演べ帰りけるが、さて其翌日となれば源太はひげ剃り月代さかやきして衣服をあらため、今日こそは上人の自ら我に御用仰せつけらるゝなるべけれと勢込んで、庫裏より通り、とある一間に待たされて坐を正しくしひかへける。
 さまこそ異れ十兵衞も心は同じ張を有ち、導かるゝまゝ打通りて、人気の無きに寒さ湧く一室ひとまの中に唯一人兀然つくねんとして、今や上人の招びたまふか、五重の塔の工事しごと一切汝に任すと命令いひつけたまふか、若し又我には命じたまはず源太に任すと定めたまひしを我にことわるため招ばれしか、さうにもあらば何とせん、浮むよしなき埋れ木の我が身の末に花咲かむ頼みも永く無くなるべし、唯願はくは上人の我が愚※おろか[#「(章+(攵/貢))/心」、66-上-14]しきを憐みて我に命令たまはむことをと、九尺二枚の唐襖に金鳳銀凰きんほうぎんわうかけり舞ふ其箔模様の美しきも眼に止めずして、茫※(二の字点、1-2-22)暗路やみぢに物を探るごとく念想おもひを空に漂はすことやゝ久しきところへ、例の怜悧気な小僧こばうずいで来りて、方丈さまの召しますほどに此方へおいでなされまし、と先に立つて案内すれば、素破すは願望のぞみの叶ふとも叶はざるとも定まる時ぞと魯鈍おろかの男も胸を騒がせ、導かるゝまゝ随ひて一室の中へずつと入る、途端に此方をぎろりつと見る眼鋭く怒を含むで斜に睨むは思ひがけなき源太にて、座に上人の影もなし。事の意外に十兵衞も足踏みとめて突立つたるまゝ一言もなく白眼にらみ合ひしが、是非なく畳二ひらばかりを隔てしところに漸く坐り、力なげ首悄然しを/\と己れが膝に気勢いきほひのなきたさうなる眼を注ぎ居るに引き替へ、源太郎は小狗こいぬ瞰下みおろ猛鷲あらわしの風に臨んで千尺の巌の上に立つ風情、腹に十分の強みを抱きて、背をも屈げねば肩をも歪めず、すつきり端然しやんと構へたる風姿やうだいと云ひ面貌きりやうといひ水際立つたる男振り、万人が万人とも好かずには居られまじき天晴小気味のよき好漢をとこなり。
 されども世俗の見解けんげには堕ちぬ心の明鏡に照らして彼れ此れ共に愛し、表面うはべの美醜に露なづまれざる上人の却つて何れをとも昨日までは択びかねられしが、思ひつかるゝことのありてか今日はわざ/\二人を招び出されて一室に待たせ置かれしが、今しも静※(二の字点、1-2-22)居間を出られ、畳踏まるゝ足も軽く、先に立つたる小僧こばうずが襖明、額の皺の幾条の溝には沁出にじみ熱汗あせを湛へ、鼻のさきにも珠をくる後より、すつと入りて座につきたまへば、二人はうやまつゝしみて共に斉しく頭を下げ、少時上げも得せざりしが、嗚呼いぢらしや十兵衞が辛くも上げし面には、未だ世馴れざる里の子の貴人の前に出しやうにはぢを含みて紅し湧かせば腋の下には雨なるべし。膝にきたる骨太の掌指ゆびは枯れたる松枝まつがえごとき岩畳作りにありながら、一本ごとに其さへも※(二の字点、1-2-22)わな/\顫へて一心に唯上人の一言を一期いちごの大事と待つ笑止さ。
 源太も黙して言葉なく耳を澄まして命を待つ、那方どちらを那方と判かぬる、二人のこゝろを汲みて知る上人もまた中※(二の字点、1-2-22)に口を開かん便宜よすがなく、暫時は静まりかへられしが、源太十兵衞ともに聞け、今度建つべき五重塔は唯一ツにて建てんといふは汝達二人、二人の願ひを双方とも聞き届けては遣りたけれど、其は固より叶ひがたく、一人に任さば一人の歎き、誰に定めていひつけんといふ標準きめどころのあるではなし、役僧用人等の分別にも及ばねば老僧わしが分別にも及ばぬほどに、此分別は汝達の相談に任す、老僧は関はぬ、汝達の相談の纏まりたる通り取り上げてるべければ、熟く家に帰つて相談して来よ、老僧が云ふべき事は是ぎりぢやによつて左様心得て帰るがよいぞ、さあ確と云ひ渡したぞ、既早もはや帰つてもよい、然し今日は老僧も閑暇ひまで退屈なれば茶話しの相手になつて少時居てくれ、浮世の噂なんど老衲に聞かせて呉れぬか、其代り老僧も古い話しの可笑なを二ツ三ツ昨日見出したを話して聞かさう、と笑顔やさしく、朋友ともだちかなんぞのやうに二人をあしらふて、扨何事を云ひ出さるゝやら。

       其九

 小僧こばうずつて来し茶を上人自ら汲み玉ひてすゝめらるれば、二人とも勿体ながりて恐れ入りながら頂戴するを、左様遠慮されては言葉に角が取れいで話が丸う行かぬは、さあ菓子も挟んではやらぬから勝手に摘んで呉れ、と高坏たかつき推遣りて自らも天目取り上げ喉を湿うるほしたまひ、面白い話といふも桑門よすてびとの老僧等には左様沢山無いものながら、此頃読んだ御経の中につく/″\成程と感心したことのある、聞いて呉れ此様いふ話しぢや、むかしある国の長者が二人の子を引きつれて麗かな天気のをりに、香のする花の咲き軟かな草のしげつて居る広野を愉快たのしげに遊行ゆきやうしたところ、水は大分に夏の初め故れたれど猶清らかに流れて岸を洗ふて居る大きな川に出逢いであふた、其川の中には珠のやうな小磧こいしやら銀のやうな砂でできて居る美しい洲のあつたれば、長者は興に乗じて一尋ばかりの流を無造作に飛び越え、彼方此方を見廻せば、洲の後面うしろの方もまた一尋ほどの流で陸と隔てられたる別世界、全然まるで浮世の腥羶なまぐさ土地つちとは懸絶れた清浄の地であつたまま独り歓び喜んで踊躍ゆやくしたが、渉らうとしても渉り得ない二人の児童こどもが羨ましがつてび叫ぶを可憐あはれに思ひ、汝達には来ることの出来ぬ清浄の地であるが、然程に来たくば渡らしてるほどに待つて居よ、見よ/\我が足下の此磧は一※(二の字点、1-2-22)蓮華の形状かたちをなし居る世に珍しき磧なり、我が眼の前の此砂は一※(二の字点、1-2-22)五金の光を有てる比類たぐひ稀なる砂なるぞと説き示せば、二人は遠眼にそれを見ていよ/\焦操あせり渡らうとするを、長者はしづかに制しながら、洪水おほみづの時にても根こぎになつたるらしき棕櫚の樹の一尋余りなを架渡して橋として与つたに、我が先へそなたは後にと兄弟争ひせめいだ末、兄は兄だけ力強く弟を終に投げ伏せて我意の勝を得たに誇り高ぶり、急ぎ其橋を渡りかけ半途なかばに漸く到りし時、弟は起き上りさま口惜さに力を籠めて橋をうごかせば兄は忽ち水に落ち、苦しみ※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)いて洲に達せしが、此時弟ははや其橋を難なく渡り超えかくるを見るより兄も其橋の端を一揺り揺り動せば、固より丸木の橋なる故弟も堪らず水に落ち、僅に長者の立つたるところへ濡れ滴りて這ひ上つた、爾時そのとき長者は歎息して、汝達には何と見ゆる、今汝等が足踏みかけしより此洲は忽然たちまち前と異なり、磧は黒く醜くなりすなは黄ばめる普通つねの沙となれり、見よ/\如何にと告げ知らするに二人は驚き、まなこ※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはりて見れば全く父の言葉に少しも違はぬ沙磧、あゝ如是かゝるもの取らんとて可愛き弟を悩せしか、尊き兄を溺らせしかと兄弟共に慚ぢ悲みて、弟の袂を兄は絞り兄の衣裾もすそを弟は絞りて互ひにいたはり慰めけるが、彼橋をまた引き来りて洲の後面うしろなる流れに打ちかけ、はや此洲には用なければ尚も彼方に遊び歩かん、汝達先づこれを渡れと、長者の言葉に兄弟は顔を見合ひて先刻には似ず、兄上先に御渡りなされ、弟よ先に渡るがよいと譲合ひしが、年順なれば兄先づ渡る其時に、転びやすきを気遣ひて弟は端を揺がぬやう確と抑ゆる、其次に弟渡れば兄もまた揺がぬやうに抑へやり、長者は苦なく飛び越えて、三人ともにいと長閑のどけそゞろに歩む其中に、兄が図らず拾ひし石を弟が見れば美しき蓮華の形をなせる石、弟が摘み上げたる砂を兄が覗けば眼も眩く五金の光を放ちて居たるに、兄弟とも/″\歓喜よろこび楽み、互に得たる幸福しあはせを互に深く讃歎し合ふ、爾時そのとき長者は懐中ふところより真実のたまの蓮華を取り出し兄に与へて、弟にも真実の砂金を袖より出して大切だいじにせよと与へたといふ、話して仕舞へば小供欺しのやうぢやが仏説に虚言うそは無い、小児こども欺しでは決してない、噛みしめて見よ味のある話しではないか、如何ぢや汝等そなたたちにも面白いか、老僧わしには大層面白いが、と軽く云はれて深く浸む、譬喩方便も御胸の中に有たるゝ真実から。源太十兵衞二人とも顔見合せて茫然たり。

        其十

 感応寺よりの帰り道、半分は死んだやうになつて十兵衞、どんつく布子ぬのこの袖組み合はせ、腕拱きつゝ迂濶うか※(二の字点、1-2-22)※(二の字点、1-2-22)/\歩き、御上人様の彼様あゝ仰やつたは那方どちらか一方おとなしく譲れと諭しの謎※(二の字点、1-2-22)とは、何程愚鈍おろかおれにも知れたが、嗚呼譲りたく無いものぢや、折角丹誠に丹誠凝らして、定めし冷て寒からうに御寝みなされと親切で為て呉るゝ女房かゝの世話までを、黙つて居よ余計なと叱り飛ばして夜の眼も合さず、工夫に工夫を積み重ね、今度といふ今度は一世一代、腕一杯の物を建てたら死んでも恨は無いとまで思ひ込んだに、悲しや上人様の今日の御諭し、道理には違ひない左様も無ければならぬ事ぢやが、此を譲つて何時また五重塔の建つといふあてのあるではなし、一生到底とても此十兵衞は世に出ることのならぬ身か、嗚呼情無い恨めしい、天道様が恨めしい、尊い上人様の御慈悲は充分了つて居て露ばかりも難有う無は思はぬが、あゝどうにもかうにもならぬことぢや、相手は恩のある源太親方、それに恨の向けやうもなし、何様しても彼様しても温順すなほ此方こちの身を退くより他に思案も何もない歟、嗚呼無い歟、といふて今更残念な、なまじ此様な事おもひたゝずに、のつそりだけで済して居たらば此様に残念な苦悩おもひもすまいものを、分際忘れたおれが悪かつた、嗚呼我が悪い、我が悪い、けれども、ゑゝ、けれども、ゑゝ、思ふまい/\、十兵衞がのつそりで浮世の怜悧りこうな人たちの物笑ひになつて仕舞へばそれで済むのぢや、連添ふ女房にまでも※(二の字点、1-2-22)活用はたらきの利かぬ夫ぢやとかこたれながら、夢のやうに生きて夢のやうに死んで仕舞へば夫で済む事、あきらめて見れば情無い、つく/″\世間が詰らない、あんまり世間がむご過ぎる、と思ふのも矢張愚痴か、愚痴か知らねど情無過ぎるが、言はず語らず諭された上人様の彼御言葉の真実のところを味はへば、飽まで御慈悲の深いのが五臓六腑に浸み透つて未練な愚痴の出端でばも無い訳、争ふ二人を何方にも傷つかぬやうさばき玉ひ、末の末まで共に好かれと兄弟の子に事寄せてたふとい御経を解きほぐして、噛んで含めて下さつた彼御話に比べて見れば固より我は弟の身、ひとしほひとに譲らねば人間ひとらしくも無いものになる、嗚呼弟とは辛いものぢやと、路も見分かで屈托のまなこなんだに曇りつゝ、とぼ/\として何一ツ愉快たのしみもなき我家の方に、糸で曳かるゝ木偶でくのやうに我を忘れて行く途中、此馬鹿野郎発狂漢きちがひめ、ひとの折角洗つたものに何する、馬鹿めと突然だしめけに噛つく如く罵られ、癇張声に胆を冷してハッと思へば瓦落離ぐわらり顛倒、手桶枕に立てかけありし張物板に、我知らず一足二足踏みかけて踏み覆したる不体裁ざまのなさ。
 尻餅ついて驚くところを、狐つきめ忌※(二の字点、1-2-22)しい、と駄力ばかりは近江のお兼、顔は子供の福笑戯ふくわらひに眼を付け歪めた多福面おかめの如き房州出らしき下稗おさんの憤怒、拳を挙げて丁と打ち猿臂ゑんぴを伸ばして突き飛ばせば、十衞兵堪らず汚塵ほこりまみれ、はい/\、狐につままれました御免なされ、と云ひながら悪口雑言聞き捨に痛さを忍びて逃げ走り、漸く我家に帰りつけば、おゝ御帰りか、遅いので如何いふ事かと案じて居ました、まあ塵埃まぶれになつて如何どうなされました、と払ひにかかるを、構ふなと一言、気の無ささうな声で打消す。其顔を覗き込む女房の真実心配さうなを見て、何か知らず無性に悲しくなつてぢつと湿うるみのさしくる眼、自分で自分を叱るやうに、ゑゝと図らず声を出し、煙草を捻つて何気なくもてなすことはもてなすものゝ言葉も無し。平時つねに変れる状態ありさまを大方それと推察すゐして扨慰むる便すべもなく、問ふてよきやら問はぬが可きやら心にかゝる今日の首尾をも、口には出して尋ね得ぬ女房は胸を痛めつゝ、其一本は杉箸で辛くも用を足す火箸に挟んで添へる消炭の、あはれ甲斐なき火力ちからを頼り土瓶の茶をばぬくむるところへ、遊びに出たる猪之の戻りて、やあ父様帰つて来たな、父様も建てるか坊も建てたぞ、これ見て呉れ、とも勇ましく障子を明けて褒められたさが一杯に罪無く莞爾にこりと笑ひながら、指さし示す塔の模形まねかた。母は襦袢の袖を噛み声も得たてず泣き出せば、十兵衞涙に浮くばかりのつぶらの眼を剥き出し、※(「目+閏」、第4水準2-82-17)まじろぎもせでぐいと睨めしが、おゝ出来でかした出来した、好く出来た、褒美を与らう、ハッハヽヽと咽び笑ひの声高く屋の棟にまで響かせしが、其まゝ頭を天に対はし、嗚呼、弟とは辛いなあ。

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