二十一
一本足の烏に誘われ、ジョン少年が走り去ったとも知らず、司祭バタチカンは林の中を声を上げながら探し廻った。 「ジョンよ! ジョンよ! ジョンはいないかな! 林の外には敵がいるぞよ、林の外へ行くではないぞよ。ジョンよ。ジョンよどこにいるな!」 しかしどこからも返辞がない。 バタチカンは次第に不安になった。椰子の根もとに佇みながら心配そうに考え込んだ。林の中は静かである。ここには何んの危険もない。美しい日光と涼しい風と香のよい草花と緑の木々、それらの物があるばかりだ。旨い果物や綺麗な泉、これらの物があるばかりだ。しかし一度林の外へ出ると、恐ろしい土人が群れていよう。 「ジョンよ、ジョンよ!」 とバタチカンはまた不安そうに呼んだけれど、ジョンの返辞は聞こえなかった。 「ああ心配だ心配だ。あの子はいったいどこへ行ったんだろう」 益不安は加わって来る。その時にわかに大勢の人が歩いて来るような足音がした。 ハッとバタチカンは仰天した。「オンコッコの仲間に違いない。見付かったが最後裏切り者として掟通り殺されるだろう。逃げなければならない、逃げなければならない」 彼は急いで藪地の方へ足音を忍んで走って行った。しかし藪地へ届かない前に彼は敵に見出だされた。それはオンコッコの仲間ではなくて、日英同盟の軍隊であった。すなわち来島十平太とゴルドン大佐との連合軍であった。 忽ちバタチカンは縛められ二大将の前へ引き据えられた。 「これ貴様は何者だ?」 ゴルドン大佐がまず訊いた。 「土人の神職でございます」バタチカンは英語でこう云った。ジョン少年からバタチカンは、速成に英語を学んだので普通の会話ぐらいは出来るのである。 「貴様の名は何んと云う?」 「はい、バタチカンと申します」 「仲間の土人はどこへ行った?」 「私、一向存じません」 「何、知らぬ? それは何故か?」 「仲間にとってこの私は裏切り者でございます」 「何をして裏切った?」 「ジョンという子供を助けましたので」 これを聞くと英人達はにわかに態度を改めた。 「ジョン少年を救ったのはさてはバタチカンお前であったか。乱軍の場合ではあったけれど、一人の土人がジョン少年を酋長オンコッコの毒刃から救い、小脇に抱えて逃げ出したのを遠目ながら確かに見た。そう聞いては粗末に出来ぬ。バタチカンの縛めを解かなければならない。……さて、ところでジョン少年は今もお前の手もとにいような?」 「それがいないのでございます」 「ナニ、いない? どこへやった?」 「いえやったのではございません。消えてなくなったのでございます」 それからバタチカンはこれまでの事を、貧しい会話と手真似とで出来るだけ詳しく物語った。その態度にも、言葉にも偽りらしいものは見えぬ。ゴルドン始め人達は信用せざるを得なかった。 「探さねばならぬ。探さねばならぬ」 英人達は云うまでもなく日本方でもこう云って、捜索の人数を出すことにした。 しかし、いくら探してもジョンの姿は見付からなかった。で、人達は絶望してまた一所へ集まった。 ジョン少年はどこへ行ったのであろう? ゴルドン大佐はバタチカンを捉らえ、いろいろのことを訊いて見た。 「実は俺達は土人軍を追って、島を縦横に駈け廻ったところ、不意に一時にその土人達が姿を隠してしまったのだ。まるで地の中へ吸い込まれたようにな。……この島には地下へ通う抜け穴のようなものがあるのではないかな?」 「はい、抜け穴がございます」 「おおあるか! どこにあるな?」 「しかも三つございます」 「おお、そうか、教えてくれ」 「一つは社殿にございます」 「ナニ、社殿? 社殿のどこに?」 「はい床下にございます」 「それは少しも気が附かなかった」 「それからもう一つは林の奥の窟の中にございます。しかしここからは、容易のことでは地下の世界へは行けません。迷路が作られてありますので」 「で、もう一つはどこにあるな?」 「はいこの島の裏海岸の荒野の中にございます」 「さてはそこから逃げ込んだものと見える」 「恐らくさようでございましょう」 「地下の世界とはどんな世界かな?」 「恐ろしい所でございます。神秘の世界でございます」
二十二
一本足の大烏はズンズン海上を翔けて行く。 ジョン少年は櫂を操りドンドン小舟を進ませる。空は晴れ、海は凪ぎ、大変長閑な日和である。 舟はズンズン進んで行く。 長い間漕ぎ続けた。振り返って見ると、チブロン島は低く海上へ浮かんでいる。海鳥が無数に飛んでいる。 烏はどこまでも翔けて行く。 今の時間にして一時間余りジョン少年は漕ぎに漕いだ。その時二つの大岩が行く手の海に現われた。伝説にある浮き岩である。岩のくせに水に浮いている。そうして互いに衝突り合い、恐ろしい泡沫を揚げている。その泡沫は雪のように四辺の海を濛々と曇らせ、行く手をすっかり蔽い隠している。そうして互いに衝突り合う音が雷のように響き渡る。 烏は二つの浮き岩の間を電光のように翔け過ぎた。 そうして背後を振り返ったが、ジョン少年を呼ぶかのように、「コー」「コー」と啼いたものである。 ジョン少年は躊躇した。岩の間を乗り切ることが困難そうに思われたからだ。で彼は乗り切るのを止めて、一つの岩の周囲を廻り先へ出ようと考えた。しかしその間に烏の行方が見失われたらどうしよう。それこそ虻蜂捕らずである。 「勇気、勇気、勇気が大事だ! 冒険、冒険! 冒険に限る! 構うものか乗り切ってしまえ!」 ジョン少年は決心した。で櫂に力をこめ、岩と岩とが衝突り合い、やがて離れた一髪の間にスーッとばかりに突っ切った。とたんに左右から二つの岩が轟然と憤怒の叫びを上げ、動物のように衝突って来たが、わずかに舟尾に触れたばかりで舟も人も無事であった。 烏はと見れば行く手の空を悠々と向こうへ翔けて行く。安心をしたジョン少年は、さらに櫂に力をこめ先へ先へと漕いで行く。 こうして半時間ばかり経った時一つの小島が行く手に見えた。近附くままによく見ると、子供達が沢山遊んでいる。それは非常に美しい島で、虹を空から持って来たように種々の花が咲いている。赤、白、黄、紫、藍、黄金色! 空色をした花もあれば桃色をした花もある。花間では兎が飛んでいる。可愛い緑色の小さい森! そこでは栗鼠が啼いている。森から流れ出るリボンのような小川! 水が銀色に光っている。沢山の子供達は手を繋ぎ合い輪を作って踊っている。そうして彼らは唄っている。
いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい、 夢の島、絵の島、お伽噺の島、 いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい、
ジョン少年はしばらくの間、漕ぐ手を止めて見惚れていた。 「皆な楽しそうに遊んでいるよ。僕も一緒に遊びたいな」 また歌声が聞こえて来る。
いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい、 花を摘んで差し上げましょう、 ここにはお乳が流れています、 甘い蜜もございます。 蜂はブンブン、蝶はヒラヒラ、 夢の島、絵の島、お伽噺の島、 いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい。
唄いながら子供達が踊っている。足が揃って上へあがる。手が揃って前へ出る。輪がグルグル渦を巻く。伴奏の役目は小鳥である。 「ああいいなあ」とジョン少年はその子供達が羨ましくなった。 「上陸して一緒に遊ぼうかしら」 で、櫂へ力をこめ、小舟を島へ着けようとした。その時ハッと気が付いて行く手の空を眺めて見た。彼を導く大烏の姿が遙か彼方の空の涯を今にも消えそうに翔けている。 「あ、しまった! 見失ってしまう!」 ジョン少年は吃驚したが、急いで舟をグルリと廻すと、島を見捨てて漕ぎ出した。尚後ろからは子供達の唄う楽しそうな歌声が聞こえて来る。それは誘惑の声である。しかしもはやジョン少年は心を乱そうとはしなかった。ただ一心に漕ぎ進んだ。 随分久しく漕いだので大分腕が疲労れて来た。その時行く手に陸が見えた。そうして烏はその陸を目がけ静かに静かに舞って行く。 ようやく岸へ漕ぎつけて見ると、烏の姿がどこにも見えない。 「あ、とうとう見失ってしまった」ひどく落胆したものの、またこうも思って見た。「つまり烏はこの陸地まで、僕を案内して来たのかもしれない。物語の中の宝物は、この陸のどこかにあるのかもしれない」 岸の木立ちへ藤蔓で舟をしっかり繋いでから、ジョン少年は上陸した。そうして奥の方へ歩いて行った。
二十三
間もなく一つの河へ来た。河岸に乞食が転がっている。老い衰えた土人乞食で、手足は垢黒み衣裳は破れ、悪臭がプンプン匂って来る。とても穢い乞食であったが、ジョン少年を呼び掛けた。 「小僧、小僧、ちょっと待て!」 ジョンは吃驚して立ち止まった。 「俺は病気で歩くことが出来ぬ。俺を背負って河を越せ!」横柄な不遜な物云いである。 ジョン少年はムッとしたが、相手が年寄りの病人だと思うと、怒鳴り返すことも出来なかった。かえって乞食が気の毒になった。 「病気なの? 気の毒だなあ。ああいいとも背負ってあげよう」こう云いながら背を向けた。と、乞食は立ち上がり、痩せ涸れた体を凭たせかけたが、見掛けに似合わず目方がある。 「ううん、畜生、ヤケに重いなあ」呟き呟きジョン少年は河を向こうへ越して行った。 すると乞食は負われながらむやみと悪態を吐くのであった。 「ヤイ薄野呂! 間抜け野郎! そんな方へ行くと溺れるぞ! そっちは淵だ! 深い淵だ! ヤイヤイ小僧どこへ行くんだ! そんな方へ行くと躓くぞ! そこには大きな岩があるんだ! 何んというこいつは馬鹿なんだろう! 真っ直ぐに行きな真っ直ぐに。そうだそうだ真っ直ぐにな。おやこの餓鬼は横へ曲がったな。餓鬼のくせに云う事を聞かぬ。根性曲がりの悪垂れ小僧め、ほんとに小憎らしい小僧じゃアねえか!」などと憎々しく怒鳴るのであった。 ジョン少年は何んと云われても、相手になろうとはしなかった。「可哀そうな乞食だよ。あんまりこれまで苦労したので気が狂ったに違いない」――こう思えば腹も立たない。で黙って進んで行く。 やがて河を渡り切るとジョン少年はほっとした。そこで乞食を背中から下ろし帽子を取ると挨拶した。 「お爺さんさようなら。僕はこれで失敬するよ」 「まあお待ち」と乞食は云った。「お前はほんとに感心な子だね。よくお前は忍耐したね。俺はほんとに感心したよ。お前はきっと成功するよ。それは俺が保証してもいい。……さあ、ご褒美にいい物を上げよう」 こう云いながら左右の手を、ジョンの眼の前でパッと開いた。黒い色をした石の玉が二つ掌に載っかっている。 「これはな」と老人は説明した。「世に珍らしい武器なのだよ。だからこれさえ持っていれば、大概の危難は遁がれることが出来る。恐ろしい敵が襲って来ていよいよ命があぶなくなったら、こいつをその敵へ投げ付けるがいい。まず最初に一つ投げる。それからもう一つ投げ付ける。そうしたらお前は助かるだろう。ではさようなら、健康で行くがいい」 乞食はそのまま行ってしまった。 ジョン少年は乞食の後をしばらくじっと見送っていたが、奇妙な黒い二つの玉を上衣のポケットへ蔵い込むと、足に任せて歩き出した。すると遙かの行く手に当たって一軒の家が現われた。もうこの時は夕暮れでジョン少年は疲労れてもいたし酷く腹も空いていたので、その家へ行って、宿も乞い食物も貰おうと決心した。 邸の造作も異様であったが、永く手入れをしないと見えて、門は傾むき屋根は崩れ凄まじいまでに荒れていた。――見たこともない家造りである。 「ご免! ご免!」 と案内を乞うた。誰も答える者がない。ジョン少年は途方に暮れてぼんやり門口に佇んだが、 「もし叱られたら謝まるばかりだ。構うものかはいってやれ」 ――そこは英国の冒険少年、大胆に家の中へ入って行った。すると大きな部屋があり、一人の男が寝ていたが、ジョン少年の姿を見るとムクムクと体を起き上がらせた。そうしてジョンを睨み付けた。 「貴様は誰だ!」と大きな声で、突然その人は怒鳴ったものである。不思議なことにはその人は、土人の言葉は使うけれど、人種は土人ではなさそうである。 「怪しい者ではありません」ジョン少年は急いで云った。 「道に迷った子供です」 「いやいや貴様は泥棒だろう! また聖典を盗みに来たな!」不思議な男はまた怒鳴った。「貴様は蛇使いの一味だろう」 「そんな者ではありません。僕は英国の少年です。ジョン・ホーキンと云う子供です」 「嘘を云え悪者め! が、子供などは相手にしない。サッサとここを立ち去るがいい。そうして蛇使いの婆さんに云え、早く聖典を返せとな!」 「僕、蛇使いの婆さんなどに一度も逢ったことはありません」 「ああ睡い、俺は寝る」云ったかと思うと、その男は肘を曲げてゴロリと寝た。とすぐ鼾が聞こえ出した。
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