尾行の主は?
「これはな」と紋太郎は云いつづけた。「もと六枚あったものだ。いつの時代にかそれが割れて――つまり持ち主が売ったのでもあろうよ。チリヂリバラバラになってしまった。それをどうして手に入れられたものかお父上が一枚手に入れられた。それがこの喜撰法師だ。ところが隣家の専斎殿はそれを二枚も持っておられる。もっとも昨夜の盗難でその一枚を失われたが、失われぬ前のご自慢と来てはそれはそれは大したものであったよ」 しかしそんな説明は三右衛門は聞いてはいなかった。考えに沈んでいたのであった。 と、卒然と三右衛門は云った。「百両のお金がございましたらせめて当座の借金だけでも皆済することが出来ますのになあ」 「なに?」と初めて紋太郎は用人の方へ顔を向けた。「この喜撰を売れとでも云うのか?」 「米屋醤油屋薪屋まで、もうもうずっと以前から好い顔を見せてはくれませぬ。いっそお出入りを止めたいなどと……」 「なるほど」 といったが、この瞬間芸術的の恍惚境は跡形もなく消えてしまい、苦々しい現実の生活難が紋太郎の眼前へ顔を出した。で紋太郎は腕を組んだ。
その翌日のことであったが、旅装束の若侍が木曽街道を歩いていた。他でもない藪紋太郎である。 板橋、わらび、浦和、大宮と、彼はずんずん歩いて行った。彼は知行所の熊谷まで、たとえどんなに遅くなっても是非今日じゅうに着きたいものと、朝の三時に屋敷を出てここまで歩いて来たのであった。 彼は渋面を作っている。足が疲労れているからであろう。……と思うのは間違いで、実は彼は不思議な老人に後を尾行られているのであった。 彼がそれに気が付いたのは、下板橋とわらびとの間の松並木の街道をスタスタ歩いている時で、何気なく見ると自分と並んで穢らしい爺さんが歩いている。 穢さ加減が酷いので彼は思わず眼をそばだてた。それに風態がまことに異様だ。そうして彼にはその風態に見覚えがあるような気持ちがした。 ただ爺さんというだけで、まさに年齢は不詳であった。八十にも見えれば六十にも見える。そうかと思うとずぶ若い男が何かゆえあって変装しわざと老人に見せてるのだと、こう思えば思えないこともない。 頭はおおかた禿げているが諸所に白髪がある。河原に残った枯れ芒と形容したいような白髪である。黄色い色の萎びた顔。蛇のように蜒っている無数の皺。その体の痩せていることは水気の尽きた枯れ木とでもいおうか。コチコチと骨張って痛そうである。さて着物はどうかというに、鼠の布子に腰衣。その腰衣は墨染めである。僧かと見れば僧でもなく俗かと見れば僧のようでもある。季節は早春の正月だというのに手に渋団扇を持っている。脛から下は露出で足に穿いたのは冷飯草履。……この風態で尾行られたのでは紋太郎渋面をつくる筈だ。破れた三度笠を背中に背負い胸に叩き鉦を掛けているのは何んの呪禁だか知らないけれど益仁態を凄く見せる。それで時々ニタリと笑う。いかさまこれでは魘されようもしれぬ。 「こいつどうぞしてマキたいものだ」 紋太郎は心中思案しながら知らない振りをして歩いて行く。 大正の今日東京市中で、社会主義者どもが刑事をマクにもなかなか手腕が入るそうである。 ここは街道の一本道。薄雪の積もった正月夕暮れ。ほとんど人通りは絶えている。なかなかマクには骨が折れる。 「おおそうだ、やり過ごしてやろう」 思案を決めると紋太郎は道側の石へ腰をおろした。それから懐中から煙管を取り出し静かに煙草をふかし出した。
貧乏神
行き過ぎるかと思いきや、その奇怪な老人はズッと側へ寄って来た。紋太郎と並んで切り株へノッソリとばかり腰かけたのである。 それからゴソゴソ懐中を探ると鉈豆煙管を取り出した。それをズッと鼻先へ出し、 「お武家様え、火をひとつ」 案に相違して紋太郎は少からず閉口したものの貸さないということも出来ないので無言で煙管を差し出した。老人はスバスバ吸い付ける。 「へい、お有難う存じます」 声までが無気味の調子である。 二人は黙って腰かけている。 「どうもこいつは驚いたな。除けても除けても着きまとって来る。まるで俺の運命のようだ」 紋太郎は不快に思いながら咎めることも出来ないのでやはり黙って腰かけていた。 と、老人が話しかけた。 「熊谷へおいででございますかな。それはそれはご苦労のことで。それに致しても三時立ちとは随分お早うございましたなあ」 「何?」 といったが紋太郎これにはいささか驚いた。 「いかにも俺は三時に立ったがどうしてそれを知っているな?」 「へへへへへ、まだまだ沢山存じております。例えば今朝ご出立の時、アノ用人の三右衛門様が、何にあわてたのか大変あわてて鴨居で額をお打ちなされたので、『三右衛門はしたない、気を付けるがよいぞ』と、こう旦那様がおっしゃいました筈で」 「いかにもそういうこともあった」 「ええと、昨夜はご隣家へ泥棒がはいって大事な物を――見事な幅を確か一幅盗んで行った筈でございますよ」 「おおおお、いかにもその通りじゃ」 「盗まれた絵は小野小町土佐の名筆でございましょうがな?」 「どうも不思議だ。まさにその通り」紋太郎は思わず腕を組んだ。 「同じ作者の同じ名画、喜撰法師の一幅は現在旦那様が持っておられる筈じゃ。何も驚かれることはない。布呂敷包みの細長い荷物。膝の上のその荷物。それが喜撰様でございましょうがな。……そうして旦那様は知行所で、そのご家宝の喜撰様を金に代える気でござりましょうがな」 「むう」と紋太郎は思わず唸ったが、 「ははあさようか、いや解ったぞ。察するところそのほうは邸近くの町人であろう。それで事情を知っているのであろう」 「はいさようでございますよ。旦那様のすぐお側に住んでいる者でございますよ」 「ついぞ見掛けぬ仁態じゃが、どこら辺りに住んでいるな?」 「ほんのお側でございます旦那様のお邸内で」 「莫迦を申せ」 と紋太郎は苦々しく一つ笑ったが、 「邸の内には用人とお常という飯煮き婆。拙者を加えて三人だけじゃ」 「へへへ」 と老人はそこでまた気味悪く笑ったが、 「どう致しましてこの老人は、ご尊父様の時代からずっとずっとお邸内に住居しているものでございますよ」 ははあこいつ狂人だな。……紋太郎は気が付いた。そこでガラリ調子を変え、 「ところでお前は何者だな? そうしていったい何という名だ?」 「貧乏神と申します」 いったかと思うと老人は煙りのように揺れながらス――とばかりに立ち上がった。 「私はな」と老人はいいつづける。「永らくの間お前の所で、厄介になっていた貧乏神じゃ。随分居心地よい邸であったよ。で、立ち去るのは厭なのじゃが、そういう勝手も出来ないのでな、今日を限りに立ち退こうと思う。……お前の所へもこれからはだんだん好運が向いて来ようよ。もっとも」 といって貧乏神は例によって気味悪くニタリとしたが、 「時々お目にはかかろうも知れぬ。私はご隣家へ移転すからの」 こういい捨てると貧乏神はクルリと紋太郎へ背を向けた。それからスタスタ歩き出した。 「ははあなるほど貧乏神か。いかさまそういえばあの風態に見覚えがあると思ったよ。絵にある貧乏神そっくりじゃ。父の代から住んでいたと? アッハハハこれももっともだ。父の代から俺の家はだんだん貧乏になったのだからな。何これから運が向くって? ほんとにどうぞそうありたいものだ。……おや!」 とにわかに紋太郎は吃驚したように眼を見張った。
刺青の女賊
それというのは他でもない。貧乏神が消えてなくなり、代わりに美人が現われたからである。 もっと詳しく説明すれば、紋太郎と別れた貧乏神は、街道筋をズンズンと上尾の方へ歩いて行った。ものの半町も行ったであろうか、その時並木の松蔭から一人の女が現われたが、貧乏神と擦れ違ったとたん、貧乏神の姿が消え、一人と見えた女の背後から小粋な男が従いて来た。だんだんこっちへ近寄って来る。「貧乏神などと馬鹿にしてもさすがは神と名が付くだけに飛天隠形自在と見える」 学問はあっても昔の人だけに、紋太郎には迷信があった。で忽然姿を消した貧乏神の放れ業が不思議にも神秘にも思われるのであった。 若い二人の旅の男女は、紋太郎にちょっと会釈しながら静かにその前を通り過ぎようとした。 ふと女を見た紋太郎は、 「おや」といってまた眼を見張った。 その時プ――ッと寒い風が真っ向から二人へ吹き付けて来た。女の髪がパラパラと乱れる。手を上げて掻き除けたその拍子にツルリと袖が腕を辷り、露出した白い二の腕一杯桜の刺青がほってある。 「やっぱりそうだ。小間使いのお菊!」 呻くがように紋太郎は云う。と、女は眼を辷らせ紋太郎の顔を流瞥したが、別に何んともいわなかった。とはいえどうやら微笑したらしい。しかしそれも一瞬の間で二人はズンズン行き過ぎた。そうして今は雀色に暮れた夕霧の中へ消え込んでしまった。 「重ね重ね不思議のことじゃ。貧乏神に小間使いのお菊! 腕に桜の刺青があった。専斎殿の言葉通りじゃ。しかし美しいあのお菊がよもや六歌仙など盗みはすまい」 やがて紋太郎は立ち上がった。 「熊谷まではまだ遠い。上尾、桶川、鴻ノ巣と。三つ宿場を越さなければならない。どれ、そろそろ出かけようか」 腰を延ばしてハッとした。喜撰法師の軸がない! 桐の箱へ納め布呂敷で包み膝の上へ確かに置いた筈の、その喜撰がないのであった。 「ううむ、やられた! おのれお菊!」
「おお旦那様、もうお帰りで。これはお早うござりました」 用人の三右衛門はいそいそとして若い主人を迎えるのであった。 「今帰ったぞ」と紋太郎は機嫌よく邸の玄関を上がった。手に吹矢筒を持っている。部屋へ通るとその後から三右衛門が嬉しそうに従いて来た。 「首尾はいかがでござりましたかな?」三右衛門は真っ先に訊く。 「首尾か、首尾は上々吉よ」旅装を解きながら元気よく云う。 「それはまあ何より有難いことで。で何程に売れましたかな?」 「何も俺は売りはせぬ」 「何をマアマアおっしゃいますことやら。知行所の総括嘉右衛門へ値をよく売るのだとおっしゃって、ご秘蔵の喜撰様を箱ながらお持ちになったではござりませぬか」三右衛門は顔を顰めながらさも不安そうに云うのであった。 「ああなるほど喜撰のことか。喜撰の軸なら紛失したよ」 「え、ご紛失なされましたとな?」 「いや道中で盗まれたのじゃ。眼にも止まらぬ早業でな。あれには俺も感心したよ」 紋太郎は一向平気である。 余りのことに三右衛門はあッともすッとも云えなかった。ただ怨めしそうな眼付きをして主人の顔を見るばかりである。そのうち充血した眼の中から涙がじくじくにじみ出る。 「何んだ三右衛その顔は!」 紋太郎は快活に笑い出した。 「そういう顔をしているから貧乏神が巣食うのだ。めでたい場合に涙は禁物、せっかく来かかった福の神様が素通りしたら何んとする。アッハッハッハッ涙を拭け」
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] 下一页 尾页
|