藪紋太郎
ちりぢりに別れた六歌仙は再び一つにはなれなかった。 「吉備彦の素敵もない財宝は六歌仙の絵巻に隠されている。絵巻の謎を解いた者こそ巨富を得ることが出来るだろう」――こういう伝説がいつからともなく津々浦々に拡まった頃には、当の絵巻はどこへ行ったものか誰も在所を知らなかった。六人の兄弟はどうしたか? これさえ記録に残っていない。 こうして幾時代か経過した。 そのうちいつともなくこの伝説は人々の頭から忘れられてしまった。しかしもちろん多くの画家やまた好事家の間では、慾の深い伝説は別として信輔筆の六歌仙は名作として評判され、手を尽くして探されもしたがついに所在は解らなかった。 こうして文政となったのである。 もうこの頃では画家好事家さえ、信輔筆の六歌仙について噂する者は皆無であった。
「大変でございますよ、旦那様!」 襖の外で呼ぶ声がする。 「おお三右衛か」 と紋太郎はとうにさっきから眼覚めていたので、こう云いながら起き上がると布団の上へ胡坐を掻いた。それからカチカチと燧石を打ってぼっと行燈へ火を移した。 「まあこっちへはいって来い」 「はい」と云うと襖が開き白髪の老人がはいって来た。用人の岩本三右衛門である。キチンと坐ると主人の顔をまぶしそうに見守ったが、 「賊がはいったようでございます」 「うん。どうやらそうらしいな。大分騒いでいるようだ」 「すぐお出掛けになりますか?」 「専斎殿は金持ちだ。時には賊に振る舞ってもよかろう。……もう夜明けに間もあるまい。見舞いには早朝参るとしよう」 三百石の知行取り、本所割下水に邸を持った、旗本の藪紋太郎は酷く生活が不如意であった。 普通旗本で三百石といえば恥ずかしくない歴々であるが、紋太郎の父の紋十郎が、その時代の風流男で放蕩遊芸に凝ったあげく家名を落としたばかりでなく、山のような借金を拵えてしまい、ハッと気が付いて真面目になったところでコロリ流行病で命を取られたので、家督と一緒に借金証文まで紋太郎の所へ転げ込んだ始末。余り嬉しくない証文ではあるが、総領の一人子であって見れば放抛っておくことも出来なかった。 親に似ぬ子は鬼っ子だとある心理学者がいったそうであるが藪紋太郎は実のところ少しも親に似ていなかった。とはいえ決して鬼っ子ではなく鳶の産んだ鷹の方で遊芸は好まず放蕩は嫌い、好きなものは武道と学問。わけても陽明学を好み、傍ら大槻玄沢の弟子杉田忠恕の邸へ通って蘭学を修めようというのだから鷹にしても上の部だ。 二十八歳の男盛り。縹緻もまんざら捨てたものではない。丈は高く肉付きもよく馬上槍でも取らせたら八万騎の中でも目立つに違いない。 貧しい生活をしているにも似ず性質はきわめて快活で鬱勃たる覇気も持っていたが、そこは学問をしただけに露骨にそんなものを表面へは出さない。 「ご免」 と紋太郎は声を掛けた。奥でガヤガヤ話し声はするが誰も玄関へ出て来ない。「頼む」ともう一度声を掛けた。――と、今度は足音がして書生がひょっくり顔を出したが、 「これはご隣家の藪様で」 「昨夜盗難に遭われたとの事、ご家内に別状はござらぬかな?」 「はい有難う存じます。怪我人とてはございませぬが……」 「おおそれなれば何より重畳。そうして賊は捕らえましたかな?」 「いえ」 と云った時、奥の方から専斎の声が聞こえて来た。「どなたかおいでなされたかな?」 ヌッと現われた五十恰好の坊主。これが主人の専斎で、奥医師で五百俵、役高を加えて七百俵、若年寄直轄で法印の官を持っている。 「おおこれは藪殿で。ひどい目に遭いましてな。が、まずまずお上がりくだされ」 「さようでござるかな。ではちょっと」こういうと紋太郎はつと上がった。隣家ではあり碁友達でもあり日頃から二人は親しいのであった。 「早速のお見舞い有難いことで」 座が定まると改めてこう専斎は礼を述べた。が続いて物語った盗難の話は紋太郎の好奇心を少からず唆った。 ――勝れて美しい若い女を小間使いとして雇い入れたところ、思いがけなくもその女が二の腕かけて背中一杯朱入りの刺青をしていたそうで、計らず見付けた女中の一人が驚いて専斎へ耳打ちしたので、専斎も大いに仰天し、暇をくれたのが昨夜のこと。その夜更けて起こったのが盗難騒ぎだというのである。
土佐の名画喜撰法師
「その美しい小間使いというはお菊のことではござらぬかな」一通り話を聞いてしまうと紋太郎はこう尋ねた。紋太郎はお菊を知っていた。いつものようにそれは今から十日ほど前、囲碁に招かれ遠慮なく座敷へ通った時、茶を運んで来た小間使いが余り妖艶であったので、それとなく彼が名を訊くと「菊」と答えて引き退ったのを今に覚えているからである。 「さよう菊でございますよ」 専斎はこう云って渋面を作った。「少しく美しすぎましたよ」 「で、奪われた品物は?」 「それがさ」と専斎は渋面を深め、「六歌仙の幅を盗まれてござる」 「ほほう」とこれには紋太郎も吃驚したように目を見張った。 「では小町と黒主をな?」 「いや、黒主は助かりました。他へ預けて置きましたでな」 専斎は今日は言葉少い。ひどく落胆しているらしい。
自宅へ帰って来た紋太郎はニヤニヤ笑いを洩らしている。皮肉の笑いとも受け取られ笑止の表情とも見受けられる。 ひょいと床脇の地袋を開け桐の箱を取り出すと、一本の軸を抜き出した。手捌きも鮮やかにサラサラと軸を解き延ばすと土佐の名手が描いたらしい喜撰法師の画像が出た。じっと見詰めているうちに紋太郎の口から溜息に似た感嘆の声がふと洩れた。 「名画というものは恐ろしいものだ。見れば見るほど見栄えがする」 云いながら静かに立ち上がり床の間へ掛けて改めて見る。 「旦那様」 と襖越しに三右衛門が呼ぶ声が聞こえて来た。「開けましてもよろしゅうございますかな」 「うん」と云ったまま紋太郎は尚喜撰に見入っている。 「おや、喜撰様でございますか」 はいって来た三右衛門も感心し膝をついてじっとなった。しばらく室は静かである。 「三右衛」と紋太郎はやがて云った。「何んと立派なものではないかな」 云われて三右衛門は頭を下げたが、 「立派なものでございます。……ところが喜撰と申しますお方は、どういうお方でございましょうか」 「世捨て人だよ。宇治山のな」 「ははあ、さようでございますかな」 「嵯峨天皇弘仁年間山城の宇治に住んでいた僧だ。橘奈良丸の子とも云われ紀ノ名虎の子とも云われ素性ははっきり解らない」 「さては無頼者でござりますな」 「莫迦を申せ。有名な歌人だ」 紋太郎は哄笑する。三右衛門はテレて鬢を掻く。で部屋の中は静かになった。梅花を散らす早春の風が裏庭の花木へ当たると見えてサラサラサラサラサラサラという枝擦れの音が聞こえて来る。植え込みの中で啼いていると見えて鶯の声が聞こえて来る。若鶯と見え声が若い。 と、三右衛門は溜息をした。それからこんなことをいい出した。 「高価なものでございましょうな。その喜撰のお掛け物は」 「お父上からゆずられたものだ。無論高価に相違ない」――飽かず画面に眼を注ぎながら紋太郎は上の空でいった。 「何程のお値打ちがございましょうな?」 「専斎殿の鑑定によれは、捨て売りにしても五十両。好事家などに譲るとすれば百両の値打ちはあるそうだ」 「百両……」と呟いて三右衛門はホッと吐息をしたものである。
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