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大鵬のゆくえ(おおとりのゆくえ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-2 6:23:32 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



    西丸の大廊下

 旧記によれば上覧芝居は二十八日とも記されているが、しかし本当は二十五日で、この時の西丸の賑やかさは「沙汰の限りにそろ」と林大学頭が書いている。
 朝の六時から始まって夜の十一時に及んだといえば、十七時間ぶっ通しに四つの芝居が演ぜられたわけ、仮りに作られた舞台花道には、百目蝋燭が掛け連らねられ、桜や紅葉の造花から引き幕緞帳どんちょうに至るまで新規に作られたということであるから、費用のほども思いやられる。正面桟敷さじきには大御所様はじめ当の主人の満千姫様まちひめさま、三十六人の愛妾達、姫君若様ズラリと並びそこだけには御簾みすがかけられている。その左はつぼねの席、その右は西丸詰めの諸士達しょさむらいたちの席である。本丸からも見物があり、家族の陪観が許されたのでどこもかしこも人の波、広い見物席は爪を立てるほどの隙もなかった。
 ヒューッとはいる下座の笛、ドンドンと打ち込む太鼓つづみ、嫋々じょうじょうと咽ぶ三弦の、まず音楽で魅せられる。
 真っ先に開いたは「鏡山かがみやま」で、敵役かたきやく岩藤の憎態にくていで、尾上おのえの寂しい美しさや、甲斐甲斐しいお初の振る舞いに、あるいは怒りあるいは泣きあるいは両手に汗を握り、二番目も済んで中幕となり、市川流荒事の根元「しばらく」の幕のあいた頃には、見物の眼はボッと霞み、身も心も上気して、溜息をさえ吐く者があった。
 団十郎の定光が、あの怪奇グロテスク紅隈べにくまと同じ怪奇の扮装で、長刀ながもの佩いてヌタクリ出で、さて大見得を切った後、
「東夷南蛮北狄ほくてき西戎西夷八荒天地乾坤けんこんのその間にあるべき人の知らざらんや、三千余里も遠からぬ、物にじざる荒若衆……」
 と例の連詞つらねを述べた時には、ワッと上がる歓呼の声で、来てはならない守殿の者まで自分の持ち場を打ち捨てて見に来るというありさまであったが、この時裏の楽屋から美しい腰元に扮装した若い役者が楽屋を抜け西丸の奥へ忍び込んだのを誰一人として知った者はなかった。

 楽屋を抜け出した小次郎は、夜の西丸の大廊下を、なるだけ人に見付けられぬよう灯陰ほかげ灯陰と身を寄せて、素早く奥へ走って行った。
 一村一町にも比較くらべられる、無限に広い西丸御殿は、至る所に廊下があり突き当たるつど中庭があり廊下に添って部屋部屋がちょうど町方の家のように整然として並んでいる。
 廊下を左へ曲がったとたん、向こうから来た老武士とバッタリ顔を見合わせた。
「ごめん遊ばせ」
 と声を掛けスルリ擦り抜けて行こうとした。
「あいやしばらく」
 と背後うしろからその老武士が声を掛けた。
「どなたでござるな? どこへおいでになる?」
「はいわたくしはお霜と申し、秋篠局あきしののつぼねの新参のお末、怪しいものではございませぬ」
「新参のお末、おおさようか。道理で顔を知らぬと思った。で、どちらまで参られるな?」
「はい、おつぼねまで参ります」
「秋篠様のお局へな?」
「はい、さようでございます」
「それにしては道が違う」
「おやさようでございましたか。広い広いご殿ではあり、新参者の悲しさにさては道を間違えたかしら」
「おおおお道は大間違い、秋篠様のお局は今来た廊下を引き返し、七つ目の廊下を左へ曲がり、また廊下を右へ廻ると宏大もないお部屋がある。それがお前のご主人のお部屋だ」
「これは有難う存じました。どれそれでは急いで参り……」
「おお急いで参るがよい。……ところで芝居はどの辺だな?」
「ただ今中幕が開いたばかり、団十郎の定光が連詞つらねを語っておりまする。早うおいでなさりませ」いい捨てクルリと方向むきを変えた。

「様子を見りゃあお留守居役か、いい加減年をしているのに、男か女かこの俺の見分けが付かねえとは甘え奴さ……秋篠というお局が満千姫様のご生母でそこのお部屋に何から何までお輿入れ道具が置いてあるそうな。信輔筆の六歌仙、在原業平ありわらのなりひらもそこにある筈だ……五つ六つこれで七つ。よし、この廊下を曲がるんだな」
 七つ目の廊下を左へ曲がり、尚先へ走って行った。と、最初とっつきの廊下へ出た。それを今度は右へ曲がるとはたして立派な部屋がある。
「むう、これだな、どれ様子を」
 板戸へピッタリ食い付いて一寸ばかり戸をあけたが朱塗りの蘭燈らんとう仄かに点り夢のように美しい部屋の中に一人の若い腰元が半分なかばうとうと睡りながら種彦らしい草双紙を片手に持って読んでいた。
「よし」と呟くとスーと開け部屋の中へ入り込んだ。
 ハッと気が付いて振り返ると、
「どなた?」腰元は声を掛けた。
「はいわたしでございます」
 小次郎はスルスルと近寄ったがパッと飛びかかって首を掴み、持って来た手拭いで猿轡さるぐつわ扱帯しごきを解いて腕をくくりそばの柱へつないだが、奥の襖を手早く開けた。
 グルリと見廻したがツカツカとはいり、
「どうやらここではないらしい」
 奥の襖をまたあけた。
 と、現われたその部屋の遙か奥の正面にあたって何やら大勢うごめく物がある。
「や、人か?」
 と仰天したが、普通の人間でもないらしい、あるいはキリキリと一本足で立ちあるいは黒髪を振り乱し、または巨大な官女の首が宙でフワフワ浮いている。
「ワッ、これは! 化物ばけものだア!」
 思わず声を筒抜かせたがハッと気が付いて口を蔽い、
「千代田の城に化物部屋。おかしいなア」
 と見直したが、「ブッ、何んだ! 絵じゃねえか!」
 部屋一杯の大きさを持ち黄金こがねの額縁で飾られた百鬼夜行の絵であった。
「この絵がここにある上は六歌仙の軸もなくちゃならねえ」
 見廻す鼻先に墨踉あざやかに、六歌仙と箱書きした桐の箱。
「有難え!」
 と小脇に抱え忽ち部屋を飛び出したが、出合い頭に行き合ったのは五十位の老女であった。
其許そもじは誰じゃ?」
 と呼びかけられ、
「秋篠様のお末霜」
 云いすて向こうへ行こうとする。
「何を申す怪しい女子! かく申すこのわしこそ秋篠局のお末頭、其許そもじのようなお末は知らぬ」
「南無三!」
 とばかり飛びかかり、顎を下から突き上げた。「ムー」と呻いて仆れるのを板戸をあけてポンと蹴込みそのまま廊下を灯蔭ほかげ灯蔭と表の方へ走って行く。……

 ちょうどこの時分紋太郎は彦根の城下を歩いていた。彼はひどくやつれていた。
「俺の旅費もいよいよ尽きた。……しかも未だに駕籠の主も馬の荷物の何んであるかも、突き止めることが出来ないとは。……俺は今に乞食になろう……乞食になろうが非人になろうが、思い立ったこの願い、どうでも一旦は貫かねばならぬ」
 勇猛心を揮い起こし駕籠の後を追うのであった。京都、大坂、兵庫と過ぎ、山陽道へはいっても駕籠と馬とは止まろうともしない。須磨、明石と来た頃には、文字通り紋太郎は乞食となり、口へ破れた扇をあて編笠の奥から下手なうたいを細々うたわなければならなかった。

 こうして道中で年も暮れ、新玉あらたまの年は迎えたが、共に祝うべき人もない。
 九州の地へはいっても駕籠と馬とは止まろうともしない。
 かくて二月の上旬頃長崎の町へは着いたのである。
 遙かにも我来つるかな……思わず彼はつぶやいて涙を眼からこぼしたがもっともの感情と云うべきであろう。
 駕籠と馬とはゆるゆると出島の方へ進んで行く。
 蘭人居留地があらわれた。駕籠はそっちへ進んで行く。
 こうして鉄門と鉄柵とで厳重によろわれた洋館が一行の前へ現われた時、一行は初めて立ち止まった。おのずと門が左右に開き十数人の出迎えがあらわれた。駕籠と馬とがはいって行く。
「ああ蘭人か」
 と呟いて紋太郎がぼんやり佇んだ。
 もう四辺あたりは夕暮れて、暖国の蒼い空高く円い月が差し上った。
 その時一人の侍が門を潜ってあらわれた。
「ちょっとお尋ね致します」
「何んでござるな?」と立ち止まる。
「只今ここへ駕籠と馬とがはいりましたように存じますが?」
「おおはいった。ここの主人じゃ」
「そのご主人のお姓名は?」
「ユージェント・ルー・ビショット氏。阿蘭陀オランダより参った大画家じゃ」
「どちらよりのお帰りでござりましょう?」
「江戸将軍家より招かれて百鬼夜行の大油絵を揮毫きごうするため上京し、只今ようやく帰られたところ」
「二頭の馬に積まれたは?」
「ビショット氏発明の飛行機じゃ」
「は、飛行機と仰せられるは?」
大鵬おおとりの形になぞらえた空飛ぶ大きな機械である。十三世紀の伊太利亜イタリアにレオナルド・ダ・ビンチと名を呼んだ不世出の画伯が現われた。すなわち飛行機を作ろうと一生涯苦労された。それにならってビショット氏も飛行機の製作に苦心されついに成功なされたが、またひどい目にもお逢いなされた。多摩川で試乗なされた節吹矢で射られたということじゃ。……いずれ大鳥と間違えて功名顔に射たのであろう世間にはたわけた奴がある。ワッハハハ」
 と哄笑したが、
「私は長崎の大通詞丸山作右衛門と申す者、ビショット氏とは日頃懇意、お見受けすればお手前には他国人で困窮のご様子、力になってあげてもよい。邸は港の海岸通り、後に訪ねて参られるがよい」
「泥棒!」
 とその時ビショット邸からけたたましい声が響いて来たが、潜門くぐりを蹴破り飛び出して来たのは見覚えのある貧乏神で、小脇に二本の箱を抱え飛鳥のように駆け過ぎた。

 奈良宝隆寺から西一町、そこに大きな畑があり、一基の道標みちしるべが立っていた。
 今、日は西に沈もうとして道標の影が地に敷いている。
 そこを二人の若者が鍬でセッセと掘っている。
 掘っても掘っても何んにも出ない。
 二人は顔を見合わせた。
「どうもおかしい」
 といったのは、他ならぬ坂東三津太郎である。
「ほんとにこいつ変梃だ」こういったのは小次郎である。
「もう一度おを洗おうぜ」
「よかろう」
 というと、二人一緒に、ドンとそこへ胡坐あぐらをかいた。
 二人の前には六歌仙が、在原業平なりひら、僧正遍昭、喜撰法師、大友黒主、文屋康秀、小野小町、こういう順序に置いてあったが信輔筆の名筆もズクズクに水に濡れている。
「六つ揃わば眼を洗え。――さあさあ水をかけるがいい」
「承わる」
 と小次郎は、そばの土瓶を取り上げた。
 六歌仙の眼へ水を注ぐ。と、不思議にも朦朧もうろうと各※(二の字点、1-2-22)の絵の右の眼へ一つずつ文字が現われた。
 業平の眼へは「宝」の字が、遍昭の眼へは「隆」の字が、喜撰の眼へは「寺」の字が、黒主の眼へは「西」の字が、康秀の眼へは「一」の字が、そうして最後に小町の眼へは「町」という字があらわれた。
「やはりそうだ。間違いはない。――宝隆寺西一町。――この通りちゃアんとあらわれている。……そうしてここは宝隆寺から西一町の地点なんだ」
 貧乏神の扮装みなりをした坂東三津太郎はこう云うと元気を起こして立ち上がった。


    灰、煙り、即希望

 小次郎も同じく立ち上がり、
「そうだここは宝隆寺から西一町離れている。そうしてここに道標みちしるべがある。そうしてここは畑の中だ。それにお日様も傾いてあんなに西に沈んでいる。道標の影もうつっている。――道標、畑の中、お日様は西だ、影がうつる、影がうつる、影がうつる――ちゃアンと暗号文字やみもじに合っている。さあもう一度掘って見ようぜ」
 そこで二人は鍬を取り、道標の影の落ちた所を、根気よくまたも掘り出した。
 石や瓦は出るけれど、平安朝時代の大富豪馬飼吉備彦うまかいきびひこの隠したといわれる財宝らしいものは出て来ない。
 二人はすっかり落胆して鍬を捨てざるを得なかった。
「オイ」
 と三津太郎は憎さげに、「お前が西丸で盗んだというその在原業平の軸、もしやにせじゃあるめえかな」
「冗談いうな」
 と小次郎もムッとしたようにいい返す。
「千代田の大奥にあった軸だ。贋やイカ物でたまるものか。それよりお前が長崎の蘭人屋敷で取ったという、その文屋と遍昭が食わせものじゃあるめえかな」
「うんにゃ違う、こりゃ確かだ。俺が現在二つの眼で、写山楼のなかで見たものだ。そうして文晁がお礼としてあの蘭人にくれたものだ。そうでなくってこの俺が江戸から後を尾行つけるものか。べらぼうなことをいわねえものだ」
「へん、どっちがべらぼうでえ、へんな贋物を掴みやがって」
 二人はだんだんいい募った。
 やがて日が暮れ夜となったが、その星ばかりの闇の中で撲り合う声が聞こえて来た。

 その翌日のことである。
 二、三人の百姓がやって来た。
「ヒャア、こいつあぶっ魂消たまげた。でけえ穴が掘ってあるでねえか!」
道標みちしるべの石も仆れているのでねえか」
「この畑の踏み荒しようは。こりゃハア天狗様の仕業しわざだんべえ」
 百姓達は不平タラタラその大きな穴を埋め出した。
 それは大変寒い日で、彼等はやがて焚火をし、
「やあここに掛け物がある」
「やあここにも掛け物がある」
「一つ二つ……五つ六つ、六つも掛け物落ってるだあよ」
「何んて穢ねえ掛け物だあ。踏みにじられてよ泥まみれになってよ」
「火にくべるがいいだあ、火にくべるがいいだあ」
 信輔筆の六歌仙は間もなく火の中へくべられた。
 濛々と上がる白い煙り。忽ち焔はメラメラと六歌仙を包んで燃え上がったが、火勢にあぶられたためでもあろうか、六歌仙六人の左の眼へ、一字ずつ文字が現われた。
「やあ眼の中へ字が出ただよ。誰か早く読んで見ろやい」
「お生憎あいにくさまだあ。字が読めねえなあ」
 間もなくその字も焔に包まれ、千古の謎は灰となった。
「ああ暖けえ。ああいい火だ」
「もう春だなあ。すみれが咲いてるだあ」
「ボツボツ桜も咲くずらよ」
 百姓達は暢気そうに火にあたりながら話していた。


    紋太郎と大鵬の握手

「いやこれは驚いた。いやこれは意外千万……ふうむ、そうするとご貴殿がつまり加害者でござるかな? ほほう、いやはや意外千万! 大御所様のおいい付けで、ええと吹矢を吹きかけた? ははあなるほど多摩川でな」
 大通詞丸山作右衛門は、むしろ呆気に取られたように、紋太郎の顔を見守ったが、
「いやいや決して心配はござらぬ。もはやビショット氏の肩の負傷はほとんど全快致してござる。いやビショット氏は大芸術家、殊に非常な人格者でござればもちろん貴殿の誤りに対して何んの悪感も持ってはおられぬ。それにかえって江戸に近い多摩川の河原で断わりもなく試乗したのは飛んだ失敗、謀叛を企てるそのために江戸の様子を窺ったのだと、讒者ざんしゃの口にかかりでもしたら弁解の辞にさえ窮する次第、とそれで公然医者も呼べず、帰りの道中は謹慎の意味で駕籠から出なかったほどでござるよ。……そこでと、藪殿いかがでござる、せっかく貴殿も心にかけ大鵬たいほうの行方を追って来たことじゃ、これから二人でビショット氏を訪ね、大鵬すなわち飛行機なるものをとくとご覧になられては。いやいやビショット氏はむしろ喜んで貴殿と逢われるに相違ない。それは拙者が保証する」
 作右衛門はこう云って腰を上げようとした。
 ここは長崎海岸通り大通詞丸山作右衛門の善美を尽くした応接間であるがここを紋太郎が訪問したのは、作右衛門と初めて逢った日から約五日ほど経ってからであった。
 その間紋太郎はどうしていたかというに、例のうまくもないうたいをうたいただあてもなく長崎市中を歩き廻っていたのであった。そうしていよいよ窮したあげく、ふと作右衛門のことを思い出し、親切そうな風貌と手頼たよりあり気だった言葉つきとを唯一の頼みにして、訪ねて行きどうして遙々はるばる江戸くんだりからこの長崎までやって来たかを隠すところなく語ったのであった。
 その結果作右衛門がかつは驚きかつは進んでビショット氏へ紹介しようといい出したのである。
「それは何より有難いことで。……飛行機も拝見したいけれどむしろそれよりビショット先生に親しく拝顔の栄を得て過失を謝罪致したければなにとぞお連れくださるよう」
「よろしゅうござる。さあ参ろう」
 こんな具合で作右衛門方を出、蘭人居留地へ出かけて行き、ビショット邸を訪問おとずれた。
 すぐと客間へ通されたがやがて出て来たビショット氏を見ると、
「なるほど」と紋太郎は呟いた。
 ビショット氏の皮膚が桃色であり、頭髪はもちろん産毛うぶげまでも黄金色を呈していたからであった。
 作右衛門の話しを聞いてしまうとビショット氏は莞爾かんじと微笑したが、突然大きな手を出して紋太郎の手をグッと握った。それは暖い握手であった。
「私は日本に十年おります。で、日本語は自由です。……過失というものは誰にでもあります。何んの謝罪に及びますものか。……藪紋太郎さん、よう来てくだされた。私は大変満足です。……喜んで飛行機もお目にかければ沢山蒐集あつめた世界の名画――それもお目にかけましょう。……どれそれでは裏庭の方へ」
 こういうと先に立って歩き出した。
 庭に大きな木小屋があったが、すなわち今日の格納庫で、戸をあけるとその中に粛然と大鵬たいほうが一羽うずくまっていた。射し込む日光を全身に浴び銀色に輝く翼や尾羽根! それは木であり金属であり絹や木綿で作ったものではあるがしかしやはりよくであり立派な尾羽根でなくてはならない。人工の大鵬! 天翔あまがける怪物!
「あっ!」
 と紋太郎が声に出し嘆息したのは当然でもあろうか。
「こっちへ」
 と云ってビショット氏は二人を大広間へ導いた。眼を驚かす世界の名画! それが無数にかかげられてある。
 快よい日光。……南国の日光。……その早春の南国の陽が窓から仄かに射し込んでいる。
 一つの額を指差した。
「ダ・ビンチの名画基督キリストの半身!」
 ビショット氏は微笑した。
「この人ですよ十三世紀の昔に、飛行機製作に熱中した人は! 先駆者! そうです、芸術と科学のね!」

 丸山作右衛門に旅費を借り、紋太郎が江戸へ帰ったのはそれから一月の後であった。
 彼は直ちに西丸へ伺向し、事の次第を言上した。
「てっきり大鵬と存じたにさような機械であったとは、さてさて浮世は油断がならぬ。日進月歩恐ろしいことじゃ。今日より奢侈しゃしを禁じ海防のために尽くすであろう。それに致しても江戸から長崎、長い道程を大鵬を追い、ついに正体を確かめたところのそちの根気は天晴あっぱれのものじゃ。三百石の加増、書院番頭と致す」

 小石川区大和町の北野神社の境内の石の階段を上り切った左に、東向きに立てられた小さなほこらが、地震前まであった筈だ。これぞ貧乏神の祠であって、建立主は藪紋太郎。開運の神として繁昌し、月の十四日と三十日には賑やかな市さえ立ったものである。昔は武家が信じたが、明治大正に至ってからは遊芸の徒が信仰したそうだ。
 いずくんぞ知らんこの貧乏神、その本体は坂東三津太郎、不良俳優であろうとは。いわしの頭も信心から。さあ拝んだり拝んだりと、大いに景気を添えたところでここに筆を止めることにする。





底本:「銅銭会事変 短編」国枝史郎伝奇文庫27、講談社
   1976(昭和51)年10月28日第1刷発行
初出:「サンデー毎日」
   1925(大正14)年1月11日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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    「睫」の「目」に代えて「虫」    80-14

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