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小熊秀雄全集(おぐまひでおぜんしゅう)-15

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-29 7:03:04 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


  小為替

 工場地域の窪みに沼のやうに水が溜つてゐた。そこの沼の蘆の繁みに一人の少年が隠れてゐた。彼は自分の隠れてゐる場所から見えてゐる車輪工場の寄宿所の窓の灯が暗くなるのを待ちくたびれてゐるのであつた。
 寄宿所の灯は暗くなつた。少年は雀躍りして、小脇に抱へてゐた新聞包みを地べたにおろし、中のものを出した。謄写版刷のビラ数百枚で、それにはかう書かれてあつた。
『労働者諸君、欺されるな、ファッショ組合××会のダラ幹をボイコットしろ、君等自身の争議委員を選べ―』
 少年は悪戯児いたづらつこらしく、このビラを眺めてにやりにやりと笑ひながら、忍び足で、めざす建物に接近して行つた。
 建物の窓に近づいて中を覗くと、小さな電燈がともつてゐた。寄宿所の内部に約二百人の労働者が、乱雑ながらも、数列に布団を列べて眠つてゐた。壁には争議のスローガンや、組合本部からの激励文、ファッショがかつた文字を書いた張紙などが、壁に所狭いまでに張られてあつた。
 少年は暫らく人々の寝息をうかがつてゐたが、大胆にひらりと窓を乗り越えて内部に忍びこんだ。爪先であるきながら『静かに―静かに―』と自分に自分で言ひながら労働者の枕許に一枚一枚ビラを配つた。
 彼は配り終ると、窓を乗り越えて、戸外に出て、ほつと吐息をついた。
『あいつらは、明日の朝、驚ろくだらう、そしてダラ幹共は叫ぶだらう―反対派が忍びこみやがつた、みんなビラをよこせ、ビラを読むなア』
 少年は愉快さうに口笛をふきながら歩るきだした。
失敗しまつた、紛失なくしちまつたア』と不意に叫んだ、次の瞬間に、それはビラと一緒に労働者の枕許に配つてしまつたに違ひないと確信した。
 今朝郷里の阿母おふくろから少年の処に『五円』小為替がついた。阿母おふくろが郷里の繩工場で手を冷めたくして稼いで送つてくれた金だ。それがいま懐中にない少年は走り出した。彼は工場の窓を乗りこえると、人々の寝息を窺ひながら、叮嚀に自分が配つたビラを一枚一枚ふつてみて、おふくろの小為替がビラに密着くつついてゐないかどうかを調べだした。
 一つの布団でふいに男が顔をあげて、きつと少年をにらみつけて
『誰だつ―貴様は―』
 と低い声でいつた、失敗つたと思つたが、少年は
『誰でもない―静かにしろ、おれは共産党だ』その男はくるりと布団をかぶつて、底の方へゴソゴソと芋虫のやうにもぐつてしまつた。
 ビラを調べてゆくうちに、ふと小為替はシャツのポケットに入れてあつたことを思ひ出した。果してポケットに入れてあつたので、彼はそのとき危険な場所を去りだした、少年はあわてゝ寝てゐる男の頭をいやといふ程足で踏みつけた、男の叫びと部屋中の混乱を背後にきいて、窓から戸外にむかつて暗がりの中に飛び下りると、少年の飛び下りた尻が爆弾の炸裂するやうな大きな音をたてた。それは少年が飛び下りた窓の下が鶏小屋のトタン屋根で、彼はそれを踏み抜き、ギャア、ギャアといふ鶏の狼狽する声と、争議の籠城組との騒ぎの叫びとで、深夜のこの工場地域に住む人々をみんな起き出させてしまつたことを知つた。
 暗黒の中を少年は、ひた走りに仄明るい夜空をめがけて走りだした。走り乍ら少年は可笑しくてたまらなかつた。『共産党だ―』と出鱈目を言つてやつたら、ゴソゴソと布団の中に恐縮して頭をひつこめた男のことを思ひ出したのである。少年はふと手にビラが数十枚残つてゐることに気がつき『こいつもついでに張つちまはう』と呟き、そして暗がりの手にふれたところの壁に一枚を張つた。どうやらその塀は長くつづいてゐるらしいので、少年は嬉しくなつて、どんどんと急スピードで次々と塀に張つて行つた。本能的な快楽がこの少年を捉へて無我夢中でビラを張つて行つた。壁は何処までもつづいてゐたがこの永遠につづく壁への闘ひを楽しむやうに少年は張つていつた。最後の一枚を張り終つたとき、手元のぼんやりした明るさで、そのビラを張つたところが壁の尽きたところで、しかも彼が張つたところは壁ではなくて、大きな木の看板であることを知つた。彼が張つたビラの板に浮き上つてゐる文字を読みくだして、少年は呆きれてしまつた。永遠につづく塀、その塀つづきのところにかかつてゐる板には『××警察署』と書かれてあつた。そして少年の背後には一人の背の高い警官が立つてゐて、怪訝さうに、警察の門柱にビラを張つてゐる少年の手元と顔とを見較べてゐるのであつた。
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犬はなぜ尻尾を振るか


 東洋電機製作株式会社の社長蛭吉三郎氏は信念の人であつた、たいへん直感的人物で物事の要領を捕へるといふ点では、社員も頭を下げぬわけにはいかなかつた、例へば社長は事務机の前に三人の社員を呼んで、それぞれ事務上のことを、三人同時に報告させ、自分は眼を細くしながら、そはそはと聞いてゐるとも、聞いてゐないとも判らない焦躁状態で、机の上の書類を両手でがさがさと掻きまはした、それでゐて三人の事務員の報告を一度にちやんと聞いてゐるといふ才能があつた。
『××君、××会社へやる品物の見積りはあれぢや、いかんぢやないか――』
 さう叱つておいて次の社員に向つて、
『さうか、よろしい、ぢや君すぐ電話をかけて先方を呼び出して――』
 三番目の社員には、『困るね、君もうすこし研究してそれから報告をするやうにしてくれ給へ――』といふ調子であつた。
 人の話に依れば蛭氏の私宅には、電話が便所の中にまであるさうだ、彼は左手で受話器をはづし耳にもつて行き、右手を別な方面に動かしながら、ふと厠の中で思ひ出した用件に就いて、間髪をいれずに相手を臭いところに呼び出すといふ活動的なエネルギー主義者であつた。
 ある夜、蛭氏は少量の酒で、したたか酔つた、顔をつめたい風にさらし、珍らしく悠長な気持で自宅へ帰りつつあつた、そのとき蛭氏は自分が歩いて行く数歩先に、一匹の母犬らしい腹の皮のたるんだ、骨組みの大きな犬が、どこかへ向つて忙がしさうに行くのを発見した。
『おい、どこへ行く、忙がしさうに――』
 と蛭氏は犬に呼びかけた、しかし犬は答へない、犬の黙答に対して、蛭氏は敏感にそして直感的に、
『鼻の向いた方に幸福があるにちがひないぢやないか――』
 と犬が自分に答へたことを感じた、蛭氏はこの種の反抗的態度を好まなかつたから、非常に憤慨した、握りに金の飾りのあるステッキの先でトンと地べたを突いて犬に向つて叫んだ。
『君、はつきりと言ひ給へ、むぐむぐ口の中で言つてもわからんぢやないか、報告といふものは、もつと明瞭に、事務的に言はんと困るぢやないか――』
 そのとき犬はハッと立ち止つた、犬は体をゆすぶり、尻尾を大きく激しくふつた、犬が人間に対する追従の度合をはかるバロメーターであるかのやうに、尻尾は車輪のやうに蛭氏の前で、大きくまた小さく廻転した。
『よろしい、帰つてよろしい、また明日あす――』と蛭氏は手短かに犬に向つて言つたが、その時、蛭氏は非常に内心感動したのだ、彼は洋服のポケットから慌てゝ手帳をとりだし、暗がりの中で乱暴に鉛筆を走らして、手帳にかう書きつけた。
『犬はなぜ尻尾をふるか? 疑問解決す、明朝より全社員尻尾をつけて出社の事――』
 弾性のある針金を芯にして、これに真綿をぐるぐるまき、天鵞絨ビロウドの袋をかぶせてできた、男社員は黒、婦人社員は赤、の尻尾は配られた、これを男社員は洋服のズボンにつける、丁度肉体では、原始時代人間が猿であつたといふ痕跡がかすかに残つてゐるあたり、尾※(「低」の「にんべん」に代えて「骨」、第3水準1-94-21)骨の箇所に尻尾を装置させて出社させたが、家を出るとき男社員は、さすがに尻尾をふつて街を通ることに人間的恥辱をかんじた、そこで尻尾の先端に糸をつけて、上着の下でそれを首のあたりに吊つて、街で尻尾が現れる事を極度に怖れて出勤しなければならなかつた。
 女社員は尻尾をスカートの上に装置するのだが、女達もスカートを二枚重ねてはいてくることで、尻尾は二枚のスカートの間に隠すことを考へだした、混みあふ電車の中で、つい糸が切れて上着の中から尻尾が飛び出す危険があつたが、さうしたラッシュ・アワーの場合には男社員も婦人社員も、尻を両手又は片手で押へて電車に乗り込むといふ気苦労がともなつた。
 蛭社長は社員と話しながら、じつと社員の尻尾を観察することを忘れなかつた、尻尾がなかつたとき社員の感情の動きのわからなかつた欠陥は除去され、尻尾をつけたことで社員の感情の伝達がすぐ尻尾に現れたため、社長は社員達がそれぞれ個性的なふり方で尻尾をふるのを眺め大いに満悦した、大ふり、小ふり、さまざまな尻尾の振り方に依つて、社員の勤怠や、成績に関するメモをとることもできた、社員達にとつて然しさまざまなうるさい出来事が起き出した。
『あいつ、××課長奴、社長の前であの尻尾のふり方をみたまへ、振るわ、振るわ、大車輪ぢやないか、あんなに振らんでもネ』
『出納部の××君を見給へ、社長の前のあの醜態をさ、おや感極まつて尻尾を股の間に捲きこんでしまつたよ――』
 といふ噂をしあふのであつた。
 蛭社長は尻尾の装置をもつて、事務能率上の画期的創案なりとして非常な自慢であつた、或る日蛭氏は社長室から何心なく、会社の屋上に眼をやつた、丁度昼休みの時間で、沢山の社員が明るい日光を浴びて街をみおろしながら嬉々としてゐるのであつた。
 そのとき社長は、一人の婦人社員が猛烈に尻尾をふつてゐるのを発見した、傍に一人の男社員がゐて、それに答へるやうに、しきりに大振りをしてゐるのであつた、気がつくと屋上の男女の社員は、どれもみな猛烈に尻尾を振り合つてゐるのであつた。
『おゝ、わしは判らなくなつてきたぞ、人間はなぜ、あんなに尻尾をふるか――といふことぢや、新しい謎が出現したわい、然しぢや、問題は、問題の始まりに引戻して考へてみるといふことが、最も聡明なことぢや――』
 蛭氏はその日は鬱々としてそのこと許りを考へてゐた、仕事もさつぱり手につかなかつた、なんて人間の本能なんてものが、正直に尻尾に伝はるもんだらう、醜態なことだ、しかし尻尾を装置させたのは、このわしぢや、いや人間に尻尾のないのが最大の幸福かも知れない――と蛭社長は自問自答しながら帰途についた、こゝろはいつかの犬に逢ひたいといふ考へが大部分を占めてゐた、意外なことには、前日の同じところで、犬とばつたりと逢つた、犬は例によつて鼻の向いた方に幸福があるかのやうに、忙がしさうに歩いてゐた、蛭社長は声をつまらし、しやがれ声でせはしく犬を呼びとめた、
『君――犬はなぜ尻尾をふるか――』
 すると犬はうるささうに、ちらりと人間をふり向いたが、かう答へた。
『尻尾が犬をふれないからさ――』
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犬は何故片足あげて小便するか


 東邦宗徒連鎖聯盟会議が開かれた、席上高齢者で且つ人格者をもつて自他共にゆるされてゐる宮川権左ヱ門氏の提案『犬は何故片足をもちあげて小便をするか、これが防止の案』は当日の会議で議題として最も宗教家の議論の中心点となり甲論乙駁賑やかであつた。
 問題提出の動機といふのは、主として宗教の威厳に関する問題であつた、問題は数年前開かれた第二十三回の会議の折にさかのぼらなければならない、神官新道氏が自宅の塀に通行人があまりしばしば立小便をする、殊に白昼は勿論のことだが、夜更けになどやられると丁度塀に接近したところに寝室があつたために、通行人がそこで用を達する尿の響は、眠つてゐるこの宗教家の脳の襞に直接用をたされたやうな堪へ難い不快感と屈辱を感じた、彼は一策を考へだし、宗教家らしく人間の尊厳に訴へてこれを防がうとした、半紙に墨黒々と『このところ、犬の他小便すべからず―』と書いて塀に張り出してをいた。
 効果は良いやうであつた。この神官の家が明るい街が急に切れたところの淡暗い路地にあつたために通行人はその角まで膀胱に力をいれてきて横にかけこんで、いつぺんに膀胱をゆるめるといふ状況にあつた。然しこの貼紙以来、通行人達は人間的な尊厳と万物の霊長であるといふ自覚を失ふまいとして、また犬でありたくない気持からこの貼紙を読むと神官の塀を避けたのであつた。
 然し問題は却つてそのために紛糾してしまつた、といふことは、通行人達は彼の塀は避けたが、ものの三間とも歩るかずに、その神官の隣りの家の玄関脇の塀には何の貼紙のないことを発見したからそこで用を足してしまふのであつた。
 悪いことには、神官の隣家といふのはこの界隈でも喧まし屋で有名な仏教家の古河氏の家の塀であつたために、古河氏は隣家の貼紙が却つて自分の家の不浄化に拍車をかけた形になつたことを非常に憤つた。
『実に怪しからん、あの貼紙の文句は何事だ、成程彼奴の貼紙によつて冷静なる人間は小便はせんぢやらう、しかしわしは好かん、犬の他小便すべからずとはその文句自体が人間を全体的に犬と同じ観方でみてゐるといふことを証明しちよる、よろしいわしは人間ぢやない、わしは犬ぢや、わしが小便をしてきてやらうわい――』
 みるからに頑固さうな仏教徒は茶褐色の顔を脂肪でぎらぎら光らせながら、隣家の神官新道氏の塀の貼紙をぬらすほど高いところから堂々と用を足して引揚げてきた、悪いことにはそれをまた新道氏が見てゐたのであつた。
 仏教徒は引揚げてくると、早速半紙に赤インキで鳥居の図を描き、その鳥居の図の中に『小便無用』と書き自分の塀に貼り出した。
 これは『犬の他』の貼紙と同じやうに利き目があつたが、『べらぼうめ、こんな絵をかいて脅かさうたつてびくともしやしねいんだ、』と泥酔漢などはろれつのまはらない舌でわめき立て、却つて反抗的に用を足したし、また犬はかういふ問題には何の関係もなく、平然として塀を汚すのであつた、問題は更に進展した、仏教徒の書いた鳥居の図に関して
『鳥居を描くとは何事だ、われわれは彼奴が我々の奉する神の神格を故意に汚しとると思ふのだ実に怪しからん、全宗教界の問題として宗派院に訴訟する』
 と神官はかんかんに怒つた、この係争は続いた、問題はそして今回の東邦宗徒連鎖聯盟会議にも持ち出されたが当日の決議としては
 人間的立場からみて、人間を対照としての貼紙『犬の他小便すべからず―』はすこぶる人間自身に対して穏当でない、鳥居を描くこと勿論よろしくない、この二種の貼紙は両家に於ても撤回すること、尚最近これを真似て一般がこの種の貼紙を貼つてゐるのを多く見かけるから、これは宗教婦人会で会が総出で都市の隅々をかけまはつて剥とるため奉仕週間を作ること。
 もう一つの問題は通行人の膀胱の緊張を調節し緩和するためには、この都市にはあまり共同便所が少ない、この共同便所の少ないことは人間の居宅に近く放尿するといふ結果になるから至急政府に向つて共同便所増設の請願猛運動を起すことに決議された。
『それと同時に諸君、犬の共同便所も敷設することを政府に請願すべきと思ふのであります――』
『議長それは反対であります、国家にはそれほどの経費はないと思ふのであります』
『議長へ申し上げます、我輩はこの問題は犬がなぜ片足をあげて小便をするかといふ問題の解決が一切を解くと思ふのであります(拍手)つまり――もし犬が片足をあげないで用を足すことができれば、塀には毫末も引かゝらず直に汚物は地に吸収されるのであります、これに対して何か諸君に良い案が有りませんか、ありませんか、ありませんでしたら私が案を申します、我々宗教家は街の犬が小便を催しさうな、気配を知つたならば、そのために用意されたところの腰掛けに車を附したものを人間が引いて行つて、犬の前に運びます、犬はその上に腰をかけて用を足すでありませう、つまり西洋風な一種の便器ですな』
 そのとき議長は机の上をカンと拳でうつてから案の提出者に質問した。
『たいへんよろしい案のやうですが、しかし問題がこんがらかつたやうであります、あなたの最初の問題を解く鍵、犬はなぜ片足をあげて小便をするかといふことを御説明願ひます』
『議長先をお聞き下さい、私は熟慮の上で犬のためにこの案を持ち出しました、我々が車付き西洋腰掛け便器を運ぶ理由はつまり何故犬は片足をあげて小便をするかといふことでつまり両足一ぺんにもちあげられないからであります』。
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犬と女中
  ――犬と謎々のうち――


 心理学者吉植吉三郎博士の家庭では女中を解雇した、この女中といふのは、博士夫人が良い女中がゐなくて困ると、出入りの植木屋の顔をみるたびに[#「たびに」は底本では「たびた」]ママをこぼすので、植木屋が自分の郷里の新潟から呼びよせたものであつた。女中が解雇されてから三日目に植木屋がやつてきた、夫人に向つて
『わたしもあの娘だけはお邸に勤まると思ひましたので、それに田舎とは申しましても、とにかく土地の補習学校も出てをりますし、さうまるつきりの愚か者とも思ひませんでしたので』
 と植木屋はもみ手のやり場にこまつた、しきりに尻をもぢもぢして恐縮するのであつた。夫人は植木屋に気の毒さうな表情をした、
『実はね、あの娘は、新聞を読むのも、主人の気に入りませんでしたの――』
『ほう、新聞を読むので、御暇でございましたか、すると何かお仕事の最中にでも、終始よむのでございましたか――』
『いゝえ、仕事はまじめでしたの、なにせ主人が新聞を拝見する前に、あの娘が新聞をみるといふ悪い癖がありましてね』
『――成程』
 植木屋は、さつぱり理由がわからなかつたが、女中の解雇の理由にもいろいろあるものだと心に感心した。
 吉植博士は、寝床の中で、二種の新聞にずつと眼を一わたり通してからでなければ、起床しないといふ習慣であつたが、博士は新潟からきた女中が、朝早く起きて、玄関の鍵を外しに出たとき、玄関先に突立つて、新聞をひらいて、ざつとそれを読み、それからもとのやうに折畳んで、主人の枕元にもつてくることがわかつた、そのことが博士の自尊心をたいへん傷つけたのであつた。
 大速力をもつてまはる新聞輪転機、それに噛まれる巻取紙には、片つ端から文字が転写されながら、白い河のやうに流れだす、一切の機械的な操作で刷られる、その処女的な新鮮な、軽い油の匂ひと紙の匂ひをプンと匂はす、それを寝床の中で嗅ぐといふ博士の毎朝の楽しみは、新潟から女中がきてからぶちこはされてしまつた。
 購読料を払つた主人の権限を、購読料も払はない使用人ふぜいが先ず犯す――、
『実にたまらん、それに折目はめちや、めちやだ、近頃のわしに紙や活字の魅力的な匂ひは、みなあの女中奴に横領されてしまつた、実に不快そのものぢや――』
 博士の不満に夫人は女中に向つて
『ネイヤ、お前も新聞も満足にない田舎にゐたので、さぞ新聞を読みたいでせうが、新聞は御主人の学問のことでとつてゐるのです、だから、わたしも遠慮して、なるべく読まないやうにしてゐるほどなのですよ――』
 といふのであつた。丁度その時、博士は外出から帰つてきた、夫人はそれをしほに、女中に向つて、話を一層大袈裟にもつてゆかうとした、
『ねい、貴方、いまもネイヤに新聞のことを話してゐたのですが――』
 博士は、夫人には答へずに、いかにも苦々しい表情をして、でも鷹揚らしく、
『うむ、新聞のことか、いや大した問題ぢやないさ――』
 とうそぶくのであつた。
 その時、女中はいかにも言い難さうに体の向きを博士の方にかへながら、おづおづとしやべるのであつた。
『旦那さま、ではわたしの見る新聞を、別にとつていただきたうございます、お代はお給料の中から、引いていただきまして――』
 博士の顔色はみるみる変りだした。『何といふことだ、わしより先に読むなといふと、今度は自分で購読するといふ、――然も女中はたしか月五円やつてゐる筈だ、そのうちから払ふとは、いや大胆な話だ――』とこゝろに呟やいた。夫人は
『お前が別に新聞をとるの、まあ、それも悪くはないわね、でもそれでは角が立つといふことになるわ、お前も東京に出てきてみれば、いろいろ学問もしたいでせう、しかしねネイヤ、学問といふものは、べつに新聞からばかりとはかぎりませんよ、利巧になるといふことは、何も新聞を読まなくてもなれることですよ、御覧なさい、うちの犬のプーリを、教へもしなくても、両脚を使つて、上手に玄関や、勝手の戸をあけるぢやありませんか――』
 その言葉に今度は女中が、自分と犬と比較されたことで、何か胸のあたりがムカムカとして、気が済まなくなつて、嘔吐気さへもよほしてきた。
『でも奥様、プーリはほんとうに困ります、お台所の戸をあけましても、ただの一度だつて閉めたことは御座いませんの、そのおかげで空巣にわたしの下駄を盗まれました』
 女中は俄然、ママ弁になつてゆくのであつた、でも彼女の眼頭がしだいに熱くなるのであつた、彼女が顔をあげたとき、彼女はメソメソと泣いてゐた。
『ええ、奥様、旦那さま、(かういつて呼吸をのみこんでから)わたしはプーリより馬鹿でございます――』かういつて、主人夫婦に何か飛びかゝるやうな格好をした。
『ぢや、旦那さま、なぜプーリは、なぜ犬は新聞を読まないので御座いますか――』
 犬は読まない、しかし自分は読めるといふ立場を強調しようとして、こんな珍妙な問を発したのであつた。
 博士はぐつと詰つた、そして額に眉をけはしくよせた。
『何、犬が新聞を――、わしはまだ、それは研究しとらなかつたよ、アハハハ』
 博士は哄笑した、夫人も博士に声を合せて笑ふのであつた、最初、新聞のことは大した問題ではないと空うそぶいた博士は、いまはこの犬が何故新聞を読まないのかと、愚問を発して主人に反抗する女中を追ひ払はなければ気がすまなくなつた。
 女中は帰国した、夫人が毎朝新聞を博士の枕元まで運んできたから、新聞に就いては何事も起らなかつた筈であつた、こゝに不思議なことが起つた、といふのは、博士はたつたいま夫人の運んできた新聞の折つたまゝのものを寝床に仰向いて眺めてゐた、すると新聞の折が崩れてゐるのだ、そんな日が幾日もつづきだした、何者か、毎朝自分の見るのに先だつて新聞を開いてみるのだらう、悪魔のやうな女中の奴はゐないのだ、するとあいつに変つて新しい悪魔が忍びこんだのか、――博士は或る朝、またも折目の崩れた新聞を夫人から受けとつた、寝床に仰向いたまゝ、博士は何か秘密を探るやうに、新聞を開いた、とたんに怖ろしく大きなクシャミがつづけさまに出て、同時にまるで槍をもつて不意に突かれたやうな痛みを、両眼にかんじ、半こはれの機関銃を発射したやうに、クシャミは続けさまに出て、博士は両眼の痛みをしつかりと両手で押へ、クシャミをしながら、部屋中を狂ひまはるやうに駈けあるいた、夫人が襖をひらいて驚ろいて其場にやつてきた、夫人は博士を抱へるやうにして台所に連れてきて、水道の水で眼を洗滌し、ハンケチで幾度も鼻をかんでやることで、眼と鼻の苦痛は漸くにして去つた。
 博士の不機嫌な顔を見ると、その顔は夫人が結婚以来始めてみかけるやうな異状な不機嫌な顔をしてゐた、博士は無言のまゝで再び自分の寝床に引帰して行つたが、寝具の傍に投げとばされてある新聞を、怖ろしいもののやうに、再びそつと開いてみてゐたが、その時博士の表情は異常な驚ろきで痙攣し、殆んど口がきけないものの興奮にとらはれたのであつた。
『あゝ、プーリが、プーリが――』
 博士はかう叫ぶと新聞を鷲掴みにして夫人の部屋にやつてきた、博士は再度『あゝ、プーリが、プーリが』と繰り返し、無言のまゝ『静かにしろ、興奮するな――』といつた意味を示すために、両手で夫人を制しながら、眼は其処に坐れと命ずるのであつた、博士はまるで爆発物でも扱ふやうに、畳の上の新聞を開き、そこを博士の太い人さし指で強く指して『夫人にそこを見れ』と注意するのであつた。
 みると開かれた新聞には、おびたゞしい動物の脱毛が散らばつてゐた、夫人の直感は、すぐそれが老犬のプーリのものであることが容易にわかつた、いまこの脱毛が主人の鼻を襲つてクシャミをさせ、眼玉を襲つて涙を出させるやうな強激な事件をひき起こしただけに、夫人の神経も最極度に鋭敏なものになつてゐたのだらう、解雇した女中が博士に喰つてかゝつた反駁の一言がさつと電光のやうに頭をかすめて通つた。
『ぢや、旦那さま、プーリが、犬が何故新聞を読まないので御座いますか――』
 といつた女中の声、そのとき博士は
『何、犬が新聞を、わしはまだそれは研究しとらんよアハハハ――』
 と哄笑した声を思ひ出した『あゝ、プーリが新聞を読んでゐる――』と夫人はその場にぺたりと腰をつき、まるで悲しみにちかい驚ろきの表情で、手で強く顔を発作的に押しつけ始めた、博士は部屋の中を、あちこちと同じやうに往復をしてゐたが、まもなく夫妻は時が経つといつしよに、幾分気持がをちついてきた、
『プーリが毎朝新聞を読んでゐるといふことは、到底信ずることができない、何のためにそれをするのか、女中が新聞を読むまだそれはわかる、犬が読む、それは判らん、奴等はどういふ文化的な欲望からそれをやるのだろうわしはそれを確かめなければ――』
 と博士は言つた、
 博士は翌朝、まだ暗いうちに、寝室からさつと這ひ出した、玄関には犬のプーリがゐる、親戚から貰つてきたもので、もう彼是十歳にはなるだらう、プーリの、犬小屋は、最初庭にをいてあつたが、彼は歳をとるとともに寒がりになつた、それに用心のためとで玄関の中に犬小屋をいれるやうにしたのであつた、博士はそつと玄関に向つて忍びあるきながら、猫が眼鏡をかけて新聞を読んでゐる図のことを思ひだした
『老犬だから、或はあいつも化けるころかも知れん――』
 博士は玄関のタタキを見下ろすために、障子の傍に接近し、人さし指を口でしやぶつて、その指先をぬらした、その指で障子紙を押してそこに穴をつくり、じつとそこから玄関のタタキを眺きをろした。
 非常に待ち遠しい長い時間であつた、まもなく新聞配達が、玄関の戸のすきまから新聞を差入れる、カサ/\といふ音がしたと思ふと、殆んどその紙の音と同時に、犬小屋の中で寝藁の騒ぐやうな音がした、プーリがごそごそと小屋の中から現れた、博士は呼吸を凝らしながら、プーリの動作を見逃すまいとして、穴からのぞいてゐた。
 犬は高慢さうな顔を高くあげて、周囲をひとわたり眺めまはした、それから片足で新聞を軽く押へ、片足でちよい、ちよいとさはることで、新聞の小さな畳みは、わけもなく大きく拡げられた。
 次は、犬にとつても困難な仕事らしかつた、犬は第一面の広告欄をちらりと一瞥したきりで、その第一面の紙の端に口を近よせ、まるで長いことまるで接吻をしてゐるやうな姿でゐた、するとぱらりと大きく頁が開かれるのであつた。
 犬は強く空気を口で吸ふことで、一頁一頁開くことをやつてゐるのだ、――と博士は観察を下した、プーリは第三面の政治欄は、殊に熱中的に熟読してゐた、何かの仕事を読んで感動したときだらう、片足をもちあげて頭をぼりぼりと引掻いた、すると頭から脱気ママが新聞の上にばらばらと落ちるのであつた。
 犬は大部分をこの政治欄を読むことに費やした、三面記事のトップを、軽蔑的に、ちらりとみるかと思ふと、下段の黒枠つきの死亡広告を読むときは、犬は一層フフン、フフンと軽蔑的に鼻を鳴らすのであつた、ラジオ欄、娯楽欄は黙殺、家庭欄は興味があるらしく、料理に関する記事は熱心に貪るやうに読んで、こゝでは感極まるといつた声でクンクンと鼻を鳴らすのであつた、博士が後に調べて判つたのであつたが、その日の新聞の料理献立表を彼は愛読してゐたらしく、そこには『豚肉シチュー煮、白菜ごま酢』の取合せ献立と『牛肉ソーテ』の料理法がのつてゐた、
『肉を五切に切りわけ、塩、胡椒をふり、フライパンにバタをとかし、強火でその肉を焼く』云々と書かれてゐたから、プーリはそこのところを読んで、鼻を咽喉とをたまらなくなつてクンクン鳴らしたものと思はれる。新聞面のうちで全然顧みない欄があつた、それは四面の就職欄であつた。
 博士は障子の穴から強い視線をプーリの動作に注いだ、犬は一通り新聞を読み終ると、もとのやうにそれを畳みだした、実に上手に畳むのであつた。博士は咳やいた、
『「犬はなぜ新聞を読まないのか――」といふ、女中の質問に、わしは答へることができなかつた、アハハと笑つただけであつた、ところでプーリは文字を解してゐるので、しかしすべての犬が文字を解してゐるとは信じられない、いやいや或は人間の知らない処で、すべての犬共が新聞を読み、時局を論じてゐるのではないだらうか――』
 そのとき新聞を畳み終つたプーリは、新聞をその場にをき、犬小屋に再びもぐりこむために立ちあがつた、博士はもうたまらなくなつて犬にむかつて質問を発しないわけにはいかなくなつた、博士の学者的良心が眼を覚ましたのだらう、
『すべての犬はなぜ新聞を読まないのか――』
 と叫んだ、プーリは穏やかな表情をして、じつと博士の覗き穴をみつめてゐたが、その顔は、曾つて博士がプーリの表情の種類を知つてゐる限りでは、全くたゞの一度も見かけなかつたところの尊厳で、厳粛にみちた顔であつた、そしてプーリは低い声で何事かを答へた。
 この聴きとりにくい声を聴かうとして博士は焦らだつた、
『先生――、犬はなぜ新聞を読みませんか――』
 と博士はプーリに向つて、再び質問を発した、途端に博士はすべての精神も肉体も財産も肉親もあらゆる所有を失つたやうな寂寥に襲はれて、『先生』とはなんといふこと葉だ、しかもそれは犬が博士に向かつて言つたのではなくて、博士が畜生である犬に向かつて言つた言葉であつた、博士は学問的主従関係の上でも、先輩にむかつて、いまだかつて××さんとは呼んでも、『先生』といふ敬称で呼んだことは、ただの一度もなかつたのであつた、犬に向つて先生――といふ言葉が無意識に飛び出してしまつたのだ、博士に『犬はなぜ新聞を読まないか――』と女中風情に研究の主題を与へられながら、それにはすぐ答へられなかつた上に、いままた犬畜生を先生と呼んで自己を卑しくしてしまつた、学問の権威を失墜させた、『あゝ』(四字不明)[#「(四字不明)」は本文中の注記]から思ふと、ススリ泣きに似た感情が博士を捉へたのであつた、博士はこゝを千どとさながら畜生の学徒にむかつて人間の学徒が戦ひをいどむかのやうに、戦士のやうな努力を、犬に対する質問のために払はうとしてゐた、すべての犬が果してプーリのやうに文字を解してゐるとは限らないといふ、犬が文字を読むことを否定しようとして、博士は覗き穴から叫んだ。
『先生、犬はなぜ新聞を読まないか――』
 と博士は覗き穴から再度プーリに質問を発した、そのとき犬は明瞭な声で、
『文字を知らないからさ――』
 とぶつきらぼうに答へた、このとき博士はとつぜんどこかに隠れてゐた人間の優越感と、権威とが目ざめたのであつた、博士はガラリと玄関の障子を引あけると同時に割れ鍋を叩くやうな大きな声で犬にむかつて吐鳴つた、
『この化犬め、出てうせろ――』
 するとプーリはみるも惨めに尻尾をくるりと尻の間に挾みこんだと思ふと、前肢で玄関の戸を開いて、出て行かうとしたが鍵がかゝつてゐて開かなかつた、博士は玄関の土間へ裸足のまゝとびをりて、ガチャガチャいはして鍵をはずして、戸を荒々しく開けひろげると、プーリは博士の股の間をするりとくぐりぬけてあわてゝ戸外にとびだした、さうして博士の家では、新聞を読まうとした女中と、新聞を読んでゐた犬とを解雇した、
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