(四)
隣家の妻君が朝飯の最中純白な西洋皿に、体裁よくならべた泥鰌の蒲焼を盛つたものを手にして裏口に現れた。 ――奥様、今朝は面白うございましたよ。 かういつて、隣家の妻君はその皿を意味ありげに差し出すのであつた。 ――まあ、おいしさうな、これは御馳走さまです、始終いろ/\戴いてばかりをりまして。今朝なにか御座いましたのですか。 ――それが騒ぎなんですよ。前の溝に泥鰌が押寄せてきましてね。近所ではザルをもちだしたりして。 と隣家の妻君は語るのであつた。 その朝にかぎつて日頃早起きの私達は寝坊をしたのであつた。 そういはれゝば、私は夢うつゝの中に、人々の立ち騒ぐのを聴いた。チャブ/\と水を歩き廻る気配や、女の声や、子供のはしやぐ声を玄関先にきいた。然し二人の床を離れた頃には、これらの物音は消えて、ひつそりとした朝であつた。私の住居の前一間と隔てずに幅三尺程の流れがあつた。小川といふよりもいつも濁つてゐたので溝といつた方が適当と思はれた。この流れは水田の排水口につながれてゐるので、この溝は水がから/\に涸れたりいつぺんに増水して溢れたりした。前夜の豪雨に田の水があふれ一気に田の中の泥鰌をさらつてこの溝に押出してきたものらしい。隣家では、一家族総出で米揚げ笊を持ちだして二升位もとつたといふことであつた。 隣家からの泥鰌の蒲焼を食卓のまん中に置いた。 その香気のあるおいしさうな匂は私の鼻をかんばしく衝いた。 ――お前は、ないことに今朝は寝坊をしたね。 私の妻に対する言葉は表面穏かであつたが思ひがけない幸福をとり逃がしたやうな、腹の何処かに滑稽な悲しみに似たものがこみあげてくるのであつた。 ――わたしも、今朝なにか騒がしいと思ひましたよ。 ――思ひついたら起きて見たらよかつたぢやないか。 青丸はしきりに、小さな手で食卓の上にはい上がらうと努力してゐたが急にむせびだして顔を火のやうに赤くしだし、喰べてゐた飯をテーブルいつぱいに噴きだし激しく続けさまに咳をしだした。 いかにもその咳が苦しさうであつた。妻は慌てゝ強く青丸の背を平手で打つた。青丸は眼を赤く充血さして、ゼイ/″\と壊れた笛のやうに、のどをいはしながら、鶏のやうにのどをながく伸していつまでも咳をし続けた。 ――貴郎、青ちやんは、百日咳に取りつかれたんぢやなくつて。どうもさうらしいわ。 妻は心配さうに青丸の様子を窺ひながら私にかう問ふのであつた。 ――そんなことはお医者ぢやないから知るもんか。 私はかう邪険に突離してをいて泥鰌の蒲焼のひとつを口にほうりこんだ。妙に乾燥した風味と、そして泥鰌の背の軽い骨とを歯に感じた。しかしその香気は風に散つてしまつたかのやうに何の味もないものとなつてゐた。 ------------------------ 雨中記
電車を降りて××橋から、雨の中を私と彼とは銀座の方面に向つて歩るきだした、私と彼とは一本の洋傘の中にぴつたりと身を寄せて、黒い太い洋傘の柄を二つの掌で握り合つてゐる。 男同志の相合傘といふものは、女とのそれよりも涯かにもつと親密な感じがするものである、殊に私は彼とこんな機会でなければ、おたがひにかう激しく肩を打ちつけ合ふことはあるまいと考へた。 彼の肩は大きい、私の肩は瘠せて細い、彼の肩幅の広くて岩畳な傍に添つてゐるだけでも何かしら安心ができる気がする、また彼の額は深く禿げあがつて赤味を帯びて光つてゐる、彼がのしのしと歩るいてゐるのに、私は気忙しい足取りで、それに調和しようと努力する、彼の醜怪なほど逞しい赤い額は、暗い雨雲も押しのけてしまひさうな頑健さだ。 二人は雨の日に銀座の散歩に来たといふことを少しも後悔はして居ない。 「濡れるぞ、もつとこつちへ寄り給へ、情味は薄暮れの銀盤をゆくごとしだね」 私はかう言つて彼の方に余計に洋傘をさしかけながら、雨の路面を見た。 路面には少しの塵芥もなかつた、連日の降雨に奇麗に洗ひ流されたのだらう、数枚の広告ビラらしい小さな紙片が散らばつてゐたが。 その紙片は実に雨にも流されないほどに執念深く、鋭どい爪をもつた羽のやうに舗石にへばりついてゐた。 もし塵芥めいたものを、洗ひ流された路面に求めるならば、彼と私との惨めに歪んだ靴であらう、二人の靴は大きな黒い塵芥の凝固のやうにも見えたからである。 私はその靴の先で、降雨の中の広告ビラの一枚を蹴つて見た。するとこの青味がかつた濡れた紙は、カマキリか小さな蜥蜴かなにかのやうに、カッと口を開いて、赤い舌をさへ見せて不意に私の靴先に噛みつく、 「なんて悪意に満ちた奴だ」 私は舌打をして、憎々しくビラを微塵になれと強く踏みつける、私は同時にその紙片を二重に憎悪した、それは建物も低く少ない、田舎の街での出来事であつた。 秋の風が街を幾度も吹きすぎる、私はその激しい風に向つてなんの持ち物もなく、行軍かなにかのやうに一生懸命になつて歩るいてゐる、砂塵がバラバラ頬を散弾のやうに打つ、私は何度も立ち止まつて休息し、風の凪ぎ間を見てまた歩るき出す、すると不意に私の眼と口とをふさいだ大きな掌があつたのだ。 私はこの寂しい街で露西亜の強盗にでも逢つたやうに驚ろき慌てて、その巨大な掌をはらいのけた、私を窒息させようとした掌は、風に飛んできた活動写真のビラであつた。 その時私は広告ビラを心から憎んだ、そしてまた人間の顔を掩ふほどの馬鹿気て大きなビラの注文主を憎み、風の日のそのビラの撒布者をも憎んだことがあつた、いままた都会の舗石道で、同じやうなビラで靴を噛まれたのであつた。 憎悪すべきものや、親愛なものは、こんな愚にもつかない紙片にもある、私はかう感じた、すると憂鬱な気持がどこからともなく襲つてきて、彼と洋傘の柄を握り合つてゐるといふことがとても堪へられない事に思はれだした。 私はじつと頭上の傘に雨の降つてゐるのを仰ぎ見た、それから彼の横顔を盗み見た、その時、私は二つの感情が一本の洋傘の柄を中にして、微細に働き合つてゐることに気がついた。 二人は柄を押し合ひ、へし合ひしてゐるのであつた、一本の傘は絶えず一方の肩を濡らさなければ、一人が完全に雨を避けることができない程小さなものだ、そこで彼も私もおたがひに譲歩し合ひ、自分の体が雨にすこしも当らぬときは、必らず相手の肩を濡らしてゐることを考へなければならなかつた。 その仕事はなかなか苦痛であつた、洋傘の柄を二人で握り合ふことの容易でないことを思つた、それに私は彼を自分よりも多く雨に濡らしてゐるのだ、その上に私は激しい欲望が湧いてきて、これらの非常に円満な謙譲や、生温かい友愛や、を憎みだし軽蔑しだした、動物的な本能は、彼からその傘を奪ひ去るか、彼にまつたく傘を与へて自分はズブ濡れで歩るくか、どつちかに決めなければ気が済まなかつた、私はジリジリと柄を手元に引き寄せる、あつけない程柔順にその柄は引き寄せられる、然しあるところまで来ると彼はその柄をピッタリと押へる、それから彼の利己心は、次第に私の手元から傘を引戻さうとするその彼の感情は醜いものではなくて、常識的すぎるほど世間なみなものだ。彼はそして私の傘の柄をもつことにさへも、このやうに激烈な気持をもたなければ気が済まない性格を不思議に思ひ、笑つてでもゐるかのやうであつた。 雨の日の電車線路は、鈍重な刃物をおもはせた、ここの十字路を踏み切るときには、洋傘を彼に手渡し、私は彼にはお構へなしにどんどん駈けて向ふ側に渡り、商店の雨覆の中に入りこんで彼のやつて来るのを待つた。雨の日の轢死、私はそんな恐怖にとらはれてゐた、雨の日の轢死は私の血を跡形もなく流し去る、そして体は散々になつて、その附属物のかならず一品を失はふ、例へば舌とか足の親指とか、甚しい時には頭が夜更けの車庫まで運び込まれて、検車係りの安全燈に照しだされたりする、私はそんな目に逢ふのは嫌だと思つた、往来する電車は何時も見る電車よりも、少しく大型に脹れて見えた、乗客もみな鳥の翼のやうに、だらりと袖をさげてゐた。 ------------------------ 諷刺短篇七種
盗む男の才能に関する話
痩せて背の高い男が、夜の縁日を歩るいてゐた、賑やかな人通りの群から、最も眼の穏やかな人間を選むとすれば彼だらう。眠つてゐるとも見える彼の眼は、糸を引いたやうにしか開かれてゐない。 彼は群集にまぢつて、縁日の玩具にながめ入つてゐた、其処の金盥の水の上には、三艘のブリキ製の舟が、小蝋燭をもやすことで、物理的に走り廻つてゐた。 彼は玩具を眺めながら、悲しさうな表情をした、実はこの玩具の考案は、この男がしたのであつた。 彼は二度目の、窃盗、文書偽造の刑期を勤め上げる間に、刑務所の中での退屈な時間をこの玩具の考案に費したのであつた。出獄した彼はこの考案を金にしようとしたが、思ふやうにいかず、前科者の故で職もなく、再び生活に窮した彼は、癇癪を起し、彼にとつて最後的な生活方法である忍びの術に還つたのであつた。 三犯目の年貢を収めて、彼はつい昨日刑務所を出た許りであつた、彼の刑期中に誰の手からともなく、彼の考案とそつくりのブリキの舟が縁日に売り出されてゐるのを、彼はいま発見したのである。 盥の中の三艘の舟は忙がしさうに走り、折々船端を打ちつけ合つて、盥の岸に停つた、夜店の玩具売りの男は、一刻も安息をゆるさないといつたふうに、指で邪険に舟を岸から突き離した。 彼もまた突き離されたやうに、夜店の人の群から離れて歩きだした。 今度も刑期中に彼は三種の考案をしてきた、一つは『自動食器洗ひ』で他は『地引網の浮子の改良』と『魔法の折紙』と彼が名づけたものであつた。魔法の折紙とは、一つの基本的な折方から出発して、様々の形に三十七種まで麒麟やら、扇やら、機関車などに変化するもので、彼は獄中で差入れの塵紙を根気よく折り返して考案したのだ、発売したら子供達が喜びさうなものであつた。『自動食器洗ひ』は、ハンドルを廻すことで、沸騰した湯のいつぱいな円筒の中で食器は洗はれて飛び出す、すべての家庭婦人、殊に炊事の為に、荒蕪地のやうに荒れ、ヒビ割れた手をもつてゐる女中達が、彼の発明品が世に出ることで救はれることを、彼自身信じてゐた、然し彼は之等の有益無益の発明考案を、商品化することが出来なかつた。 社会は――刑期が満ちて当人の罰が終つて仕舞へば、全然もう放うたらかして仕舞ふ、即ち、当人に対してその最高の義務の生じようといふその瞬間に、全然彼を見捨てて仕舞ふとオスカア・ワイルドが受刑者を哀れんだ言葉があるが、彼も一歩刑務所を出るや否や、社会の義務は彼を離れた。 途端に彼の住所へ顔見知りの刑事が『おゝ居るか――』と訪れてきた、彼は更に新らしく監視されるといふ義務を負はなければならなかつた。 彼はいま懐中から手帳を取出して、歩きながら書いてある事柄を調べ始めた、手帳には『お召羽織二十歳位花模様』『男帯綴織風のもの』『三十五六歳向ショール茶色』『上等ウヰスキイ三本贈答用』などと書かれてあつた。 彼はこれらの品物を、デパートの各階から選択して盗むのである、彼の出獄を歓迎するものは、彼の盗品を喜んで引受け金に代へて呉れる怪しい家だけであつた。 彼は発明品への投資者を求めながら、己れの才能に反する万引や窃盗をして歩るくのであつた。
暗黒中のインテリゲンチャ虫の趨光性に就いて
暗黒中の『下等動物の趨光性学説に就いて』といふ興味ある林泉太郎博士の研究発表の講演は終つた。 人々は講堂から控室へ通ずる細長い廊下へでた。廊下はさして暗いとはいへないが、しかし三時間もの長い講演の疲れと、学的興味で人々の頭はいつぱいになつてゐたし、また講演の性質上、廊下の暗さが人々を運命的な感傷にとらへたのであつた。 当日の講演が如何に感動的であつたかといふことは、聴講の学者達がうす暗い廊下を満足に前進することができない程、興奮してゐることでもわかるのであつた。 吉本博士は、たえず人さし指で廊下の壁にふれ、頭を垂れて、非常にゆつくり歩き、そしてじつと立止つて思索にふけつてゐる時間の方が長かつた。潮博士はふかく腕を組み、軽く靴を鳴らして、三歩前進しては、体をくるりと一廻転するのであつた。 人々がみな去つてしまひ、がらんとした講堂の中に、野村長命博士が腑抜けのやうに、前方の黒板に、講演者がチョークで書きのこして去つた、直線や、電光形や、渦巻きやの白線を凝然とみつめてゐた。博士の洋服のやせた膝の上に、ぽとりと小さな滴が落ちた。滴りは博士のめくれた唇の端から粘液となつてだらしなく膝の上に落ちたものだ。しかし決してヨダレと速断することは出来ない、なぜといつて両眼から液体が二条の帯のやうに頬を光つて下り、鼻下の薄い髯の中にいつたん収容されてから、口に流れ込んでゐることを発見出来たから、膝の上に落ちた液体は涙でなく、又鼻水でなく、よだれでもなく、これらの三つのものが化合したものといへるだらう。 野村博士は泣いた、それは無理もない、林泉太郎博士の今回の研究発表によつて、野村博士の従来の暗黒中の幼虫の光線に対する反応が、光度、感受性、内的傾向の三つよりなるとする三大原則は脆くも打破られたのであつた。 野村博士は腰掛けを立ちあがつて黒板に近づき、講演者の描いた図式を、消したり、かき加へたり始めた。 これまで実験に供してゐた下等動物は、梅毛虫、ヨトウムシ、モンクロシャチホコ等であつたが林泉太郎博士は新らたにインテリゲンチャ虫といふ新種を発見したのであつた。暗黒の箱の中に、これ等の下等動物を入れて、きまつた時間だけ這ひまはらす、之等の下等動物の行動は、箱の底に敷かれた科学的な媒紙に虫の歩いた足跡がそのまゝ白く記録される、暗黒中の梅毛虫は、ただぐるぐると円を描いてゐた。ある虫はイナヅマ型に光りを求めて足跡を媒紙の上に残してゐた。そして梅毛虫より、はるかに感受性の鈍な愚かしいヨトウムシ、こ奴は、平素地下又は植物の茎の中に潜入してゐるのだが、より下等なこの動物が、意外にもいかにも自信ありげに直線的にすすんでゐるのだ。 暗黒中に今度は光線を一ヶ所、又は二ヶ所あるひは交互に点滅させてから、その光りを求める行動を実験するのだ。 博士は黒板に倚りかかり、長い吐息をしてからほそぼそと呟いた。 『ところでどうぢや、わしの負けぢや、インテリゲンチャ虫は、光の中に開放されても光刺戟によつてかへつて行動が抑圧されて、同じ処をぐるぐるまひぢや、わしは敏感な知識人だ、だがどうぢや、わしの学説はぐるぐる舞をやつてゐる、光、希望、直線、暗黒、宿命、ぐるぐるまひ、あゝわしの人生はまさに後者ぢや』敗北者野村博士は突然激しく、白墨を持つた手を痙攣させた、何か博士の体に異状が起つたにちがひない、博士は遠くに、夢のやうに笑声をきいた、片足の膝頭は弾丸のやうな音をたてゝ床板にうちつけられ、博士のからだは脆く崩れた。
深海に於ける蛸の神経衰弱症状
有名な潜水鉄球に依る探海家であり、且つ医師であるロバトスン博士は、八百米の深海に助手と共に降りて行つた。 前面硝子を通して、一尾の奇怪な軟体動物を発見した、博士は早速助手に命じて、鉄球内から照光器の光りを、この動物にむけ、照らし出させ、しきりにこの深海動物の動作を視察したのであつた。 この動物は、一個の頭と四本の足とをもつてゐて、何か枕様の物体に、その頭をのせ呻吟してゐる風であつたが、博士はこの動物が蛸であるといふ見極めをつけるのに、かなり長い時間をかけなければならなかつた。 『博士、蛸にしては肢が四本よりありませんが――』 『××助手、彼奴には立派に八本の足があつたのさ、よく注意してごらん、ほら根元から千切れた痕が四ヶ所あるだらう』 『ぢやあ、何かに喰ひ千切られたわけですか』 『さうだよ、鱶か何か鋭利な歯をもつたものにねつまり深海に於ける階級闘争に負けたのだよ』 『ほう、そして何故あゝ身悶へして転んで許りゐるのでせう』 『つまり頭が大きすぎるのだよ、頭が自由主義だが、足の行動が伴はないといふわけさハハハハ』 『博士、アンコーの群が泳いできましたよ』 『み給へ、あいつらは蛸のやうな頭は持たないが、そのかはり自分の身の巡りを照らす発光器をもつて群集行動をしてあるける悧巧ものだ、ところで助手君はこの蛸の職業を知つてゐるかね』 『職業といひますと、深海に於ける蛸の社会的地位ですか、たとへば官吏であるか、商人であるかといつた――』 『さうだ、彼は私の観察では、小説家だと思ふね、ほらよく注意して、彼の足の一本に、特別大きなイボのあるのをみつけ給へ、つまり彼は平素これにペンのやうなものをはさんで、ものを書いてゐた職業にあつたのだ、つまりペンダコと認めたいね』 そのとき海底に異常な出来事がおきた、博士は衝動的に、手をもつて助手を制し、それから蛸を驚ろかせないために、照光器の光りをうすくし、潜水鉄球の位置を移動し、蛸に接近し、じつと二人は眼を凝らすのであつた。 蛸はそのとき何やら小さな棒状のものを、海底から拾つては、傍のおそろしく大きな学名マクロシスケス・ピリフヱラといはれてゐる海藻、一つの根で六百六十尺にも達するものその茎の一部へ蛸はしきりに、小さな棒を拾つては、忙がしさうに押してゐるのであつた。 『あッ、博士、彼は印刷活字でしきりに押してゐます、どうしてこんな処に活字の字母など』 博士は微笑した。 『あわてることはないよ、彼は海の自由主義者である、しかし問題はどうしてかういふ深海に活字があるかといふ疑問だ、おそらく何処かの都市で事変でもあつて、新聞社の活字が大量に河に投げ込まれたのだらう、それが海流の関係でここまできた、彼がいまこゝで拾ひ集めて何か記録してゐるのだらう』 博士と助手は固唾をのんで、傷ついた蛸がせはしげに海藻の茎に押してゐる文字を読みとらうとした、そこには斯う印刷されてあつた。 『あワレな自由しゆ義者の神経スイジャクをおたスけ下さい』
芸妓聯隊の敵前渡河
燈ともし頃、大森の料亭『資本』に、三人組の定連がやつて来た。 読者諸君でもし料亭の名が『資本』など、をかしいとお思ひになつたとすれば、それは諸君が野暮天であり、少くとも粋な御仁でない、玄関で下駄をぬぐのを中止して、もう一度表門へ引返し、軒燈の文字を見あげて欲しい、そこには『すけもと』と書かれてある筈だ、傍の門柱には、この家の主人の名が『資本主義』とあることが判るであらう。 着流し一人、洋服二人の、定連三人組の素性に就いては、今から三年前、この人々が始めて遊びに来た頃にさかのぼらなければならぬ。 『ちよいと、旦那、あなた○○さんでせう』と十六歳の半玉雛太に看破されてしまつた。 『うへつ、当つちよる、烱眼ぢやわい、どうして判つたか、言つて見い』 と着流しの客は、素直に兜をぬいだ、半玉は誇らしさうに白眼づかひの微笑をもらした、無邪気な半玉は、○○の膝の上で、右手で客の首を抱へ込み、コンパクトの鏡を、客の鼻先に突きつけるのであつた。 『ほら、旦那のこゝに、白い条が額にあるでせう、皆さんも御覧よ、これが露満国境なの、髪の毛のある方は森でロシヤだわ、顔の方は満洲国でせう、耳の方が蒙古でせう』 雛太は客の額を、可愛い指でつゝきまはした。 『もうよいよい、白状する、いかにもわしは露満国境から帰つてきた許りぢやでな、帽子の日焼がまだとれんで、すぐ○○と判りをるわいハハハハ―』 客と芸妓達は笑ふのであつた。 『然らば小生の職業を当ててみい―』とその時一人の洋服の客はいふ。 『あら、旦那は、ブルジョアでせう』 『ブルヂョアはよかつたね、露骨な奴だなあ、いかにもさうだよ』 雛太はチラと姉芸妓に眼をやつてから 『姉さんが教へてくれたのよ、洋服のチョッキの釦が掛らない位、肥へていらつしやるお客はブルヂョアだつてさ―』 なるほど客はチョッキの下釦が三つもはずれてゐるのであつた。 『いかにも、わしは肥へてゐるでのう、近頃の女の子は眼が利くわい』 製鋼会社社長氏と、今一人の官吏氏とは、太つ腹に哄笑した。 『芸者諸君、さう喰つて許りをらんで、何か余興をやらんか、陸軍記念日の兵卒達の余興より、おぬし等は本職だから、うまいぢやらう、槍さびがいゝぞ』 と客は芸妓達に所望するのであつた、爾来この三人組は『資本』にやつてきた。 来る度に、着流しの客の額の日焼の跡ははつきりし、他の客のチョッキの釦は、かゝらなくなつたやうだ。 『おい、芸妓ども、列べッ、敵前渡河ぢや』 芸妓達はならび、三味線を掻き鳴らし、黄色い声で歌ひ出した。 『浅い河なら―膝までめくる』 選ばれた踊り子雛太は、しぶしぶ立つて舞つた、兵士が敵前の河を渡るしぐさをするのであつた。 歌の文句は浅い河から、だんだんと水の深いところに進んで行つた。 歌につれて雛太はお座敷着の裾を両手でつまみ、それをめくり上げながら次第に白い脛を現していつた。 『勇敢にせんか、敵前ぢやぞ』 水は膝頭よりだんだん深くなつていつた、途端に雛太は白い脛を飜しぺたりと坐り、わつと泣き出した。 『旦那、あなたが、浅い河を踊りなさいよ』 半玉は手にしたハンカチを客の顔に投げつけた、客はムット怒つた顔で怒鳴つた。 『馬鹿ッ、上官に反抗するか、上官は敵前渡河は馬に乗つてやるもんぢや―』
村会の議題『旦那の湯加減並に蝋燭製造の件』
電燈も、飯米も、肥料も、種子もない。抽象的な言ひ方をすれば、百姓だけがゐる村へ、都会から××政党の農村視察の旦那が訪ねて来た。 柔らかい、白い手の平を愛嬌よく振りながら、旦那の姿が、村へ入る峠へ現れた。村長、村会議員、青年団、処女会、子供、飼犬、等、村の土臭いもので、足をもつてゐる、すべてのものが出迎へた。もし旦那の所属してゐる政党と、村との関係とを説得することが出来たら、熊蜂や、蚯蚓や、山雀も出迎へに引出しただらう。村長の気持を打ちあければ、畑の物や、山の木の葉をさへ、旦那のいらつしやる方角へ、一枚一枚、葉を向けたいほどに敬意を払つてゐた。 村長の家に旦那が旅装を解いた頃、村民は二手に分かれた、一組は村の背後の山へのぼつて行つた。村の附近の山は、全くの禿山であつたので、三つも谷を越えて、一同は山奥へ薪木をとりに行くのであつた。 もう一組は、急斜面のふかい谷底へ、各自が桶を手にして水汲みに降りて行つた。 二組はなかなか村へ帰つて来なかつたが、間もなく百姓の群は戻つてきた、百姓達はガヤガヤと大騒ぎをしながら、村の原始的な共同風呂である大釜へ、新鮮な水をたつぷりと入れ、乾いた薪木を燃やした。 釜の底へ、直接体が触れぬやうに、小格子の丸い敷板があつて、それを旦那は重い体で沈ませ、肩までひたるのであつたが、湯は旦那の体の容積だけ、ザブリとこぼれた。 百姓は、あわてゝ手桶をもつて村の谷底へ大騒ぎをしながら、水汲みに降りた。 旦那は村で五衛門風呂と言はれてゐる大釜へひたり、後頭を釜の縁にかけ、両眼をつむり『ふん、ふん』と鼻の先を鳴らしながら、一人一人から村の状勢をきいてゐた。 間もなく旦那は恍惚状態に陥つた、全く身動きをしない、ただ『熱い―』と一言いはれる、百姓達は驚いて、傍の桶の水を、ザアと釜にあけた、そして次の用意のために、水汲隊は谷底へいそいだ。 旦那は今度は『ぬるい―』とただ一言感想を述べた、百姓達は驚ろき、釜の下の火を掻きたて、薪を加へ、薪とり隊は山奥へ木をとりにでかけた。 『旦那に粗相のないやうに、するだよ』かういひながら村長は折々風呂小屋を覗きに来た、そして湯気の中に陶然と眠つてゐる客人を見て、満足さうに引返へしていつた。 旦那は懶さうに、『ぬるい―』と云ひ、癇癖さうに『あつい―』といふだけで、百姓達は、水を加へ、火を焚くことを繰り返へし、果ては混乱状態で、薪木隊と水汲隊とは、山と谷とを騒ぎまはつた、その混乱は遂に村会まで開かした、議題は『旦那の湯加減の件』『蝋燭製造の件』であつた、湯加減の件は議論が沸騰し、殴り合つた、旦那の熱い、ぬるいの一言だけで、村中の人が動員されるのは嫌だといふのだ、『蝋燭製造の件』は満場一致可決した、そしてすぐ製造にとりかゝつた、旦那が身動きする毎に、あふれる湯を樋に依つて、一方の大桶に導いた、間もなく桶にはビンツケ油か、バタのやうな旦那の脂肪が沈澱した、それは真甲鯨の脂肪を精製して造つた鯨油蝋燭よりもつと立派なものであつた、村会では燈火のない村民の各戸へそれを一本宛配給した。 次いで村会は開かれた、議題は『旦那を風呂から上げる件』であつた、今度は若い無産派議員の意見で、水汲隊を解散、之を焚木隊に編入、一切釜に水を加へず、さかんに火を焚きつけることに可決した、それを実行に移した、旦那はいつぺんに釜から飛び上り、裸の儘で片足の足の裏を両手で掴み、ふうふう、ふきながら、片足で村中をとび廻つた。
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