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小熊秀雄全集(おぐまひでおぜんしゅう)-15

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-29 7:03:04 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



  遙か彼方を眺むれば

 彼は監房での人気者であつた。手を膝の上にのせて頭蓋骨を外して手で捧げてゐる恰好で茫として坐つてゐた。係官に名前を呼ばれて立ち上るときはふだんは茫としてゐるのに似ず機敏で本能的な早さがあつた。
 彼は栃木県の或る町で空腹に襲はれた。彼は盗るものを物色した、彼の執拗な視線の先方に紙芝居屋の自転車が一台、原つぱのまん中に立てゝあるのをみつけた。紙芝居屋は子供を集めに何処かに行つたのだらう、彼は紙芝居の箱の抽き出しから、一円二十銭の金を鷲掴みにした。
 金が入ると彼は身内に勇気が蘇り、曇り日の街を非常な速度で走り抜けた。街端れの屋台にとびこんで、一杯十銭の安ウイスキーを十杯煽つた残りの二十銭で丸パンを買つて、ひよろ/\とした足どりで其処を出た。
 紙袋の中からパンを一つとりだして、アングリと噛みつき鼻声で笑ひ出した。彼の心は幸福なのである。
 宅地を横切る時、意外な敵が現れた。酔つた視線の中の敵とは、彼の足の脹脛ふくらはぎを目がけて土埃りをあげ、頸毛をふくらませて突進してくる一羽の牝鶏であつた。彼はいつぺんに悲しくなり、同時に非常に驚ろいた。全く大胆さを失つて、『あゝ牝鶏が一体どうしよう』と叫び飛び上り、後を見ずに逃げだした。心の中では、牝鶏に追れてゐるといふ自分が何か忍び難いものに感じられた。
 ゆるやかに水が流れてゐる幅の広い河の岸に辿りつき、ボツボツと大粒の雨が水面に斑点となつておちるのを、一つ一つ眺め浅瀬を対岸に渡つた。
 古損木こそんぼくになりかけの一本の見上げるやうな高い樫の大木の下までくると彼は猿のやうによぢのぼり始めた。樹の頂上に近い手頃な枝にまたがつて、さて牝鶏めはと下を見おろしたが、牝鶏の影も形も見えなかつた。
『牝鶏でも、巡査でもやつて来い』彼は叫んで強く胸を打ち、遠方に視線をとばすと、意外にも彼の希望通りのものがやつてきた。豆粒程にも小さい黒い点が、腰のあたりで、にぶく白く光ることで剣を吊してゐることがはつきり判る。然も一人や二人ではなく七人の警官が遠くから走つて来るのを発見した。彼は少しも驚かず懐中から紙袋を出してパンにムチャクチャに噛りついた。その時雨は土砂降りとなつて、樹の上の彼は頭から雨を浴び、腹の中まで雨を流しこみながら、腰を枝に押しつけ、片足を前の枝にかけ、右手を帽子の庇の格好に、遠くに向つてかざしながら大声で怒鳴つた、彼の声は渋い良い声であつた。
『牝鶏でも巡査でもやつて来い』かういつてから、頬を伝ふ雨が口に入るのを、こくり、こくりのみこみながら、
『雲か霞か、遙か彼方を眺むれば――絶景かな、絶景かな、春宵一刻千金だア、ちいセイ/\、この五右衛門の眼からみれば価万両、てもよき眺めぢやなアー』と石川五右衛門が、南禅寺の山門から春の日うかうかと屋根に上つて京都を眺めて叫んだ、『楼門五三の桐』の歌舞伎のセリフを一くさり叫んだ。大木の幹の周りを警官がとりまくまで、彼は陶然として豪雨の中で見得をきつてゐた。監房ホテルの中で係官の註文によつて、お人好しの彼は大真面目で再演するのであつた。監房では彼のことを『遙か彼方』或ひは『雲か霞か』といふ綽名で呼んでゐた。

  思索的な路の歌

 彼の家の方角に通ずる路は坦坦としたアスファルトの軍用道路で、彼はこの道が好きであつた。勝手なことを想像して歩るく楽しみから『思索的な路』と彼は名づけた。深夜の路ををりをりバスがヘッドライトの光りで路上を撫で廻し、運転手が空バスを悪戯半分操縦して通るほど人通りが稀であつた。
 彼はその夜も文学の会に出て、したたか酔つて夜更の路を帰つてきた、『司会者は、頭がいゝぞ――。』と彼は呟いた、会費僅か六十銭で酒が出て、とにかく板のやうではあつたが肉の揚げたものが一皿ついた。会では二人に一本の割にビールが出たので、女客や、飲まない客の分までのめた。酒好き党は、結局禁酒党の会費の分にまで割込んだかたちで一本乃至一本半の酒がのめた。
『おゝなんていゝ風だ』と彼は路を千鳥に縫ひ歩るきながら、三本目の電柱毎に立止つては、立つたまゝ冷たい柱に額を押しつけ、そこで二分間づゝ居眠りをして、前にすゝむのであつた。
 ふと見ると広い道路の真中どころに、馬の二倍ほどある黒い動物がじつと彼のやつて来るのを待ち構へてゐた。彼は恐怖しながら接近した、黒いものの形は動物の黒い影絵シルエットで影から三米離れたところに怪物の本体がゐた。
『なんてちつぽけな奴だい―』
 彼は怪物を軽蔑した、手の平にのつかりさうな一匹の小犬がクンクンと泣きながら立つてゐた。電燈の光りの加減で倍加されて影が道路に映つてゐるのであつた。
『やい、小犬奴が、わが王者の御通行をはばむとは―さては我に害心ありと見えたり』
 足を踏張り芝居がかりで、彼は小犬の鼻先へ親指を突き出し『怪物消えてなくなれッ』ととりとめもないことを呪ひ出した。
 小犬はだんだんと拳ほどの大きさから鶏卵の大きさに縮まり、ピンポン玉ほどになり、つひに姿を消した。彼は胸をそらし、陽気になつて大きな声で歌をうたひだした。
 不意に道路脇の暗がりから、若い警官が現れてきて呼びとめた。
『ちよつと待ち給へ、君はいま何の歌をうたつてゐたかね―』
 彼はいま歌つてゐた許りの歌を忘れてゐた。若い警官は改まつてたづねた。
『君は現在の政府に不満をもつてゐないかね』
 不意のメンタルテストに狼狽した彼は、かうした場合その場で率直に答へることが却つて有利だと思つたので
『今から約二年前は、政府に不満を抱いてをりましたが、今は全く感謝そのものでありまして―』
『よろしい、ところで一寸本署まで来てくれ給へ』
 彼は思想課調べ室へ呼び出された。
『おゝ、××君、君は革命歌をうたつたさうだね』
 彼はなんて冤罪だ―と心に怒つた。絶対に歌つた覚えはないのだ。思索的な路で、どうして非思索的な革命歌なぞを歌ふといふことがあらう。
 何心なく係官の机の上の紙きれをみた、彼を連れて来た若い巡査の書いた報告書がのつてゐた。
『×月×日午前一時頃××道路に於て警戒中泥酔せる男が放歌高声にて「彼等は常に我等の行動を監視し」と不穏なる歌を歌ひつゝ通行せるを連行せり』云々
 と書かれてあつた。彼に記憶が蘇つてきた、さうだ、ステンカラージンの歌をうたつた筈であつた。

ドンコサックの群に湧きにしそし
『我等』は飢ゆとも『彼等』は楽し
それをもあなどる妃の笑顔
それを見てステンカラージン醒めしは『悲し』


 義賊ステンカラージンは仲間の規約を無視してペルシャ王妃を救つた上二人は恋の悦楽に酔ふ、部下のドンコサックがこれを怒りステンカラージンは反省して、妃を海に投ずる筋の民謡を歌つたのであつた。
 闇の中で警戒してゐた若い巡査は、歌の中から、『我等』と『彼等』とを拾ひ、『悲し』といふ歌の言葉を『監視』と解釈し、三つ結びつけて名調子に『彼等は我等の行動を常に監視し』と即興的に纒めあげたものにちがひなかつた。
『ひとつ君、その歌を見本に歌つてみい―』
『はつ、よろしう御座います』
 彼は取調べ室で体を左右にゆすぶり、指でタクトをとり『ステンカラージンの歌』を陽気にうたつた。
『この歌はレコードにもあります、革命歌などと大それた、神かけて嘘は―』歌ひ終ると平謝りにあやまるのであつた。
『まあ、どつちでもいゝ、当分此処へ泊つてゆくんだね』と係官はいふのであつた。

  下駄は携帯すべからず

 失業者珍太は二条の白く光つて続いてゐる鉄道線路伝ひに三十里歩るいてきた。
『東京へ着いたらしいな』と彼は半信半疑な儘で呟いた。大踏切りにやつてきた、彼の前に広い街路が展かれた。
『御苦労さまでした―』彼は自分に向つて、他人に言はれるやうな言葉をつかつた。珍太にとつては自分も他人も区別が判らない程にいまは空腹と疲労で精神が混乱してゐた。線路脇や、線路の枕木の上を歩るいて、彼が此処までやつてくる途中で何回となく線路工夫に叱り飛ばされたことだらう。彼は馬鹿叮嚀に工夫に向つてお低頭じぎをし、工夫の職業とその監督権に顔をたてゝやるために線路を離れて柔順に丘から降りた。工夫の姿が見えなくなると以前のやうに線路の上にのぼつて歩るいてきた。
 珍太は引ずるやうに長着物を着て、チビた下駄を履いてゐた。それに彼にふさはしくないやうな綿入れの下着を着てゐた。この女物の綿入れは途中で畑の中に立つてゐた案山子かかしを物色して、案山子のなかで一番富裕らしく着込んだ奴から、綿入れを強奪して、それを着込んだのである。
 手頃な木の枝を拾つてステッキ代りに、体を支へて歩るいた。極度の疲労で痩せた両足は痲痺状態になり前のめりに前進し、奇怪なことには、ステッキが足より先に疲れたやうに思へたので、珍太はステッキを手にもつ苦痛から、これを投げ捨てた。失業者達が線路伝ひに彼と同じやうに東京に向つて歩るいてゆくのであつたが、彼はきまつて後から来た旅行者に追ひ抜かれた。彼はぼんやりした声で、
『兄弟、東京に着いたら、何処か植字工の口があつたらみつけておいてくれろ―』
 と親しさうに話かけた、珍太は誰彼の見境なく、自分の名も言はずに、東京に向ふものに就職口を頼むことで、何かしら気が楽になつた。彼等は珍太にかういはれると、いかにも就職の世話の自信有りげに頷いて通りすぎた。
 プツリと音がして珍太の右の下駄の鼻緒が切れた。彼は綿入れの下着の襟の一部を裂いて下駄の鼻緒をすげた。三里程やつてくると、今度は左の下駄が沈黙のまゝ、意地悪さうにずるずると横緒がぬけてきた、すると彼はその場にじつくりと腰を下ろしてすげにかかつた。
 東京へ入る街道へ差しかゝつた時今度は右の下駄が横緒が両方一度にプツリときれてしまつた。彼は暫らく下駄を引ずつて歩るいてゐたが、鼻緒の切れた下駄を履いて歩るくことが、およそ馬鹿々々しいことに思へたので、下駄をぬいでこれを懐中にしまひこんだ。
 片足は下駄、片足は跣足のまゝ街道を歩るいた。
『一寸待て、何処から来たか』街道口の交番で、珍太は立番の警官に呼び止められた。彼はくどくどと自分の失業の境遇を述べた、警官はただ一語『下駄を履いて歩るけ―』と命令的にいつた。
 柔順に彼はまた懐中から片方の下駄を出して足の先に突かけて交番の前を通りすぎたが、どう考へても鼻緒の切れた下駄を履いてあるく気持になれなかつたので、また懐中にしまひこんで片足を跣足で歩るき出した、すると今度は左の下駄も鼻緒が切れたので、これも懐中にしまひ今は全くの跣足となつてしまつた。
 まもなく東京に入つて街の交番の前で彼は以前と同じやうに警官に呼び止められた。弁解も徒労であつた、彼はそのまゝ本署に連行され監房ホテルに泊らせられたのだ。もう彼是二十日間は泊つてゐるだらう、彼はどうしてホテルに自分が泊らせられてゐるか理由をみいだすのに困つたが、係官はその理由をはつきりと知つてゐた、即ち『下駄は携帯すべからず履いて歩るくべきものなり』といふことであつた。

  カーテン

 夜とは昼が汚れて真黒になつたものだ。泥棒の体を暗黒中に隠すに都合がいゝ。然しまた夜は彼等の敵が、眼の前に立つてゐるといふ危険がそれに伴ふ。掻攫ひ尾島伝吉は、夜は稼ぎにゆかない、夜は怖い、どういふ風の吹きまはしか、珍しく彼は夜の稼ぎに出掛けた。
 そこはお邸街であつた。塀を乗り越えて邸へ忍び込まうとし、塀に手をかけると、塀ではなくて建物の壁であつた。裏口から忍びこまうとして木戸にさはると、裏口ではなく玄関に面した木戸であつた。伝吉にとつては大いに昼間の掻攫ひと調子が違つた。
 彼は次第に大胆になつた。暗闇を恐怖し、昼の明るさを恐れない、いつもの調子に戻つたことを、彼自身で気がつかなかつたのだ、掻攫でなく、大盗になつた自信で、一番明るい煌煌と電燈のついた邸に向つた垣根を身軽に乗りこえて、芝生に立つた。みると大きな応接間の細長い窓が『お前が忍びこむには丁度いゝ窓の高さだよ』と彼を手招いてゐるかのやうだ。窓下にすり寄り、両開きの窓を開き、垂れてゐるカーテンに両手で掴まり、のびあがり部屋の内部を覗いた。室内は彼を落胆させるに充分であつた。見掛けは立派な応接室の内部がガランとして貧乏人の住居を想像させた、盗るものといつては一つもない。彼はしばらく考へてゐた。彼の考へは間違つてゐた、実は室内は贅沢に整理された空虚さであつて、大きな金縁きんぶちに何やら青い色が詰めこまれた洋画や、書棚、安楽椅子など、何れも高価でないものはなかつた。
 彼にとつてこの種の調度品は、かさと重みがありすぎた。彼は結局書棚の上の銀色の装飾的な花瓶を失敬することにきめ、窓から室内に辷り込まうと努力したが、窓は案外の高さで、徒らに彼はカーテンを手で引つぱるだけであつた。彼を不意に驚ろかしたのは、突然何やら重いものが首と胸とを抱きかゝへたことで、彼は驚ろいて尻餅をついた。よくみると彼があまり激しく引張つたので、金具の鐶が千切れてカーテンが、彼の首に落ちてきて、女がショールをかけたやうに首のまはりに引かゝつた。彼は張り切つてゐた力が抜け、何もかもが嫌になつた。カーテンをショールのやうに首にかけたままで、ふらふらと夢遊病者のやうに邸内を出た。彼がその邸をものの数歩も出たと思ふと路は商店街に通じてゐて彼を明るい灯のもとに押し出してゐた。
 夜の明るい人通りの中に立つて、すべての恐怖は去り、つくづくと彼は自分の首にかけてゐるカーテンなるものを見た。絨毯のやうに重い、赤と黄と黒との混ぜ織りで、黄は金色に見え、赤は朱に見え、芝居の緞帳よりも、もつと美しい立派なカーテンであることが判つた。
 このカーテンを腰に捲くと横綱の意匠廻しに見え、斜め肩にかけると立派な僧正に見え、胸にもつてくると飾りのついた軍服にもみえるやうな性質をもつたカーテンだ。彼はそれを首にかけて歩るき続けたが、巡査講習所から昨日出た許りの新参の警官でも彼の胸を飾つてゐるものに、異様を感じないものはあるまい。彼は間もなく捕へられた。調書の上では彼はカーテンを盗んだことになつてゐるが
『俺はけつしてカーテンなど盗んだ覚えはない、カーテンの奴が、俺の首へひつかゝつてきただけだ―』と彼は心の中で調書を強く否定しつゞけた。

  掏摸と彫像

『世間ではよく、トンとぶつかられたと思つた途端に、電光石火に財布を掏られたなどといつてゐますが、嘘ですよ、いくら職業しやうばいでも、さうはいきませんよ』と彼は得意で掏摸にも充分な研究的態度が必要なこと、生ママしい職業ではないことを力説するのであつた。
 この掏摸も監房ホテルに入つて来たところをみると、何か彼がいふ研究的態度に欠けたところが、彼自身にあつたに相違ない、それは大いにあつた、××デパートの何階の何番売場の何処の棚にある大島絣は、場違ひものであつて、本場の大島絣は何階の何処そこにあると、このデパートは彼にとつて自分の家のやうに品物の置場所をよく知つてゐた。
 或る日六階に上つて行つた、××県産品陳列会が特別に催されて、反物、陶器、貴金属類がならべられてゐた、掏らうといふ気持もなく、ぼんやりと売場の間を歩るいてゐると、其処に彼をたいへん怒らしたものがある。
『こいつのつらは、何といふ傲慢そのものだ』
 彼はその品をみるとムラムラと反抗心が湧いてきた。それは一見純金に見え、実はメッキに違ひない高さ一尺程のナポレオンの全身像であつた。胸を張り、上眼勝に遠くを睥睨し、強く地の上に長剣を立てゝゐる容子は天地自然や人間の運命を一人で背負つてゐるやうな不遜さがあつた。その彫りの硬さが良い出来ではなかつたが、その彫りの硬さや拙さが却つて人間の意志を忖度しない、たゞ立つてゐればいゝだけの置物の境遇にふさはしい、頑固さを表現してゐた。彼は妙にこの彫像に腹が立つたので、慾得を超えて、本能的にそれを奪らうと心にきめた。
 計画的な最初の手を彼はそつと彫像に触れたが『これはいけない』と直感した。
 彼と横斜めの位置に一人の男が立つてゐて、確にデパートの監視員にまちがひなく、然もじつと彼の挙動に注意してゐた、彼はその日は帰つた。
 一晩中彼の頭の中の策戦本部は活動してゐた。翌日彼は売場にやつてきた、意外なことだ、前日にはなかつたのに、立像の台に三本の針金がかけられてゐて、堅く陳列台にとりつけられてゐた。
『ははあ、俺がねらつてゐるのを感づいたな―』
『よろしい、こつちだつて手はあるさ―』
 彼はぷいと子供のやうに不機嫌になつてその日は帰つた。
 翌る日、彼はデパートの地階金物売場で、小さな道具を一つ盗んで、二重マントの下に隠して、六階にあがつて行つた。
 彼はマントの中から、盗んできた針金切断用のペンチを出して、立像の台の針金を一本だけ切つて、その日は帰つた。翌日も一本、翌る日も一本切つた。彼はどうして一度に三本の針金を切らないのだらう、仕事は毫末も急ぐ必要はなしと彼は考へたからで、三日かゝつて切つたことは、針金さへ彫像の台についてゐれば、その一部が切断されてゐても安心してゐるといふ、間抜けな監視者に油断させるためでもあつた。また殆んどママ人監視の中のこの針金切断の仕事は、瞬間的である必要があつたし、遂あせつて二本、三本を切つて立像の前で時間をかけて失敗をすることを極度に怖れたのであつた。
 四日目最後の決行に出かけた。そして至つて容易に台の上のナポレオン立像は、彼の二重マントの袖の下に隠された。
『やい、ナポレオンの立像奴、貴様の運命は、俺の手の中にあるんだ、家へ帰つて俺は貴様を鋳潰してやらうわい』
 金の立像を抱へて昇降機エレベーターにのつたが、その下降につれて陶然と掏摸といふ職業的な恍惚感にひたつた。六階から下りて、四階で沢山のお客がエレベーターに鮨詰めに入つてきたが、不幸な事に彼の二重マントが込み合ふ客の体に揉みあげられて、マントの袖がめくりあがり、其処から燦然として立像が現れた。人々の視線が、ハッとそれに注がれたとき、彼は心に『失敗しまつた』と叫んで素早く立像を持つてゐた手を離してしまつた。
『掏摸だ――』と叫んだ者が一隅にゐて、その男の腕が乗客の肩の上から、彼の襟首にのびてきた。彼はその男が前日自分を見詰めてゐた監視人であることを知つて慄然となつた。乗客は混乱に陥り、エレベーターの底を、ナポレオンの立像はゴロゴロと音をたてゝ走りまはり、人々の足がそれに触れると、人々は恐怖の叫びをあげて踏みつけながら、他人の足の間へ、この不快な迷惑な盗品を移さうとした。掏摸と監視人との格闘と乗客の苦しさうな叫びをのせて、エレベーター・ガールの気転は、監視人が完全に掏摸を捕へてからでなければドアを開けることをしなかつた。
『癪にさはりましたよ、でもわしはナポレオンの立像をうんとふんでやりましたよ』と彼は監房で退屈なとき同宿の人々に失敗談を語るのであつた。

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