李生の罪
唐の貞元年中に、
李生という者が
河朔のあいだに住んでいた。少しく力量がある上に、侠客肌の男であるので、常に軽薄少年らの仲間にはいって、人もなげにそこらを横行していた。しかも
二十歳を越える頃から、俄かにこころを改めて読書をはげみ、歌詩をも巧みに作るようになった。
それから追いおいに立身して、
深州の
録事参軍となったが、風采も立派であり、談話も巧みであり、酒も飲み、
鞠も蹴る。それで職務にかけては
廉直というのであるから申し分がない。州の太守も彼を認めて、将来は大いに
登庸しようとも思っていた。
その頃、
成徳軍の
帥に
王武俊という大将があった。功を
恃んで威勢を振うので、付近の郡守はみな彼を恐れていると、ある時その子の
士真をつかわして、付近の各州を巡検させることになって、この深州へも廻って来た。深州の太守も王を恐れている一人であるので、その子の士真に対しても出来るだけの敬意を表して歓待した。しかし
迂闊な者を酒宴の席に侍らせて、酒の上から彼の感情を害すような事があってはならないという遠慮から、すべての者を遠ざけて、酒席の取持ちは太守一人が受持つことにした。それが士真の気にかなって、さすがに用意至れり尽くせりと喜んでいたが、昼から夜まで飲み続けているうちに、太守ひとりでは持ち切れなくなって来た。士真の方でも誰か変った相手が欲しくなった。
「今夜は格別のおもてなしに預かって、わたしも満足した。しかしあなたと二人ぎりでは余りに寂しい。誰か
相客を呼んで下さらんか」
「何分にもこの通りの
偏土でござりまして……」と、太守は答えた。「お相手になるような者が居りません。しいて探しますれば、録事参軍の李と申すものが、何か少しはお話が出来るかとも存じますが……」
それを呼んでくれというので、李はすぐに召出された。そうして、酒の席へ出て来ると、士真の顔色は俄かに変った。李は行儀正しく坐に着くと、士真の機嫌はいよいよ悪くなった。太守も不思議に思って、ひそかに李の方をみかえると、彼も色蒼ざめて、杯を
執ることも出来ないほどに
顫えているのである。やがて士真は声を
しゅうして、自分の家来に指図した。
「あいつを縛って獄屋につなげ」
李は素直に引っ立てられて去ると、士真の顔色はまたやわらいで、今まで通りに機嫌よく笑いながら酒宴を終った。太守はそれで先ずほっとしたが、一体どういうわけであるのか、それがちっとも判らないので、獄中に人をつかわしてひそかに李にたずねさせた。
「お前の礼儀正しいのは、わたしもふだんから知っている。殊に今夜はなんの落度もなかったように思われる。それがどうして王君の怒りに触れたのか判らない。お前に何か思い当ることがあるか」
李はしばらく
啜り泣きをしていたが、やがて涙を呑んで答えた。
「
因果応報という仏氏の教えを今という今、あきらかに覚りました。わたくしの若いときは
放蕩無頼の上に貧乏でもありましたので、近所の人びとの財物を奪い取った事もしばしばあります。馬に乗り、弓矢をたずさえ、
大道を往来して旅びとをおびやかしたこともあります。そのうちに或る日のこと、一人の少年が二つの大きい
嚢を馬に載せて来るのに逢いました。あたかも日が暮れかかって、左右は断崖絶壁のところであるので、わたくしはかの少年を崖から突き落して、馬も嚢も奪い取りました。家へ帰って調べると、嚢のなかには
綾絹が百余
反もはいっていましたので、わたくしは思わぬ金儲けをいたしました。それを機会に
悪行をやめ、門を閉じて読書に努めたお蔭で、まず
今日の身の上になりましたが、数えてみるとそれはもう二十七年の昔になります。昨夜お召しに因って王君の前に出ますと、その
顔容が二十七年前に殺したかの少年をその
儘であるので、わたくしも実におどろきました。王君がむかしの罪を覚えていられるかどうかは知りませんが、わたくしとしては王君に殺されるのが当然のことで、自分も覚悟しています」
太守はその報告を聞いて驚嘆していると、士真は酒の酔いが醒めて、すぐに李の首を斬って来いと命令した。太守は命乞いをするすべもなくて、その言うがままに李の首を渡すと、彼はその首をみてこころよげに笑っていた。
「自分の部下にかような罪人をいだしましたのは、わたくしが重々の不行き届きでございますが、一体かれはどういうことで御機嫌を損じたのでございましょうか」と、太守はさぐるように訊いてみた。
「いや、別に罪はない」と、士真は言った。「ただその顔をみるとなんだか
無暗に憎くなって、とうとう殺す気になったのだ。それがなぜであるかは自分にもよく
判らない。もう済んでしまったことだから、その話は止そうではないか」
彼自身にもはっきりした説明が出来ないらしかった。太守はさらに士真の年を訊くと、彼はあたかも三十七歳であることが判ったので、李の懺悔の嘘ではないのがいよいよ確かめられた。
黒犬
唐の貞元年中、
大理評事を勤めている
韓という人があって、
西河郡の南に寓居していたが、家に一頭の馬を飼っていた。馬は甚だ強い
駿足であった。
ある朝早く起きてみると、その馬は汗をながして、息を切って、よほどの遠路をかけ歩いて来たらしく思われるので、
厩の者は怪しんで主人に訴えると、韓は怒った。
「そんないい加減のことを言って、実は貴様がどこかを乗り廻したに相違あるまい。主人の大切の馬を疲らせてどうするのだ」
韓はその罰として厩の者を打った。いずれにしても、厩を守る者の責任であるので、彼はおとなしくその
折檻を受けたが、明くる朝もその馬は同じように汗をながして
喘いでいるので、彼はますます不思議に思って、その夜は隠れてうかがっていると、夜がふけてから一匹の犬が忍んで来た。それは韓の家に飼っている黒犬であった。犬は厩にはいって、ひと声叫んで
跳りあがるかと思うと、忽ちに一人の男に変った。衣服も冠もみな黒いのである。かれは馬にまたがって
傲然と出て行ったが、門は閉じてある、垣は甚だ高い。かれは馬にひと
鞭くれると、
駿馬は
跳って垣を飛び越えた。
こうしてどこへか出て行って、かれは暁け方になって戻って来た。厩にはいって、かれはふたたび叫んで跳りあがると、男の姿はまた元の犬にかえった。厩の者はいよいよ驚いたが、すぐには人には洩らさないで
猶も様子をうかがっていると、その後のある夜にも黒犬は馬に乗って出て、やはり暁け方になって戻って来たので、厩の者はひそかに馬の足跡をたずねて行くと、あたかも雨あがりの泥がやわらかいので、その足跡ははっきりと判った。韓の家から十里ほどの南に古い墓があって、馬の跡はそこに止まっているので、彼はそこに
茅の小家を急造して、そのなかに忍んでいることにした。
夜なかになると、黒衣の人が果たして馬に乗って来た。かれは馬をそこらの立ち木につないで、墓のなかにはいって行ったが、内には五、六人の相手が待ち受けているらしく、なにか面白そうに笑っている話し声が洩れた。そのうちに夜も明けかかると、黒い人は五、六人に送られて出て来た。褐色の衣服を着ている男がかれに訊いた。
「韓の
家の名簿はどこにあるのだ」
「
家の
砧石の下にしまってあるから、大丈夫だ」と、黒い人は答えた。
「いいか。気をつけてくれ。それを見付けられたら大変だぞ。韓の家の子供にはまだ名がないのか」
「まだ名を付けないのだ。名が決まれば、すぐに名簿に記入して置く」
「あしたの晩もまた来いよ」
「むむ」
こんな問答の末に、黒い人は再び馬に乗って立ち去った。それを見とどけて、厩の者は主人に密告したので、韓は肉をあたえるふうをよそおって、すぐにかの黒犬を縛りあげた。それから砧石の下をほり返すと、果たして
一軸の書が発見されて、それには韓の家族は勿論、奉公人どもの姓名までが残らず記入されていた。ただ、韓の子は生まれてからひと月に足らないので、まだその
字を決めていないために、そのなかにも書き漏らされていた。
一体それがなんの目的であるかは判らなかったが、ともかくもこんな妖物をそのままにして置くわけにはゆかないので、韓はその犬を庭さきへ
牽き出させて
撲殺した。奉公人どもはその肉を煮て食ったが、別に異状もなかった。
韓はさらに近隣の者を大勢駆り集めて、弓矢その他の
得物をたずさえてかの墓を
発かせると、墓の奥から五、六匹の犬があらわれた。かれらは片端からみな撲殺されたが、その毛色も形も普通の犬とは異っていた。