十
暮れから催していた雪ぞらも、春になってすっかり持ち直したが、それも七草(ななくさ)を過ぎる頃からまた陰(くも)った日がつづいて、藪入り前の十四日にはとうとう細かい雪の花をちらちら見せた。 「今夜も積もるかな」 栄之丞は夕方の空を仰いで、独りごとを言いながらよそ行きの支度をした。今夜は謡いの出稽古(でげいこ)の日にあたるので、これから例の堀田原へ出向かなければならなかった。本来は一六(いちろく)の稽古日であるが、この十一日は具足開(ぐそくびら)きのために、三日後の今夜に繰り延べられたのであった。 春とはいっても底冷えのする日で、おまけに雪さえ落ちて来たので、遠くもない堀田原まで行くのさえ気が進まなかったが、約束の稽古日をはずす訳にもゆかないので、栄之丞はいつもよりも早目に夕飯をしまって、一張羅(いっちょうら)の黒紬(くろつむぎ)の羽織を引っ掛けた。田圃は寒かろうと古い頭巾(ずきん)をかぶった。妹がいなくなってから、独り者の気楽さと不自由さとを一つに味わった彼は、火鉢の火をうずめて、窓を閉めて、雨戸を引き寄せて、雨傘を片手に門(かど)を出ようとすると、出合いがしらに呼びかけられた。 「兄(にい)さま」 傘も持たないで門に立ったのは妹のお光であった。雪はますます強くなって来たらしく、彼女の総身は雪女のように真っ白に塗られていた。 「妹か。今頃どうして来た」 門に立ってもいられないので、栄之丞はともかくも再び内へ引っ返すと、お光もからだの雪を払ってはいって来た。家の中はもう暗かった。 「兄さま」と、お光は重ねて兄を呼んだ。その声の怪しく顫(ふる)えているのが栄之丞の耳についた。 「なんだ」 少し不安にもなって来たので、彼は行燈をまんなかに持ち出して灯をとぼした。その灯に照らされた妹の顔は真っ蒼であった。髪もむごたらしく乱れていた。着物の襟も乱れて、袖の八つ口もすこし裂けていた。何か他人(ひと)とむしり合いでもしたのではないかとも思われたので、兄はあわただしく訊いた。 「え、どうした。誰かと喧嘩でもしたのか」 お光はまだ動悸が鎮まらないらしく、幅の狭い肩をいよいよせばめて、胸を抱えるように畳に俯伏していたが、やがてわっ[#「わっ」に傍点]と泣き出した。 「おい、どうしたんだ。泣いていてはわからない。主人に叱られたのか、朋輩と喧嘩でもしたのか」 お光は崩れかかった島田をぐらつかせながら頭(かぶり)を振った。彼女はまだすすり泣きの声をやめなかった。 「わたしは稽古に出る先きだ。早く訳を言ってくれ」と、栄之丞も少し焦(じ)れ出した。 「申します。堪忍して下さい」 彼女が泣きながら訴えるのを聞くと、お光の奉公している三河屋のお内儀(かみ)さんは、よんどころない義理で二十両取りの無尽(むじん)にはいっていた。きょうは代籤(だいくじ)でそれが当ったというので、お光は深川までその金を受取りの使いにやらされた。昼間だから大丈夫だろうが、それでも気をおつけよとお内儀さんは注意した。お光は橋場の寮を出て深川へ行った。 世話人がいるとか居ないとかいうので、お光はしばらくそこに待たされた。二十両の金をうけ取って深川を出たのはもう七つ(午後四時)さがりで、陰った日は早く暮れかかった。おまけに雪さえちらちら[#「ちらちら」に傍点]と落ちて来たので、お光は小きざみに足を早めて橋場へ帰って来る途中、吾妻橋(あずまばし)の上を渡りかかると、さっきから後を付けて来たらしい一人の男が、ふいに駈けて来てうしろからお光を突き飛ばした。彼女はひと堪まりもなくそこに突んのめると、男はすぐにその手から小さい風呂敷包みを引ったくろうとした。風呂敷には財布に入れた二十両が包んであるので、お光はやるまいと一生懸命に争った。あまりに事が急なので、彼女は救いを呼ぶ間もなかった。 しばらく挑(いど)み合ったが、かよわいお光は大の男にとても勝つ事はできなかった。男はその風呂敷包みをもぎ取って、取り縋(すが)る彼女を蹴放して本所の方へ逃げてしまった。あいにくの雪で往来も途切れているので、お光が泥坊、泥坊と呼ぶ頃まで誰も救いに来る者はなかった。彼女の泣き声を聞き付けて二、三人の人が駈けつけて来た時には、曲者はとうに姿を隠していた。 「どうしたらよかろう」 お光は橋の上に泣き伏していた。人びとに慰められて彼女はようよう起ち上がったが、これからどうしていいか判らなかった。二十両といえば大金である。それを奪(と)られましたと言って唯おめおめ[#「おめおめ」に傍点]とは帰られない。彼女は途方に暮れて、橋の欄干に倚(よ)りかかって泣いていた。 「それも災難で仕方がない。早く家(うち)へ帰って御主人に謝まるがいい。決して短気や無分別を起してはいけない」 もしや川へでも飛び込むかと危ぶんだらしい一人の老人が親切に意見してくれたので、お光は泣きながら欄干を離れた。そうして浅草の方へとぼとぼと歩き出したが、馬道(うまみち)の角まで来てまた立ち停まった。どう考えてもこのまま主人の家へは帰りにくかった。ともかくも兄に相談して、その上で又なんとか仕様もあろうかと、彼女は果敢(はか)ないことを頼みにして、雪のますます降りしきる中を傘もささずに大音寺前へ訪ねて来たのであった。 「困ったことになった」 栄之丞もその話を聴いて吐胸(とむね)をついた。まだ新参の身、殊に年のゆかない妹がこんな粗相(そそう)をしでかしては、主人におめおめ[#「おめおめ」に傍点]と顔を向けられまい。時の災難とはいいながら飛んだことになったと、彼も同じく途方に暮れてしまった。しかし今さら妹を叱ったとて始まらない。これから主人のところへ妹を連れて行って、よくその事情を話して謝まるよりほかはあるまいと思った。幸いにお内儀さんはいい人でもあり、新参ながらお光に眼をかけてくれるとも聞いているから、こっちが正直に訳を言ってひたすら詫び入ったらば、さのみむずかしいことも言うまいかとも想像された。 「どうも仕方がない。これから橋場(はしば)へ一緒に行って、わたしから主人によく詫びてやろう」と、彼は泣いている妹を励ますように言った。 「そうして、そのお金はどうするのです」と、お光は不安らしく訊いた。 「どうするといって、主人に我慢してもらうよりほかはない。勿論、こっちが償(つぐの)うことが出来ればいうまでもないが、いまの身分で二十両はおろか、十両の工面(くめん)も付こう筈がない、つまりはこっちも災難、主人も災難とあきらめて貰うよりほかはない。さあ、遅くなっては悪い。ともかくも一緒に行こう」 「はい」と、お光はまだ躊躇していた。 年の若い正直な彼女は、主人に二十両の損をかけるというのが如何(いか)にも済まないことのように思われてならなかった。とても出来ない相談とは知りながら、彼女はどうにかその金の工面は付くまいかと言った。 「いっそ八橋さんに相談して見たら」と、彼女はしまいにこんな事までほのめかした。 栄之丞は厭な顔をして取り合わなかった。努めて八橋に遠ざかろうとしている矢先きに、こんな相談を彼女のところへ持って行きたくなかった。ここでいつまでも評議をしていても果てしがない。ともかくも主人に逢った上でまた分別の仕様もあろう。案じるよりも産むが易いの譬(たと)えで、思いのほかに主人がこころよく免(ゆる)してくれるかも知れないと言った。 足の進まないお光を叱るように追い立てて、栄之丞は妹と相合傘(あいあいがさ)で雪の門を出た。兄の袖にしょんぼりと寄り添って、肩をすくめて泣きながら歩いて行くお光のすがたが、兄の眼にはいじらしく見えてならなかった。雪を吹き付ける田圃の風を突っ切って、二人は真っ白になって橋場の寮にたどり着いた。 主人の方でもお光の遅いのを心配しているところであった。お内儀さんは穏やかな人で、殊に新参ながらお光を可愛がっているので、その話を聴いて一旦は驚いたが、別にお光を咎(とが)めようともしなかった。 「それでも怪我がなくってよかった。なに、あの金が今要るという訳でもないんだから心配するには及びません。阿兄(おあにい)さんもわざわざ御苦労さまでございました」 この返事を聴いた栄之丞もほっ[#「ほっ」に傍点]とした。お光は嬉し泣きにまた泣いた。 「御主人のお慈悲を仇(あだ)やおろそかに思ってはならないぞ。この上の御恩返しにはせいぜい気をつけて御奉公をしろよ」 主人の前で妹にくれぐれもこう言い聞かせて、栄之丞は早々に帰った。こんなことで堀田原へ廻るのが非常に遅くなった。殊に雪はまだ降りやまないので、彼がようようそこへ行き着いた頃には、家の遠い弟子などはもう帰ってしまっていた。栄之丞はここでも主人にむかって遅刻の詫びをしなければならなかった。 それでも妹の一条が案外に手軽く片付いたので、彼もまず安心していると、それから五、六日経って、その夜の雪もようよう消え尽くした頃に、お光が又しょんぼりと訪ねて来て、兄の前に泣き顔を見せた。 「兄さま、くやしゅうございます」 また何か仕出来(しでか)したのかと栄之丞もうんざり[#「うんざり」に傍点]した。しかしお光が泣きながら話すのを聴くと、それは案外のことであった。 お光の主人の寮には人形町の本宅から付いて来ているお兼(かね)という年増(としま)の女中があって、それがお虎という飯焚き女を指図して、家内のことを万端とりまかなっている。そのお兼は新参のお光が主人の気に入っているのを少しく妬(ねた)んでいるらしかった。それで今度のことに就いて、彼女はお光になんだか当てつけらしいことを言った。途中で金を奪(と)られたというのは嘘で、貧乏な兄と相談して一と狂言書いたのであろうというようなことを言った。お光にむかって言うばかりでなく、お内儀さんにむかっても内々こんなことを吹き込んだらしい。お内儀さんはその讒言(ざんげん)を取りあげなかったが、それでもお光にむかってこんなことを言った。 「人間はいくら自分が正直にしていても、ひとはとかくに何のかのと言いたがるもんだからね。これからは能(よ)く気をつけておくれよ」 お光は泣きたいほどに悲しかった。なるほど、自分の兄は貧乏している、自分も貧乏のなかで育った。しかしいい加減の拵え事をして主人の金を掠めようなどという、そんなさもしい怖ろしい心は微塵(みじん)も持っていない。疑いも事にこそよれ、盗人(ぬすびと)同様の疑いを受けては、どうしてもこのままには済まされない。もうこの上はいっそ死んで自分の潔白を見せようと彼女は決心した。死ぬ前にもう一度兄に逢いたいと思って、彼女は今日たずねて来たのであった。勿論、死ぬということはなんにも口へは出さなかったが、その決心の顔色と口ぶりとは兄にも大抵推量された。 「けしからんことだ」 栄之丞もくやしかった。妹がくやしがるのも無理はないと思った。いくら落ちぶれていても、奉公の妹をそそのかして主人の金を盗み取るほどの人間と見積もられたのは甚(はなは)だ心外である。妹が言うまでもない。それは自分から進んでその潔白を明らかにしなければならないと思った。それにつけても妹の突き詰めた様子が不安でならなかった。 「よし、よし、万事はおれに任せて置け。決して短気を起してはならないぞ。ここでお前がうっかりしたことをすると、あれ見ろ、あいつは悪い事をした申し訳なさに自滅したと、かえって理を以(も)って非に陥るようなことになる。くれぐれも無分別なことをしてくれるなよ」 彼は噛んでふくめるように妹をさとして、きょうはおとなしく帰っていろ、いずれ改めておれが掛け合いに行くと言い聞かせた。 こうしてお光を帰して置いて、栄之丞はその翌日堀田原へ出向いて行った。お光はここの主人の世話で三河屋の寮へ奉公するようになったのであるから、その関係上まずここへその事情を明らかに断わって置かなければならないと思ったからであった。 小身(しょうしん)ながらも武士であるから、堀田原の主人もその話を聴いて眉をしわめた。それは気の毒なことで、御迷惑お察し申すと栄之丞兄妹(きょうだい)に深く同情した。しかしそれは一種の蔭口に過ぎないので、主人から表向きになんの話があったというでもない。お光に暇を出すと言ったのでもない。女同士の朋輩の妬み猜(そね)みは珍らしくないことで、その蔭口や悪口を取(と)っこにとって、こっちから改めて掛け合いめいたことを言い込むのは、却っておとなげない、穏やかでない。正直か不正直かは長い目で見ていれば自然に判る。まず当分はなんにも言わずに辛抱しているがよかろうと、彼は栄之丞を懇々(こんこん)説いてなだめた。 「なるほど、ごもっともでござります」 その場はすなおに得心して出たが、栄之丞もまだ若かった。事にこそよれ、兄妹がぐる[#「ぐる」に傍点]になって二十両の金を掠(かす)めたと疑われているらしいのが、どう考えても不快で堪まらなかった。堀田原を出て、途々(みちみち)でもいろいろに考えたが、やはり一応は主人に逢って自分たちの潔白を証明して置く方がいい。それが妹の後来(こうらい)のためであるとも考えたので、彼は堀田原の主人の意見にそむいて橋場の寮へ足を向けた。 案内を乞うと、お光が取次ぎに出て来た。 「兄さま。いいところへ……。もう少し前からお店(たな)の旦那さまがお出(い)でになりまして……」 「そうか。それは丁度いい。兄がまいりましたと取次いでくれ」 「あの、旦那さまが……」と、お光は少し言い渋っているらしかった。 「旦那がどうした」 「わたくしに暇を出すようにと、お内儀さんに言っているようで……」 お光の声は陰って、その眼にはもういっぱい涙を溜めていた。 「なに、お前に暇を出す……」 栄之丞も赫(かっ)となった。妹に暇をくれるという以上は、やはり我々を疑っていると見える。奇怪至極のことである。いよいよ打っちゃっては置かれないと思った。 「それならば猶更のことだ。早く主人に逢わせてくれ」
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