三
八橋の男に宝生栄之丞(ほうしょうえいのじょう)という能役者(のうやくしゃ)あがりの浪人者があった。両親(ふたおや)に死に別れてから自堕落(じだらく)に身を持ち崩して、家の芸では世間に立っていられないようになった。妹のお光(みつ)と二人で下谷(したや)の大音寺(だいおんじ)前に小さい家を借りて、小鼓指南(こづつみしなん)という看板をかけていたが、弟子入りする者などほとんど一人もなかった。八橋は素人(しろうと)の時から栄之丞を識っていた。廓(くるわ)へはいって栄之丞を客にするようになってから、二人の親しみはいよいよ細(こま)やかになって来た。 治六もその以上のことは詳しく知らなかった。しかしこれだけの事実でも、主人の寝ぼけている顔を洗うには十分の冷たい水であると彼は考えていた。彼は今夜それを残らず打ち明けた。そうして、もともとが気晴らしの遊びであるから、女に情夫(おとこ)があろうが亭主があろうが、別にかけかまいはないようなものであるが、こっちもそのつもりで腹を締めて掛からないと、飛んだ馬鹿を見ることにもなる。吉原へ行くのもいいが、よくそのつもりでいて貰いたいと言った。 「おめえさまも昔とは違う身分だ。千両の金をなくしてしまえば、乞食するよりほかはあるめえ。主人と家来が二人つながって三河万歳(みかわまんざい)もできめえから、よっくそこらも考げえて下せえましよ」 次郎左衛門は衾(よぎ)から首を出して、唯(ただ)せせら笑っているばかりであった。 「馬鹿野郎、くよくよ心配するな。今だからこそ遊んでいられるのだ。これから商売を始めて、千両の金を元手にかけてしまったら、どの金で遊べる。遊ぶなら今のうちだ。八橋に情夫(おとこ)のあることはおれも知っている。現に、兵庫屋の二階で八橋からひきあわされたこともある。八橋は従弟(いとこ)だといったが、そうでないことは俺もちゃんと見ぬいていた。俺は近づきの印(しるし)だといって百両包みを出してやったら、その栄之丞という男は薄気味の悪そうな顔をしていて、容易に手を出そうともしなかった。無理に押し付けても、とうとう返して行った。いや、おとなしい可愛い男よ。あの男ならおれが訳をいって、この千両を半分やるから八橋と手を切ってくれと頼めば、いつでもきっと素直に承知してくれるに相違ない」 「千両を半分やる……」と、治六は呆れて笑い出した。「それよりもおめえさまの首をやった方がよさそうだ。わはははは」 「事によれば首をやらないとも限らない」と、次郎左衛門も笑った。「だが、金のあるうちは命が大事だ」 もう相手になるのが面倒になったらしい。次郎左衛門はくるりと寝返りを打ってこちらへ背を向けた。いつもの癖で、衾をすっぽりと頭からかぶってしまった。雁の声がまたきこえた。 ことばの行きがかりでそんなことを言ったのだろうとは思うものの、冗談にも千両の半分を八橋の情夫にやる――飛んでもないことだと治六は思った。どっちにしても、身上(しんしょう)を振ってもそれだけしかない金を、そう安っぽく扱うような料簡(りょうけん)では行く末が思いやられる。夜が明けたならば宿の亭主とも相談して、あの千両を宿にあずけてしまうに限る。当人の手に握らせて置くのはあぶないと考えた。 夜の明けるのを待ちかねて、治六は佐野屋の亭主に相談した。どうで千両の金を首へかけて歩いていられるものでない、外へ出る時には宿へあずけて行くに決まっている。そのときに受取ったが最後、なんとか文句を付けて迂闊(うかつ)に渡してくれるなと言った。客の金をあずかっておきながら、それを渡すときに文句を付けるというのは、宿屋として甚だ質(たち)のよくない遣り方で、亭主も少し躊躇したが、しょせんは自分の欲心ですることではない、預け主のために思うのであるという理屈から、亭主も治六の忠義に同情して、結局その相談に乗ることになった。しかし、いよいよその金をあずかるという段になると、次郎左衛門は半分だけしか亭主に渡さなかった。 「八橋に土産もやらなければならない。二階じゅうの者にも相当のことをしてやりたい。まして歳の暮れの物日(ものび)前だ。それ相当の用意がなくって廓へ足踏みができると思うか」 彼は治六を叱り付けて、五百両を持って供をしろと言った。治六は渋々ながら付いて行くことになった。二人とも髪月代(かみさかやき)をして、衣服を着替えて出た。ここであくまでも逆らったところで仕方がない。ともかくも残りの半分にさえ手を着けなければまあいいと、治六も諦めを付けていた。 二人が駕籠で廓(くるわ)へ飛ばせたのは昼の八つ(午後二時)を少し過ぎた頃であった。雷門(かみなりもん)の前まで来ると、次郎左衛門を乗せた駕籠屋の先棒が草鞋の緒を踏み切った。その草鞋を穿き替えている間に、次郎左衛門は垂簾(たれ)のあいだから師走の広小路の賑わいを眺めていたが、やがて何を見付けたか急に駕籠を出ると言った。 駕籠を出ると、彼は小走りに駈けて行った。呼び止められたのは、編笠(あみがさ)をかぶった若い男であった。 「栄之丞さんじゃあございませんか」 編笠の男は宝生栄之丞であった。 「おお、次郎左衛門どの。また御出府(ごしゅっぷ)でござりましたか」と、彼は笠をぬいで丁寧に会釈(えしゃく)した。 「江戸が懐かしいので又のぼりました」と、次郎左衛門は笑った。八橋に変ることはないかと取りあえず訊いた。 臆病らしい態度で栄之丞は始終挨拶していた。自分も久しく無沙汰をしているが、八橋には多分変ったこともあるまいと言った。自分は浅草観音へ参詣した帰りで、これから堀田原(ほったわら)の知りびとのところを訪ねようと思っていると言った。一緒に吉原へ行かないかと次郎左衛門に誘われたが、彼は振り切るように断わって別れて行った。 おとなしい男だと次郎左衛門はまた思った。従弟(いとこ)のなんのと言い拵(こしら)えてはいるものの、彼が八橋の情夫であることは能く判っていた。かりにこっちでは何とも思っていないとしても、普通の人情として彼がこっちに対して快(こころよ)く思っていないのは判り切っている。けれども決して忌(いや)な顔を見せない。むしろこっちを恐れるようなおどおどした態度で、いつも丁寧に挨拶している。単に身分の上から見ても、たとい浪々しても彼も宝生なにがしと名乗るお役者の一人である。こっちは唯の百姓である。その百姓に対して、彼は一目(いちもく)も二目も置いたような卑下(ひげ)した態度を取っている。どっちからいっても、よくよくおとなしい可愛い男だと次郎左衛門は思った。 治六にいくら注意されても、彼はこのおとなしい若い浪人者に対して、いわゆる色がたきの恋争いのという強い反抗心をもち得なかった。彼は恋のかたきというよりも、むしろ一種の親しみやすい友達として栄之丞を取扱いたかった。 しかしその親しみやすいといううちには、おのずからなる軽蔑の意味も含まれていた。次郎左衛門が彼に対して反抗心や競争心をもち得ないのは、相手を余りに見くびっていた結果でもあった。次郎左衛門は芝居や講談で伝えられているような醜(みにく)いあばた[#「あばた」に傍点]面(づら)の持ち主ではなかった。三十一の男盛りで身の丈(たけ)は五尺六、七寸もあろう。剣術と柔術とで多年鍛えあげた大きいからだの肉は引き締まって、あさ黒い顔に濃い眉を一文字に引いていた。彼は実に男らしい顔と男らしい体格とをもっていた。たしかに一人前の男として、大手を振って歩けるだけの資格をそなえていた。金も持っていた。力も持っていた。 それに較べると、栄之丞は哀れなほどに貧弱なものであった。目鼻立ちこそ整っているが、背も低い、病身らしく痩せている。次郎左衛門と立ちならぶと、まるで大人と子供ほどの相違があった。次郎左衛門もこんな者を相手にして、まじめに闘う気にはなれなかった。情夫であっても何でも構わない。八橋ぐるめに可愛がってやりたいと思っている位であった。 栄之丞のうしろ姿を見送って、次郎左衛門は駕籠の方へ引っ返すと、治六もいつの間にか駕籠を降りて、不安そうにこっちを窺っていた。 「旦那さま。今のは栄之丞でねえかね」 「むむ。丁度ここで逢ったのも不思議だ」 「わしがゆうべ、あんなことを言ったから、この往来なかで喧嘩でもおっ始めるのじゃあねえかと思って内々心配していたが、だいぶ仲がよさそうに別れたね」 「誰が喧嘩なんぞするものか、昔のおれとは違う」と、次郎左衛門は笑いながら駕籠に乗った。
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