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脳の中の麗人(のうのなかのれいじん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-25 15:53:52 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


   待っていた怪女


 その翌日のことだった。
 宮川は、久しぶりで黒木博士を病院に訪ねたのだった。
「おお宮川さん。だんだん元気がつかれて、結構ですな」
 宮川はそれには、挨拶あいさつもせずに、
「博士、今日は折いっておねがいに来ました。あの矢部君の残りの脳を買いとって、私のここに入れてください」
 そういって彼は、自分の頭を指さした。
「それはまたどうしたのですか」
「いや、女の問題です。じつはこういうわけです」
 と、語りだしたところによると、宮川は、手術恢復後かいふくご、頭の中に一人の女性のまぼろしがありありと見えるようになった。彼はその女性がたいへんしたわしくて、なんとかしてその本人があるなら会いたいと思っていた。ところが、その幻の女こそ、矢部の愛人山崎美枝子やまざきみえこだということがわかった。
 その美枝子に、宮川はきのうはじめて会った。そして幻の女は、まちがいなくこの女であるとたしかめた。美枝子もはじめて会った彼に、たいへん熱情をよせた。
 彼が矢部のことをたずねたところ、彼女はきっぱりと説明した。
(矢部さんはあたしが大好きだというんです。そしていろいろと自分でも無理算段むりさんだんをしたようですわ。でもあたし、矢部さんがどうしてもすきになれませんのよ)
(でも、さっき、あなたは矢部君をよびとめたではありませんか)
(そうよ。だって、あの人がいろいろ無理をして買ってくれたものがあるんですもの。あたし、それをかえしたいとおもったのよ)
 そこで宮川の胸もはれて、美枝子の手をとったというのだ。
 そこまではよかったけれど、やがてのこと彼は、美枝子をすっかり憂鬱ゆううつにさせてしまったというのだ。
「それはどうしたわけですか」
 博士は宮川のおもてを熱心にみつめながらたずねた。
「それはつまり、私の心が冷たいといって、彼女が口惜くやしがりだしたんです」
「あんたはなにか冷淡れいたん仕打しうちをしたのですか」
「そこなんですよ博士、はじめは私も熱情をほとばしらせたようですが、あるところまでゆくと、急にその熱情が中断してしまったのです。そしてにわかに不安と不快とに襲われたのです。そのとき頭の中に、別の一人の女の顔が現れました。それは日本髪を結った白粉おしろいやけのした年増の女なんです。その女が、まげの根をがっくりとかたむけ、いやな目付をして私に迫ってくるのです。払えども払えども、その怪しい年増女が迫ってきます。そういう不快な心のうちを、どうして美枝子に話せましょう。彼女にとって私が冷淡らしく見えたというのは、まだよほど遠慮した言葉づかいでしょう。きっとそのとき私は、塩をめた木乃伊ミイラのように、まずい顔をしていて、しゃちこばっていたに相違ありません」
「それで、なぜあなたは矢部氏の脳をほしがるのですか」
「わかっているじゃありませんか。矢部君の脳室の中には、美枝子をしたう情熱を出す部分がまだ残っているのにちがいありません。それを切り取って、私にうつし植えてください。私の持っている金は、いくらでも矢部君にあげてください」
 博士は、黙って考えこんだ。
「それからもう一つおねがいです。あのいやな日本髪の年増女としまおんなの幻が出るところの脳の部分を切り取って捨ててください。そうだ。もし矢部君が欲しいというのなら、その部分を、彼に植えてやってください」
「それはたいへんなことだ」
「博士、ぜひ早いところ、また手術をしてください。一体あの白粉おしろいやけのした年増女は、どこのだれなんですか」
 博士は、その質問にはこたえないで、
「うむ、とにかく矢部氏に相談してみよう」
 と、言葉すくなに云った。
 それから一週間ほどして、黒木博士は再び脳手術にとりかかった。手術室には、右に宮川、左に矢部が寝かされていた。
 こんどの手術は、わりあい簡単にいった。半年もすると、矢部の方は、まだいくぶん元気がなかったが、宮川の方はもう退院できるようになった。
「おい婦長。いよいよ宮川氏は明日退院させるが、君になにか意見はないかね」
「まあ、黒木博士せんせい。わたくしになんの意見がございましょう。この前は、宮川さんがたいへんな外傷がいしょうを負っていらしったせいで、あのように手術後の恢復も長引き、精神状態も危かしかったのでございましょうね」
「まあ、そんなところだろうよ」
 看護婦長すら満足したほどの治癒ちゆ程度で、宮川は退院した。
 病院の門を出て、彼が一つの町角まちかどを曲ると、そこには洋装の佳人かじんが待っていて、いきなり彼にとびついた。それは外ならぬ山崎美枝子だったのである。
「まあ、宮川さん。ずいぶん待ってたわよ」
「おお美枝子さん。こんどこそ僕は、君を失望させないよ」
 二人は小鳥のようにたのしそうによりそいながら、向うの通りに消えた。
 ところが、それから二三日たって、宮川は真白な救急車にはこばれて、黒木博士の病院へかえって来た。彼の顔には、白いぬのがかぶせてあった。博士は、その布をのけて宮川の後頭部をしらべたが、そこには描写びょうしゃのできないほどのひどい傷があった。
「警部さん、連れの女はどうしました」
「ああ、黒木博士、連れの女は、逃げてしまいました。行方を厳探中げんたんちゅうです」
「犯人の方はどうしましたか」
「ああ、八形八重やがたやえという年増女ですか。これはその場で取押とりおさえて、一時本庁へつれてゆきました」
「精神病院から逃げだしたんだそうですね」
「そうです。ですが、この八形八重という女は、どうも正気しょうきらしいですぜ。この前の事件で、刑務所に入るのがいやで、装っていたんじゃないですかなあ。被害者宮川のうしろから忍びよって兇器きょうきをふるったことを、こんどははっきりした語調でのべました」
「ふーん、そうですか」
「こんどまた被害者宮川が博士の手で生きかえれば、きっとまた殺さないでおくべきかといっていましたよ。まるで芝居のせりふもどきですよ、ははは」
「いや、この傷では宮川氏はもう二度と生きかえらないでしょう」
 宮川は、彼が捨てた八形八重のため、二度も兇刃きょうじんをうけたのだった。博士は宮川のためにそれをいわなかったが、あの青い手帖に書かれてあったYという女はこの八重にちがいなく、もちろんあの手帖は宮川のものにちがいなかった。ただ手帖を記憶していた脳の部分が欠損けっそんしたので、その記憶を失っただけのことだ。
 この事件以来、博士は脳の移植手術をやることを好まなくなった。





底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房
   1990(平2)年4月30日初版発行
初出:「日の出」
   1939(昭和14)年8月号
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2003年2月26日作成
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