脳を売った男
「うそだ、うそだ。そんなことはうそだ」と、宮川はつよく否定した。 「なに、僕がうそをいっているんですって」と怪青年矢部は唇を曲げて笑い、「あははは、そう思いますかね。では、ちょっと聞きますが、あなたはさっき煙草を吸っていましたね。うまかったですか」 そういいながら、矢部はポケットから巻煙草をとりだして、火をつけた。 宮川は、煙草の匂いをかぐと、咽喉から手が出そうになった。 「一本、あなたにあげましょうかね」 「じゃ、もらおう」 宮川は、煙草をすいたい慾望を制しきれなくて、手を出した。そして火をつけるのも待ちどおしい様子で、すぱすぱと煙を肺の奥に吸いこんだ。 「どうです。煙草はうまいでしょうが。ところで僕は質問しますけれど、あなたは手術前には煙草が大きらいだったじゃありませんか。それを思い出してごらんなさい」 「あっ――」 宮川は、びっくりして、指さきから煙草をぽろりと地上にとりおとした。 そうだ、煙草ぎらいで通った自分だった。しかるに今は、煙草の匂いをかぐと、吸わずには我慢しきれないのだ。一体これはどうしたのだろうか。 「どうです、わかったでしょう。煙草好きの僕の脳を、あなたの脳につないだから、そうなったんです。いや、きょうあなたに会いたかったのは、金も使いはたして欲しくはあったが、僕の脳を植えつけた後のあなたが、どんな風になっているかを見たい気持もあったんです。全くおそろしいもんだ。あなたは煙草ずきになった。おかげで僕は煙草がたいへんまずくなってさびしい。この繃帯の下には、あなたと同じような手術の痕があるんですぜ。その下をあけてみると、僕の脳は、或る部分欠けているのです。僕は金のために、それをあなたに売ったけれど、その金を使いはたしてしまった今日、惜しいことをしたと後悔しています。近来、どうも身体の具合がよくなくていけないのです。美枝子にも会いたいと思うが、こんな身体だから、遠慮しているんだ」 矢部青年は、ひとりでべらべらととりとめもないことを喋った。 宮川には、矢部のいうことが腑におちないながらも気の毒になって、彼に金をやることにした。 矢部は、紙幣をありがたそうに頂いて、ポケットにおさめたが、そのあとで訴えるような目つきでいったことである。 「全くの話が、金に困って居らなければ――いや、美枝子という女を知らなかったら、僕の脳の一部を売ったりはしなかったんですよ。あんまりいい値段だったもんで、つい黒木博士のさそいにのっちまったんです」 宮川は、今やしみじみと、一年間の入院のあとをふりかえらずにはいられなかった。自分がこうして再生して、全快するまでには、こうした大きな犠牲もあったのであるか。前代未聞の脳の売買だ。黒木博士は、やりもやった。またこの矢部青年も、よく売ったものである。 「一体、君はどの位の値段で、脳の一部とかを博士に売ったのですか」 「それは――」といいかけて、矢部は俄に口をつぐんだ。そして悲しげな顔になって、「それは云うのをよしましょう。とにかく莫大な金でした。大きな土地を買って、りっぱな邸宅をたてることができるくらいの金でした」 宮川は、脳の一部の値段が、そんなに高いものかと、聞いておどろいた。矢部の口ぶりからすれば、すくなくとも五六万円らしい。それだのに、彼は一年たつかたたないうちにその莫大な金を使いはたし、いまたった五十円の金に困って無心をしているのだ。なんとかいう女のためとはいえ、あまりにもはげしい金の使い方だった。宮川は、その点に不審をおこした。矢部のいうことは嘘言ではないか。 「いいえ、うそではありません。たしかにそれくらいの金は握ったんです。それをどうして使ってしまったというのですか。それはですね」と矢部は宮川の方へ顔を近づけていった。「相場をやったのですよ。相場ですっかりすってしまったのです」 「それは乱暴だな。自分の脳を売った金で、相場をやるなんて。そのなんとかいう君の愛人にだって、気の毒な話じゃありませんか」 宮川も、つい抗議めいたことをいいたくなっていった。 すると矢部青年は、首を左右にふって、灼けつくような視線を宮川の面に送って云うには、 「乱暴かもしれません。たしかに僕は相場で失敗したのですからね。ですけれど宮川さん。もしも相場で僕が何倍かの大金を儲けたら、僕はなにをするつもりだったか、あなたにお分りですか」 宮川は、矢部の激しい語気におされて、うしろへ身をひきながら、 「さあ、僕には、君がそのような大金をなんに使うつもりだったか分らないねえ」 とこたえた。すると矢部は、ぎりぎりと歯ぎしりをして叫んだのであった。 「ぼ、僕は、あなたに売った脳を買い戻したかったんだ。売った値段の二倍でも三倍でもなげ出すつもりだったんだ。だが、とうとう僕は失敗した。でも、いつか僕は、あなたの頭蓋骨の中から、きっと僕の脳を買い戻してみせる!」 ベンチのうえに真青になった宮川を尻眼にかけて、怪青年矢部はすたすたと足早に、向うに立ち去った。
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