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脳の中の麗人(のうのなかのれいじん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-25 15:53:52 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



   あやしい尾行者びこうしゃ


 雨はあがっていたが、梅雨空つゆぞらの雲は重い。彼は、ふところ手をしたまま、ぶらぶらと鋪道ほどうのうえを歩いてゆく。
 着ているのはセルの単衣ひとえで、足につっかけているのは靴だった。下駄を買っておくのを黒木博士は忘れたものらしい。宮川には、和服に靴というとりあわせが、それほど不愉快ではなかった。
 あがざかの街を、ぶらぶらのぼってゆくと、やがて大きなやしろの前に出た。鳥居の間から、ひろい境内けいだいが見える。太い銀杏樹いちょうのきが、百日鬘ひゃくにちかずらのように繁っている。彼は石段に足をかけようとした。そのときふと背後に人の気配けはいを感じて、あとをふりむいた。
 そこには、背広服をきた一人の青年が立っていた。ひどくくたびれたような顔をしている。色艶いろつやのわるい、むくんだような顔、下瞼したまぶたはだらりとたるみ、不快なへこみができている。そして帽子の下からのぞいている大きな眼だ。その大きな眼が、宮川をじっと見つめていたのである。
「うむ」
 宮川は、なんとなくおそわれるような気持で、おもわずうなった。
 気のせいか、そのあやしげなる男も、なんだかぶるぶる身体をふるわせているようであった。
 宮川は、石段をふんで、駈けあがった。そして境内へどんどん入っていった。社殿しゃでんの後に駈けこんで、そこでおずおず、うしろをふりかえった。怪しい男は、見えなかった。まず助かったと、彼はどきどきする心臓をおさえながら、社殿のうしろにベンチをみつけ、それに腰を下ろした。
「彼奴は何者だろうか?」
 彼はまだはあはあ息をきりながら、頭の中に今見た怪しい男の顔付を気味わるく思いうかべた。
 彼の腰をおろしているすぐ前に、誰が捨てたか、地上に捨てられた煙草の吸殻すいがらがあった。まだ火がついたままで、紫色の煙が地面をなめるようにっていた。彼はそれを見ると、急に煙草が吸いたくなった。彼は、汚いという気持もなく、吸殻すいがらの方へ手をのばして、どろをはらうと口にくわえた。
 すばらしい煙草の味だった。だが、間もなく火は彼の指さきに迫って、もうすこしで火傷やけどするところだった。彼はびっくりして、吸殻を地上に放りだした。
「あははは、宮川さん。あなたは煙草を吸うようになりましたね、おそろしいもんだ」とつぜん背後うしろから声をかけられ、彼は腰をぬかさんばかりにおどろいた。ぱっとベンチからとびあがってうしろをふりむくと、
「あっ、君は――」といった。
 さっきの男だ。怪しいぎろぎろ眼玉の顔色のわるい、青年であった。
「君、君は一体だれですか」
 宮川は、いつの間にか、またベンチに腰をおろしていた。へびにみこまれたかえるといったていであった。
「僕ですか。僕をご存知ないのですか」
 青年は、すこしずつ彼の方によってきた。
「知らないよ。人まちがいだ。早く向うへいってくれたまえ」
「そんなことをいうものじゃありませんよ。僕は矢部というものです。あなたはご存知ないかもしれないが、僕の方はよく知っています」
 怪青年矢部は、つらにくいほど、ゆっくりした語調でいって、無遠慮ぶえんりょに宮川の横にかけた。
「とにかく、僕は君に見覚えがない。たのむから、早く向うへいってくれたまえ」
「よろしい、向うへいきましょうが、ここまでついて来たには、こっちにすこし用事があるんです。金を五十円ばかり貸してください」
「なんだ、金のことか。五十円ぐらい、ないでもないが、見ず知らずの君に、なぜ貸さねばならないか、その訳がわからない」
 宮川も、すこし落付おちつきをとりもどして、逆襲したのだった。
「ははあ、その訳ですか。あなたは本当にご存知ぞんじないのですか。これはおどろきましたね」といって、矢部は帽子を脱いだ。
「なんだい、そ、それは……」
 宮川はさっと顔色をかえた。矢部が帽子をぬぐと、なんとその下からは、ぐるぐる巻に繃帯ほうたいした頭が現れたのだった。
「これでお分りになったでしょう。あなたが、頭に大きな傷をうけて、もう死ぬしかないという切迫せっぱつまったときに、ここから僕の脳髄の一部を裂いて、あなたの脳につぎあわせたんです。見事にその大手術をやってのけた黒木博士も、あなたの再生の恩人なら、脳髄を提供した僕もまた、あなたのためには大恩人なんですよ。それを忘れて、僕を袖にするなんて、そんな恩しらずなことがありますか」
 怪青年矢部は、とんでもないことをいいだした。

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