怪しい尾行者
雨はあがっていたが、梅雨空の雲は重い。彼は、ふところ手をしたまま、ぶらぶらと鋪道のうえを歩いてゆく。 着ているのはセルの単衣で、足につっかけているのは靴だった。下駄を買っておくのを黒木博士は忘れたものらしい。宮川には、和服に靴というとりあわせが、それほど不愉快ではなかった。 上り坂の街を、ぶらぶらのぼってゆくと、やがて大きな社の前に出た。鳥居の間から、ひろい境内が見える。太い銀杏樹が、百日鬘のように繁っている。彼は石段に足をかけようとした。そのときふと背後に人の気配を感じて、あとをふりむいた。 そこには、背広服をきた一人の青年が立っていた。ひどくくたびれたような顔をしている。色艶のわるい、むくんだような顔、下瞼はだらりとたるみ、不快な凹みができている。そして帽子の下からのぞいている大きな眼だ。その大きな眼が、宮川をじっと見つめていたのである。 「うむ」 宮川は、なんとなく襲われるような気持で、おもわず呻った。 気のせいか、その怪しげなる男も、なんだかぶるぶる身体をふるわせているようであった。 宮川は、石段をふんで、駈けあがった。そして境内へどんどん入っていった。社殿の後に駈けこんで、そこでおずおず、うしろをふりかえった。怪しい男は、見えなかった。まず助かったと、彼はどきどきする心臓をおさえながら、社殿のうしろにベンチをみつけ、それに腰を下ろした。 「彼奴は何者だろうか?」 彼はまだはあはあ息をきりながら、頭の中に今見た怪しい男の顔付を気味わるく思いうかべた。 彼の腰をおろしているすぐ前に、誰が捨てたか、地上に捨てられた煙草の吸殻があった。まだ火がついたままで、紫色の煙が地面をなめるように匐っていた。彼はそれを見ると、急に煙草が吸いたくなった。彼は、汚いという気持もなく、吸殻の方へ手をのばして、泥をはらうと口にくわえた。 すばらしい煙草の味だった。だが、間もなく火は彼の指さきに迫って、もうすこしで火傷するところだった。彼はびっくりして、吸殻を地上に放りだした。 「あははは、宮川さん。あなたは煙草を吸うようになりましたね、おそろしいもんだ」とつぜん背後から声をかけられ、彼は腰をぬかさんばかりにおどろいた。ぱっとベンチからとびあがってうしろをふりむくと、 「あっ、君は――」といった。 さっきの男だ。怪しいぎろぎろ眼玉の顔色のわるい、青年であった。 「君、君は一体だれですか」 宮川は、いつの間にか、またベンチに腰をおろしていた。蛇にみこまれた蛙といった態であった。 「僕ですか。僕をご存知ないのですか」 青年は、すこしずつ彼の方によってきた。 「知らないよ。人まちがいだ。早く向うへいってくれたまえ」 「そんなことをいうものじゃありませんよ。僕は矢部というものです。あなたはご存知ないかもしれないが、僕の方はよく知っています」 怪青年矢部は、つらにくいほど、ゆっくりした語調でいって、無遠慮に宮川の横にかけた。 「とにかく、僕は君に見覚えがない。たのむから、早く向うへいってくれたまえ」 「よろしい、向うへいきましょうが、ここまでついて来たには、こっちにすこし用事があるんです。金を五十円ばかり貸してください」 「なんだ、金のことか。五十円ぐらい、ないでもないが、見ず知らずの君に、なぜ貸さねばならないか、その訳がわからない」 宮川も、すこし落付をとりもどして、逆襲したのだった。 「ははあ、その訳ですか。あなたは本当にご存知ないのですか。これはおどろきましたね」といって、矢部は帽子を脱いだ。 「なんだい、そ、それは……」 宮川はさっと顔色をかえた。矢部が帽子をぬぐと、なんとその下からは、ぐるぐる巻に繃帯した頭が現れたのだった。 「これでお分りになったでしょう。あなたが、頭に大きな傷をうけて、もう死ぬしかないという切迫つまったときに、ここから僕の脳髄の一部を裂いて、あなたの脳につぎあわせたんです。見事にその大手術をやってのけた黒木博士も、あなたの再生の恩人なら、脳髄を提供した僕もまた、あなたのためには大恩人なんですよ。それを忘れて、僕を袖にするなんて、そんな恩しらずなことがありますか」 怪青年矢部は、とんでもないことをいいだした。
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