臭いの研究
米さんに従って、帆村探偵は黙々と本職らしい鏝を動かしつづけた。 器用な彼は、平常暇のあるごとに、色々な仕事を習い覚えていて、今度のような万一の場合には、すぐどんな職人にでも化けられるように訓練を積んであった。 帆村がいま踏んでいる足の下は、相当しっかりしたコンクリートの床になっていた。漆喰をその上に、約二センチメートルの厚さで塗ってゆくのであった。 この漆喰は、かねて話に聞いたとおり、普通の漆喰とは異ったものであった。石灰と赤土だけは普通のものを使うが、ふのりは使わず、その代り何だか妙にどろどろしたものや、外に二、三種の化学薬品を混入するのであった。それらを交ぜあわすのがなかなか厄介であり、それからうまく交ざった後は、早いところ塗ってしまわないと、直ぐ固まってしまうのだった。つい凹凸が出来たり、罅や筋が入る。すると松竹梅の三監督がやってきて、やり直しを命ずる。なかなか骨の折れる仕事だった。 この特殊な漆喰は、一体どんな特長があるのであろうか。 帆村の気づいたところは、第一に非常に早乾きがすること、第二に、固まってしまえば鋼のような強い弾力を帯びること、第三に耐熱性に富んでいるらしい非常に優秀な漆喰だった。すくなくとも市場には、こんなに勝れた漆喰が知られていない。 そういう優秀な漆喰をここに敷くという目的は、どういうところにあるのだろうか。 普通の機械工場なら、こんな漆喰を塗るまでもなく、その下のコンクリート土台だけで十分であった。贅沢な場合でも、その上に僅かのアスファルトを流しこめばいいのだ。それにも拘らず、普通以上の強靭さを漆喰で持たせようというには、何か訳がなければならぬ。この平々坦々たる床の上に、そも如何なる物品が載るのであろうか。帆村はせっせと鏝を動かしながらもそれを想って、何とはなく背中がぞくぞくと寒くなるのを覚えた。 その日の所見を、その後、某大官の前で、帆村は次のように報告している。 「なんとかしてその漆喰の見本を、せめて定性分析の出来るくらいの少量でも持ってこようと思いましたが、監視が厳重なので控えました」 「爪の間に入れるとか、頭髪の中にこぼすとか、なんとかいい方法がありそうなものじゃないか」 「そんなことは向うで百も承知ですよ。いよいよ仕事が終ったというときには、僕たちは強制的に風呂の中に入れられてしまうのです。その風呂には、女がいましてね。僕たちの頭のてっぺんから足の爪まですっかり洗ってくれるのです。爪はきれいに截った上、御丁寧にブラッシュをかけるという始末です。外へ出ると、服はすっかり着がえさせられます。履物やマットまで変るのです。恐らく厳重を極めていますよ」 「ふーむ、莫迦に細心にやっているんだね」 大官は心から感嘆している様子だった。 「ねえ帆村君。これはあまり大きな声でいえないことだが、君がいま行っている仕事場は、ひょっとすると何かわが警備関係の防空室とかいう筋合のものではないのかね」 「ええ、それは――」 「もしそうだとすると、君は自国の機密建物を調べていることになって、大損をするよ」 「そうです。貴官の仰有るとおりの疑問を、僕も持ちました。僕も実は最初からそれを考えていたんです。しかし僕はあの建物のが、すくなくとも我が警備関係のものではない証拠をつきとめたのです」 「ほほう、それはよかった。で、その証拠というのは、一体どんなものだ」 大官は眼鏡ごしに、ちらと黒眼を動かした。 「その証拠というのは、臭いなんです」 「えっ、臭いとは」 「臭いというものについて、一般の人はわりあい不注意ですよ。しかし臭いの研究というものは莫迦にならぬものです。日本人が寄れば、なんとなく沢庵くさいといわれます。これはつまり日本人の身体からは、食物の特殊性からくる独特の臭いが発散しているのです。日本人同士では、お互に同じ沢庵臭をもっているのでそれと分りませんが、外国人にはそれがたいへんよく匂う」 「うむ、なるほど。で、君は例の仕事場でもって、何か特別の臭いを嗅ぎつけたのかね」 「そうです。僕はトラックを下りて、廊下をひったてられてゆくときに、早くもその独得の臭いに気がつきました。浴場で着物を着がえたりするときにも気がつきました。それから監督の傍によってもその臭いが感ぜられました。断じてあの場所は、日本人の経営している場所ではありません」 「それは大変だ。でもその監督は日本人じゃないのかい」 「中国人ですよ。浴場にいる女も、やはり中国人だと思います」 「じゃ、それは中国人の工場でもあるのかね」 「いや、臭いというやつは、もっともっと複雑です。あの場所の匂いというのがあります。それはどうも、あのチョコレート色の塗料のせいだと思いますが、これは些か僕の自信のある研究なんですが、あの建物は某大国関係のものだと思いますよ」 「そうか、某大国か」と大官は大きく肯いた。 「それは偉大な発見だが、しかし惜しいことに、この場所が分らない」 「場所は分らぬことはないと思います。明日僕の後を誰かにつけさせ、箱自動車の後を追跡すればいいではありませんか」 「なるほど、そうやればいいわけだね」 大官は莞爾と笑った。
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