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貞雄の云ったことは正に図星だった。 妾たちはトランクを一つ一つ開いてゆくうちに、その一つの中に、あの夜真一が水を飲むに使った大きいコップを発見した。それは狼狽のあまり妾が他の品物と一緒に抛りこんでしまったものに違いなかった。 貞雄は、そのコップを取り上げて、明りの方に透かしてみたり、ちょっと臭を嗅いでみたりしていたが、やがて妾の方を向き、 「珠枝さん、ハッキリは分らないが、どうやらこれは砒素が入っていたような形跡がある。無水亜砒酸に或る処理を施すと、まず水のようなものに溶けた形になるが、こいつは猛毒をもっている。普通なら飲もうとしても気がつく筈だが、当人が酒に酔っているかなにかすれば、気がつかないで飲んでしまうだろう。砒素は簡単に検出できるから、あとで検べてみよう。しかしまず間違いないと思うネ」 「まア、水瓶の中に砒素が入っていたの、まア恐ろしいこと。一体誰がそんなものを入れたのでしょう」 「いや、今に僕が分らせてみるよ」 妾はホッと息をついた。貞雄の来てくれたお蔭で、妾の疑問としていたところはドンドン氷解してゆくのであったから、感謝をせずにいられなかった。どうか今夜はぜひ泊ってくれといったけれど、貞雄は中々承知しなかった。 「随分貴方は頑固なのネ。貴方と妾とは従兄妹じゃありませんか。泊っていったって何ともないじゃないの」 「ああ。――」 と貞雄はちょっと眉をひそめたが、 「貴女は知らないらしいネ。貴女の西村家と、僕の赤沢家とは、赤の他人なんだよ」 「あら、――でも赤沢の伯父さんと呼んでいたことを覚えているわ」 「ははア、そんなこと、意味ないよ。幼いころは、だれを見ても『おじさん』と呼ぶ。僕は知っているけれど、両家は他人同志だった」 「まア、そうなの――」 すると妾にとって、赤沢は赤の他人なのだ。今まで馴れ馴れしくしたことが悔いられたけれど、その代り他人であればあるだけ、妾は俄かに胸のワクワクするのを覚えた。 「医者として僕は珠枝さんに云って置きたいけれどネ」と貞雄は一向頓着なしに話しかけた。「君は同胞を探すことに夢中になっているようだが、たといそれを探し当てても、君はサッパリしないに決っているよ」 「アラなぜ、そうなの」 妾は貞雄が何を云いだすのやら、すこし驚かされた。 「君は、そうした要求の背後に、いかなる本尊さまがあるのかを知らねば駄目だ」 「本尊さまって?」 「端的に云えば、君は母性慾に燃えているのだ。君の自分の血を分けた子孫を残したがっているのだということに気がつかないかネ。同胞探しは、その根本的要求が別の形になって現れたに過ぎない。本当のところは、君は子供を生みたいのだ」 「そうかも知れないわ」と妾は云った。「でも妾は男性とそういう原因を作ることを好まないのよ。つまりそういう交渉を極端に億劫がる性質なの。そういう交渉なしに子供が出来るんだったらいいけれども、そうもゆかないでしょう。それに妾は一度結婚生活を送って分ったことだけれど、妾には子供が出来る見込なんかありゃしないわ」 「そんなこともなかろうけれど、結局君のあまりに変態的な生活が、そうした能力を奪ってしまったのかもしれないネ。忍耐づよい夫婦生活が、おそらく自然に君の能力を取り返すだろうと思うが、夫婦生活そのものを極端に忌避するようでは困ったものだネ」 といって貞雄は、軽い吐息をついた。妾自身でもこれは困ったものだと思っているのである。変態道に陥ったばかりに、妾は正しい勤めをさえ極端に不潔に思うのだった。 「しかし本当は、君自身子供が欲しいと思うのだネ」 と暫くして貞雄は尋ねた。 「いく度云っても同じことよ。でも不能者に、子供の出来る筈はないわ。その上にどうも妾は生れつき大きな欠陥があるような気がしてしようがないのよ」 貞雄は気の毒そうな顔つきで、妾をしげしげと見ていた。そのとき妾は、いままで忘れていた大事なことを思い出した。それはいつかも考えたことであるが、ひょっとしたら妾の身体には自分で観察することの出来ない箇所に異常な徴候が印せられているのではあるまいか。それを専門的知識をもって十分に診察してくれる適当な医師としては恐らく目の前に居る此の貞雄の外にないということを感じた。それで妾の胸のうちには、それを確めて貰いたい嵐のような願望が捲き起ったのである。 「ねえ、貞雄さん、妾、医師である貴方にとても重大なお願いがあるのよ。――」 「医師である僕に、どんな願いがあるというのかネ」 妾はそこで思いきって全身に亘る診断のことを頼んでみた。一つには異状又は異状の痕跡の有る無しのこと、もう一つには妾の懐胎の機能が健全であるか不健全であるかということ、この二つについて早速検べてくれるように頼んだのであった。 「よろしい。そんなことは訳はないことだ。では明日道具を揃えて来て、やってあげよう」 といった。妾としては非常に重大なことを、彼があまりに手軽に引受けてくれたことに対して意外の感にうたれたけれど、医師にしてはそんなことは格別なんのことでもないのであろうと思った。 さて其の夜、貞雄はわが家に一泊を承知しないでホテルに引上げて行った。――そしてその翌朝になると、医療器械のギッシリ詰まっているらしい大きな鞄を下げ、まるで事務員かなにかのように正確にやって来た。 「さあ、こういうことは、午前にやるのがいいのだから、さあ早く支度をして――」 と云って妾を促した。妾はキヨを用事にかこつけて外出させてしまおうと思ったので、それを命じていると、奥から貞雄がノコノコ出て来て云った。 「キヨさんを使いにやるのなら、アレが済んでからにしてはどうかネ」 この貞雄の言葉には、妾はすっかり興を醒ましてしまった。キヨを外に出してしまえば、どんなに落着いて妾の楽しみを味うことが出来るだろうと予期していたのが、すっかり駄目になった。「キヨが居ては、妾厭だわ。――」 と妾は、ちょっと拗ねてみせた。 「それはいけない。こういうことは、たとえ医師でも誤解をうけやすいことだ。どうしても誰かに立ち会って貰うのでなくては、僕はやらないよ」 貞雄の頑迷な潔癖さには、妾はつくづく呆れてしまった。また一面に於ては、それだけ彼の人物が気に入った。もう仕方ないので、キヨを立ち合わせることに同意した。 貞雄は、妾の居間を診察室に決め、その隣りの納戸を準備室に決めた。準備室には、何に使うのだか訳の分らないいろいろな器械や器具を並べたて、見たところたいへん大袈裟でかつ厳かだった。 こうして午前十時から、いよいよキヨ立ち会いのもとに綿密な診察が始まったが、それは約一時間に亘った。妾はあらゆる場所をあらゆる角度から診察され、その上にまるで手術を受けるのかと思うような器械を当てられたり、いろいろな場所にさまざまの注射をしたり、幾度も血液を採取せられたりした。妾はキヨの立ち会っていることなど直ぐ気にならなくなった。どうやら診察が一と通り終ったらしいと思っていると貞雄は静かに妾の傍へよって来て、 「これで診察は終ったよ。君は母性欲が今日は顕著な曝露症の形で現れていたと思う」と笑いもせず云ってのけた。「精しいことは、あとで報告するけれど、見たところ君の身体にはさしたる重大な異状を発見しない。子供を育てる機能も充分に発達している。君が考えさえ直すなら、普通の人より以上に健康な体躯の持ち主だということが出来る」 そんなことは云われなくても分っているようなものだった。それよりも、もっと訊き正したいことがあった。 「それよか、妾の身体に、何か変ったところか、瘢痕のようなものは見付からなくて」 「気の毒だけれど、君を悦ばせるような異状は何一つ発見できなかったよ。――」 それを聴いて妾はホッと溜息をついた。それならばいい。妾は心配したようなシャム姉妹的な存在でもないのだった。妾は一時に身が軽くなったような気がした。それで起きて何かお美味いものでも喰べようと思って、蒲団から身体を起しかけた。ところがそれを見た貞雄は、駭いてそれを留めた。 「あッ動いちゃいけない。――」 「アラどうして!」 「もう一時間ばかり、そのまま絶対安静にしているんだよ。いろいろな注射などをしたものだから、その反応が恐い。生命が惜しけりゃ、僕の云うことを聞いて、もう一時間ほど静かに横臥しているのだ」 そういって貞雄は、妾の肩にソッと毛布を掛けてくれた。――妾は羊のように温和しくなった。 貞雄が当地を出発したのは、その翌日のことだった。いずれ冬の休暇ごろには、用があるのでまた当地へ来るから、そのとき是非立寄ると云った。そして例の「三人の双生児」に関する問題も故郷の方をもっと探してみて、面白い発見があれば必ず知らせるということだった。 妾は彼の再訪を幾度も懇願した上、名残惜しくも貞雄を東京湾の埠頭まで送ったのであった。
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