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妾は「海盤車娘」の真一がもう死に切っていると知ると、あまりのことに頭脳がボーッとしてしまった。さしあたり先ず何を考え何から手をつけてよいのやら、まるで考えが纏らない。唯空しく真一の屍体を眺めているばかりだった。 そのうちに少し気が落着いてきた妾は、 「医者だ! 早く医者を呼ばねばいけない!」 ということに気がついた。そして立ち上った。医者ならばこの男を或いは助けられるかもしれない――と、始めは思ったものの、しかしもしもこの真一がこのまま生き返らなかったらどうなるのだろうと、それが俄かに気懸りになった。この男は妾の寝室で死んでいるのだ。ああ、そして――今この寝室の中には、他人に見せたくないものがいろいろ用意せられてあるのだった。そのようなものを若し他人に発見されたらば、どんなことになるであろう。若い未亡人がそのような秘密の慰安を持っているのは無理ならぬことだと善意に解釈してくれる人ばかりならいいが、そんな人は十人に一人あるかなしであろう。悪くすれば、そんなことから妾の行状を誤解して、なにか妾が真一の死に関係があるようなことを云いだすかも知れない。そんなことがあっては大変である。妾は医者を呼ぶのをちょっと見合わせて、それより前に、この部屋を整頓することに決心した。 妾は、そこらに転がっているものや、押入れの中にある怪しげなものなどを、大急ぎですっかりトランクにつめ、別室へ持ってゆく用意をした。でも真一の死体の方は、寝具にそのまま手をつけずに放置し、疑惑を蒙ることのないようにした。結局他人が見たとき、この離座敷は妾の寝室として用意したものではなく、真一の寝室として用意されてあったように信じさせねばならぬと思った。 それから妾は部屋を飛びだした。そしてお手伝いさんのキヨの部屋へ行って、 「キヨ。大変なことになったから、ちょっと、来ておくれ……」 というとキヨは縫物を抛りだして、 「えッ、大変でございますって……。ま、何が大変なのでございますか……」 妾は手短に、いま真一が離座敷で死んでいることを述べ、医者を迎えるまでに片づけておきたいものがあるからちょっと手をお貸しといってキヨを引張っていった。 「キヨ、いいかい。知れるとうるさいから此室からトランクだのを搬んだことは、誰にも云っちゃいけないよ。いいかい」 と妾は念入りな注意をすることを忘れなかった。キヨは黙って頭を振って同意を示すだけでいつものようにハッキリと返事をしなかった。どうやら真一ののけぞった屍体を見てから、すっかり恐怖に囚われてしまったものらしい。 丁度そのときのことであった。ジジーンと、突然玄関のベルが鳴った。折が折とて妾は胸を衝れたようにハッとし、持ちあげていた荷物をドスンと廊下へ落してしまった。 「呀ッ。キヨ、入れちゃあいけないよ。入れちゃあいけないよ……」 誰だろう? 警官だろうか。妾の胸は早鐘のように躍った。 ジジーン。ベルは再びけたたましく鳴った――もうお仕舞いだと思った。 「もしもし西村さん。もうお寝み? あたくし速水なんですけれど」 ああ、速水、――なるほど女探偵の速水春子女史の声に違いなかった。ああ、丁度いいところへ、いい人が来てくれたものである。妾は早速女史を家の中に招じ入れた。 「あら奥さま、すみませんです」 といつになく上ずった調子で 「静枝さま、いらっしゃいますか、一緒に出かけるお約束だったんですが、お出にならぬのでお迎えに伺ったんですけれど……」 と女史は云った。ああ、静枝はどうしたのだろう。女史を訪ねてゆくといったが、これは行き違いになったものらしい。 「まア皆さん、どうかなすったの。……お顔の色っちゃ無いですわ」 突然女史はそういって妾とキヨの顔を見較べた。もういけない。もう隠して置くことは出来なかった。咄嗟に妾の決心は定まった。 「速水さん、ちょっと上って下さいな。実は大変なことが出来ちゃって……」 と妾は速水女史の手を取るようにして上にあげた。そこで女史に、この突発事件について、差支えのない範囲の説明をして、善後策を相談した。 「これは厄介なことになりましたのネ」 と女史は現場を検分しながら沈痛な面持をして云った。 「奥さんは、真一さんの死因が何であるとお思いなんでございますか」 さあそれは妾の知ることではなかった。頓死かもしれないと思うが、同時に他殺でないと証明する材料もないのだ。それよりも妾には真一がここで死んでいることが迷惑千万であったのである。――妾は偽りなくその心境を語った。 「これは奥さまの想像していらっしゃるよりも面倒なことになると存じますわ。お世辞のないところ、奥さまの立場は非常に不利でございますわ。お分りでしょうけれど。ことにこの部屋から物を持ちだして証拠湮滅を図ろうとなさっていますし(といって廊下のトランクのことを指し)その上に真一さんが横わっている寝具は誰が見ても奥さまの寝具に違いありませんし、それからこの部屋に焚きこめられた此のいやらしい挑発的な香気といい……」 「ああ、もうよして下さい」 と妾は女史の言葉を遮った。彼女は何もかも知っているのだ。この上妾は黙って聴いているにたえなかった。たとえ妾に恐ろしい殺意がなかったにしろそれを証明することは面倒なことだし、それに妾が寝室へ曲馬団崩れの若い男を引入れたことが世間に曝露しては、妾の生活は滅茶滅茶になることがハッキリ分っていた。それは自分を墓穴に埋めるに等しかった。どうして堪えられよう。 「速水さん。お願いですから、智恵を借して下さい。十分恩に着ますわ」 「さあ――わたくしも奥さまを絞首台にのぼらすことも、また社会的に葬ることも、あまり好まないんでございますが――」 と女史は意地悪いまでの落着きを見せて、 「でも困りましたねえ――」 「お礼なら十分しますわ」 「いや銭金で片づかないことでございます」 と突っぱねて、 「といってこのままでは絞首台の縄が近づいてくるばかりで……ああ、そうですわ、仕方がありませんから、妾の親しい医師の金田氏を呼びましょう。彼に頼みましてこの場をあっさりと死亡診断させてしまいましょう」 この女史の提案を受けて妾はああ助かったとホッと息をついた。この場がうまく治まりさえすればいい。真一の屍体が火葬炉の中で灰になってくれさえすればそれで万事治まる。妾は女史に謝意を表して早速その金田医師を呼んでくるように頼んだ。女史は別人のように快く引受けると、すぐその手配をしてくれた。 やがて金田医師というのが、駈けつけてくれた。彼は真一を申し訳に診ただけで、 「心臓麻痺――ですな。永らく心臓病で寝ていたということにして置きますから……」 といって、その旨をすぐに死亡診断書に認めてくれた。 「ああ助かった――」 と妾はそこで始めて胸を撫で下したのであった。 それが済むと、金田医師は手馴れた調子で屍体をアルコールで拭ったり脱脂綿を詰めたりして一と通りの処置をした。速水女史もクルクル立ち廻ってその辺を片づけてくれた。そして枕許にあった冷水の壜などは、わざわざ持っていって下水に流し、中を綺麗に洗ってもって来るなどと、実にまめに立ち働いた。妾はそれ等をただ呆然と見つめているばかりだった。 丁度そこへ、静枝が外から帰ってきた。彼女は玄関を上ると、今まで速水女史の家で、女史が再び帰ってくるかと待ち合わせていたものの、待ち倦んで引返してきたのだと声高に述べたてていたが、真一の突然の死をお手伝いさんから聞くと、驚いて離座敷に駈けつけてきた。その顔は真青だった。
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