八
岸をトンと盪すと、屋形船は軽く出た。おや、房州で生れたかと思うほど、玉野は思ったより巧に棹をさす。大池は静である。舷の朱欄干に、指を組んで、頬杖ついた、紫玉の胡粉のような肱の下に、萌黄に藍を交えた鳥の翼の揺るるのが、そこにばかり美しい波の立つ風情に見えつつ、船はするすると滑って、鶴ケ島をさして滑かに浮いて行く。 さまでの距離はないが、月夜には柳が煙るぐらいな間で、島へは棹の数百ばかりはあろう。 玉野は上手を遣る。 さす手が五十ばかり進むと、油を敷いたとろりとした静な水も、棹に掻かれてどこともなしに波紋が起った、そのせいであろう。あの底知らずの竜の口とか、日射もそこばかりはものの朦朧として淀むあたりに、――微との風もない折から、根なしに浮いた板ながら真直に立っていた白い御幣が、スースーと少しずつ位置を転えて、夢のように一寸二寸ずつ動きはじめた。 凝と、……視るに連れて、次第に、緩く、柔かに、落着いて弧を描きつつ、その円い線の合する処で、またスースーと、一寸二寸ずつ動出すのが、何となく池を広く大きく押拡げて、船は遠く、御幣ははるかに、不思議に、段々汀を隔るのが心細いようで、気も浮かりと、紫玉は、便少ない心持がした。 「大丈夫かい、あすこは渦を巻いているようだがね。」 欄干に頬杖したまま、紫玉は御幣を凝視めながら言った。 「詰りませんわ、少し渦でも巻かなけりゃ、余り静で、橋の上を這っているようですもの、」 とお転婆の玉江が洒落でもないらしく、 「玉野さん、船をあっちへ遣ってみないか?……」 紫玉が圧えて、 「不可いよ。」 「いいえ、何ともありゃしませんわ。それだし、もしか、船に故障があったら、おーいと呼ぶか、手を敲けば、すぐに誰か出て来るからって、女中がそう言っていたんですから。」とまた玉江が言う。 成程、島を越した向う岸の萩の根に、一人乗るほどの小船が見える。中洲の島で、納涼ながら酒宴をする時、母屋から料理を運ぶ通船である。 玉野さえ興に乗ったらしく、 「お嬢様、船を少し廻しますわ。」 「だって、こんな池で助船でも呼んでみたが可い、飛んだお笑い草で末代までの恥辱じゃあないか、あれお止しよ。」 と言うのに、――逆について船がぐいと廻りかけると、ざぶりと波が立った。その響きかも知れぬ。小さな御幣の、廻りながら、遠くへ離れて、小さな浮木ほどになっていたのが、ツウと浮いて、板ぐるみ、グイと傾いて、水の面にぴたりとついたと思うと、罔竜の頭、絵ける鬼火のごとき一条の脈が、竜の口からむくりと湧いて、水を一文字に、射て疾く、船に近づくと斉しく、波はざッと鳴った。 女優の船頭は棹を落した。 あれあれ、その波頭がたちまち船底を噛むかとすれば、傾く船に三人が声を殺した。途端に二三尺あとへ引いて、薄波を一煽り、その形に煽るや否や、人の立つごとく、空へ大なる魚が飛んだ。 瞬間、島の青柳に銀の影が、パッと映して、魚は紫立ったる鱗を、冴えた金色に輝やかしつつ颯と刎ねたのが、飜然と宙を躍って、船の中へどうと落ちた。その時、水がドブンと鳴った。 舳と艫へ、二人はアッと飛退いた。紫玉は欄干に縋って身を転わす。 落ちつつ胴の間で、一刎、刎ねると、そのはずみに、船も動いた。――見事な魚である。 「お嬢様!」 「鯉、鯉、あら、鯉だ。[#底本では「。」なし]」 と玉江が夢中で手を敲いた。 この大なる鯉が、尾鰭を曳いた、波の引返すのが棄てた棹を攫った。棹はひとりでに底知れずの方へツラツラと流れて行く。
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