と思ったがそれは遠い。このふっくりした白いものは、南無三宝仰向けに倒れた女の胸、膨らむ乳房の真中あたり、鳩尾を、土足で蹈んでいようでないか。 仁右衛門ぶるぶるとなり、据眼に熟と見た、白い咽喉をのけ様に、苦痛に反らして、黒髪を乱したが、唇を洩る歯の白さ。草に鼻筋の通った顔は、忘れもせぬ鶴谷の嫁、初産に世を去った御新姐である。 親仁は天窓から氷を浴びた。 恐しさ、怪しさより、勿体なさに、慌てて踏んでいる足を除けると、我知らず、片足が、またぐッと乗る。 うむ、と呻かれて、ハッと開くと、旧の足で踏みかける。顛倒して慌てるほど、身体のおしに重みがかかる、とその度に、ぐ、ぐ、と泣いて、口から垂々と血を吐くのが、咽喉に懸り、胸を染め、乳の下を颯と流れて、仁右衛門の蹠に生暖う垂れかかる。 あッと腰を抜いて、手を支くと、その黒髪を掻掴んだ。 御免なせえまし、御新姐様、御免なせえまし、と夢中ながら一心に詫びると、踏躪られる苦悩の中から、目を開いて、じろじろと見る瞳が動くと、口も動いて、莞爾する、……その唇から血が流れる。 足は膠で附けたよう。 同一処で蠢く処へ、宰八の声が聞えたので、救助を呼ぶさえ呻吟いたのであった。 かくて、手を取って引立てられた――宰八が見た飛石は、魅せられた仁右衛門の幻の目に、すなわち御新姐の胸であったのである、足もまだ粘々する、手はこの通り血だらけじゃ、と戦いたが、行燈に透かすと夜露に曝れて白けていた。
「我折れ何とも、六十の親仁が天窓を下げる。宰八、夜深じゃが本宅まで送ってくれ。片時もこの居まわり三町の間に居りたくない、生命ばかりはお助けじゃ。」 と言って、誰にするやら仁右衛門はへたへたとお辞儀をした。 そこで、表門へ廻った二人は、と皆連立って出て見ると、訓導は式台前の敷石の上に、ぺたんと坐っていた。狐饂飩の亭主は見えず。……後で知れたがそれは一散に遁げた、と言う。
何を見て驚いたか、渠等は頭を掉って語らない。一人は緋の袴を穿いた官女の、目の黒い、耳の尖がった凄じき女房の、薄雲の月に袖を重ねて、木戸口に佇んだ姿を見たし、一人は朱の面した大猿にして、尾の九ツに裂けた姿に見た、と誰伝うるとなく、程経って仄に洩れ聞える。――
三十八
二人寝には楽だけれども、座敷が広いから、蚊帳は式台向きの二隅と、障子と、襖と、両方の鴨居の中途に釣手を掛けて、十畳敷のその三分の一ぐらいを――大庄屋の夜の調度――浅緑を垂れ、紅麻の裾長く曳いて、縁側の方に枕を並べた。 一日、朝から雨が降って、昼も夜のようであったその夜中の事――と語り掛けて、明はすやすやと寝入ったのである。 いずれそれも、怪しき事件の一つであろう。……あわれ、この少き人の、聞くがごとくんば連日の疲労もさこそ、今宵は友として我ここに在るがため、幾分の安心を得て現なく寝入ったのであろう、と小次郎法師が思うにつけても、蚊帳越に瞻らるるは床の間を背後にした仄白々とある行燈。 楽書の文字もないが、今にも畳を離れそうで、裾が伸びるか、燈が出るか、蚊帳へ入って来そうでならぬ。 そういえば、掻き立てもしないのに、明の寝顔も、また悪く明るい。 「貴下、寝冷をしては不可ません。」 寝苦しいか、白やかな胸を出して、鳩尾へ踏落しているのを、痩せた胸に障らないように、密っと引掛けたが何にも知らず、まず可かった。――仁右衛門が見た御新姐のように、この手が触って血を吐きながら、莞爾としたらどうしょう。 そう思うと寝苦しい、何にも見まい、と目を塞ぐ、と塞ぐ後から、睫がぱちぱちと音がしそうに開いてしまうのは、心が冴えて寝られぬのである。 掻巻を引被れば、衾の袖から襟かけて、大な洞穴のように覚えて、足を曳いて、何やらずるずると引入れそうで不安に堪えぬ。 すぽりと脱いで、坊主天窓をぬいと出したが、これはまた、ばあ、と云ってニタリと笑いそうで、自分の顔ながら気味の悪さ。 そこで屹となって、襟を合せて、枕を仕かえて、気を沈めて、 「衆怨悉退散、」 と仰向けのまま呪すと、いくらか心が静まったと見えて、旅僧はつい、うとうととしたかと思うと、ぽたり、と何か枕許へ来たのがある。 が、雨垂とも、血を吸膨れた蚊が一ツ倒れた音とも、まだ聞定めないで現[#ルビの「うつつ」は底本では「うつ」]でいると、またぽたり……やがて、ぽたぽたと落ちたるが、今度は確に頬にかかった。 やっと冷たいのが知れて、掌で撫でると、冷りとする。身震いして少し起きかけて、旅僧は恐る恐る燈の影に透したが、幸に、血の点滴ではない。 さては雨漏りと思う時は、蚊帳を伝って雫するばかり、はらはらと降り灌ぐ。 耳を澄ますと、屋根の上は大雨であるらしい。 浮世にあらぬ仮の宿にも、これほど侘しいものはない。けれども、雨漏にも旅馴れた僧は、押黙って小止を待とうと思ったが、ますます雫は繁くなって、掻巻の裾あたりは、びしょびしょ、刎上って繁吹が立ちそう。 屋根で、鵝鳥が鳴いた事さえあると聞く。家ごと霞川の底に沈んだのでなかろうか。……トタンに額を打って、鼻頭に浸んだ、大粒なのに、むっくと起き、枕を取って掻遣りながら、立膝で、じりりと寄って、肩まで捲れた寝衣の袖を引伸ばしながら、 「もし、大分漏りますが、もし葉越さん。」 と呼んだが答えぬ。 目敏そうな人物が、と驚いて手を翳すと、薄の穂を揺るように、すやすやと呼吸がある。 「ああ、よく寝られた。」 と熟と顔を見ると、明の、眦の切れた睫毛の濃い、目の上に、キラキラとした清い玉は、同一雨垂れに濡れたか、あらず。…… 来方は我にもあり、ただ御身は髪黒く、顔白きに、我は頭蒼く、面の黄なるのみ。同一世の孤児よ、と覚えずほうり落ちた法師自身の同情の涙の、明の夢に届いたのである。 四辺を見ると、この人目覚めぬも道理こそ。雨の雫の、糸のごとく乱れかかるのは、我が身体ばかりで、明の床には、夜をあさる蚤も居らぬ。 南無三宝、魔物の唾じゃ。
三十九
例の、その幻の雨とは悟ったものの、見す見すひやりとして濡るるのは、笠なしに山寺から豆腐買いに里へ遣られた、小僧の時より辛いので、堪りかねて、蚊帳の裾を引被いで出たが、さてどこを居所とも定まらぬ一夜の宿。 消えなんとする旅籠屋の行燈を、時雨の軒に便る心で。 僧は燈火[#「燈火」は底本では「灯燈」]の許に膝行り寄った。 寝衣を見ると、どこも露ほども濡れてはおらぬ。まず頬のあたりから腕を拭こうとしたほどだったのに……もとより寝床に雨垂の音は無い。 その腕を長く、つき反らして擦りながら、 「衆怨悉退散。」 とまた念じて、静と心を沈めると、この功徳か、蚊の声が無くなって、寂として静まり返る。 また余りの静さに、自分の身体が消えてしまいはせぬか、という懸念がし出して、押瞑った目を夢から覚めたように恍惚と、しかも円に開けて、真直な燈心を視透かした時であった。 飜然と映って、行燈へ、中から透いて影がさしたのを、女の手ほどの大な蜘蛛、と咄嗟に首を縮めたが、あらず、非ず、柱に触って、やがて油壺の前へこぼれたのは、木の葉であった、青楓の。 僧は思わず手で拾った。がそのまさしく木の葉であるや、しからずや、確かめようとしたのか、どうか、それは渠にも分りはせぬ。 ト続いて、颯と影がさして、横繁吹に乗ったようにさらりと落ちる。 我にもあらず、またもやそれを拾った時、先のを、 「一枚、」 と思わず算えた。 「二枚、」 とあとを数え果さず、三枚目のは、貝ほどの槻の葉で、ひらひらと燈を掠めて来た、影が大い。 「三枚、」 と口の裡で呟くと、早や四枚目が、ばさばさと行燈の紙に障った。 「四枚、五枚、六枚、七枚、」 と数える内に、拾い上げた膝の上は、早や隙間なく落葉に埋もるる。 空を仰ぐと、天井は底がなく、暗夜の深山にある心地。 おお、この森を峠にして、こんな晩、中空を越す通魔が、魔王に、はたと捧ぐる、関所の通証券であろうも知れぬ。膝を払って衝と立って、木の葉のはらはらと揺れるに連れて、ぶるぶると渠は身震いした。 「えへん!」 と揉潰されたような掠れた咳して、何かに目を転じて、心を移そうとしたが、風呂敷包の、御経を取出す間も遅し。さすがに心着いたのは、障子に四五枚、かりそめに貼った半紙である。 これはここへ来てからの、心覚えの童謡を、明が書留めて朝夕に且つ吟じ且つ詠むるものだ、と宵に聞いた。 立ったままに寄って見ると、真先に目に着いたのが濃い墨で、
落葉一枚、
僧は更に悚然とした。
落葉一枚、 二枚、三枚、 十とかさねて、 落葉の数も、 ついて落いた君の年、 君の年――
振返ると、まだそこに、掃掛けて廃したように、蒼きが黒く散々である。
懐かしや、花の常夏、 霞川に影が流れた。 その俤や、俤や――
紙を通して障子の彼方に、ほの白いその俤が……どうやら透いて見えるようで、固くなった耳の底で、天の高さ、地の厚さを、あらん限り、深く、遥に、星の座も、竜宮の燈も同一遠さ、と思う辺、黄金の鈴を振るごとく、ただ一声、コロリン、と琴が響いた。 はっと半紙を見ると、瞳へチラリ。
コロリン!
と字が動いたよう。続けて――
琴の音が…………
と記してあった。
四十
客僧は思案して、心を落着け、衣紋を直して、さて、中に仏像があるので、床の間を借りて差置いた、荷物を今解き始めたが、深更のこの挙動は、木曾街道の盗賊めく。 不浄よけの金襴の切にくるんだ、たけ三寸ばかり、黒塗の小さな御厨子を捧げ出して、袈裟を机に折り、その上へ。 元来この座敷は、京ごのみで、一間の床の間に傍に、高い袋戸棚が附いて、傍は直ぐに縁側の、戸棚の横が満月形に庭に望んだ丸窓で、嵌込の戸を開けると、葉山繁山中空へ波をかさねて見えるのが、今は焼けたが故郷の家の、書院の構えにそっくりで、懐しいばかりでない。これもここで望の達せらるる兆か、と床しい、と明が云って、直ぐにこの戸棚を、卓子擬いの机に使って、旅硯も据えてある。椅子がわりに脚榻を置いて。…… 周囲が広いから、水差茶道具の類も乗せて置く。 そこで、この男の旅姿を見た時から、ちゃんと心づもりをしたそうで、深切な宰八爺いは、夜の具と一所に、机を背負て来てくれたけれども、それは使わないで、床の間の隅に、埃は据えず差置いた。心に叶って逗留もしようなら、用いて書見をなさいまし、と夜食の時に言ってくれた。 その机を、今ここへ。 御厨子を据えて、さてどこへ置直そうと四辺を視た時、蚊帳の中で、三声ばかり、太く明が魘された。が……此方の胸が痛んだばかりで、揺起すまでもなく、幸にまた静になった。 障子を開けて、縁側は自分も通るし、一方は庭づたいに入った口で、日頃はとにかく、別に今夜は何事もない。頻に気になるのは、大掃除の時のために、一枚はずれる仕掛けだという、向うの天井の隅と、その下に開けた事のない隔ての襖の合せ目である。 「わが仏守らせたまえ。」 と祈念なし、机を取って、押戴いて、屹と見て、其方へ、と座を立とうとする。 途端であった。 「しばらく。」 ずしん、地の底へ響く声がした。 明が呼んだか、と思う蚊帳の中で、また烈しく魘されるので、呼吸を詰めて、 「…………」 色を変える。 襖の陰で、
「客僧しばらく――唯今それへ参るものがござる。往来を塞ぐまい。押して通るは自在じゃが、仏像ゆえに遠慮をいたす。いや、御身に向うて、害を加うる仔細はない。」 ト見ると襖から承塵へかけた、雨じみの魍魎と、肩を並べて、その頭、鴨居を越した偉大の人物。眉太く、眼円に、鼻隆うして口の角なるが、頬肉豊に、あっぱれの人品なり。生びらの帷子に引手のごとき漆紋の着いたるに、白き襟をかさね、同一色の無地の袴、折目高に穿いたのが、襖一杯にぬっくと立った。ゆき短な右の手に、畳んだままの扇を取って、温顔に微笑を含み、動ぎ出でつ、ともなく客僧の前へのっしと坐ると、気に圧された僧は、ひしと茶斑の大牛に引敷かれたる心地がした。 はっと机に、突俯そうとする胸を支えて、 「誰だ。」 と言った。 「六十余州、罷通るものじゃ。」 「何と申す、何人……」 「到る処の悪左衛門、」 と扇子を構えて、 「唯今、秋谷に罷在る、すなわち秋谷悪左衛門と申す。」 「悪…………」 「悪は善悪の悪でござる。」 「おお、悪……魔、人間を呪うものか。」 「いや、人間をよけて通るものじゃ。清き光天にあり、夜鴉の羽うらも輝き、瀬の鮎の鱗も光る。隈なき月を見るにさえ、捨小舟の中にもせず、峰の堂の縁でもせぬ。夜半人跡の絶えたる処は、かえって茅屋の屋根ではないか。 しかるを、わざと人間どもが、迎え見て、損わるるは自業自得じゃ。」
四十一
「真日中に天下の往来を通る時も、人が来れば路を避ける。出会えば傍へ外れ、遣過ごして背後を参る。が、しばしば見返る者あれば、煩わしさに隠れ終せぬ、見て驚くは其奴の罪じゃ。 いかに客僧、まだ拙者を疑わるるか。」 と莞爾として、客僧の坊主頭を、やがて天井から瞰下しつつ、 「かくてもなお、我等がこの宇宙の間に罷在るを怪まるるか。うむ、疑いに られたな。 いたその瞳も、直ちに瞬く。 およそ天下に、夜を一目も寝ぬはあっても、瞬をせぬ人間は決してあるまい。悪左衛門をはじめ夥間一統、すなわちその人間の瞬く間を世界とする――瞬くという一秒時には、日輪の光によって、御身等が顔容、衣服の一切、睫毛までも写し取らせて、御身等その生命の終る後、幾百年にも活けるがごとく伝えらるる長い時間のあるを知るか。石と樹と相打って、火をほとばしらすも瞬く間、またその消ゆるも瞬く間、銃丸の人を貫くも瞬く間だ。 すべて一たびただ一人の瞬きする間に、水も流れ、風も吹く、木の葉も青し、日も赤い。天下に何一つ消え失するものは無うして、ただその瞬間、その瞬く者にのみ消え失すると知らば、我等が世にあることを怪むまい。」 と悠然として打頷き、 「そこでじゃ、客僧。 たといその者の、自から招く禍とは言え、月のたちまち雲に隠れて、世の暗くなるは怪まず、行燈の火の不意に消ゆるに喚き、天に星の飛ぶを訝らず、地に瓜の躍るに絶叫する者どもが、われら一類が為す業に怯かされて、その者、心を破り、気を傷け、身を損えば、おのずから引いて、我等修業の妨となり、従うて罪の障となって、実は大に迷惑いたす。」
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