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草迷宮(くさめいきゅう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-22 13:07:19 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 はい、浪打際に子産石こうみいしと云うのがござんす。これこれでここの名所、と土地ところ自慢も、優しく教えて、石段から真直まっすぐに、畑中はたなかを切って出て見なさんせ、と指さしをしてくれました。
 いかに石が名所でも、男ばかりでが出来るか。何と、あねや、と麦にかくれる島田をのぞいて、天狗てんぐわらいにえて来ました、面目もない不了簡ふりょうけん
 嘉吉とかを聞くにつけても、よく気が違わずに済んだ事、とお話中に悚気ぞっとしたよ。
 黒門の別荘とやらの、話を聞くと引入れられて、気が沈んで、しんみりと真心から念仏の声が出ました。
 途中すがらもその若い人たちを的に仏名を唱えましょう。木賃の枕に目をねむったら、なお歴然ありあり、とその人たちの、姿も見えるような気がするから、いっそよく念仏が申されようと考える。
 聞かしておくれの、お婆さん、お前は善智識、と云うてもい、私は夜通しでも構わんが。
 あんまり身を入れて話をする――聞く――していたので、邪魔になっては、という遠慮か、四五人こっちをのぞいては、素通すどおりをしたのがあります。
 近在の人と見える。風呂敷包を腰につけて、草履穿きで裾をからげた、杖を突張つッぱった、白髪しらがの婆さんの、お前さんとは知己ちかづきと見えるのが、向うから声をかけたっけ。お前さんが話に夢中で、気が着かなんだものだから、そのままほくほくってしまった。
 私も聞惚ききとれていた処、話の腰を折られては、と知らぬ顔で居たっけよ。
 大層お店の邪魔をしました、実に済まぬ。」
 と扇を膝に、両手で横にきながら、丁寧に会釈する。
 うばはあらためて右瞻左瞻とみこうみたが、
「お上人様、御殊勝にござります、御殊勝にござります。難有ありがたや、」
 と浅からず渇仰かつごうして、
「本家が村一番の大長者じゃと云えば、申憎い事ながら、どこを宿ともお定めない、御見懸け申した御坊様じゃ。推しても行って回向えこうをしょう。ああもしょう、こうもしてやろう、と斎布施ときふせをお目当で……」
 とずっきり云った。
「こりゃ仰有おっしゃりそうな処、御自分の越度おちどをお明かしなさりまして、路々念仏申してやろう、と前途さきをお急ぎなさります飾りの無いお前様。
 道中、おぐしの伸びたのさえ、かえって貴う拝まれまする。どうぞ、その御回向を黒門の別宅で、近々として進ぜて下さりませぬか。……
 もし、鶴谷でもどのくらい喜びますか分りませぬ。」

       十六

 鶴谷が下男、苦虫の仁右衛門にえもん親仁おやじ。角のある人魂ひとだまめかして、ぶらりと風呂敷包を提げながら、小川べりの草の上。
「なあよ、宰八、」
「やあ、」
 と続いた、てんぼう蟹は、夥間なかまの穴の上を冷飯草履ひやめしぞうり、両足をしゃちこばらせて、舞鶴の紋の白い、萌黄もえぎの、これも大包おおづつみ。夜具を入れたのを引背負ひっしょったは、民が塗炭とたんくるしんだ、戦国時代の駆落かけおちめく。
「何か、お前が出会でっくわした――黒門に逗留とうりゅうしてござらしゃるわけえ人が、手鞠てまりを拾ったちゅうはどこらだっけえ。」
きだ、そうれ、おめえく先に、猫柳がこんもりあんべい。」
「おお、」
「その根際ねきだあ。帽子のふちも、ぐったり、と草臥くたぶれた形での、そこに、」
 と云った人声に、葉裏から蛍が飛んだ。が、三ツ五ツ星に紛れて、山際薄く、ながれが白い。
 この川は音もなく、霞のように、どんよりと青田の村をうのである。
「ここだよ。ちょうど、」
 と宰八はちょっと立留まる。前途ゆくてに黒門の森を見てあれば、秋谷の夜はここよりぞ暗くなる、と前途に近く、人の足許あしもと朦朧もうろうと、早やその影が押寄せて、土手の低い草の上へ、襲いかかる風情だから、一人が留まれば皆留まった。
 宰八の背後あとから、もう一人。ステッキを突いて続いた紳士は、村の学校の訓導である。
見馴みなれねえ旅の書生さんじゃ、下ろした荷物に、そべりかかって、腕を曲げての、足をおめえ、草の上へ横投げに投出して、ソレそこいら、白鷺しらさぎ鶏冠とさかのように、川面かわづらへほんのり白く、すいすいと出て咲いていら、昼間見ると桃色の優しい花だ、はて、よもぎでなしよ。」
石竹せきちくだっぺい。」
撫子なでしこの一種です、常夏とこなつの花と言うんだ。」
 と訓導は姿勢を正して、ステッキを一つ、くるりと廻わすと、ドブン。
「ええ!驚かなくてもよろしい。今のは蛙だ。」
「その蛙……いんねさ、常夏け。その花を摘んでどうするだか、一束手ぶしに持ったがね。別にハイそれをながめるでもねえだ。美しい目水晶ぱちくりと、川上の空さあおく光っとる星い向いて、相談つような形だね。
 草鞋わらじがけじゃで、近辺の人ではねえ。道さ迷ったら教えて進ぜべい、とわしもう内へ帰って、婆様と、お客に売った渋茶の出殻だしがらで、茶漬え掻食かっくうばかりだもんで、のっそりその人の背中へ立って見ていると、しばらくってよ。
 むっくりと起返った、と思うとの。……(爺様じいさん、あれあれ、)」
 その時、宰八川面へ乗出して、母衣ほろさかさに水に映した。
「(手毬てまりが、手毬が流れる、流れてくる、拾ってくれ、礼をする。)

 見ると、成程、泡も立てずに、夕焼が残ったような尾をいて、その常夏を束にした、真丸まんまるいのが浮いて来るだ。
銭金ぜにかねはさてかっせえ、だが、足を濡らすは、厭なこんだ。)と云う間もえ。
 突然いきなりざぶりと、わけえ人は衣服きものすそつかんだなりで、川の中へ飛込んだっけ。
 押問答に、小半時かかればとって、直ぐに突ん流れるようなはええ水脚では、コレ、無えものを、そこは他国の衆で分らねえ。稲妻をつかまえそうな慌て方で、ざぶざぶ真中まんなかおっかける、人のあおりで、水が動いて、手毬は一つくるりと廻った。岸の方へ寄るでねえかね。
(えら!気の疾え先生だ。さまで欲しけりゃ算段のうして、柳の枝をおっぺっしょっても引寄せて取ってやるだ、見さっせえ、旅の空で、召ものがびしょ濡れだ。)と叱言こごとを言いながら、岸へ来たのを拾おう、とわし、えいやっとしゃがんだが。
 こんな川でも、動揺どよみにゃ浪を打つわ、濡れずば栄螺さざえも取れねえ道理よ。わしが手をのばすとの、また水に持ってかれて、手毬はやっぱり、川の中で、その人が取らしっけがな。……ここだあ仁右衛門、先生様も聞かっせえ。」
 と夜具風呂敷の黄母衣越きほろごしに、茜色あかねいろのその顱巻はちまき捻向ねじむけて、
いやな事は、……手毬を拾うと、その下に、猫が一匹居たではねえかね。」

       十七

 訓導は苦笑いして、
い加減な事を云う、狂気きちがいの嘉吉以来だ。お前は悪く変なものに知己ちかづきのように話をするが、水潜みずくぐりをするなんて、猫化けの怪談にも、ついに聞いた事はないじゃないか。」
「お前様もね、当前あたりまえだあこれ、空を飛ぼうが、泳ごうが、きた猫なら秋谷中わし知己ちかづきだ。何もいやな事はねえけんど、水ひたしの毛がよれよれ、前足のつけ根なぞは、あかはだよ。げっそり骨の出た死骸しがいでねえかね。」
 訓導は打棄うっちゃるように、
「何だい、死骸か。」
「何だ死骸か、言わっしゃるが、死骸だけに厭なこんだ。金壺眼かなつぼまなこふさがねえ。その人がまりを取ると、三毛のぶちが、ぶよ、ぶよ、一度、ぷくりと腹を出いて、目がぎょろりと光ッたけ。そこら鼠色のきたねえ泡だらけになって、どんみりと流れたわ、水とハイ摺々すれすれでの――その方は岸へ上って、腰までずぶ濡れのきものを絞るとって、帽子を脱いで仰向あおむけにして、その中さ、入れさしった、そばで見ると、紫もありゃ黄色い糸もかがってある、五しきの――手毬は、さまで濡れてはいねえだっけよ。」
「なあよ、宰八、」
あんだえ。」
 仁右衛門は沈んだ声で、
「その手毬はどうしたよ。」
「今でもその学生が持ってるかね。」
 背後うしろから、訓導がまた聞き挟む。
忽然こつねんとして消えせただ。夢に拾った金子かねのようだね。へ、へ、へ、」
 とおかしな笑い方。
「ふん、」
 と苦虫は苦ったなりで、てくてくと歩行あるき出す。
「嘘をけ、またはじめた。大方、お前が目の前で、しゃぼんだまのように、ぱっと消えてでもなくなったろう、不思議さな。」
「違えます、違えますとも!」
 仁右衛門の後を打ちながら、
「その人が、
爺様じいさん、この里では、今時分手毬をつくか。)
あんでね?)
小児こどもたちが、優しい声、なつかしい節で唄うている。

ここはどこの細道じゃ、
秋谷邸の細道じゃ……)

 一件ものをの、優しい声、懐しい声じゃ云うて、手毬を突くか、と問わっしゃるだ。
 とんでもねえ、あれはお前様、芋※ずいき[#「くさかんむり/更」、169-14]の葉が、と言おうとしたが、待ちろ、芸もねえ、村方の内証を饒舌しゃべって、恥くは知慧ちえでねえと、
あに前様めえさま、学校で体操するだ。おたま杓子じゃくしで球をすくって、ひるてんのとびっこをすればちゅッて、手毬なんか突きっこねえ、)と、先生様の前だけんど、わし一ツ威張ったよ。」
「何だ、みっともない、ひるてんの飛びっことは。テニスだよ、テニスと言えばい。」
「かね……わしまた西洋の雀躍すずめおどりか、と思ったけ、まあ、え。」
「ちっともかあない、」
 と訓導はつばをする。
「それにしても、奥床しい、誰が突いた毬だろう、と若え方問わっしゃるだが。
 のっけから見当はつかねえ、けんど、ぬしたもとから滝のように水が出るのを見るにつけても、何とかハイ勘考せねばなんねえで、その手毬を持って見た、」
 と黄母衣きほろを一つ揺上ゆすりあげて、
「濡れちゃいねえが、ヒヤリとしたでね、塩梅あんばいよ、引込ひっこんだのは手棒てんぼうの方、」
 へへ、とまた独りで可笑おかしがり、
「こっちの手で、ハイ海へ落ちさっしゃるお日様と、黒門の森にかかったお月様の真中まんなかへ、たっかくこう透かして見っけ。
 しゃぼんだまではねえよ。真円まんまるな手毬の、影も、草に映ったでね。」
「それがまたどうして消えた、馬鹿な!」
 と勢込いきおいこむ、つき反らしたステッキさきが、ストンと蟹の穴へはさまったので、厭な顔をした訓導は、抜きざまに一足飛ぶ。
「まあ、聞かっせえ。
 玉味噌の鑑定とは、ちくと物が違うでな、幾らわしひねくっても、どこのものだか当りは着かねえ。
(霞のような小川の波に、常夏とこなつの影がさして、遠くに……(細道)が聞える処へ、手毬が浮いて……三年五年、旅から旅を歩行あるいたが、またこんな嬉しい里は見ない、)
 と、ずぶぬれきものを垂れるしずくさえ、身体からだから玉がこぼれでもするほどに若え方は喜ばっしゃる。」

       十八

「――(この上誰か、この手毬の持主に逢えるとなれば、爺さん、私は本望だ、野山に起臥おきふしして旅をするのもそのためだ。)
 と、話さっしゃるでの。村をめられたが憎くねえだし、またそれまでに思わっしゃるものを、ただわかりましねえで放擲ほかしては、何かわし、気が済まねえ。
 そこで、草原へしゃがみ込んで、まことにはなさりますめえけんど、と嘉吉にあおたま授けさしった……」
 しばらく黙って、
「の、事を話したらばの。先生様の前だけんど、嘘をけ、と天窓あたまからけなさっしゃりそうなわけえ方が、
(おお、その珠と見えたのも、大方星ほどの手毬だろう。)と、あのまたあおい星をながめて云うだ。けちりんも疑わねえ。
(なら、まだ話します事がござります、)とついでに黒門の空邸あきやしきの話をするとの。
(川はその邸の、庭か背戸を通って流れはしないか。)
 と乗出しけよ。……(流れは見さっしゃる通りだ)……」

 今もおなじような風情である。――うっすりとひさしを包む小家こいえの、紫のけぶりの中もめぐれば、低く裏山の根にかかった、一刷ひとはけ灰色のもやの間も通る。青田の高低たかひくふもと凸凹でいりに従うて、やわらかにのんどりした、この一巻ひとまきの布は、朝霞には白地の手拭てぬぐい、夕焼にはあかねの襟、たすきになり帯になり、はてすすきもすそになって、今もある通り、村はずれの谷戸口やとぐちを、明神の下あたりから次第に子産石こうみいしの浜に消えて、どこへそそぐということもない。口につけると塩気があるから、海潮うしおがさすのであろう。その川裾かわすそのたよりなく草に隠れるにつけて、明神の手水洗みたらしにかけた献燈の発句には、これを霞川、と書いてあるが、俗に呼んで湯川と云う。
 霞に紛れ、靄に交って、ほのぼのと白く、いつも水気の立つ処から、言い習わしたものらしい。
 あの、薄煙うすけぶり、あの、靄の、一際夕暮を染めたかなたこなたは、遠方おちかたの松のこずえも、近間なる柳の根も、いずれもこの水のよどんだ処で。はた一つ前途ゆくてを仕切って、縦に幅広く水気が立って、小高いいしずえ朦朧もうろうと上に浮かしたのは、森の下闇したやみで、靄が余所よそよりも判然はっきりと濃くかかったせいで、鶴谷が別宅のその黒門の一構ひとかまえ
 三人は、彼処かしこをさして辿たどるのである。
 ここに渠等かれらが伝う岸は、一間ばかりの川幅であるが、鶴谷の本宅のあたりでは、およそ三間に拡がって、川裾は早やその辺からびしょびしょと草に隠れる。
 ここへは、ながれをさかのぼって来るので、間には橋一つ渡らねばならぬ。
 橋は明神の前へ、三崎街道に一つ、村の中に一つ。今しがた渠等が渡って、ここから見えるその村の橋も、鶴谷の手で欄干はついているが、細流せせらぎの水静かなれば、ひとえに風情を添えたよう。青い山から靄の麓へけ渡したようにも見え、低い堤防どての、茅屋かややから茅屋の軒へ、階子はしごよこたえたようにも見え、とある大家の、物好ものずきに、長く渡した廻廊かともながめられる。
 ともしびもやや、ちらちらと青田に透く。川下の其方そなたは、藁屋わらや続きに、海が映って空もあかるい。――水上みなかみの奥になるほど、樹の枝に、茅葺かやぶきの屋根がかかって、蓑虫みのむしねぐらしたような小家がちの、それも三つが二つ、やがて一つ、窓のあかりさず、水を離れた夕炊ゆうかしぎの煙ばかり、細く沖ですくいを呼ぶ白旗のように、風のまにまに打靡うちなびく。海の方は、暮が遅くてあかりはやく、山の裾は、暮が早くて、ともしびが遅いそうな。
 まだそれも、鳴子引けば遠近おちこち便たよりがあろう。家と家とがあいを隔て、岸をいても相望むのに、黒門の別邸は、かけ離れた森の中に、ただ孤家ひとつやの、四方へおおきなる蜘蛛くものごとく脚を拡げて、どこまでもその暗い影をうねらせる。
 月は、その上にかかっているのに。……
 先達せんだつの仁右衛門は、早やその樹立こだちの、余波なごりの夜に肩を入れた。が、見た目のさしわたしに似ない、帯がたるんだ、ゆるやかな川ぞいの道は、本宅から約八丁というのである。
 宰八が言続いいついで、
「……(外廻りを流れて来るし、何もハイ空家から手毬を落すはずはねえ。そんでも猫の死骸なら、あすこへ持って行って打棄うっちゃった奴があるかも知んねえ、草ぼうぼうだでのう、)とわし、話をしただがね。」

       十九

「それからそのわけえ方は、(どうだろう、その黒門の空家というのを、一室ひとま借りるわけには行くまいか、自炊をって、しばらく旅の草臥くたびれを休めたい、)と相談ったが。
 ねえ、先生様。
 お前様めえさま、今の住居すまいは、隣の嚊々かかあ小児がきい産んで、ぎゃあぎゃあうるせえ、どこか貸す処があるめえか、言わるるで、そん当時黒門さどうだちゅったら、あれは、と二の足をましっけな。」
 と横ざまにあびせかけると、訓導は不意打ながら、さしったりで、ステッキを小脇に引抱ひんだき、
「学校へ通うのに足場が悪くって、道が遠くって仕様がないからめたんだ。」
「朝寝さっしゃるせいだっぺい。」
 仁右衛門が重い口で。
 訓導は教うるごとく、
「第一水が悪い。あの、また真蒼まっさおな、草の汁のようなものが飲めるものかい。」
「そうかね――はあ、まず何にしろだ。こっちから頼めばとって、昼間掃除に行くのさえ、いやがります空屋敷じゃ。そこが望み、と仰有おっしゃるに、お住居すまい下さればその部屋一ツだけも、屋根の草が無うなって、立腐れが保つこんだで、こっちは願ったり、かなったり、本家の旦那だんなもさぞ喜びましょうが、尋常体なみていうちでねえ。あの黒門をくぐらっしゃるなら、覚悟して行かっせえ、うがすか、と念を入れると、
(いやその位の覚悟はいつでもしている。)
 と落着いたもんだてえば。
 はてな、この度胸だら盗賊どろぼうでも大将株だ、とわし、油断はねえ、一分別しただがね、仁右衛門よ、」
「おおよ。」
前刻さっき、着たっきりで、手毬を拾いに川ん中さ飛込んだ時だ。旅空かけて衣服きものをどうするだ、とわし頼まれがいもなかったけえ、気の毒さもあり、急がずば何とかで濡れめえものを夕立だ、と我鳴がなっった時よ。
(着物は一枚ありますから……)
 と見得でねえわ、見得でねえね。きまりの悪そうに、人の心を無にしねえで言訳をするように言わしっけが、こいつをにらんで、はあ、そこへわし押惚おっぽれただ。
 殊勝な、優しい、最愛いとしい人だ。これなら世話をしても仔細しさいあんめえ。第一、あの色白な仁体じんていじゃ…………仁右衛門よ。」
あにい、」
「暗くなったの、」
「彼これ、酉刻むつじゃ。」
「は、南無阿弥陀仏なむあみだぶつ、黒門前は真暗まっくらだんべい。」
「大丈夫、月がすよ。」
 と訓導は空を見て、
「お前、その手毬の行方はどうしたんだい。」
「そこだてね、まあ聞かっせえ、客人が、その最愛いとしらしい容子ようすじゃ……ばけ、」
 とまた言い掛けたが、青芒あおすすきが川のへりに、雑木一叢ひとむら、畑の前を背かがみ通る真中まんなかあたり、野末のもやを一呼吸いきに吸込んだかと、宰八唐突だしぬけに、
「はッくしょ!」
 胴震いで、立縮たちすくみ、
「風がねえで、えらひどい蜘蛛の巣だ。仁右衛門、おめえ、はあ、先へ立って、よく何ともねえ。」
「巣、巣どころか、おらあ樹の枝からいかかった、土蜘蛛を引掴ひッつかんだ。」
「ひゃあ、」
「七日風が吹かねえと、世界中の人を吸殺すものだちゅっけ、半日蒸すと、早やこれだ。」
 と握占にぎりしめたてのひらを、自分で捻開こじあけるようにして開いたが、恐る恐るすかして見ると、
「何ぢゃ、蟹か。」
 水へ、ザブン。
 背後うしろ水車みずぐるまのごとくステッキを振廻していた訓導が、
長蛇ちょうだを逸すか、」
 と元気づいて、高らかに、
「たちまち見る大蛇の路に当ってよこたわるを、剣を抜いてらんと欲すれば老松ろうしょうの影!」
「ええ、しずかにしてくらっせえ、……もう近えだ。」
 と仁右衛門は真面目まじめに留める。
「おい、手毬はどうして消えたんだな、じれったい。」
「それだがね、はええ話が、御仁体じゃ。化物が、の、それ、たとい顔をめればとって、天窓あたまからしおとは言うめえ、と考えたで、そこで、はい、黒門へ案内しただ。仁右衛門も知っての通り――今日はまた――内の婆々殿が肝入きもいりで、坊様をめたでの、……御本家からこうやって夜具を背負しょって、わしが出向くのは二度目だがな。」

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