と、やや歎息をするようだったが、更めて、また言った。 「時に、この邸には、当月はじめつ方から、別に逗留の客がある。同一境涯にある御仁じゃ。われら附添って眷属ども一同守護をいたすに、元来、人足の絶えた空屋を求めて便った処を、唯今眠りおる少年の、身にも命にも替うる願あって、身命を賭物にして、推して草叢に足痕を留めた以来、とかく人出入騒々しく、かたがた妨げに相成るから、われら承って片端から追払うが、弱ったのはこの少年じゃ。 顔容に似ぬその志の堅固さよ。ただお伽めいた事のみ語って、自からその愚さを恥じて、客僧、御身にも話すまいが、や、この方実は、もそっと手酷い試をやった。 あるいは大磐石を胸に落し、我その上に蹈跨って咽喉を緊め、五体に七筋の蛇を絡わし、牙ある蜥蜴に噛ませてまで呪うたが、頑として退かず、悠々と歌を唄うに、我折れ果てた。 よって最後の試み、としてたった今、少年に人を殺させた――すなわち殺された者は、客僧、御身じゃよ。」 と、じろじろと見るのである。 覚悟しながら戦いて、 「ここは、ここは、ここは、冥土か。」 と目ばかり働く、その顔を見て、でっぷりとした頬に笑を湛え、くつくつ忍笑いして、 「いや、別条はない。が、ちょうどこの少年の、いまし魘された時、客僧、何と、胸が痛かったろう。」 ズキリと応えて、 「おお、」 「すなわち少年が、御身に毒を飲ませたのだ。」 「…………」 「別でない。それそれその戸袋に載った朱泥の水差、それに汲んだは井戸の水じゃが、久しい埋井じゃに因って、水の色が真蒼じゃ、まるで透通る草の汁よ。 客僧等が茶を参った、爺が汲んで来た、あれは川水。その白濁がまだしも、と他の者はそれを用いる、がこの少年は、前に猫の死骸の流れたのを見たために、得飲まずしてこの井戸のを仰ぐ。 今も言う通りだ。殺さぬまでに現責に苦しめ呪うがゆえ、生命を縮めては相成らぬで、毎夜少年の気着かぬ間に、振袖に緋の扱帯した、面が狗の、召使に持たせて、われら秘蔵の濃緑の酒を、瑠璃色の瑪瑙の壺から、回生剤として、その水にしたたらして置くが習じゃ。」
四十二
「少年は味うて、天与の霊泉と舌鼓を打っておる。 我ら、いまし少年の魂に命じて、すなわちその酒を客僧に勧め飲ましむる夢を見させたわ。(ただ一口試みられよ、爽な涼しい芳しい酒の味がする、)と云うに因って、客僧、御身はなおさら猶予う、手が出ぬわ。」 とまた微笑み、 「毒味までしたれば、と少年は、ぐと飲み飲み、無理に勧める。さまでは、とうけて恐る恐る干すと、ややあって、客僧、御身は苦悶し、煩乱し、七転八倒して黒き血のかたまりを吐くじゃ。」 客僧は色真蒼である。 「驚いて少年が介抱する。が、もう叶わぬ、臨終という時、 (われは僧なり、身を殺して仁をなし得れば無上の本懐、君その素志を他に求めて、疾くこの恐しき魔所を遁れられよ。) と遺言する。これぞ、われらの誂じゃ。 蚊帳の中で、少年の魘されたは、この夢を見た時よ、なあ。 これならば立退くであろう、と思うと、ああ、埒あかぬ。客僧、御身が仮に落入るのを見る、と涙を流して、共に死のうと決心した。 葛籠に秘め置く、守刀をキラリと引抜くまで、襖の蔭から見定めて、 (ああ、しばらく、) と留めたは、さて、殺しては相済まぬ。 これによって、われら守護する逗留客は、御自分の方から、この邸を開いて、もはや余所へ立退くじゃが。 その以前、直々に貴面を得て、客僧に申談じたい儀があると謂わるる。 客は女性でござるに因って、一応拙者から申入れる。ためにこれへ罷出た。 秋谷悪左衛門取次を致す、」 と高らかに云って、穏和に、 「お逢い下さりょうか、いかが、」 と云った。 僧は思わず、 「は、」と答える。 声も終らず、小山のごとく膝を揺げ、向け直したと見ると、 「ござらっしゃい!」 破鐘のごときその大音、哄と響いた。目くるめいて、魂遠くなるほどに、大魔の形体、片隅の暗がりへ吸込まれたようにすッと退いた、が遥に小さく、およそ蛍の火ばかりになって、しかもその衣の色も、袴の色も、顔の色も、頭の毛の総髪も、鮮麗になお目に映る。 「御免遊ばせ。」 向うから襖一枚、颯と蒼く色が変ると、雨浸の鬼の絵の輪郭を、乱れたままの輪に残して、ほんのり桃色がその上に浮いて出た。 ト見ると、房々とある艶やかな黒髪を、耳許白く梳って、櫛巻にすなおに結んだ、顔を俯向けに、撫肩の、細く袖を引合わせて、胸を抱いたが、衣紋白く、空色の長襦袢に、朱鷺色の無地の羅を襲ねて、草の葉に露の玉と散った、浅緑の帯、薄き腰、弱々と糸の艶に光を帯びて、乳のあたり、肩のあたり、その明りに、朱鷺色が、浅葱が透き、膚の雪も幽に透く。 黒髪かけて、襟かけて、月の雫がかかったような、裾は捌けず、しっとりと爪尖き軽く、ものの居て腰を捧げて進むるごとく、底の知れない座敷をうしろに、果なき夜の暗さを引いたが、歩行くともなく立寄って、客僧に近寄る時、いつの間にか襖が開くと、左右に雪洞が二つ並んで、敷居際に差向って、女の膝ばかりが控えて見える。そのいずれかが狗の顔、と思いをめぐらす暇もない。 僧は前に彳んだのを差覗くように一目見て、 「わッ、」 とばかりに平伏した。実にこそその顔は、爛々たる銀の眼一双び、眦に紫の隈暗く、頬骨のこけた頤蒼味がかり、浅葱に窩んだ唇裂けて、鉄漿着けた口、柘榴の舌、耳の根には針のごとき鋭き牙を噛んでいたのである。
四十三
「おお、自分の顔を隠したさ。貴僧を威す心ではない、戸外へ出ます支度のまま……まあ、お恥かしい。」 と、横へ取ったは白鬼の面。端麗にして威厳あり、眉美しく、目の優しき、その顔を差俯向け、しとやかに手を支いた。 「は、は、はじめまして、」 と、しどろになって会釈すると、面を上げた寂しい頬に、唇紅う莞爾して、 「前刻、憚へいらっしゃいます、廊下でお目に懸りましたよ。」 客僧も、今はなかなかに胴据りぬ。 「貴女はどなたでございます。」 と尋ねたが、その時はほぼその誰なるかを知っているような気がしたのである。 美女は褄を深う居直って、蚊帳を透して打傾く。 萌黄が迫って、その衣の色を薄く包んだ。 「この方の、母さんのお知己、明さんとも、お友達……」 と口を結んだが愁を帯びた。 此方は、じりじりと膝を向けて、 「ああ、貴女が、」 「あの、それに就きまして、貴僧にお願いがございますが、どうぞお聞き下さいまし。」 とまた蚊帳越に打視め、 「お最愛しい、沢山お窶れ遊ばした。罪も報もない方が、こんなに艱難辛苦して、命に懸けても唄が聞きたいとおっしゃるのも、母さんの恋しさゆえ。 その唄を聞こう聞こうと、お思いなさいます心から、この頃では身も世も忘れて、まあ、私を懐しがって、迷って恋におなりなすった。 その唄は稚い時、この方の母さんから、口移しに教わって、私は今も、覚えている。 こうまで、お憧れなさるもの、ちょっと一目お目にかかって、お聞かせ申とうござんすけれど、今顔をお見せ申しますと、お慕いなさいます御心から、前後も忘れて夢見るように、袖に搦んで手に縋り、胸に額を押当てて、母よ、姉よ、とおっしゃいますもの。 どうして貴僧、摺抜けられよう、突離されよう、振切られましょう、私は引寄せます、抱緊めます。 と血を分けぬ、男と女は、天にも地にも許さぬ掟。 私たちには自由自在――どの道浮世に背いた身体が、それでは外に願いのある、私の願の邪魔になります。よしそれとても、棄身の私、ただ最惜さ、可愛さに、気の狂い、心の乱れるに随せましても、覚悟の上なら私一人、自分の身は厭いはしませぬ。 厭わぬけれど……明さんがそうすると、私たちと同一ような身の上になりますもの…… それはもう、この頃のお心では、明さんは本望らしい――本望らしい、」 とさも懸想したらしく胸を抱いたが、鼻筋白く打背いて、 「あれあれ御覧なさいまし。こう言う中にも、明さんの母さんが、花の梢と見紛うばかり、雲間を漏れる高楼の、虹の欄干を乗出して、叱りも睨みも遊ばさず、児の可愛さに、鬼とも言わず、私を拝んでいなさいます。お美しい、お優しい、あの御顔を見ましては、恋の血汐は葉に染めても、秋のあの字も、明さんの名に憚って声には出ませぬ。 一言も交わさずに、ただ御顔を見たばかりでさえ、最愛しさに覚悟も弱る。私は夫のござんす身体。他の妻でありながらも、母さんをお慕い遊ばす、そのお心の優しさが、身に染む時は、恋となり、不義となり、罪となる。 実の産の母御でさえ、一旦この世を去られし上は――幻にも姿を見せ、乳を呑ませたく添寝もしたい――我が児最惜む心さえ、天上では恋となる、その忌憚で、御遠慮遊ばす。 まして私は他人の事。 余計な御苦労かけるのが御不便さ。決して私は明さんに、在所を知らせず隠れていたのに、つい膝許の稚いものが、粗相で手毬を流したのが悪縁となりました。 彼方も私も身を苦しめ、心を傷めておりましたが、お生命の危いまでも、ここをおたち遊ばさぬゆえ、私わきへ参ります。 あんまりお心が可傷しい、さまでに思召すその毬唄は、その内時節が参りますと、自然にお耳へ入りましょう! それは今、私がこの邸を退きますと、もう隅々まで家中が明くなる。明さんも思い直して、またここを出て旅行立ちをなさいます。 早や今でも沙汰をする、この邸の不思議な事が、界隈へ拡がりますと、――近い処の、別荘にあの、お一方……」
四十四
「病の後の保養に来ておいでなさいます、それはそれは美しい、余所の婦人が、気軽な腰元の勧めるまま、徒然の慰みに、あの宰八を内証で呼んで、(鶴谷の邸の妖怪変化は、皆私が手伝いの人と一所に、憂晴らしにしたいたずら遊戯、聞けば、怪我人も沢山出来、嘉吉とやら気が違ったのもあるそうな、つい心ない、気の毒な、皆の手当をよくするように。)…… と白銀黄金を沢山授ける。 さあ、この事が世に聞えて、ぱっと風説の立ますため、病人は心が引立ち、気の狂ったのも安心して治りますが、免れられぬ因縁で、その令室の夫というが、旅行さきの海から帰って、その風聞を耳にしますと――これが世にも恐ろしい、嫉妬深い男でござんす。―― その変化沙汰のある間、そこに籠った、という旅の少年。…… この明さんと、御自分の令室が、てっきり不義に極った、と最早その時は言訳立たず。鶴谷の本宅から買い受けて、そしてこの空邸へ、その令室をとじ籠めましょう。 貴僧。 その美しい令室が、人に羞じ、世に恥じて、一室処を閉切って、自分を暗夜に封じ籠めます。 そして、日が経つに従うて、見もせず聞きもせぬけれど、浮名が立って濡衣着た、その明さんが何となく、慕わしく、懐かしく、果は恋しく、憧憬れる。切ない思い、激しい恋は、今、私の心、また明さんの、毬唄聞こうと狂うばかりの、その思と同一事。 一歳か、二歳か、三歳の後か、明さんは、またも国々を廻り、廻って、唄は聞かずに、この里へ廻って来て、空家懐し、と思いましょう。 そうなる時には、令室の、恋の染まった霊魂が、五色かがりの手毬となって、霞川に流れもしよう。明さんが、思いの丈を吐く息は、冷たき煙と立のぼって、中空の月も隠れましょう。二人の情の火が重り、白き炎の花となって、襖障子も燃えましょう。日、月でもなし、星でもなし、灯でもない明に、やがて顔を合わせましょう。 邸は世界の暗だのに。……この十畳は暗いのに。…… 明さんの迷った目には、煤も香を吐く花かと映り、蜘蛛の巣は名香の薫が靡く、と心時めき、この世の一切を一室に縮めて、そして、海よりもなお広い、金銀珠玉の御殿とも、宮とも見えて、令室を一目見ると、唄の女神と思い祟めて、跪き、伏拝む。 長く冷たき黒髪は、玉の緒を揺る琴の糸の肩に懸って響くよう、互の口へ出ぬ声は、膚に波立つ血汐となって、聞こえぬ耳に調を通わす、幽に触る手と手の指は、五ツと五ツと打合って、水晶の玉の擦れる音、戦く裳と、震える膝は、漂う雲に乗る心地。 ああこれこそ、我が母君……と縋り寄れば、乳房に重く、胸に軽く、手に柔かく腕に撓く、女は我を忘れて、抱く―― 我児危い、目盲いたか。罪に落つる谷底の孤家の灯とも辿れよ。と実の母君の大空から、指さしたまう星の光は、電となって壁に閃めき、分れよ、退けよ、とおっしゃる声は、とどろに棟に鳴渡り、涙は降って雨となる、情の露は樹に灌ぎ、石に灌ぎ、草さえ受けて、暁の旭の影には瑠璃、紺青、紅の雫ともなるものを。 罪の世の御二人には、ただ可恐しく、凄じさに、かえって一層、ひしひしと身を寄せる。 そのあわれさに堪えかねて、今ほども申しました、児を思うさえ恋となる、天上の規を越えて、掟を破って、母君が、雲の上の高楼の、玉の欄干にさしかわす、桂の枝を引寄せて、それに縋って御殿の外へ。 空に浮んだおからだが、下界から見る月の中から、この世へ下りる間には、雲が倒に百千万千、一億万丈の滝となって、ただどうどうと底知れぬ下界の霄へ落ちている。あの、その上を、ただ一条、霞のような御裳でも、撓に揺れる一枝の桂をたよりになさる危さ。 おともだちの上 たちが、ふと一人見着けると、にわかに天楽の音を留めて、はらはらと立かかって、上へ桂を繰り上げる。引留められて、御姿が、またもとの、月の前へ、薄色のお召物で、笄がキラキラと、星に映って見えましょう。 座敷で暗から不意にそれを。明さんは、手を取合ったは仇し婦、と気が着くと、襖も壁も、大紅蓮。跪居る畳は針の筵。袖には蛇、膝には蜥蜴、目の前見る地獄の状に、五体はたちまち氷となって、慄然として身を退きましょう。が、もうその時は婦人の一念、大鉄槌で砕かれても、引寄せた手を離しましょうか。 胸の思は火となって、上手が書いた金銀ぢらしの錦絵を、炎に翳して見るような、面も赫と、胡粉に注いだ臙脂の目許に、紅の涙を落すを見れば、またこの恋も棄てられず。恐怖と、恥羞に震う身は、人膚の温かさ、唇の燃ゆるさえ、清く涼しい月の前の母君の有様に、懐しさが劣らずなって、振切りもせず、また猶予う。 思余って天上で、せめてこの声きこえよと、下界の唄をお唄いの、母君の心を推量って、多勢の上 たちも、妙なる声をお合せある――唄はその時聞えましょう。明さんが望の唄は、その自然の感応で、胸へ響いて、聞えましょう。」 と、神々しいまで面正しく。…… 僧は合掌して聞くのであった。 そして、その人、その時、はた明を待つまでもない、この美人の手、一たび我に触れなば、立処にその唄を聞き得るであろうと思った。
四十五
美人は更めて、 「貴僧、この事を、ただ貴僧の胸ばかりに、よくお留め遊ばして、おっしゃってはなりません。これは露ほども明かさずに、今の処、明さんを、よしなに慰めて上げて下さいまし。 日頃のお苦みに疲れてか、まあ、すやすやとよく寝て、」 と、するすると寄った、姿が崩れて、ハタと両手を畳につくと、麻の薫がはっとして、肩に萌黄の姿つめたく、薄紅が布目を透いて、 「明ちゃん……」 と崩るるごとく、片頬を横に接けんとしたが、屹と立退いて、袖を合せた。 僧を見る目に涙が宿って、 「それではお暇いたしましょう。稚い事を、貴僧にはお恥かしいが、明さんに一式のお愛相に、手毬をついて見せましょう、あの……」 と掛けた声の下。雪洞の真中を、蝶々のように衝と抜けて、切禿で兎の顔した、女の童が、袖に載せて捧げて来た。手毬を取って、美女は、掌の白きが中に、魔界はしかりや、紅梅の大いなる莟と掻撫でながら、袂のさきを白歯で含むと、ふりが、はらりと襷にかかる。 たけた笑、恍惚して、 「まあ、私ばかり極が悪い、皆さんも来ておつきでないか。」 蚊帳をはらはら取巻いたは、桔梗刈萱、美しや、萩女郎花、優しや、鈴虫、松虫の――声々に、
(向うの小沢に蛇が立って、 八幡長者のおと女、 よくも立ったり、企んだり、 手には二本の珠を持ち、 足には黄金のくつを穿き……)
壁も襖も、もみじした、座敷はさながら手毬の錦――落ちた木の葉も、ぱらぱらと、行燈を繞って操る紅。中を縢って雪の散るのは、幾つとも知れぬ女の手と手。その手先が、心なしにちょいちょい触ると、僧の手首が自然はたはたと躍上った。
(京へのぼせて狂言させて、 寺へのぼせて[#「のぼせて」は底本では「のぼせた」]手習させて、 寺の和尚が道楽和尚で、 高い縁から突落されて、)
と衝と投げ上げて、トンと落して、高くついた。 待てよ。古郷の涅槃会には、膚に抱き、袂に捧げて、町方の娘たち、一人が三ツ二ツ手毬を携え、同じように着飾って、山寺へ来て突競を戯れる習慣がある。少い男は憚って、鐘撞堂から覗きつつその遊戯に見愡れたが……巨刹の黄昏に、大勢の娘の姿が、遥に壁に掛った、極彩色の涅槃の絵と、同一状に、一幅の中へ縮まった景色の時、本堂の背後、位牌堂の暗い畳廊下から、一人水際立った妖艶いのが、突きはせず、手鞠を袖に抱いたまま、すらすらと出て、卵塔場を隔てた几帳窓の前を通る、と見ると、もう誰の蔭になったか人数に紛れてしまった。それだ、この人は、いや、その時と寸分違わぬ―― と僧は心に――大方明も鐘撞堂から、この状を、今視めている夢であろう。何かの拍子に、その鐘が鳴ると目が覚めよう、と思う内…… 身動ぎに、この美女の鬢の後れ毛、さらさらと頬に掛ると、その影やらん薄曇りに、目ぶちのあたりに寂しくなりぬ。
(笄落し小枕落し……)
と綾に取る、と根が揺らいで、さっと黒髪が肩に乱るる。 みだれし風采恥かしや、早これまでと思うらん。落した手毬を、女の童の、拾って抱くのも顧みず、よろよろと立かかった、蚊帳に姿を引寄せられ、褄のこぼれた立姿。 屋の棟熟と打仰いで、 「あれ、あれ、雲が乱るる。――花の中に、母君の胸が揺ぐ。おお、最惜しの御子に、乳飲まそうと思召すか。それとも、私が挙動に、心騒ぎのせらるるか。客僧方には見えまいが、地の底に棲むものは、昼も星の光を仰ぐ。御姿かたちは、よく見えても、かしこは天宮、ここは地獄、言といっては交わされない。 美しき夢見るお方、」 あれ、かしこに母君在ますぞや。愛惜の一念のみは、魔界の塵にも曇りはせねば、我が袖、鏡と御覧ぜよ。今、この瞳に宿れる雫は、母君の御情の露を取次ぎ参らする、乳の滴ぞ、と袂を傾け、差寄せて、差俯き、はらはらと落涙して、 「まあ、稚児の昔にかえって、乳を求めて、……あれ、目を覚す……」 さらば、さらば、御僧。この人夢の覚めぬ間に、と片手をついて、わかれの会釈。 ト玄関から、庭前かけて、わやわやざわざわ、物音、人声。 目を擦り、目を り、目を拭いいる客僧に立別れて、やがて静々――狗の顔した腰元が、ばたばたと前へ立ち、炎燃ゆ、と緋のちらめく袖口で音なく開けた――雨戸に鏤む星の首途。十四日の月の有明に、片頬を見せた風采は、薄雲の下に朝顔の莟の解けた風情して、うしろ髪、打揺ぎ、一たび蚊帳を振返る。 「やあ、」 と、蚊帳を払って、明が飜然と飛んで縋った。―― 袂を支える旅僧と、押揉む二人の目の前へ、この時ずか、と顕われた偉人の姿、靄の中なる林のごとく、黄なる帷子、幕を蔽うて、廂へかけて仁王立、大音に、 「通るぞう。」 と一喝した。 「はっ、」 と云うと、奇異なのは、宵に宰八が一杯――汲んで来て、――縁の端近に置いた手桶が、ひょい、と倒斛斗に引くりかえると、ざぶりと水を溢しながら、アノ手でつかつかと歩行き出した。 その後を水が走って、早や東雲の雲白く、煙のような潦、庭の草を流るる中に、月が沈んで舟となり、舳を颯と乗上げて、白粉の花越しに、すらすらと漕いで通る。大魔の袖や帆となりけん、美女は船の几帳にかくれて、
(ここはどこの細道じゃ、 細道じゃ、 天神様の細道じゃ、 細道じゃ、 少し通して下さんせ……)
最切めて懐しく聞ゆ、とすれば、樹立の茂に哄と風、木の葉、緑の瀬を早み……横雲が、あの、横雲が。
明治四十一(一九〇八)年一月
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
「さんずい+散」 |
|
125-12 |
「くさかんむり/更」 |
|
153-3、154-12、154-13、160-11、160-11、169-14、221-3 |
「火+發」 |
|
189-13 | 上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] 尾页
|