泉鏡花集成12 |
筑摩書房 |
1997(平成9)年1月23日 |
前篇
鯛、比目魚
一
素顔に口紅で美(うつくし)いから、その色に紛(まが)うけれども、可愛い音(ね)は、唇が鳴るのではない。お蔦(つた)は、皓歯(しらは)に酸漿(ほおずき)を含んでいる。…… 「早瀬の細君(レコ)はちょうど(二十(はたち))と見えるが三だとサ、その年紀(とし)で酸漿を鳴らすんだもの、大概素性も知れたもんだ、」と四辺(あたり)近所は官員(つとめにん)の多い、屋敷町の夫人(おくさま)連が風説(うわさ)をする。 すでに昨夜(ゆうべ)も、神楽坂の縁日に、桜草を買ったついでに、可(い)いのを撰(よ)って、昼夜帯の間に挟んで帰った酸漿を、隣家(となり)の娘――女学生に、一ツ上げましょう、と言って、そんな野蛮なものは要らないわ! と刎(は)ねられて、利いた風な、と口惜(くやし)がった。 面当(つらあ)てというでもあるまい。あたかもその隣家(となり)の娘の居間と、垣一ツ隔てたこの台所、腰障子の際に、懐手で佇(たたず)んで、何だか所在なさそうに、しきりに酸漿を鳴らしていたが、ふと銀杏返(いちょうがえ)しのほつれた鬢(びん)を傾けて、目をぱっちりと開けて何かを聞澄ますようにした。 コロコロコロコロ、クウクウコロコロと声がする。唇の鳴るのに連れて。 ちょいと吹留(ふきや)むと、今は寂寞(しん)として、その声が止まって、ぼッと腰障子へ暖う春の日は当るが、軒を伝う猫も居(お)らず、雀の影もささぬ。 鼠かと思ったそうで、斜(ななめ)に棚の上を見遣(みや)ったが、鍋も重箱もかたりとも云わず、古新聞がまたがさりともせぬ。 四辺(あたり)を見ながら、うっかり酸漿に歯が触る。とその幽(かすか)な音(ね)にも直ちに応じて、コロコロ。少し心着いて、続けざまに吹いて見れば、透かさずクウクウ、調子を合わせる。 聞き定めて、 「おや、」と云って、一段下流(しもながし)の板敷へ下りると、お源と云う女中が、今しがたここから駈(か)け出して、玄関の来客を取次いだ草履が一ツ。ぞんざいに黒い裏を見せて引(ひっ)くり返っているのを、白い指でちょいと直し、素足に引懸(ひっか)け、がたり腰障子を左へ開けると、十時過ぎの太陽(ひ)が、向うの井戸端の、柳の上から斜(はす)っかけに、遍(あまね)く射込(さしこ)んで、俎(まないた)の上に揃えた、菠薐草(ほうれんそう)の根を、紅(くれない)に照らしたばかり。 多分はそれだろう、口真似(くちまね)をするのは、と当りをつけた御用聞きの酒屋の小僧は、どこにも隠れているのではなかった。 眉を顰(ひそ)めながら、その癖恍惚(うっとり)した、迫らない顔色(かおつき)で、今度は口ずさむと言うよりもわざと試みにククと舌の尖(さき)で音を入れる。響に応じて、コロコロと行(や)ったが、こっちは一吹きで控えたのに、先方(さき)は発奮(はず)んだと見えて、コロコロコロ。 これを聞いて、屈(かが)んで、板へ敷く半纏(はんてん)の裙(すそ)を掻取(かいと)り、膝に挟んだ下交(したがい)の褄(つま)を内端(うちわ)に、障子腰から肩を乗出すようにして、つい目の前(さき)の、下水の溜りに目を着けた。 もとより、溝板(どぶいた)の蓋(ふた)があるから、ものの形は見えぬけれども、優(やさし)い連弾(つれびき)はまさしくその中。 笑(えみ)を含んで、クウクウと吹き鳴らすと、コロコロと拍子を揃えて、近づいただけ音を高く、調子が冴えてカタカタカタ! 「蛙だね。」 と莞爾(にっこり)した、その唇の紅を染めたように、酸漿を指に取って、衣紋(えもん)を軽(かろ)く拊(う)ちながら、 「憎らしい、お源や…………」 来て御覧、と呼ぼうとして、声が出たのを、圧(おさ)えて酸漿をまた吸った。 ククと吹く、カタカタ、ククと吹く、カタカタ、蝶々の羽で三味線(さみせん)の胴をうつかと思われつつ、静かに長(た)くる春の日や、お蔦の袖に二三寸。 「おう、」と突込(つっこ)んで長く引いた、遠くから威勢の可(い)い声。 来たのは江戸前の魚屋で。
二
ここへ、台所と居間の隔てを開け、茶菓子を運んで、二階から下りたお源という、小柄(こがら)の可(い)い島田の女中が、逆上(のぼ)せたような顔色(かおつき)で、 「奥様、魚屋が参りました。」 「大きな声をおしでないよ。」 とお蔦は振向いて低声(こごえ)で嗜(たしな)め、お源が背後(うしろ)から通るように、身を開きながら、 「聞こえるじゃないか。」 目配せをすると、お源は莞爾(にっこり)して俯向(うつむ)いたが、ほんのり紅(あか)くした顔を勝手口から外へ出して路地の中(うち)を目迎える。 「奥様(おくさん)は?」 とその顔へ、打着(ぶつ)けるように声を懸けた。またこれがその(おう。)の調子で響いたので、お源が気を揉(も)んで、手を振って圧(おさ)えた処へ、盤台(はんだい)を肩にぬいと立った魚屋は、渾名(あだな)を(め[#「め」に傍点]組)と称(とな)える、名代の芝ッ児(こ)。 半纏は薄汚れ、腹掛の色が褪(あ)せ、三尺が捻(ね)じくれて、股引(ももひき)は縮んだ、が、盤台は美(うつくし)い。 いつもの向顱巻(むこうはちまき)が、四五日陽気がほかほかするので、ひしゃげ帽子を蓮の葉かぶり、ちっとも涼しそうには見えぬ。例によって飲(き)こしめした、朝から赤ら顔の、とろんとした目で、お蔦がそこに居るのを見て、 「おいでなさい、奥様(おくさん)、へへへへへ。」 「お止(よ)しってば、気障(きざ)じゃないか。お源もまた、」 と指の尖(さき)で、鬢(びん)をちょいと掻(か)きながら、袖を女中の肩に当てて、 「お前もやっぱり言うんだもの、半纏着た奥様(おくさん)が、江戸に在るものかね。」 「だって、ねえ、め[#「め」に傍点]のさん。」 とお源は袖を擦抜けて、俎板(まないた)の前へ蹲(しゃが)む。 「それじゃ御新造(ごしんぞ)かね。」 「そんなお銭(あし)はありやしないわ。」 「じゃ、おかみさん。」 「あいよ。」 「へッ、」 と一ツ胸でしゃくって笑いながら、盤台を下ろして、天秤(てんびん)を立掛ける時、菠薐草を揃えている、お源の背(せな)を上から見て、 「相かわらず大(おおき)な尻だぜ、台所充満(だいどこいっぱい)だ。串戯(じょうだん)じゃねえ。目量(めかた)にしたら、およそどのくれえ掛るだろう。」 「お前さんの圧(おし)ぐらい掛ります。」 「ああいう口だ。はははは、奥さんのお仕込みだろう。」 「め[#「め」に傍点]の字、」 「ええ、」 「二階にお客さまが居るじゃないか、奥様(おくさん)はおよしと言うのにね。」 「おっと、そうか、」 ぺろぺろと舌を吸って、 「何だって、日蔭ものにして置くだろう、こんな実のある、気前の可(い)い……」 「値切らない、」 「ほんによ、所帯持の可い姉さんを。分らない旦(だん)じゃねえか。」 「可いよ。私が承知しているんだから、」 と眦(まなじり)の切れたのを伏目になって、お蔦は襟に頤(おとがい)をつけたが、慎ましく、しおらしく、且つ湿(しめ)やかに見えたので、め[#「め」に傍点]組もおとなしく頷(うなず)いた。 お源が横向きに口を出して、 「何があるの。」 「へ、野暮な事を聞くもんだ。相変らず旨(うめ)えものを食(くわ)してやるのよ。黙って入物を出しねえな。」 「はい、はい、どうせ無代価(ただ)で頂戴いたしますものでございます。め[#「め」に傍点]のさんのお魚は、現金にも月末(つきずえ)にも、ついぞ、お代をお取り遊ばしたことはございません。」 「皮肉を言うぜ。何てったって、お前はどうせ無代価で頂くもんじゃねえか。」 「大きに、お世話、御主人様から頂きます。」 「あれ、見や、島田を揺(ゆすぶ)ってら。」 「ちょいと、番ごといがみあっていないでさ。お源や、お客様に御飯が出そうかい。」 「いかがでございますか、婦人(おんな)の方ですから、そんなに、お手間は取れますまい。」
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