三
「だってお前、急に帰りそうもないじゃないか。」 と云って、め[#「め」に傍点]組の蓋を払った盤台を差覗(さしのぞ)くと、鯛(たい)の濡色輝いて、広重の絵を見る風情、柳の影は映らぬが、河岸の朝の月影は、まだその鱗(うろこ)に消えないのである。 俎板をポンと渡すと、目の下一尺の鮮紅(からくれない)、反(そり)を打って飜然(ひらり)と乗る。 とろんこの目には似ず、キラリと出刃を真名箸(まなばし)の構(かまえ)に取って、 「刺身かい。」 「そうね、」 とお蔦は、半纏の袖を合わせて、ちょっと傾く。 「焼きねえ、昨日も刺身だったから……」 と腰を入れると腕の冴(さえ)、颯(さっ)と吹いて、鱗がぱらぱら。 「ついでに少々お焼きなさいますなぞもまた、へへへへへ、お宜(よろ)しゅうございましょう。御婦人のお客で、お二階じゃ大層お話が持てますそうでございますから。」 「憚様(はばかりさま)。お客は旦那様のお友達の母様(おっかさん)でございます。」 め[#「め」に傍点]の字が鯛をおろす形は、いつ見てもしみじみ可い、と評判の手つきに見惚(みと)れながら、お源が引取って口を入れる。 えらを一突き、ぐいと放して、 「凹(へこ)んだな。いつかの新ぎれじゃねえけれど、め[#「め」に傍点]の公塩が廻り過ぎたい。」 「そういや、め[#「め」に傍点]の字、」 とお蔦は片手を懐に、するりと辷(すべ)る黒繻子(くろじゅす)の襟を引いて、 「過日(このあいだ)頼んだ、河野(こうの)さん許(とこ)へ、その後(のち)廻ってくれないッて言うじゃないか、どうしたの?」 「むむ、河野ッて。何かい、あの南町のお邸(やしき)かい。」 「ああ、なぜか、魚屋が来ないッて、昨日(きのう)も内へ来て、旦那にそう言っていなすったよ。行かないの、」 「行かねえ。」 「ほんとうに、」 「行きませんとも!」 「なぜさ、」 「なぜッて、お前(めえ)、あん獣(けだもの)ア、」 お源が慌(あわただ)しく、 「め[#「め」に傍点]のさん、」 「何だ。」 「め[#「め」に傍点]のさんや。お前さんちょいと、お二階に来ていらっしゃるのはその河野さんの母様(おっかさん)じゃないか、気をお着けな。」 帽子をすっぽり亀の子竦(すく)みで、 「ホイ阿陀仏(おだぶつ)、へい、あすこにゃ隠居ばかりだと思ったら……」 「いいえね、つい一昨日(おととい)あたり故郷(おくに)の静岡からおいでなすったんですとさ。私がお取次に出たら河野の母でございます、とおっしゃったわ。」 「だから、母様が見えたのに、おいしいものが無いッて、河野さんが言っていなすったのさ、お前、」 「おいしいものが聞いて呆れら。へい、そして静岡だってね。」 「ああ、」 「と御維新以来(このかた)、江戸児(えどッこ)の親分の、慶喜様が行っていた処だ。第一かく申すめ[#「め」に傍点]の公も、江戸城を明渡しの、落人(おちうど)を極(き)めた時分、二年越居た事がありますぜ。 馬鹿にしねえ、大親分が居て、それから私(わっし)が居た土地だ。大概(てえげい)江戸ッ児になってそうなもんだに、またどうして、あんな獣が居るんだろう。 聞きねえ。 過日(こないだ)もね、お前(めえ)、まったくはお前、一軒かけ離れて、あすこへ行(ゆ)くのは荷なんだけれども、ちとポカと来たし、佳(い)い魚(うお)がなくッて困るッて言いなさる、廻ってお上げ、とお前さんが口を利くから、チョッ蔦ちゃんの言うこッた。 脛(すね)を達引(たてひ)け、と二三度行ったわ。何じゃねえか、一度お前(めえ)、おう、先公、居るかいッて、景気に呼んだと思いねえ。」 お蔦は莞爾(にっこり)して、 「せんこう[#「せんこう」に傍点]ッて誰のこったね。」 「内の、お友達よ。河野さんは、学士だとか、学者だとか、先生だとか言うこッたから、一ツ奉って呼んだのよ。」 と鰭(ひれ)をばっさり。
四
「可(い)いじゃねえか、お前(めえ)、先公だから先公よ。何も野郎とも兄弟(きょうでえ)とも言ったわけじゃねえ。」 と庖丁の尖(さき)を危く辷(すべ)らして、鼻の下を引擦(ひっこす)って、 「すると何だ。肥満(ふとっちょ)のお三どんが、ぶっちょう面をしゃあがって、旦那様とか、先生とかお言いなさい、御近所へ聞えます、と吐(ぬか)しただろうじゃねえか。 ええ、そんなに奉られたけりゃ三太夫でも抱えれば可い。口に税を出すくらいなら、憚(はばか)んながら私(わっし)あ酒も啖(くら)わなけりゃ魚も売らねえ。お源ちゃんの前(めえ)だけれども。おっとこうした処は、お尻の方だ。」 「そんなに、お邪魔なら退(ど)けますよ。」 お源が俎板を直して向直る。と面(おもて)を合わせて、 「はははははは、今日(こんち)あ、」 「何かい、それで腹を立って行(ゆ)かないのかい。」 「そこはお前さんに免じて肝(かん)の虫を圧(おさ)えつけた。翌日(あくるひ)も廻ったがね、今度は言種(いいぐさ)がなお気に食わねえ。 今日はもうお菜(かず)が出来たから要らないよサ。合点(がってん)なるめえじゃねえか。私(わっし)が商う魚だって、品に因っちゃ好嫌(すききれ)えは当然(あたりめえ)だ。ものを見てよ、その上で欲しくなきゃ止すが可い。喰いたくもねえものを勿体(もってえ)ねえ、お附合いに買うにゃ当りやせん、食もたれの※(おくび)なんぞで、せせり箸をされた日にゃ、第一魚(うお)が可哀相だ。 こっちはお前(めえ)、河岸で一番首を討取る気組みで、佳いものを仕入れてよ、一ツおいしく食わせてやろうと、汗みずくで駈附けるんだ。醜女(すべた)が情人(いろ)を探しはしめえし、もう出来たよで断られちゃ、間尺に合うもんじゃねえ。ね、蔦ちゃんの前だけれど、」 「今度は私が背後(うしろ)を向こうか。」 とお蔦は、下に居る女中の上から、向うの棚へ手を伸ばして、摺鉢(すりばち)に伏せた目笊(めざる)を取る。 「そらよ、こっちが旦(だん)の分。こりゃお源坊のだ。奥様(おくさん)はあら[#「あら」に傍点]が可い、煮るとも潮(うしお)にするともして、天窓(あたま)を噛(かじ)りの、目球(めだま)をつるりだ。」 「私は天窓を噛るのかい。」 お蔦は莞爾(にっこり)して、め[#「め」に傍点]組にその笊を持たせながら、指の尖で、涼しい鯛の目をちょいと当る。 「ワンワンに言うようだわ、何だねえ、失礼な。」 とお源は柄杓(ひしゃく)で、がたりと手桶(ておけ)の底を汲(く)む。 「田舎ものめ、河野の邸へ鞍替(くらがえ)しろ、朝飯に牛(ぎゅう)はあっても、鯛(てえ)の目を食った犬は昔から江戸にゃ無えんだ。」 「はい、はい、」 手桶を引立(ひった)てて、お源は腰を切って、出て、溝板(どぶいた)を下駄で鳴らす。 「あれ、邪険にお踏みでない。私の情人(いろ)が居るんだから。」 「情人がね。」 「へい、」 と言ったばかり、こっちは忙がしい顔色(かおつき)で、女中は聞棄てにして、井戸端へかたかた行く。 「溝(みぞ)の中に、はてな。」 印半纏(しるしばんてん)の腰を落して、溝板を見当に指(ゆびさ)しながら、ひしゃげた帽子をくるりと廻わして、 「変ってますね。」 「見せようか。」 「是非お目に懸(かか)りてえね。」 「お待ちよ、」 と目笊は流(ながし)へ。お蔦は立直って腰障子へ手をかけたが、溝(どぶ)の上に背伸をして、今度は気構えて勿体らしく酸漿(ほおずき)をクウと鳴らすと、言合せたようにコロコロコロ。 「ね、可愛いだろう。」 カタカタカタ! 「蛙(けえろ)だ、蛙だ。はははは、こいつア可い。なるほど蔦ちゃんの情人かも知れねえ。」 「朧月夜(おぼろづきよ)の色なんだよ。」 得意らしく済ました顔は、柳に対して花やかである。 「畜生め、拝んでやれ。」 と好事(ものずき)に蹲込(しゃがみこ)んで、溝板を取ろうとする、め[#「め」に傍点]組は手品の玉手箱の蓋(ふた)を開ける手つきなり。 「お止しよ、遁(に)げるから、」 と言う処へ、しとやかに、階子段(はしごだん)を下りる音。トタンに井戸端で、ざあと鳴ったは、柳の枝に風ならず、長閑(のどか)に釣瓶(つるべ)を覆(かえ)したのである。
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