四十四
折から食卓を持って現れた、友染のその愛々しいのは、座のあたかも吹荒んだ風の跡のような趣に対して、散り残った帰花(かえりばな)の風情に見えた。輝く電燈の光さえ、凩(こがらし)の対手(あいて)や空に月一つ、で光景が凄(すさま)じい。 一言も物いわぬ三人の口は、一度にバアと云って驚かそうと、我がために、はた爾(しか)く閉されているように思って、友染は簪(かんざし)の花とともに、堅くなって膳を据えて、浮上るように立って、小刻(こきざみ)に襖(ふすま)の際。 川千鳥がそこまで通って、チリチリ、と音(ね)が留まった。杯洗(はいせん)、鉢肴(はちさかな)などを、ちょこちょこ運んで、小ぢんまりと綺麗に並べる中(うち)も、姉さんは、ただ火鉢をちっとずらしたばかり、悄(しお)れて俯向(うつむ)いて、ならば直ぐに、頭(つむり)が打つのを圧(おさ)えたそうに、火箸に置く手の白々と、白けた容子を、立際に打傾(うちかし)いで、熟(じっ)と見て出ようとする時、 「食うものはこれだけか。」 と酒井は笑みを含んだが、この際、天窓(あたま)から塩で食うと、大口を開けられたように感じたそうで、襖の蔭で慄然(ぞっ)と萎(すく)んで壁の暗さに消えて行く。 慌てて、あとを閉めないで行ったから、小芳が心付いて立とうとすると、するすると裾を捌(さば)いて、慌(あわただ)しげに来たのは綱次。 唯今の注進に、ソレと急いで、銅壺(どうこ)の燗(かん)を引抜いて、長火鉢の前を衝(つ)と立ち状(ざま)に来た。 前垂掛けとはがらりと変って、鉄お納戸地に、白の角通(かくとお)しの縮緬(ちりめん)、かわり色の裳(もすそ)を払って、上下(うえした)対の袷(あわせ)の襲(かさね)、黒繻珍(くろしゅちん)に金茶で菖蒲(あやめ)を織出した丸帯、緋綸子(ひりんず)の長襦袢(ながじゅばん)、冷く絡んだ雪の腕(かいな)で、猶予(ため)らう色なく、持って来た銚子を向けつつ、 「お酌、」 冴えた音を入れると、鶯のほうと立つ、膳の上の陽炎(かげろう)に、電気の光が和(やわら)いで、朧々(おぼろおぼろ)と春に返る。 「まだ宵の口かい。」 「柏家だけではね。」と莞爾(にっこり)する。 「遠慮なく出懸けるが可い、しかし猥褻(わいせつ)だな。」 「あら、なぜ?」 「十一時過ぎてからの座敷じゃないか。」 「御免なさいよ、苦界だわ。ねえ、早瀬さん、さあ、めしあがれよ、ぐうと、」 「いいえ、もう、」 主税は猪口(ちょく)を視(なが)むるのみ。 「お察しなさいよ。」 と先生にまたお酌をして、 「御贔屓(ごひいき)の民子ちゃんが、大江山に捕まえられていますから、助出しに行くんだわ。渡辺の綱次なのよ。」 「道理こそ、鎖帷子(くさりかたびら)の扮装(いでたち)だ。」 「錣(しころ)のように、根が出過ぎてはしなくって。姉さん、」 と髢(たぼ)に手を触る。 「いいえ、」 と云って、言(ことば)の内に、(そんな心配をおしでない。)の意味が籠る。綱次は、(安心)の体に、胸をちょいと軽く撫でて、 「おいしいものが、直ぐにあとから、」 「綱次姉さん、また電話よ。」 と廊下から雛妓(こども)の声。 「あい、あい、あちらでも御用とおっしゃる。では、直(じ)き行って来ますから、貴下(あなた)帰っちゃ、厭ですよ、民ちゃんを連れて来て、一所にまたお汁粉をね。」 酒井は黙って頷(うなず)いた。 「早瀬さん、御緩(ごゆっく)り。」 と行く春や、主税はそれさえ心細そうに見送って、先生の目から面(おもて)を背ける。 酒井は、杯を、つっと献(さ)し、 「早瀬、近う寄れ、もっと、」 と進ませ、肩を聳(そびや)かして屹(きっ)と見て、 「さあ、一ツ遣ろう。どうだ、別離(わかれ)の杯にするか。」 「…………」 「それとも婦(おんな)を思切るか。芳、酌(つ)いでやれ、おい、どうだ、早瀬。これ、酌いでやれ、酌がないかよ。」 銚子を挙げて、猪口(ちょく)を取って、二人は顔を合せたのである。
四十五
その時、眼光稲妻のごとく左右を射て、 「何を愚図々々(ぐずぐず)しているんだ。」 「私がお願いでござんすから、」と小芳は胸の躍るのを、片手で密(そっ)と圧(おさ)えながら、 「ともかくも今夜の処は、早瀬さんを帰して上げて下さいまし。そうしてよく考えさして、更(あらた)めてお返事をお聞きなすって下さいましな、後生ですわ、貴郎(あなた)。 ねえ、早瀬さん、そうなさいよ。先生も、こんなに仰有(おっしゃ)るんですから、貴下(あなた)もよく御分別をなさいまし、ここは私が身にかえてお預り申しますから。よ……」 と促がされても立ちかねる、主税は後を憂慮(きづか)うのである。 「蔦吉さんが、どんなに何(なん)したって、私が知らない顔をしていれば可(よ)かったのですけれど、思う事は誰も同一(おなじ)だと、私、」 と襟に頤(おとがい)深く、迫った呼吸(いき)の早口に、 「身につまされたもんだから、とうとうこんな事にしてしまって、元はと云えば……」 「そんな、貴女(あなた)が悪いなんて、そんな事があるもんですか。」 と酒井の前を庇(かば)う気で、肩に力味(りきみ)を入れて云ったが、続いて言おうとする、 (貴女がお世話なさいませんでも……)の以下は、怪しからず、と心着いて、ハッとまた小さくなった。 「いいえ、私が悪いんです。ですから、後で叱られますから、貴下、ともかくもお帰んなすって……」 「ならん! この場に及んで分別も糸瓜(へちま)もあるかい。こんな馬鹿は、助けて返すと、婦(おんな)を連れて駈落(かけおち)をしかねない。短兵急に首を圧(おさ)えて叩っ斬ってしまうのだ。 早瀬。」 と苛々した音調で、 「是も非も無い。さあ、たとえ俺が無理でも構わん、無情でも差支えん、婦(おんな)が怨んでも、泣いても可い。憧(こが)れ死(じに)に死んでも可い。先生の命令(いいつけ)だ、切れっちまえ。 俺を棄てるか、婦を棄てるか。 むむ、この他(ほか)に言句(もんく)はないのよ。」 (どうだ。)と頤(あご)で言わせて、悠然と天井を仰いで、くるりと背を見せて、ドンと食卓に肱(ひじ)をついた。 「婦を棄てます。先生。」 と判然(はっきり)云った。そこを、酌をした小芳の手の銚子と、主税の猪口(ちょく)と相触れて、カチリと鳴った。 「幾久く、お杯を。」と、ぐっと飲んで目を塞いだのである。 物をも言わず、背向(うしろむ)きになったまま、世帯話をするように、先生は小芳に向って、 「そっちの、そっちの熱い方を。――もう一杯(ひとつ)、もう一ツ。」 と立続けに、五ツ六ツ。ほッと酒が色に出ると、懐中物を懐へ、羽織の紐を引懸けて、ずッと立った。 「早瀬は涙を乾かしてから外へ出ろ。」 小芳はひたと、酒井の肩に、前髪の附くばかり、後に引添(ひっそ)うて縋(すが)り状(ざま)に、 「お帰んなさるの。」 「謹が病気よ。」 と自分で雨戸を。 「それは不可(いけ)ませんこと。」と縁側に、水際立ってはらりと取った、隅田の春の空色の褄(つま)。力なき小芳の足は、カラリと庭下駄に音を立てたが、枝折戸のまだ開(あ)かぬほど、主税は座をずらして、障子の陰になって、忙(せわし)く巻莨(まきたばこ)を吸うのであった。 二時(ふたとき)ばかり過ぎてから、主税が柏家の枝折戸を出たのは、やがて一時に近かったろう。その時は姉さんはじめ、綱次ともう一人のその民子と云う、牡丹(ぼたん)の花のような若いのも、一所に三人で路地の角まで。 「お互に辛抱するのよう。」と酒気(さかけ)のある派手な声で、主税を送ったのは綱次であった。ト同時に渠(かれ)は姉さんと、手をしっかりと取り合った。 時に、寂(ひっそ)りした横町の、とある軒燈籠の白い明(あかり)と、板塀の黒い蔭とに挟(はさま)って、平(ひらた)くなっていた、頬被(ほおかむり)をした伝坊が、一人、後先を※(みまわ)して、密(そっ)と出て、五六歩行過ぎた、早瀬の背後(うしろ)へ、……抜足で急々(つかつか)。 「もし、」 「…………」 「先刻(さっき)アどうも。よく助けて下すったねえ。」 と頬かむりを取った顔は……礼之進に捕まった、電車の中の、その半纏着(はんてんぎ)。
誰が引く袖
四十六
土曜日は正午(ひる)までで授業が済む――教室を出る娘たちで、照陽女学校は一斉に温室の花を緑の空に開いたよう、溌(ぱっ)と麗(うららか)な日を浴びた色香は、百合よりも芳しく、杜若(かきつばた)よりも紫である。 年上の五年級が、最後に静々と出払って、もうこれで忘れた花の一枝もない。四五人がちらほらと、式台へ出かかる中に、妙子が居た。 阿嬢(おじょう)は、就中(なかんずく)活溌に、大形の紅入友染の袂(たもと)の端を、藤色の八ツ口から飜然(ひらり)と掉(ふ)って、何を急いだか飛下りるように、靴の尖(さき)を揃えて、トンと土間へ出た処へ、小使が一人ばたばたと草履穿(ばき)で急いで来て、 「ああ酒井様。」 と云う。優等生で、この容色(きりょう)であるから、寄宿舎へ出入(ではい)りの諸商人(しょあきんど)も知らぬ者は無いのに、別けて馴染(なじみ)の翁様(じいさま)ゆえ、いずれ菖蒲(あやめ)と引き煩らわずに名を呼んだ。 「ははい。」 と振向くと、小使は小腰を屈(かが)めて、 「教頭様が少し御用がござります。」 「私に、」 「ちょっとお出で下さりまし。」 「あら、何でしょう、」 と友達も、吃驚(びっくり)したような顔で※(みまわ)すと、出口に一人、駒下駄(こまげた)を揃えて一人、一人は日傘を開け掛けて、その辺の辻まで一所に帰る、お定まりの道連(みちづれ)が、斉(ひと)しく三方からお妙の顔を瞻(みまも)って黙った。 この段は、あらかじめ教頭が心得さしたか、翁様(じいさま)がまた、そこらの口が姦(かしまし)いと察した気転か。 「何か、お父様へ御託(おこと)づけものがござりますで。」 「まあ、そう、」 と莞爾(にっこり)して、 「待ってて下すって?」と三人へ、一度に黒目勝なのを働して見せると、言合せた様に、二人まで、胸を撫で下して、ホホホと笑った――お腹が空いた――という事だそうである。 お妙はずんずん小使について廊下を引返(ひっかえ)しながら、怒ったような顔をして、振向いて同じように胸の許(もと)を擦(さす)って見せた。 「応接室(ま)でござりますわ。」 教員室の前を通ると、背後(うしろ)むきで、丁寧に、風呂敷の皺(しわ)を伸(のば)して、何か包みかけていたのは習字の教師。向うに仰様(のけざま)に寝て、両肱(りょうひじ)を空に、後脳を引掴(ひッつか)むようにして椅子にかかっていたのは、数学の先生で。看護婦のような服装で、ちょうど声高に笑った婦(おんな)は、言わずとも、体操の師匠である。 行きがかりに目についた、お妙は直ぐに俯目(ふしめ)になって、コトコト跫音(あしおと)が早くなった。階子段(はしごだん)の裏を抜けると、次の次の、応接室の扉(ドア)は、半開きになって、ペンキ塗の硝子戸入(がらすどいり)の、大書棚の前に、卓子(テイブル)に向って二三種新聞は見えたが、それではなしに、背文字の金の燦爛(さんらん)たる、新(あたらし)い洋書(ブック)の中ほどを開けて読む、天窓(あたま)の、てらてら光るのは、当女学校の教頭、倫理と英文学受持…の学士、宮畑閑耕。同じ文学士河野英吉の親友で、待合では世話になり、学校では世話をする(蝦茶(えびちゃ)と緋縮緬(ひぢりめん)の交換だ。)と主税が憤った一人である。 この編の記者は、教頭氏、君に因って、男性を形容するに、留南奇(とめき)の薫馥郁(ふくいく)としてと云う、創作的文字(もんじ)をここに挟(さしはさ)み得ることを感謝しよう。勿論、その香(におい)の、二十世紀であるのは言うまでもない。 お妙は、扉(ドア)に半身を隠して留まる。小使はそのまま向うへ行過ぎる。 閑耕は、キラリ目金(めがね)を向けて、じろりと見ると、目を細うして、髯(ひげ)の尖(さき)をピンと立てた、頤(あご)が円い。 「こちらへ、」 と鷹揚(おうよう)に云って、再び済まして書見に及ぶ。 お妙は扉に附着(くッつ)いたなりで、入口を左へ立って、本の包みを抱いたまま、しとやかに会釈をしたが、あえてそれよりは進まなかった。 「こちらへ。」と無造作なように、今度は書見のまま声をかけたが、落着かれず、またひょいと目を上げると、その発奮(はずみ)で目金が躍る。 頬桁(ほおげた)へ両手をぴったり、慌てて目金の柄を、鼻筋へ揉込(もみこ)むと、睫毛(まつげ)を圧(おさ)え込んで、驚いて、指の尖を潜(くぐ)らして、瞼(まぶた)を擦(こす)って、 「は、は、は、」と無意味な笑方をしたが、向直って真面目な顔で、 「どうですな。」
四十七
もう傍(そば)へ来そうなものと、閑耕教頭が再び、じろりと見ると、お妙は身動きもしないで、熟(じっ)と立って、臈(ろう)たけた眉が、雲の生際に浮いて見えるように俯向(うつむ)いているから、威勢に怖(お)じて、頭(かしら)も得(え)上げぬのであろう、いや、さもあらん、と思うと……そうでない。酒井先生の令嬢は、笑(えみ)を含んでいるのである。 それは、それは愛々しい、仇気(あどけ)ない微笑(ほほえみ)であったけれども、この時の教頭には、素直に言う事を肯(き)いて、御前(おんまえ)へ侍(さぶら)わぬだけに、人の悪い、与(くみ)し易からざるものがあるように思われた。で、苦い顔をして、 「酒井さん、ここへ来なくちゃ不可(いか)んですよ。」 時に教頭胸を反(そ)らして、卓子(テイブル)をドンと拳(こぶし)で鳴らすと、妙子はつつと勇ましく進んで、差向いに面(おもて)を合わせて、そのふっくりした二重瞼(ふたかわめ)を、臆(おく)する色なく、円く※(みは)って、 「御用ですか。」 と云った風采、云い知らぬ品威が籠(こも)って、閑耕は思いかけず、はっと照らされて俯向(うつむ)いた。 教場でこそあれ、二人だけで口を利くのは、抑々(そもそも)生れて以来最初(はじめて)である。が、これは教場以外ではいかなる場合にても、こうであろうも計られぬ。 はて、教頭ほどの者が、こんな訳ではない筈(はず)だが、と更(あらた)めて疑の目を挙げると、脊もすらりとして椅子に居る我を仰ぐよ、酒井の嬢(むすめ)は依然として気高いのである。 「酒井さん……」 声の出処(でどころ)が、倫理を講ずるようには行(ゆ)かぬ。 咽喉(のど)が狂って震えがあるので、えへん! と咳(しわぶ)いて、手巾(ハンケチ)で擦(こす)って、四辺(あたり)を※(みまわ)したが、湯も水も有るのでない、そこで、 「小ウ使いい、」と怒鳴った。 「へ――い、」 と謹んだ返事が響く。教頭はこれに因って、大(おおい)にその威厳を恢復(かいふく)し得て、勢(いきおい)に乗じて、 「貴娘(あなた)に聞く事があるのですが、」 「はい。」 「参謀本部の翻訳をして、まだ学校なども独逸語を持っていますな――早瀬主税――と云う、あれは、貴娘の父様(とうさん)の弟子ですな。」 「ええ、そう…………」 「で、貴娘の御宅に置いて、修業をおさせなすったそうだが、一体あれの幾歳ぐらいの時からですか。」 「知りません。」 と素気(そっけ)なく云った。 「知らない?」 と妙な顔をして、額でお妙を見上げて、 「知らないですか。」 「ええ、前(ぜん)にからですもの。内の人と同一(おんなじ)ですから、いつ頃からだか分りませんの。」 「貴娘は幾歳(いくつ)ぐらいから、交際をしたですか。」 「…………」 と黙って教頭を見て、しかも不思議そうに、 「交際って、私、厭(いや)ねえ。早瀬さんは内の人なんですもの。」と打微笑む。 「内の人。」 「ええ、」と猶予(ためら)わず頷(うなず)いた。 「貴娘、そういう事を言っては不可(いけ)ますまい。あれを(内の人)だなんと云うと、御両親をはじめ、貴娘の名誉に関わるでしょうが、ああ、」 と口を開いてニヤリとする。 お妙はツンとして横を向いた、眦(まなじり)に優(やさし)い怒が籠ったのである。 閑耕は、その背けた顔を覗込(のぞきこ)むようにして、胸を曲げ、膝を叩きながら、鼻の尖に、へへん、と笑って、 「あんな者と、貴娘交際するなんて、芸者を細君にしていると云うじゃありませんか。汚わしい。怪しからん不行跡です。実に学者の体面を汚すものです。そういう者の許(とこ)へ貴娘出入りをしてはなりません。知らない事はないのでしょう。」 妙子は何にも言わなかったが、はじめて眩(まぶ)しそうに瞬きした。 小使が来て、低頭して命を聞くと、教頭は頤(あご)で教えて、 「何を、茶をくれい。」 「へい。」 「そこを閉めて行け、寄宿生が覗くようだ。」
四十八
扉(と)が閉ると、教頭身構(みがまえ)を崩して、仰向けに笑い懸けて、 「まあ、お掛なさい、そこへ。貴娘(あなた)のためにならんから、云うのだよ。」 わざわざ立って突着けた、椅子の縁(へり)は、袂(たもと)に触れて、その片袖を動かしたけれども、お妙は規則正しいお答礼(じぎ)をしただけで、元の横向きに立っている。 「早瀬の事はまだまだ、それどころじゃないですが、」と直ぐにまた眉を顰(ひそ)めて、談じつけるような調子に変って、 「酒井さん、早瀬は、ありゃ罪人だね、我々はその名を口にするさえ憚(はばか)るべき悪漢ですね。」 とのッそり手を伸ばして、卓子(テイブル)の上に散ばった新聞を撫でながら、 「貴娘、今日のA……新聞を見んのですか。」 一言聞くと、颯(さっ)と瞼(まぶた)を紅(くれない)にして、お妙は友染の襦袢(じゅばん)ぐるみ袂の端を堅く握った。 「見ませんか、」 と問返した時、教頭は傲然(ごうぜん)として、卓子に頤杖(あごづえ)を支(つ)く。 「ええ、」とばかりで、お妙は俯向(うつむ)いて、瞬きしつつ、流眄(しりめづかい)をするのであった。 「別に、一大事に関して早瀬は父様の許(とこ)へ、頃日(このごろ)に参った事はないですかね。或(あるい)は何か貴娘、聞いた事はありませんか。」 小さな声だったが判然(はっきり)と、 「いいえ。」と云って、袖に抱いた風呂敷包みの紫を、皓歯(しらは)で噛(か)んだ。この時、この色は、瞼のその朱(あけ)を奪うて、寂(さみ)しく白く見えたのである。 「行かん筈(はず)はないでしょうが、貴娘、知っていて、まだ私の前に、秘(かく)すのじゃないかね。」 「存じませんの。」 と頭(つむり)を掉(ふ)ったが、いたいけに、拗(す)ねたようで、且つくどいのを煩(うる)さそう。 「じゃ、まあ、知らないとして。それから、お話するですがね。早瀬は、あれは、攫徒(すり)の手伝いをする、巾着切(きんちゃくきり)の片割のような男ですぞ!」 簪(かんざし)の花が凜(りん)として色が冴えたか気が籠って、屹(きっ)と、教頭を見向いたが、その目の遣場(やりば)が無さそうに、向うの壁に充満(いっぱい)の、偉(おおい)なる全世界の地図の、サハラの砂漠の有るあたりを、清(すずし)い瞳がうろうろする。 「勿論早瀬は、それがために、分けて規律の正しい、参謀本部の方は、この新聞が出ない先に辞職、免官に、なったです。これはその攫徒に遭った、当人の、御存じじゃろうね、坂田礼之進氏、あの方の耳に第一に入ったです。 で、見ないんなら御覧なさい。他(ほか)の二三の新聞にも記(か)いてあるですが。このA……が一番悉(くわ)しい。」 と落着いて向うへ開いて、三の面を指で教えて、 「ここにありますが、お読みなさい。」 「帰って、私、内で聞きます。」と云った、唇の花が戦(そよ)いだ。 「は、は、は、貴娘、(内の人)だなんと云ったから、極(きま)りが悪いかね。何、知らないんなら宜(よろ)しいです。私は貴娘の名誉を思って、注意のために云うんだから、よくお聞きなさい。帰って聞いたって駄目さね。」 と太(いた)く侮(あなど)った語気を帯びて、 「父様は、自分の門生だから、十に八九は秘(かく)すですもの。何で真相が解りますか。」 コツコツ廊下から剥啄(ノック)をした者がある。と、教頭は、ぎろりと目金を光らしたが、反身(そりみ)に伸びて、 「カム、イン、」と猶予(ためら)わずに答えた。 この剥啄と、カム、インは、余りに呼吸が合過ぎて、あたかもかねて言合せてあったもののようである。 すなわち扉(ドア)を細目に、先ず七分立(しちぶだち)の写真のごとく、顔から半身を突入れて中を覗いたのは河野英吉。白地に星模様の竪(たて)ネクタイ、金剛石(ダイアモンド)の針留(ピンどめ)の光っただけでも、天窓(あたま)から爪先(つまさき)まで、その日の扮装(いでたち)想うべしで、髪から油が溶(とろ)けそう。 早や得(え)も言われぬ悦喜の面で、 「やあ、」と声を懸けると、入違いに、後をドーン。 扉の響きは、ぶるぶると、お妙の細い靴の尖に伝わって、揺らめく胸に、地図の大西洋の波が煽(あお)る。
四十九
「失敬、失敬。」 とちと持上げて、浮かせ気味に物馴(な)れた風で、河野は教頭と握手に及んで、 「やあ、失敬、」と云いながら、お妙の背後(うしろ)から、横顔をじろりと見る。 河野の調子の発奮(はず)んだほど、教頭は冷やかな位に落着いた態度で、 「どこの帰りか。」 「大学(と力を入れて、)の図書館に検(しら)べものをして、それから精養軒で午飯(ひるめし)を食うて来た。これからまたH博士の許(とこ)へ行かねばならん。」 と忙(せわ)しそうに肩を掉(ふ)って、 「君(とわざと低声(こごえ)で呼んで、)この方は……」 「生徒――」と見下げたように云う。 「はあ、」 「ミス酒井と云う、」と横を向いて忍び笑を遣る。 「うむ、真砂町の酒井氏の、」 と首を伸ばして、分ったような、分らぬような、見知越(みしりごし)のような、で、ないような、その辺あやふやなお妙の顔の見方をしたが、 「君、紹介してくれたまえ。」 「学校で、紹介は可訝(おかし)かろう。」 「だってもう教場じゃないじゃないか。」 「それでは、」と真(まこと)に余儀なさそうに、さて、厳格に、 「酒井さん、過般(いつか)も参観に見えられた、これは文学士河野英吉君。」 同じ文字を露(あらわ)した大形の名刺の芬(ぷん)と薫るのを、疾(と)く用意をしていたらしい、ひょいと抓(つま)んで、蚤(はや)いこと、お妙の袖摺(そです)れに出そうとするのを、拙(まず)い! と目で留め、教頭は髯で制して、小鼻へ掛けて揉み上げ揉み上げ揉んだりける。 英吉は眼を※(みは)って、急いでその名刺と共に、両手を衣兜(かくし)へ突込んだが、斜めに腰を掉るよと見れば、ちょこちょこ歩行(ある)きに、ぐるりと地図を背負(しょ)って、お妙の真正面(まっしょうめん)へ立って、も一つ肩を揉んで、手の汗を、ずぼんの横へ擦(こす)りつけて、清めた気で、くの字形(なり)に腕を出したは、短兵急に握手の積(つもり)か、と見ると、揺(ゆる)がぬ黒髪に自然(おのず)と四辺(あたり)を払(はらわ)れて、 「やあ、はははは、失敬。」 と英吉大照れになって、後ざまに退(さが)って(おお、神よ。)と云いそうな態(たい)になり、 「お遊びにいらっしゃい、妹たちが、学校は違いますが、皆(みんな)貴女を知っているのですよ。はあ……」 と独(ひとり)で頷(うなず)いて、大廻りに卓子(テイブル)の端を廻って、どたりと、腹這(はらんば)いになるまでに、拡げた新聞の上へ乗懸(のりかか)って、 「何を話していたのだい。」 教頭をちょいと見れば、閑耕は額で睨(ね)めつけ、苦き顔して、その行過(やりすごし)を躾(たしな)めながら、 「実は、今、酒井さんに忠告をしている処だ。」 お妙は色をまた染めた。 「そうだとも! ええ、酒井さん……」 黙っているから、 「酒井さん!」 「ははい、」と声がふるえて聞える。 「貴娘(あなた)知らんのならお聞きなさい。頃日(このごろ)の事ですが、今も云った、坂田礼之進氏が、両国行の電車で、百円ばかり攫徒(すり)に掏(や)られたです。取られたと思うと、気が着いて、直(ただち)に其奴(そいつ)を引掴(ひッつかま)えて、車掌とで引摺下ろしたまでは、恐入って冷却していたその攫徒がだね、たちまち烈火のごとくに猛(たけ)り出して、坂田氏をなぐった騒ぎだ。」 「撲(なぐ)られたってなあ、大人、気の毒だったよ。」 「災難とも。で、何です。巡査が来たけれども、何の証拠も挙(あが)らんもんで、その場はそれッきりで、坂田氏は何の事はない、打(ぶ)たれ損の形だったんだね。お聞きなさい――貴娘。 証拠は無かったが、怪(あやし)むべき風体の奴だから、その筋の係が、其奴を附廻して、同じ夜(よ)の午前二時頃に、浅草橋辺で、フトした星が附いて取抑えると、今度は袱紗(ふくさ)に包んだ紙入ぐるみ、手も着けないで、坂田氏の盗られた金子(かね)を持っていたんだ。 ねえ、貴娘。拘引(こういん)して厳重に検べたんだね。どこへそれまで隠して置いたか。先刻は無かった紙入を、という事になる……とです。」 あくまで慎重に教頭が云うと、英吉が軽※(そそっか)しく、 「妙だ、妙だよ。妙さなあ。」
五十
「攫徒(すり)の名も新聞に出ているがね、何とか小僧万太(まんた)と云うんだ。其奴(そいつ)の白状した処では、電車の中で掏った時、大不出来(おおふでか)しに打攫(ふんづか)まって、往生をしたんだが、対手(あいて)が面(つら)を撲(なぐ)ったから、癪(しゃく)に障って堪(たま)らないので、ちょうど袖の下に俯向(うつむ)いていた男の袖口から、早業でその紙入をずらかし込んで、もう占めた、とそこで逆捻(さかねじ)に捻じたと云うんだね。 ところで、まん[#「まん」に傍点]直しの仕事でもしたいものだと、柳橋辺を、晩(おそ)くなってから胡乱(うろ)ついていると、うっかり出合ったのが、先刻(さっき)、紙入れを辷(すべ)らかした男だから、金子(かね)はどうなったろうと思って、捕まったらそれ迄だ、と悪度胸で当って見ると、道理で袖が重い、と云って、はじめて、気が着いて、袂(たもと)を探してその紙入を出してくれて、しかし、一旦こっちの手へ渡ったもんだから、よく攫徒仲間が遣ると云う、小包みにでもして、その筋へ出さなくっちゃ不可(いか)んぞ、と念を入れて渡してくれた。一所に交番へ来い! とも云わずに、すっきりしたその人へ義理が有るから、手も附けないで突出すつもりで、一先ず木賃宿へ帰ろうとする処を、御用になりました。たった一時(ひととき)でも善人になってぼうとした処だったから掴まったんで、盗人心(ぬすっとごころ)を持った時なら、浅草橋の欄干(てすり)を蹈(ふ)んで、富貴竈(ふうきかまど)の屋根へ飛んでも、旦那方の手に合うんじゃないと、太平楽を並べた。太い奴は太い奴として。 酒井さん。その攫徒の、袖の下になって、坂田氏の紙入を預ったという男は、誰だと思いますか、ねえ、これが早瀬なんだ。」 と教頭は椅子をずらして、卓子を軽(かろ)く打って、 「どうです、貴娘が聞いても変だろうが。 その筋じゃ、直(じ)きその関係者にも当りがついて、早瀬も確か一二度警察へ呼ばれた筈(はず)だ。しかしその申立てが、攫徒の言(ことば)に符合するし、早瀬もちっとは人に知られた、しかるべき身分だし、何は措(お)いても、名の響いた貴娘の父様の門下だ、というので、何の仔細(しさい)も無く済むにゃ済んだ。 真砂町の御宅へも、この事に附いて、刑事が出向いたそうだが、そりゃ憚(はばか)って新聞にも書かず、御両親も貴娘には聞かせんだろう。 で、とんだ災難で、早瀬は参謀本部の訳官も辞した、と新聞には体裁よく出してあるが、考えて御覧なさい。 同じ電車に乗っていて、坂田氏が掏られた事をその騒ぎで知らん筈がない。知っていてだね、紙入が自分の袂に入っている事を……まあ、仮に攫徒に聞かれるまで気がつかなんだにしてからがだ、いよいよ分った時、面識の有る坂田氏へ返そうとはしないで、ですね、」 河野にも言(ことば)を分けて、 「直接(じか)に攫徒に渡してやるもいかがなもんだよ。何よりもだね、そんな盗賊(どろぼう)とひそひそ話をして……公然とは出来んさ、いずれ密々話(ひそひそばなし)さ。」 誰も否とは云わんのに、独りで嵩(かさ)にかかって、 「紙入を手から手へ譲渡(ゆずりわたし)をするなんて、そんな、不都合な、後暗い。」 「だがね、」 とちょいちょい、新聞を見るようにしては、お妙の顔を伺い伺い、嬢があらぬ方を向いて、今は流眄(しりめづかい)もしなくなったので、果は遠慮なく視(なが)めていたのが、なえた様な声を出して、 「坂田が疑うように、攫徒の同類だという、そんな事は無いよ。君、」 「どうとも云えん。酒井氏の内に居たというだけで、誰の子だか素性も知れないんだというじゃないか。」 「父上(とうさん)に……聞いて……頂戴。」 とお妙は口惜(くや)しそうに、あわれや、うるみ声して云った。 二人密(そっ)と目を合せて、苦々しげに教頭が、 「あえてそういう探索をする必要は無いですがね、よしんば何事も措いて問わんとして、少くとも攫徒に同情したに違いない、そうだろう。」 「そりゃあの男の主義かも知れんよ。」 「主義、危険極まる主義だ。で、要するにです、酒井さん。ああいう者と交際をなさるというと、先ず貴嬢(あなた)の名誉、続いてはこの学校の名誉に係りますから、以来、口なんぞ利いてはなりません。宜しいかね。危険だから近寄らんようになさい、何をするか分らんから、あんな奴は。」 お妙は気を張(はり)つめんと勤むるごとく、熟(じっ)と瞶(みまも)る地図を的に、目を※(みは)って、先刻(さっき)からどんなに堪(こら)えたろう。得(え)忍ばず涙ぐむと、もうはらはらと露になって、紫の包にこぼれた。あわれ主税をして見せしめば、ために命も惜むまじ。
五十一
いや、学士二人驚いた事。 「貴娘(あなた)、どうしたんだ。」 と教頭が椅子から突立(つった)った時は、お妙は始からしっかり握った袂(たもと)をそのまま、白羽二重の肌襦袢の筒袖の肱(ひじ)を円(まろ)く、本の包に袖を重ねて、肩をせめて揉込むばかり顔を伏せて、声は立てずに泣くのであった。 「ええ、どうして泣くです。」 靴音高く傍(そば)へ寄ると、河野も慌(あわただ)しく立って来て、 「泣いちゃ不可(いけ)ませんなあ、何も悲い事は無いですよ。」 「私は貴娘を叱ったんじゃない。」 「けれども、君の話振がちと穏(おだやか)でなかったよ。だから誤解をされたんだ。貴娘泣く事はありません、」 と密(そっ)と肩に手を掛けたが、お妙の振払いもしなかったのは、泣入って、知らなかったせいであったに…… 河野英吉嬉しそうな顔をして、 「さあ、機嫌を直してお話しなさい。」と云う時、きょときょと目で、お妙の俯向(うつむ)いた玉の頸(うなじ)へ、横から徐々(そろそろ)と頬を寄せて、リボンの花結びにちょっと触れて、じたじたと総身を戦(わなな)かしたが、教頭は見て見ぬ振の、謂(おも)えらく、今夜の会計は河野持(もち)だ。 途端にお妙が身動をしたので、刎飛(はねと)ばされたように、がたりと退(すさ)る。 「もう帰っても可(い)いんですか。」 と顔を隠したままお妙が云った。これには返す言(ことば)もあるまい。 「可いですとも!」 と教頭が言いも果てぬに、身を捻(ひね)ったなりで、礼もしないで、つかつかと出そうにすると、がたがたと靴を鳴らして、教頭は及腰(およびごし)に追っかけて、 「貴娘内へ帰って、父様にこんな事を話しては不可(いか)んですよ。貴娘の名誉を重んじて忠告をしただけですから、ね、宜(い)いですかね、ね。」 急(せ)いた声で賺(すか)すがごとく、顔を附着(くッつ)けて云うのを聞いて、お妙は立留まって、おとなしく頷(うなず)いたが、(許す。)の態度で、しかも優しかった。 「ああ。」と、安堵(あんど)の溜息を一所にして、教頭は室の真中に、ぼんやりと突立つ。 河野の姿が、横ざまに飛んで、あたふた先へ立って扉(ドア)を開いて控えたのと、擦違いに、お妙は衝(つい)と抜けて、顔に当てた袖を落した。 雨を帯びたる海棠(かいどう)に、廊下の埃(ほこり)は鎮まって、正午過(ひるすぎ)の早や蔭になったが、打向いたる式台の、戸外(おもて)は麗(うららか)な日なのである。 ト押重(おっかさな)って、木(こ)の実の生(な)った状(さま)に顔を並べて、斉(ひと)しくお妙を見送った、四ツの髯の粘り加減は、蛞蝓(なめくじ)の這うにこそ。 真砂町の家(うち)へ帰ると、玄関には書生が居て、送迎いの手数を掛けるから、いつも素通りにして、横の木戸をトンと押して、水口から庭へ廻って、縁側へ飛上るのが例で。 さしむき今日あたりは、飛石を踏んだまま、母様(かあさん)御飯、と遣って、何ですね、唯今(ただいま)も言わないで、と躾(たしな)められそうな処。 そうではなかった。 例(いつも)の通りで、庭へ入ると、母様は風邪が長引いたので、もう大概は快いが、まだちっと寒気がする肩つきで、寝着(ねまき)の上に、縞(しま)の羽織を羽織って、珍らしい櫛巻で、面窶(おもやつ)れがした上に、色が抜けるほど白くなって、品の可いのが媚(なまめ)かしい。 寝床の上に端然(きちん)と坐って、膝へ掻巻(かいまき)の襟をかけて、その日の新聞を読む――半面が柔かに蒲団(ふとん)に敷いている。 これを見ると、どうしたか、お妙は飛石に突据えられたようになって、立留まった。 美しい袂の影が、座敷へ通って、母様は心着いて、 「遅かったね。」 「ええ、お友達と作文の相談をしていたの。」 優しくも教頭のために、腹案があったと見えて、淀みなく返事をしながら、何となく力なさそうに、靴を脱ぎかける処へ、玄関から次の茶の間へ、急いで来た跫音(あしおと)で、襖(ふすま)の外から、書生の声、 「お嬢さんですか、今日の新聞に、切抜きをなすったのは。」
紫
五十二
お茶漬さらさら、大好(だいすき)な鰺(あじ)の新切で御飯が済むと、硯(すずり)を一枚、房楊枝(ふさようじ)を持添えて、袴を取ったばかり、くびれるほど固く巻いた扱帯(しごき)に手拭(てぬぐい)を挟んで、金盥(かなだらい)をがらん、と提げて、黒塗に萌葱(もえぎ)の綿天の緒の立った、歯の曲った、女中の台所穿(ばき)を、雪の素足に突掛(つっか)けたが、靴足袋を脱いだままの裾短(すそみじか)なのをちっとも介意(かま)わず、水口から木戸を出て、日の光を浴びた状(さま)は、踊舞台の潮汲(しおくみ)に似て非なりで、藤間が新案の(羊飼。)と云う姿。 お妙は玄関傍(わき)、生垣の前の井戸へ出て、乾いてはいたが辷(すべ)りのある井戸流(ながし)へ危気(あぶなげ)も無くその曲った下駄で乗った。女中も居るが、母様の躾(しつけ)が可(い)いから、もう十一二の時分から膚(はだ)についたものだけは、人手には掛けさせないので、ここへは馴染(なじみ)で、水心があって、つい去年あたりまで、土用中は、遠慮なしにからからと汲み上げて、釣瓶(つるべ)へ唇を押附(おッつ)けるので、井筒の紅梅は葉になっても、時々花片(はなびら)が浮ぶのであった。直(すぐ)に桃色の襷(たすき)を出して、袂を投げて潜(くぐ)らした。惜気の無い二の腕あたり、柳の絮(わた)の散るよと見えて、井戸縄が走ったと思うと、金盥へ入れた硯の上へ颯(さっ)とかかる、水が紫に、墨が散った。 宿墨を洗う気で、楊枝の房を、小指を刎(は)ねて※(むし)りはじめたが、何を焦(じ)れたか、ぐいと引断(ひっちぎ)るように邪険である。 ト構内(かまえうち)の長屋の前へ、通勤(つとめ)に出る外、余り着て来た事の無い、珍らしい背広の扮装(いでたち)、何だか衣兜(かくし)を膨らまして、その上暑中でも持ったのを見懸けぬ、蝙蝠傘(こうもりがさ)さえ携えて、早瀬が前後(あとさき)を※(みまわ)しながら、悄然(しょうぜん)として入って来たが、梅の許(もと)なるお妙を見る…… 「おお、」 と慌(あわただ)しい、懐しげな声をかけて、 「お嬢さん。」 お妙はそれまで気がつかなかった。呼(よば)れて、手を留(とめ)て主税を見たが、水を汲んだ名残(なごり)か、顔の色がほんのりと、物いわぬ目は、露や、玉や、およそ声なく言(ことば)なき世のそれらの、美しいものより美しく、歌よりも心が籠った。 「また、水いたずらをしているんですね。」 と顔を視(なが)めて元気らしく、呵々(からから)と笑うと、柔(やさし)い瞳が睨(にら)むように動き止まって、 「金魚じゃなくってよ。硯を洗うの。」 「ああ、成程。」 と始めて金盥を覗込(のぞきこ)んで俯向(うつむ)いた時、人知れず目をしばたたいたが、さあらぬ体で、 「御清書ですかい。」 「いいえ、あの、絵なの。あの、上手な。明後日(あさって)学校へ持って行くのを、これから描(か)くんだわ。」 「御手本は何です、姉様(あねさま)の顔ですか。」 「嘘よ、そんなものじゃないわ。ああ、」 と莞爾(にっこり)して、独りで頷(うなず)いて、 「もっと可いもの、杜若(かきつばた)に八橋よ。」 「から衣きつつ馴(な)れにし、と云うんですね。」 と云いかけて愁然(しゅうぜん)たり。 お妙は何の気もつかない、派手な面色(おももち)して、 「まあ、いつ覚えて、ちょいと、感心だわねえ。」 「可哀相に。」 と苦笑いをすると、お妙は真顔で、 「だって、主税さん、先年(いつか)私の誕生日に、お酒に酔って唄ったじゃありませんか。貴下(あなた)は、浅くとも清き流れの方よ。ほんとの歌は柄に無いの。」 とつけつけ云う。 「いや、恐入りましたよ。(トちょっと額に手を当てて、)先生は?」と更(あらた)めて聞くと、心ありげに頷いて、 「居てよ、二階に。」(おいでなさいな。)を色で云って、臈(ろう)たく生垣から、二階を振仰ぐ。 主税はたちまち思いついたように、 「お嬢さん、」と云うや否や、蝙蝠傘(こうもりがさ)を投出すごとく、井の柱へ押倒(おったお)して、勢(いきおい)猛に、上衣を片腕から脱ぎかけて、 「久しぶりで、私が洗って差上げましょう。」と、脱いだ上衣を、井戸側へ突込(つっこ)むほど引掛(ひっか)けたと思うと、お妙がものを云う間(ひま)も無かった。手を早や金盥に突込んで、 「貴娘、その房楊枝を。――浅くとも清き流れだ。」
五十三
「あら、乱暴ねえ。ちょいと、まだ釣瓶から雫(しずく)がするのに、こんな処へ脱ぐんだもの。」 と躾(たしな)めるように云って、お妙は上衣を引取(ひっと)って、露(あらわ)に白い小腕(こがいな)で、羽二重で結(ゆわ)えたように、胸へ、薄色を抱いたのである。 「貴娘は、先生のように癇性(かんしょう)で、寒の中(うち)も、井戸端へ持出して、ざあざあ水を使うんだから、こうやって洗うのにも心持は可(い)いけれども、その代り手を墨だらけにするんです。爪の間へ染みた日にゃ、ちょいとじゃ取れないんですからね。」 「厭ねえ、恩に被(き)せて。誰も頼みはしないんだわ。」 「恩に被せるんじゃありません。爪紅(つまべに)と云って、貴娘、紅をさしたような美(うつくし)い手の先を台なしになさるから、だから云うんです。やっぱり私が居た時分のように、お玄関の書生さんにしてお貰いなさいよ。 ああ、これは、」 と片頬笑(かたほえ)みして、 「余り上等な墨ではありませんな。」 「可いわ! どうせ安いんだわ。もう私がするから可(よ)くってよ。」 「手が墨だらけになりますと云うのに。貴娘そんな邪険な事を云って、私の手がお身代(みがわり)に立っている処じゃありませんか。」 「それでもね、こうやってお召物を持っている手も、随分、随分(と力を入れて、微笑んで、)迷惑してよ。」 「相変らずだ。(と独言(ひとりごと)のように云って、)ですが、何ですね、近頃は、大層御勉強でございますね。」 「どうしてね? 主税さん。」 「だって、明後日(あさって)お持ちなさろうという絵を、もう今日から御手廻しじゃありませんか。」 「翌日(あした)は日曜だもの、遊ばなくっちゃ、」 「ああ日曜ですね。」 と雫を払った、硯は顔も映りそう。熟(じっ)と見て振仰いで、 「その、衣兜(かくし)にあります、その半紙を取って下さい。」 「主税さん。」 「はあ、」 「ほほほほ、」とただ笑う。 「何が、可笑(おか)しいんです。え、顔に墨が刎(は)ねましたか。」 「いいえ、ほほほほ。」 「何ですてば、」 「あのね、」 「はあ。」 「もしかすると……」 「ええ、ええ。」 「ほほほ、翌日(あした)また日曜ね、貴郎(あなた)の許(とこ)へ遊びに行ってよ。」 水に映った主税の色は、颯(さっ)と薄墨の暗くなった。あわれ、仔細(しさい)あって、飯田町の家はもう無かったのである。 「いらっしゃいましとも。」 と勢込んで、思入った語気で答えた。 「あの、庭の白百合はもう咲いたの、」 「…………」 「この間行った時、まだ莟(つぼみ)が堅かったから、早く咲くように、おまじないに、私、フッフッとふくらまして来たけれど、」 と云う口許(くちもと)こそふくらなりけれ。主税の背(せな)は、搾木(しめぎ)にかけて細ったのである。 ト見て、お妙が言おうとする時、からりと開(あ)いた格子の音、玄関の書生がぬっと出た。心づけても言うことを肯(き)かぬ、羽織の紐を結ばずに長くさげて、大跨(おおまた)に歩行(ある)いて来て、 「早瀬さん、先生が、」 二階の廊下は目の上の、先生はもう御存じ。 「は、唯今、」 と姿は見えぬ、二階へ返事をするようにして、硯を手に据え、急いで立つと、上衣を開いて、背後(うしろ)へ廻って、足駄穿(は)いたが対丈(ついたけ)に、肩を抱くように着せかける。 「やあ、これは、これはどうも。」 と骨も砕くる背に被(かつ)いで、戦(わなな)くばかり身を揉むと、 「意地が悪いわ、突張るんだもの。あら、憎らしいわねえ。」 と身動(みじろ)きに眉を顰(ひそ)めて――長屋の窓からお饒舌(しゃべ)りの媽々(かかあ)の顔が出ているのも、路地口の野良猫が、のっそり居るのも、書生が無念そうにその羽織の紐をくるくると廻すのも――一向気にもかけず、平気で着せて、襟を圧(おさ)えて、爪立(つまだ)って、 「厭な、どうして、こんなに雲脂(ふけ)が生(で)きて?」
五十四
主税が大急ぎで、ト引挟(ひっぱさ)まるようになって、格子戸を潜(くぐ)った時、手をぶらりと下げて見送ったお妙が、無邪気な忍笑。 「まあ、粗※(そそっ)かしいこと。」 まことに硯を持って入って、そのかわり蝙蝠傘(こうもり)と、その柄に引掛けた中折帽(なかおれ)を忘れた。 後へ立淀んで、こなたを覗(なが)めた書生が、お妙のその笑顔を見ると、崩れるほどにニヤリとしたが、例の羽織の紐を輪形(なり)に掉(ふ)って、格子を叩きながら、のそりと入った。 誰も居なくなると、お妙はその二重瞼(ふたかわめ)をふっくりとするまで、もう、(その速力をもってすれば。)主税が上ったらしい二階を見上げて、横歩行(ある)きに、井の柱へ手をかけて、伸上るようにしていた。やがて、柱に背(せな)をつけて、くるりと向をかえて凭(もた)れると、学校から帰ったなりの袂(たもと)を取って、振(ふり)をはらりと手許へ返して、睫毛(まつげ)の濃くなるまで熟(じっ)と見て、袷(あわせ)と唐縮緬(めりんす)友染の長襦袢(ながじゅばん)のかさなる袖を、ちゅうちゅうたこかいなと算(かぞ)えるばかりに、丁寧に引分けて、深いほど手首を入れたは、内心人目を忍んだつもりであるが、この所作で余計に目に着く。 ただし遣方が仇気(あどけ)ないから、まだ覗いている件(くだん)の長屋窓の女房(かみさん)の目では、おやおや細螺(きしゃご)か、鞠(まり)か、もしそれ堅豆(かたまめ)だ、と思った、が、そうでない。 引出したのは、細長い小さな紙で、字のかいたもの、はて、怪しからんが、心配には及ばぬ――新聞の切抜であった。 さればこそ、学校の応接室でも、しきりに袂を気にしたので、これに、主税――対坂田の百有余円を掏った……掏摸に関した記事が、細(こまか)に一段ばかり有ることは言うまでもない。 お妙は、今朝学校へ出掛けに、女中(おんな)が味噌汁(おみおつけ)を装(も)って来る間に、膳の傍(そば)へ転んだようになって、例に因って三の面の早読と云うのをすると、(独語学者の掏摸。)と云う、幾分か挑撥的の標語(みだし)で、主税のその事が出ていたので、持ちかえて、見直したり、引張(ひっぱ)ったり、畳んだり、太(いた)く気を揉んだ様子だったが、ツンと怒った顔をしたと思うと、お盆を差出した女中(おんな)と入違いに、洋燈(ランプ)棚へついと起(た)って、剪刀(はさみ)を袖の下へ秘(かく)して来て、四辺(あたり)を※(みまわ)して、ずぶりと入れると、昔取った千代紙なり、めっきり裁縫(しごと)は上達なり、見事な手際でチョキチョキチョキ。 母様(かあさん)は病気を勤めて、二階へ先生を起しに行って、貴郎(あなた)、貴郎と云う折柄。書生は玄関どたんばたん。女中はちょうど、台所の何かの湯気に隠れたから、その時は誰も知らなかったが、知れずに済みそうな事でもなし、またこれだけを切取っても、主税の迷惑は隠されぬ、内へだって、新聞は他(ほか)に二三種も来るのだけれども、そんな事は不関焉(おかまいなし)。 で、教頭の説くを待たずして、お妙は一切を知っていたので、話を聞いて驚くより、無念の涙が早かったのである。 と書生はまた、内々はがき便(だより)見たようなものへ、投書をする道楽があって、今日当り出そうな処と、床の中から手ぐすねを引いたが、寝坊だから、奥へ先繰(せんぐり)になったのを、あとで飛附いて見ると、あたかもその裏へ、目的物が出る筈(はず)の、三の面が一小間切抜いてあるので、落胆(がっかり)したが、いや、この悪戯(いたずら)、嬢的に極(きわま)ったり、と怨恨(うらみ)骨髄に徹して、いつもより帰宅(かえり)の遅いのを、玄関の障子から睨(ね)め透(すか)して待構えて、木戸を入ったのを追かけて詰問に及んだので、その時のお妙の返事というのが、ああ、私よ。と済(すま)したものだった。 それをまたひとりでここで見直しつつ、半ば過ぎると、目を外らして、多時(しばらく)思入った風であったが、ばさばさと引裂(ひっさ)いて、くるりと丸めてハタと向う見ずに投(ほう)り出すと、もう一ツの柱の許(もと)に、その蝙蝠傘(こうもり)に掛けてある、主税の中折帽(なかおれ)へ留まったので、 「憎らしい。」と顔を赤めて、刎(は)ね飛ばして、帽子(ハット)を取って、袖で、ばたばたと埃(ほこり)を払った。 書生が、すっ飛んで、格子を出て、どこへ急ぐのか、お妙の前を通りかけて、 「えへへへ。」 その時お妙は、主税の蝙蝠傘を引抱(ひっかか)えて、 「どこへ行(ゆ)くの。」 「車屋へ大急ぎでございます。」 「あら、父上(とうさん)はお出掛け。」 「いいえ、車を持たせて、アバ大人を呼びますので、ははは。」
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