見知越
五
続いてドンドン粗略(ぞんざい)に下りたのは、名を主税(ちから)という、当家、早瀬の主人で、直ぐに玄関に声が聞える。 「失礼、河野さんに……また……お遊びに。さようなら。……」 格子戸の音がしたのは、客が外へ出たのである。その時、お蔦の留めるのも聞かないで、溝(どぶ)なる連弾(つれびき)を見届けようと、やにわにその蓋を払っため[#「め」に傍点]組は、蛙の形も認めない先に、お蔦がすっと身を退(ひ)いて、腰障子の蔭へ立隠れをしたので、ああ、落人でもないに気の毒だ、と思って、客はどんな人間だろうと、格子から今出た処を透かして見る。とそこで一つ腰を屈(かが)めて、立直った束髪は、前刻(さっき)から風説(うわさ)のあった、河野の母親と云う女性(にょしょう)。 黒の紋羽二重の紋着(もんつき)羽織、ちと丈の長いのを襟を詰めた後姿。忰(せがれ)が学士だ先生だというのでも、大略(あらまし)知れた年紀(とし)は争われず、髪は薄いが、櫛にてらてらと艶(つや)が見えた。 背は高いが、小肥(こぶとり)に肥った肩のやや怒ったのは、妙齢(としごろ)には御難だけれども、この位な年配で、服装(みなり)が可いと威が備わる。それに焦茶の肩掛(ショオル)をしたのは、今日あたりの陽気にはいささかお荷物だろうと思われるが、これも近頃は身躾(みだしなみ)の一ツで、貴婦人(あなた)方は、菖蒲(あやめ)が過ぎても遊ばさるる。 直ぐに御歩行(おはこび)かと思うと、まだそれから両手へ手袋を嵌(は)めたが、念入りに片手ずつ手首へぐっと扱(しご)いた時、襦袢(じゅばん)の裏の紅いのがチラリと翻(かえ)る。 年紀(とし)のほどを心づもりに知っため[#「め」に傍点]組は、そのちらちらを一目見ると、や、火の粉が飛んだように、へッと頸(うなじ)を窘(すく)めた処へ、 「まだ、花道かい?」 とお蔦が低声(こごえ)。 「附際(つけぎわ)々々、」 ともう一息め[#「め」に傍点]組の首を縮(すく)める時、先方(さき)は格子戸に立かけた蝙蝠傘(こうもりがさ)を手に取って、またぞろ会釈がある。 「思入れ沢山(だくさん)だ。いよう!」 おっとその口を塞いだ。声はもとより聞えまいが、こなたに人の居るは知れたろう。 振返って、額の広い、鼻筋の通った顔で、屹(きっ)と見越した、目が光って、そのまま悠々と路地を町へ。――勿論勝手口は通らぬのである。め[#「め」に傍点]組はつかつかと二足三足、 「おやおやおや、」 調子はずれな声を放って、手を拡げてぼうとなる。 「どうしたの。」 「可訝(おか)しいぜ。」 と急に威勢よく引返(ひっかえ)して、 「あれが、今のが、その、河野ッてえのの母親(おふくろ)かね、静岡だって、故郷(くに)あ、」 「ああ。」 「家(うち)は医師(いしゃ)じゃねえかしらん。はてな。」 「どうした、め[#「め」に傍点]組。」 とむぞうさに台所へ現われた、二十七八のこざっぱりしたのは主税である。 「へへへへへ、」 満面に笑(えみ)を含んだ、め[#「め」に傍点]組は蓮葉(はすっぱ)帽子の中から、夕映(ゆうやけ)のような顔色(がんしょく)。 「お早うござい。」 「何が早いものか。もう午飯(おひる)だろう、何だ御馳走は、」 と覗込(のぞきこ)んで、 「ははあ、鯛(てえ)だな。」 「鯛(たい)とおっしゃいよ、見ッともない。」 とお蔦が笑う。 「他の魚屋の商うのは鯛(たい)さ、め[#「め」に傍点]組のに限っちゃ鯛(てえ)よ、なあ、めい公。」 「違えねえ。」 「だって、貴郎(あなた)は柄にないわ、主公様(だんなさま)は大人しく鯛魚(たいとと)とおっしゃるもんです、ねえ、め[#「め」に傍点]のさん。」 「違えねえ。」 主税は色気のない大息ついて、 「何(なん)にしろ、ああ腹が空いたぜ。」 「そうでしょうッて、寝坊をするから、まだ朝御飯を食(あが)らないもの。」 「違えねえ、確(たしか)にアリャ、」 と、め[#「め」に傍点]組は路地口へ伸上る。
六
「大分御執心のようだが、どうした。」 と、め[#「め」に傍点]組のその素振に目を着けて、主税は空腹(すきはら)だというのに。…… 「後姿に惚れたのかい。おい、もう可(い)い加減なお婆さんだぜ。」 「だって貴郎(あなた)にゃお婆さんでも、め[#「め」に傍点]組には似合いな年紀(とし)ごろだわ。ねえ、ちょいと、」 「へへへ、違えねえ。」 「よく、(違えねえ。)を云う人さ。」 「だから、確(たしか)だろうと思うんでさ。」 と呟(つぶや)いて独(ひとり)で飲込み、仰向いて天秤棒を取りながら、 「旦那、」 「己(お)ら御免だ。」と主税は懐手で一ツ肩を揺(ゆす)る。 「え、何を。」 「文でも届けてくれじゃないか。」 「御串戯(ごじょうだん)。いえさ、串戯は止して今のお客は直ぐに南町の家(うち)へ帰りそうな様子でしたかね。」 「むむ、ずッと帰ると言ったっけ。」 「難有(ありがて)え、」 額をびっしゃり。 「後を慕って、おおそうだ、と遣(や)れ。」 「行(ゆ)くのかい、河野さんへ。」 「ちょっぴりね、」 「じゃ可いけれど。貴郎、」 と主税を見て莞爾(にっこり)して、 「めい公がね、また我儘(わがまま)を云って困ったんですよ。お邸風を吹かしたり、お惣菜並に扱うから、河野さんへはもう行かないッて。折角お頼まれなすったものを、貴郎が困るだろうと思って、これから意見をしてやろうと思った処だったのよ。」 「そうか。」 となぜか、主税は気の無い返事をする。 「御覧なさい。そうすると急にあの通り。ほんとうに気が変るっちゃありやしない。まるで猫の目ね。」 「違えねえ、猫の目の犬の子だ。どっこい忙がしい、」 と荷を上げそうにするのを見て、 「待て、待て、」 「沢山よ。貴郎の分は三切あるわ。まだ昨日(きのう)のも残ってるじゃありませんか。めのさん、可いんだよ。この人にね、お前の盤台を覗かせると、皆(みんな)欲(ほし)がるンだから……」 「これ、」 旦那様苦い顔で、 「端近で何の事(こっ)たい、野良猫に扱いやあがる。」 「だっ……て、」 「め[#「め」に傍点]組も黙って笑ってる事はない、何か言え、営業の妨害(さまたげ)をする婦(おんな)だ。」 「肯(き)かないよ、めの字、沢山なんだから、」 「まあ、お前、」 「いいえ、沢山、大事な所帯だわ。」 「驚きますな。」 「私、もう障子を閉めてよ。」 「め[#「め」に傍点]組、この体(てい)だ。」 「へへへ、こいつばかりゃ犬も食わねえ、いや、四(し)寸ずつ食(あが)りまし。」 「おい、待てと云うに。」 「さっさとおいでよ、魚屋のようでもない。」 「いや、遣瀬(やるせ)がねえ。」 と天秤棒を心(しん)にして、め[#「め」に傍点]組は一ツくるりと廻る。 「お菜(かず)のあとねだりをするんじゃ、ないと云うに。」 と笑いながらお蔦を睨(にら)んで、 「なあ、め[#「め」に傍点]組。」 「ええ、」 「これから河野へ行(ゆ)くんだろう。」 「三枚並で駈附けまさ。」 「それに就いてだ、ちょいと、ここに話が出来た。」
七
「その、河野へ行くに就いてだが、」 と主税は何か、言淀んで、 「何は、」 お蔦に目配せ、 「茶はないのか。」 「お茶ッて? 有りますわ。ほほほほ、まあ、人に叱言(こごと)を云う癖に、貴郎(あなた)こそ端近で見ッともないじゃありませんか―ありますわ―さあ、あっちへいらっしゃい。」 と上ろうとする台所に、主税が立塞がっているので、袖の端をちょいと突いて、 「さあ、」 め[#「め」に傍点]組は威勢よく、 「へい、跡は明晩……じゃねえ、翌(あした)の朝だ。」 「待(まち)なッてば、」 「可いよ、めのさん。」 「はて、どうしたら、」と首を振る。 「お前たちは、」 と主税は呆れた顔で呵々(からから)と笑って、 「相応に気が利かないのに、早飲込だからこんがらがって仕様がない。め[#「め」に傍点]組もまた、さんざ油を売った癖に、急にそわそわせずともだ。まあ、待て、己(おれ)が話があると言えば。 そこでだ……お茶と申すは、冷たい……」 と口へつけて、指で飲む真似。 「と行(や)る一件だ。」 「め[#「め」に傍点]組に……」 「沢山だ、沢山だ。私(わっし)なら、」 と声ばかり沢山で、俄然(がぜん)として蜂の腰、竜の口、させ、飲もうの構(かまえ)になる。 「不可(いけ)ません、もう飲んでるんだもの。この上煽(あお)らして御覧なさい。また過日(いつか)のように、ちょいと盤台を預っとくんねえ、か何かで、」 お蔦は半纏の袖を投げて、婀娜(あだ)に酔ッぱらいを、拳固で見せて、 「それッきり、五日の間行方知れずになっちまう。」 「旦那、こうなると頂きてえね、人間は依怙地(いこじ)なもんだ。」 「可いから、己が承知だから、」 「じゃ、め[#「め」に傍点]組に附合って、これから遊びにでも何でもおいでなさい。お腹が空いたって私、知らないから。さあ、そこを退(ど)いて頂戴よ、通れやしないわね。」 「ああ、もしもし、」 主税は身を躱(かわ)して通しながら、 「御立腹の処を重々恐縮でございますが、おついでに、手前にも一杯、同じく冷いのを、」 「知りませんよ。」 とつっと入る。 「旦も、ゆすり方は素人じゃねえ。なかなか馴れてら、」 もう飲みかけたようなもの言いで、腰障子から首を突込み、 「今度八丁堀の私(わっし)の内へ遊びに来ておくんなせえ。一番(ひとつ)私がね、嚊々左衛門(かかあざえもん)に酒を強請(ねだ)る呼吸というのをお目にかけまさ。」 「女房(かみさん)が寄せつけやしまい、第一吃驚(びっくり)するだろう、己なんぞが飛込んじゃ、山の手から猪(いのしし)ぐらいに。所かわれば品かわるだ、なあ、め[#「め」に傍点]組。」 と下流(したながし)へかけて板の間へ、主税は腰を掛け込んで、 「ところで、ちと申かねるが、今の河野の一件だ。」 「何です、旦、」 と吃驚するほど真顔。 「お前(めえ)さんや、奥様(おくさん)で、私(わっし)に言い憎いって事はありゃしねえ、また私が承って困るって事もねえじゃねえか。 嚊々(かかあ)を貸せとも言いなさりゃしめえ、早い話が。何また御使い道がありゃ御用立て申します。」 「打附(ぶッつ)けた話がこうだ。南町はちと君には遠廻りの処を、是非廻って貰いたいと云うもんだから、家内(うち)で口を利いて行(ゆ)くようになったんだから、ここがちと言い憎いのだが、今云った、それ、膚合(はだあい)の合わない処だ。 今来た、あの母親(おふくろ)も、何のかのって云っているからな、もう彼家(あすこ)へは行かない方が可いぜ。心持を悪くしてくれちゃ困るよ。また何だ、その内に一杯奢(おご)るから。」 とまめやかに言う。
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