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富岡先生(とみおかせんせい)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-26 9:03:58 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 校長は慇懃いんぎんに一座に礼をして、さてあらためて富岡老人に向い、
「御病気は如何いかがで御座いますか」
「どうも今度の病気は爽快はっきりせん」という声さえ衰えて沈んでいる。
御大事ごだいじになされませんと……」
「イヤわし最早もう今度はお暇乞いとまごいじゃろう」
「そんなことは!」と細川は慰さめる積りで微笑えみを含んだ。しかし老人は真面目で
わしも自分の死期の解らぬまでには老耄もうろくせん、とても長くはあるまいと思う、其処そこで実は少し折入って貴公おまえと相談したいことがあるのじゃ」
 かくてその夜は十時頃まで富岡老人の居間は折々談声はなしごえが聞え折々しんと静まり。又折々老人の咳払せきばらいが聞えた。
 その翌日村長は長文の手紙を東京なる高山法学士のもとに送った、その文の意味は次ぎの如くである、――
 御申越おんもうしこし以来一度も書面を出さなかったのは、富岡老人に一条を話すべき機会おりが無かったからである。
 先日の御手紙には富岡先生と富岡との二個ふたりの人がこの老人の心中に戦かっておるとのお言葉が有った、実にその通りで拙者も左様思っていた、然るにちょうど御手紙を頂いた時分以来は、所謂いわゆる富岡先生の暴力益々ますますつのり、二六時中富岡氏の顔出かおだしする時は全く無かったと言ってよろしい位、恐らく夢のうちにも富岡先生はあばれ廻っていただろうと思われる。
 これには理由わけがあるので、この秋の初に富岡老人の突然上京せられたるのは全く梅子さん貴所あなたに貰わす目算であったらしい、拙者はそう鑑定している、ところが富岡先生には「東京」が何より禁物なので、東京にゆけば是非、江藤侯井下伯その他故郷くにの先輩の堂々たる有様を見聞せぬわけにはいかぬ、富岡先生に取ってはこれすなわち不平、頑固がんこ、偏屈の源因げんいんであるから、たちまち青筋を立てて了って、あてにしていた貴所あなた挙動ふるまいすらも疳癪かんしゃくの種となり、ついに自分で立てた目的を自分で打壊たたきこわして帰国かえって了われたものと拙者は信ずる、然るに帰国って考えてみると梅子さんの為めに老人の描いていた希望はほとんどくうになって了った。先生何が何やら解らなくなって了った。其所そこかんは益々起る、自暴やけにはなる、酒量は急に増す、気は益々狂う、まことに言うも気の毒な浅ましい有様となられたのである、と拙者は信ずる。
 現に拙者が貴所あなたの希望に就き先生を訪うた日などは、先生の梅子さんののし大声たいせいが門の外まで聞えた位で、拙者は機会おりわるしと見、ただちに引返えしたが、倉蔵の話に依ればその頃先生はあの秘蔵子なるあの温順なる梅子さんをすら頭ごなしに叱飛しかりとばしていたとのことである、以て先生の様子を想像したまわば貴所も意外の感あることと思う。
 拙者ばかりでなくこういう風であるから無論富岡をたずねる者は滅多になかった、ただ一人、御存知の細川繁氏のみは殆ど毎晩のように訪ねて怒鳴られながらも慰めていたらしい。
 然るに昨夕さくせきのこと富岡老人近頃病床とこにあるよしを聞いたから見舞に出かけた、もし機会おりが可かったら貴所の一条を持出す積りで。老人はなるほど床に就いていたが、意外なのは暫時しばらあわぬ中に全然すっかり元気が衰えたことである、元気が衰えたと云うよりか殆ど我が折れて了って貴所の所謂いわゆる富岡氏、極く世間並の物の能く通暁わかった老人にって了ったことである、更に意外なのは拙者の訪問をひどく喜こんで実はびにやろうかと思っていたところだとのことである。それから段々話しているうちに老人は死後のことに就き色々と拙者に依托いたくせられた、その様子が死期の遠からぬを知っておらるるようで拙者も思わず涙をんだ位であった、其処そこで貴所の一条を持出すに又とない機会おりと思い既に口を切ろうとすると、意外も意外、老人の方から梅子さんのことを言い出した。それはこうで、娘は細川繁に配する積りである、細川からも望まれている、わしも初は進まなかったが考えてみると娘の為め細川の為め至極良縁だと思う、何卒どう貴所あなたその媒酌者なこうどになってくれまいかとの言葉。胸に例の一条が在る拙者は言句ごんくつまって了った、然し直ぐ思い返してこの依頼を快く承諾した。
 と云うのは、貴所に対して済ぬようだが、細川が先に申込み老人が既に承知した上は、最早もはや貴所の希望は破れたのである、拙者とても致し方がない。更に深く考えてみると、この縁は貴所の申込が好し先であってもそれは成就せず矢張、細川繁の成功に終わるようになっていたのである、と拙者は信ずるその理由は一に貴所の推測に任かす、富岡先生を十分に知っている貴所には直ぐ解るであろう。
 かつ拙者は貴所の希望の成就を欲する如く細川の熱望の達することを願う、これに就き少も偏頗へんぱこころを持ていない。貴所といえども既に細川の希望が達したと決定きまれば細川の為めに喜こばれるであろう。又梅子さんの為にも、喜ばれるであろう。
 そして拙者の見たところでは梅子さんもまた細川にすることを喜こんでいるようである。
 これが良縁でなくてどうしよう。
 拙者が媒酌者なこうどを承諾するや直ぐ細川を呼びにやった、細川は直ぐ来た、其処そこで梅子さんも一座し四人同席の上、老先生からあらためて細川に向い梅子さんを許すことを語られ又梅子さんの口から、父の処置に就いては少しも異議なく喜んで細川氏に嫁すべきを誓い、婚礼の日は老先生の言うがままにきたる十月二十日と定めた。くじは遂に残者のこりものに落ちた。
 貴所からも無論老先生及細川に向て祝詞を送らるることと信ずる。

        六

 婚礼も目出度めでたく済んだ。田舎いなかは秋晴ぬぐうが如く、校長細川繁の庭では姉様冠あねさまかぶりの花嫁中腰になって張物をしている。
 さて富岡先生は十一月の末ついにこの世を辞して何国なにくには名物男一人を失なった。東京の大新聞二三種に黒枠くろわく二十行ばかりの大きな広告が出て門人高山文輔、親戚しんせき細川繁、友人野上子爵等の名がずらり並んだ。
 同国の者はこの広告を見て「先生到頭死んだか」と直ぐ点頭うなずいたが新聞を見る多数は、何人なればかくも大きな広告を出すのかと怪むものもあり、全く気のつかぬ者もあり。
 然しこの広告が富岡先生のこの世に放った最後の一喝いっかつで不平満腹の先生がせめてもの遣悶こころやり知人ちじんってらされたのである。心ある同国人の二三はこれを見て泣いた。





底本:「牛肉と馬鈴薯」新潮文庫、新潮社
   1970(昭和45年)年5月30日初版発行
   1983(昭和58年)年7月30日22刷
入力:Nana Ohbe
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年6月1日作成
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