三
その翌々日の事であった、東京なる高山法学士から一通の書状が村長の許に届いた。その文意は次の如くである。 富岡先生が折角上京されたと思うと突然帰国された、それに就て自分は大に胸を痛めている、先生は相変らず偏執ておられる。我々は勿論先輩諸氏も決して先生を冷遇するのではないが先生の方で勝手にそう決定て怒っておられる、実に困った者で手の着けようがない。実は自分は梅子嬢を貰いたいと兼ねて思っていたのであるから、井下伯に頼んで梅子嬢だけ滞めて置いて後から交渉して貰う積りでいた、然るに先生の突然の帰国でその計画も画餅になったが残念でならぬ。自分は容貌の上のみで梅子嬢を思うているのでない、御存知の通り実に近頃の若い女子には稀に見るところの美しい性質を以ておられる、自分は随分東京で種々の令嬢方を見たが梅子嬢ほどの癖のない、すらりとした、すなおなる女を見たことはない。女子の特質とも言うべき柔和な穏やかな何処までも優しいところを梅子嬢は十二分に有ておられる。これには貴所も御同感と信ずる。もし梅子嬢の欠点を言えば剛という分子が少ない事であろう、しかし完全無欠の人間を求めるのは求める方が愚である、女子としては梅子嬢の如き寧ろ完全に近いと言って宜しい、或は剛の分子の少ないところが却て梅子嬢の品性に一段の奥ゆかしさを加えておるのかとも自分は思う。自分は決して浮きたる心でなく真面目にこの少女を敬慕しておる、何卒か貴所も自分のため一臂の力を借して、老先生の方を甘く説いて貰いたい、あの老人程舵の取り難い人はないから貴所が其所を巧にやってくれるなら此方は又井下伯に頼んで十分の手順をする、何卒か宜しく御頼します。 但し富岡老人に話されるには余程よき機会を見て貰いたい、無暗に急ぐと却て失敗する、この辺は貴所に於て決して遺漏はないと信ずるが、元来老先生といえども人並の性情を有っておるから了解ることは能く了解る人である。ただその資質に一点我慢強いところのある上に、維新の際妙な行きがかりから脇道へそれて遂に成るべき功名をも成し得ず、同輩は侯伯たり後進は子男たり、自分は田舎の老先生たるを見、かつ思う毎にその性情は益々荒れて来て、それが慣い性となり遂には煮ても焼ても食えぬ人物となったのである、であるから老先生の心底には常に二個の人が相戦っておる、その一人は本来自然の富岡氏、その一人はその経歴が造った富岡先生。そして富岡先生は常に猛烈に常に富岡氏を圧服するに慣れている、その結果として富岡氏が希望し承認し或は飛びつきたい程に望んでいることでも、あの執拗れた焦熬している富岡先生の御機嫌に少しでも触ろうものなら直ぐ一撃のもとに破壊されて了う。この辺のところは御存知でもあろうが能く御注意あって、十分機会を見定めて話して貰いたい。 という意味を長々と熱心に書いてある。村長は委細を呑込んで、何卒機会を見て甘くこの縁談を纏めたいものだと思った。 三日ばかり経って夜分村長は富岡老人を訪うた。機会を見に行ったのである。然るに座に校長細川あり、酒が出ていて老先生の気焔頗る凄まじかったので長居を為ずに帰って了った。 その後五日経って、村長は午後二時頃富岡老人を訪う積りでその門まで来た。そうすると先生の声で 「馬鹿者! 貴様まで大馬鹿になったか? 何が可笑しいのだ、大馬鹿者!」 と例の大声で罵るのが手に取るように聞えた。村長は驚いて誰が叱咤られるのかとそのまま足を停めて聞耳を聳てていると、内から老僕倉蔵がそっと出て来た。 「オイ倉蔵、誰だな今怒鳴られているのは?」村長は私語いた。倉蔵は手を以てこれを止めて、村長の耳の傍に口をつけて、 「お嬢様が叱咤られているのだ」 「エッお梅嬢が」と村長は眼を開瞳った。その筈で、梅子は殆ど富岡老人に従来一言たりとも叱咤れたことはない。梅子に対してはさすがの老先生も全然子供のようで、その父子の間の如何にも平穏にして情愛こまかなるを見る時は富岡先生実に別人のようだと誰しも思っていた位。 「マアどうして?」村長は驚ろいて訊ねた。 「どうしてか知らんが今度東京から帰って来てからというものは、毎日酒ばかり呑んでいて、今まで御嬢様にはあんなに優しかった老先生がこの二三日はちょっとしたことにも大きな声をして怒鳴るようにならしゃっただ、私も手の着けようがないので困っていたとこで御座りますよ」さも情なそうに言って、 「あの様子では最早先が永くは有りますめえ、不吉なことを言うようじゃが……」と倉蔵は眼を瞬たいた。この時老先生の声で 「倉蔵! 倉蔵!」と呼ぶ声が座敷の縁先でした。倉蔵は言葉を早めて、益々小さな声で 「然し晩になると大概校長さんが来ますからその時だけは幾干か気嫌が宜えだが校長さんも感心に如何なんと言われても逆からわないで温和うしているもんだから何時か老先生も少しは機嫌が可くなるだ……」 「倉蔵! 倉蔵は居らんか!」と又も老先生の太い声が響いた。 倉蔵は目礼したまま大急ぎで庭の方へ廻わった。村長は腕を組んで暫時く考えていたが歎息をして、自分の家の方へ引返した。
四
村長は高山の依頼を言い出す機会の無いのに引きかえて校長細川繁は殆ど毎夜の如く富岡先生を訪うて十時過ぎ頃まで談話ている、談話をすると言うよりか寧ろその愚痴やら悪口やら気焔やら自慢噺やらの的になっている。先生はこの頃になって酒を被ること益々甚だしく倉蔵の言った通りその言語が益々荒ら荒らしくその機嫌が愈々難かしくなって来た。殊に変わったのは梅子に対する挙動で、時によると「馬鹿者! 死んで了え、貴様の在るお蔭で乃公は死ぬことも出来んわ!」とまで怒鳴ることがある。然し梅子は能くこれに堪えて愈々従順に介抱していた。其処で倉蔵が 「お嬢様、マア貴嬢のような人は御座りませんぞ、神様のような人とは貴嬢のことで御座りますぞ、感心だなア……」と老の眼に涙をぼろぼろこぼすことがある。 こんな風で何時しか秋の半となった。細川繁は風邪を引いていたので四五日先生を訪うことが出来なかったが熱も去ったので或夜七時頃から出かけて行た。 家内が珍らしくも寂然としているので細川は少し不審に思いつつ坐敷に通ると、先生の居間の次ぎの間に梅子が一人裁縫をしていた。細川が入って来ても頭を上げないので、愈々訝かしく能く見ると蒼ざめた頬に涙が流れているのが洋燈の光にありありと解る。校長は喫驚りして 「お梅さんどうかしたのですか」と驚惶しく訊ねた。梅子は猶も頭を垂れたまま運ばす針を凝視て黙っている。この時次の室で 「誰だ?」と老先生が怒鳴った。 「私で御座います。細川で御座います」 「此方へ入らんで何をしているのか、用があるからちょっと来い!」 「唯今」と校長が起とうとした時、梅子は急に細川の顔を見上げた、そして涙がはらはらとその膝にこぼれた。ハッと思って細川は躊躇うたが、一言も発し得ない、止まることも出来ないでそのまま先生の居間に入った。何とも知れない一種の戦慄が身うちに漲ぎって、坐った時には彼の顔は真蒼になっていた。富岡老人は床に就いていてその枕許に薬罎が置いてある。 「オヤ何所かお悪う御座いますか」と細川は搾り出すような声で漸と言った。富岡老人一言も発しない、一間は寂としている、細川は呼吸も塞るべく感じた。暫くすると、 「細川! 貴公は乃公の所へ元来何をしに来るのだ、エ?」 寝たまま富岡先生は人を圧しつけるような調声、人を嘲けるような声音で言った。細川は一語も発し得ない。 「エ、元来何をしに来るのだ? 乃公の見舞に来るのか。娘の御機嫌を取りに来るのか、エ? 返事をせえ!」 校長は眼を閉り歯を喰しばったまま頭を垂れ両の拳を膝に乗せている。 「貴公は娘を狙っておるナ! 乃公の娘を自分の物にしたいと狙っておるナ! ふん」 細川の拳は震えている。 「貴公よく考えてみろ! 貴公は高が田舎の小学校の校長じゃアないか。同じ乃公の塾に居た者でも高山や長谷川は学士だ、それにさえ乃公は娘を与んのだぞ。身の程を知れ! 馬鹿者!」 校長の顔は見る見る紅をさして来た。その握りしめた拳の上に熱涙がはらはらと落ちた。侯爵伯爵を罵る口から能くもそんな言葉が出る、矢張人物よりも人爵の方が先生には難有いのだろう、見下げ果てた方だと口を衝いて出ようとする一語を彼はじっと怺えている。この先生の言としては怪むに足らない、もし理窟を言って対抗する積りなら初めからこの家に出入をしないのである。と彼は思い返した。 「エ、それともどうしても娘が欲しいと言うのか、コラ!」 校長は一語を発しない。 「判然と言え! どうしても欲しいと言うのか、男らしく言え、コラ!」 細川はきっと頭をあげた。 「左様で御座います! 梅子さんを私の同伴者に貰いたいと常に願っております!」きっぱりと言い放って老先生の眼睛を正視した。 「もし乃公が与らぬと言ったらどうする?」 「致し方が御座いません!」 「帰れ! 招喚にやるまでは来るな、帰れ!」と老人は言放って寝返して反対を向いて了った。 細川は直ちに起って室を出ると、突伏して泣いていた梅子は急に起て玄関まで送って来て、 「貴下何卒父の言葉を気になさらないで……御存知の通りな気性で御座いますから!」とおろおろ声で言った。 「イイエ決して気には留めません、何卒先生を御大切に、貴嬢も御大事……」終まで言う能わず、急いで門を出て了った。 その夜細川が自宅に帰ったのは十二時過ぎであった。何処を徘徊いていたのか、真蒼な顔色をしてさも困憊している様子を寝ないで待っていた母親は不審そうに見ていたが、 「お前又た風邪を引きかえしたのじゃアないかの、未だ十分でないのに余り遅くまで夜あるきをするのは可くないよ」 「何に格別の事は御座いません」と細川は何気なく言ってそのま自分の居間へ入った。母親はその後姿を見送ってそっと歎息をした。
五
その翌日より校長細川は出勤して平常の如く職務を執っていたが彼の胸中には生れ落ちて以来未だ経験したことのない、苦悩が燃えているのである。 もし富岡先生に罵しられたばかりなら彼は何とかして思切るほうに悶いたであろう、その煩悶も苦痛には相違ないが、これ戦である、彼の意力は克くこの悩に堪えたであろう。 然し今の彼の苦悩は自ら解く事の出来ない惑である、「何故梅子はあの晩泣いていたろう。自分が先生に呼ばれてその居間に入る時、梅子は何故あんな相貌をして涙を流して自分を見たろう。自分が先生に向て自分の希望を明言した時に梅子は隣室で聞いていたに違いない、もし自分の希望を全く否む心なら自分が帰る時あんなに自分を慰める筈はない……」 「梅子は自分を愛している、少くとも自分が梅子を恋ていることを不快には思っていない」との一念が執念くも細川の心に盤居まっていて彼はどうしてもこれを否むことが出来ない、然し梅子が平常何人に向ても平等に優しく何人に向ても特種の情態を示したことのないだけ、細川は十分この一念を信ずることが出来ぬ。梅子が泣いて見あげた眼の訴うるが如く謝るが如かりしを想起す毎に細川はうっとりと夢見心地になり狂わしきまでに恋しさの情燃えたつのである。恋、惑、そして恥辱、夢にも現にもこの苦悩は彼より離れない。 或時は断然倉蔵に頼んで窃かに文を送り、我情のままを梅子に打明けんかとも思い、夜の二時頃まで眠らないで筆を走らしたことがある、然し彼は思返してその手紙を破って了った。こういう風で十日ばかり経った。或日細川は学校を終えて四時頃、丘の麓を例の如く物思に沈みつつ帰って来ると、倉蔵に出遇った。倉蔵は手に薬罎を持ていた。 「先生! どうしてこの頃は全然お見えになりません?」倉蔵はないない様子を知りながら素知らぬ風で問うた。 「老先生の御病気はどうかね?」と校長も又た倉蔵の問に答えないで富岡老人の様子を訊ねた。 「この頃はめっきりお弱りになって始終床にばかり就ていらっしゃるが、別に此処というて悪るい風にも見えねえだ。然し最早長くは有りますめえよ!」と倉蔵は歎息をした。 「ふうん、そうかな、一度見舞に行きたいのだけれど……」と校長の声も様子も沈んで了った。 「お出なされませ、関うもんかね、疳癪まぎれに何言うたて……」 「それもそうだが……お梅さんの様子はどうだね?」と思切って問うた。 「何だかこの頃は始終鬱屈でばかり御座るが、見ていても可哀そうでなんねえ、ほんとに嬢さんは可哀そうだ……」と涙にもろい倉蔵は傍を向いて田甫の方を眺め最早眼をしばだたいている。 「困ったものだナ、先生は相変らず喧ましく言うかね?」 「ナニこの頃は老先生も何だか床の中で半分眠ってばかり居て余り口を用かねえだ」 「妙だねえ」と細川は首をかしげた。 「これまで煩らったことが有ても今度のように元気のないことは無えが、矢張り長くない証であるらしい」 「そうかも知れん!」と細川は眉を顰めた。 「それに何だか我が折れて愚に還ったような風も見えるだ。それを見ると私も気の毒でならん、喧まし人は矢張喧しゅうしていてくれる方が可えと思いなされ」 「今夜見舞に行ってみようかしらん」 「是非来なさるが可え、関うもんか!」 「うん……」と細川は暫時く考えていたが、「お梅さんに宜しく言っておくれ」 「かしこまりました、是非今夜来なさるが可え」 細川は軽く点頭き、二人は分れた。いろいろと考え、種々に悶いてみたが校長は遂にその夜富岡を訪問ことが出来なかった。 それから三日目の夕暮、倉蔵が真面目な顔をして校長の宅へ来て、梅子からの手紙を細川の手に渡した、細川が喫驚して目を円くして倉蔵の顔を見ているうちに彼は挨拶も為ないで帰って了った。 梅子からの手紙! 細川繁の手は慄るえた。無理もない、曾て例のないこと、又有り得べからざること、細川に限らず、梅子を知れる青年の何人も想像することの出来ないことである! 封を切て読み下すと、頗る短い文で、ただ父に代ってこの手紙を書く。今夜直ぐ来て貰いたい是非とのことである、何か父から急にお話したいことがあるそうだとの意味。 細川は直ぐ飛んで往った。「呼びにやるまで来るな!」との老先生の先夜の言葉を今更のように怪しゅう思って、彼は途々この一言を胸に幾度か繰返した、そして一念端なくもその夜の先生の怒罵に触れると急に足が縮むよう思った。 然し「呼びに来た」のである。不思議の力ありて彼を前より招き後より推し忽ち彼を走らしめつ、彼は躊躇うことなく門を入った。 居間に通って見ると、村長が来ている。先生は床に起直って布団に倚掛っている。梅子も座に着いている、一見一座の光景が平常と違っている。真面目で、沈んで、のみならず何処かに悲哀の色が動いている。
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