暫くすると川向の堤の上を二三人話しながら通るものがある、川柳の蔭で姿は能く見えぬが、帽子と洋傘とが折り折り木間から隠見する。そして声音で明らかに一人は大津定二郎一人は友人某、一人は黒田の番頭ということが解る。富岡老人も細川繁も思わず聞耳を立てた。三人は大声で笑い興じながらちょうど二人の対岸まで来た二人の此処に蹲居んでいることは無論気がつかない。 「だって貴様は富岡のお梅嬢に大変熱心だったと言いますぜ」これは黒田の番頭の声である。 「嘘サ、大嘘サ、お梅さんは善いにしてもあの頑固爺の婿になるのは全く御免だからなア! ハッハッ……お梅さんこそ可憐そうなものだ、あの高慢狂気のお蔭で世に出ることが出来ない!」これは明らかに大津法学士の声である。 三人は一度に「ハッハッハッ……」と笑った。富岡老人釣竿を投出してぬッくと起上がった。屹度三人の方を白眼で「大馬鹿者!」と大声に一喝した。この物凄い声が川面に鳴り響いた。 対岸の三人は喫驚したらしく、それと又気がついたかして忽ち声を潜め大急ぎで通り過ぎて了った。 富岡老人はそのまま三人の者の足音の聞こえなくなるまで対岸を白眼んでいたが、次第に眼を遠くの禿山に転じた、姫小松の生えた丘は静に日光を浴びている、その鮮やかな光の中にも自然の風物は何処ともなく秋の寂寥を帯びて人の哀情をそそるような気味がある。背の高い骨格の逞ましい老人は凝然と眺めて、折り折り眼をしばだたいていたが、何時しか先きの気勢にも似ずさも力なさそうに細川繁を振向いて 「オイ貴公この道具を宅まで運こんでおくれ、乃公は帰るから」 言い捨てて去って了った。校長の細川は取残されてみると面白くはないが、それでも糸を垂れていた、実は頻りと考え込んでいたのである。暫時するとこれも力なげに糸を巻き籠を水から上げて先生の道具と一緒に肩にかけ、程遠からぬ富岡の宅まで行った。庭先で 「老先生どうかしたのか喃」と老僕倉蔵が声を潜めて問うた。 「イヤどうもなさらん」 「でも様子が少し違うから私又どうかなされたかと思うて」 「先生今何をしておいでる?」 「寝ていなさるが枕頭に嬢様呼んで何か細い声で話をしておいでるようで……」 「そうか」 「まア上って晩まで遊んでおいでなされませえの」 「晩にでも来る!」 細川は自分の竿を担ついで籠をぶらぶら下げ、浮かぬ顔をして、我家へと帰った。この時が四時過ぎでもあろう。家では老母が糸を紡いていた。 その夜の八時頃、ちょうど富岡老人の平時晩酌が済む時分に細川校長は先生を訪うた。田甫道をちらちらする提燈の数が多いのは大津法学士の婚礼があるからで、校長もその席に招かれた一人二人に途で逢った。逢う度毎に皆な知る人であるから二言三言の挨拶はしたが、可い心持はしなかった。 富岡の門まで行ってみると門は閉って、内は寂然としていた。校長は不審に思ったが門を叩く程の用事もないから、其処らを、物思に沈みながらぶらぶらしていると間もなく老僕倉蔵が田甫道を大急ぎで遣て来た。 「オイ倉蔵、先生は最早お寝みになったのかね?」 「オヤ! 細川先生、老先生は今東京へお出発になりました!」と呼吸をはずまして老僕は細川の前へ突立った。 「東京へ」細川は声も喉に塞ったらしい。 「ハア東京へ!」 「マアどうしたのだろう! お梅さんは?」 「御一緒に」 「マアどうしたのだろう!」校長は喫驚すると共に、何とも言い難き苦悩が胸を圧して来た。心も空に、気が気ではない。倉蔵は門を開けながら 「マアお入りなされの」 校長は後について門を入り縁先に腰をかけたが、それも殆ど夢中であったらしい。 「マア先生は何にも知らないのかね?」 「乃公が何を知るものか、今日釣に行っていたが老先生は何にも言わんからの」 「そうかの?」と倉蔵は不審な顔色をして煙草を吸い初めた。 「貴公理由を知らんかね?」 「私唯だ倉蔵これを急いで村長の処へ持て行けと命令りましたからその手紙を村長さん処へ持て行って帰宅てみると最早仕度が出来ていて、私直ぐ停車場まで送って今帰った処じゃがの、何知るもんかヨ」 「フーン」と校長考えていたが「何日頃帰国ると言われた?」 「老先生は十日ばかりしたら帰る、それも能くは解らんちゅうて……」 「そうか……」と校長は嘆息をしていたが、 「また来る」と細川は突然富岡を出て、その足で直ぐ村長を訪うた。村長は四十何歳という分別盛りの男で村には非常な信用があり財産もあり、校長は何時もこの人を相談相手にしているのである。 「貴公富岡先生が東京へ行った事を知っているか」と校長細川は坐に着くや着かぬに問いかけた。 「知っているとも、先刻倉蔵が先生の手紙を持って来たが、不在中家の事を托むと書いてあった」と村長は夜具から頭ばかり出して話している。大津の婚礼に招ねかれたが風邪をひいて出ることが出来ず、寝ていたのである。 「どういう理由で急に上京したのだろう?」 「そんな理由は手紙に書いてなかったが、大概想像が着くじゃアないか」と村長は微笑を帯びて細川の顔をじろじろ見ながら言った。彼は細川が梅子に人知れず思を焦がしていることを観破ていたのである。 「私には解せんなア」と校長は嘆息を吐いた。 「解せるじゃアないか、大津が黒田のお玉さんと結婚しただろう、富岡先生少し当が外れたのサ、其処で宜しい此処にもその積があるとお梅嬢を連れて東京へ行って江藤侯や井下伯を押廻わしてオイ井下、娘を頼む位なことだろうヨ」 「そうかしらん?」 「そうとも! それに先生は平常から高山々々と讃めちぎっていたから多分井下伯に言ってお梅嬢を高山に押付ける積りだろう、可いサ高山もお梅嬢なら兼て狙っていたのだから」 「そうかしらん?」と細川の声は慄えている。 「そうとも! それで大津の鼻をあかしてやろうと言うんだろう、可いサ、先生も最早あれで余程老衰て御坐るから早くお梅嬢のことを決定たら肩が安まって安心して死ねるだろうから」 村長は理の当然を平気で語った。一つには細川に早く思いあきらめさしたい積りで。 「全くそうだ、先生も如彼見えても長くはあるまい!」と力なさそうに言って校長は間もなく村長の宅を辞した。 憐むべし細川繁! 彼は全く失望して了って。その失望の中には一の苦悩が雑っておる。彼は「我もし学士ならば」という一念を去ることが出来ない。幼時は小学校に於て大津も高山も長谷川も凌いでいた、富岡の塾でも一番出来が可かった、先生は常に自分を最も愛して御坐った、然るに自分は家計の都合で中学校にも入る事が出来ず、遂に官費で事が足りる師範学校に入って卒業して小学教員となった。天分に於ては決して彼等二三子には、劣らないが今では富岡先生すら何とかかんとか言っても矢張り自分よりか大津や高山を非常に優った者のように思ってお梅嬢に熨斗を附けようとする! 残念なことだと彼は恋の失望の外の言い難き恨を呑まなければならぬこととなった。 然し彼は資性篤実で又能く物に堪え得る人物であったから、この苦悩の為めに校長の職務を怠るようなことは為ない。平常のように平気の顔で五六人の教師の上に立ち数百の児童を導びいていたが、暗愁の影は何処となく彼に伴うている。
二
富岡先生が突然上京してから一週間目のことであった、先生は梅子を伴うて帰国って来た。校長細川は「今帰国ったから今夜遊びに来い」との老先生の手紙を読んだ時には思わず四辺を見廻わした。 自分勝手な空想を描きながら急いで往ってみると、村長は最早座に居て酒が初まっていた。梅子は例の如く笑味を含んで老父の酌をしている。 「ヤ細川! 突如に出発ので驚いたろう、何急に東京を娘に見せたくなってのう。十日ばかりも居る積じゃったが癪に触ることばかりだったから三日居て出立て了った。今も話しているところじゃが東京に居る故国の者は皆なだめだぞ、碌な奴は一匹も居らんぞ!」 校長は全然何のことだか、煙に捲かれて了って言うべき言葉が出ない、ただ富岡先生と村長の顔を見比べているばかりである。村長は怪しげな微笑を口元に浮べている。 「エえまア聞いてくれこうだ、乃公は娘を連れて井下聞吉の所へも江藤三輔の所へも行った、エえ、故国からわざわざ乃公が久しぶりに娘まで連れて行ったのだから何とか物の言い方も有ろうじゃア、それを何だ! 侯爵顔や伯爵顔を遠慮なくさらけ出してその慢無礼な風たら無かった。乃公もグイと癪に触ったから半時も居らんでずんずん宿へ帰ってやった」と一杯一呼吸に飲み干して校長に差し、 「それも彼奴等の癖だからまア可えわ、辛棒出来んのは高山や長谷川の奴らの様子だ、オイ細川、彼等全然でだめだぞ、大津と同じことだぞ、生意気で猪小才で高慢な顔をして、小官吏になればああも増長されるものかと乃公も愛憎が尽きて了うた。業が煮えて堪らんから乃公は直ぐ帰国ろうと支度を為ているとちょうど高山がやって来て驚いた顔をしてこう言うのだ、折角連れて来たのだから娘だけは井下伯にでも托けたらどうだろう、井下伯もせめて娘だけでも世話をしてやらんと富岡が可憐そうだと言ッて、大変乃公を気の毒がっていたとこう言うじゃアないか、乃公は直然彼奴の頭をぽかり一本参ってやった、何だ貴様まで乃公を可憐そうだとか何とか思っているのか、そんな積りで娘を托けると言うのか、大馬鹿者! と怒鳴つけてくれた」 「そして高山はどうしました」と校長は僅かに一語を発した。 「どうするものか真赤な顔をして逃げて去って了うた、それから直ぐ東京を出発て何処へも寄らんでずんずん帰って来た」 「それは無益ませんでしたね、折角おいでになって」と校長はおずおずしながら言った。 先生の気焔は益々昂まって、例の昔日譚が出て、今の侯伯子男を片端から罵倒し初めたが、村長は折を見て辞し去った。校長は先生が喋舌り疲ぶれ酔い倒れるまで辛棒して気の的となっていた。帰える時梅子は玄関まで送って出たが校長何となくにこついていた。田甫道に出るや、彼はこの数日の重荷が急に軽くなったかのように、いそいそと路を歩いたが、我家に着くまで殆ど路をどう来たのか解らなんだ。
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