源氏物語
総角
紫式部
與謝野晶子訳
心をば火の思ひもて焼かましと願ひき
身をば煙にぞする (晶子)
長い年月馴れた河風の音も、今年の秋は耳騒がしく、悲しみを加重するものとばかり宇治の姫君たちは聞きながら、父宮の御一周忌の仏事の用意をしていた。大体の仕度は源中納言と山の御寺の阿闍梨の手でなされてあって、女王たちはただ僧たちへ出す法服のこと、経巻の装幀そのほかのこまごまとしたものを、何がなければ不都合であるとか、何を必要とするとかいうようなことを周囲の女たちが注意するままに手もとで作らせることしかできないのであったから、薫のような後援者がついておればこそ、これまでに事も運ぶのであるがと思われた。 薫は自身でも出かけて来て、除服後の姫君たちの衣服その他を周到にそろえた贈り物をした。その時に阿闍梨も寺から出て来た。二人の姫君は名香の飾りの糸を組んでいる時で、「かくてもへぬる」(身をうしと思ふに消えぬものなればかくてもへぬるものにぞありける)などと言い尽くせぬ悲しみを語っていたのであるため、結び上げた総角(組み紐の結んだ塊)の房が御簾の端から、几帳のほころびをとおして見えたので、薫はそれとうなずいた。 「自身の涙を玉に貫そうと言いました伊勢もあなたがたと同じような気持ちだったのでしょうね」 こうした文学的なことを薫が言っても、それに応じたようなことで答えをするのも恥ずかしくて、心のうちでは貫之朝臣が「糸に縒るものならなくに別れ路は心細くも思ほゆるかな」と言い、生きての別れをさえ寂しがったのではなかったかなどと考えていた。御仏への願文を文章博士に作らせる下書きをした硯のついでに、薫は、
あげまきに長き契りを結びこめ同じところに縒りも合はなん
と書いて大姫君に見せた。またとうるさく女王は思いながらも、
貫きもあへずもろき涙の玉の緒に長き契りをいかが結ばん
と返しを書いて出した。「逢はずば何を」(片糸をこなたかなたに縒りかけて合はずば何を玉の緒にせん)と薫は歎かれるのであるが、自身のことを正面から言うことはできずに、洩らす溜息に代える程度により口へ出しえないのは、姫君のあまりに高貴な気に打たれてしまうことが多いからであった。それで兵部卿の宮と中の君の縁組みのことを熱心なふうに言い出した。 「それほど深くお思いになるのでなく好奇心をお働かせになることが多くて、お申し込みになったのを、冷淡にお扱われになるために、負けぬ気を出しておいでになるだけではないかと、私は考えもしまして、いろいろにして御様子を見ていますが、どうも誠心誠意でお始めになった恋愛としか思われません。それをどうしてただ今のようなふうにばかりこちらではお扱いになるのでしょう。ものの判断がおできにならぬほどの少女ではおられない聡明なあなたの御意見をよく伺いたいと私は思っているのですが、いつまでも御相談相手にしてくださいませんのは、私の純粋な信頼をおくみいただけない、恨めしいことだと思っています。可否だけでも言ってくださいませんか」 薫はまじめであった。 「あなたの御親切に感謝しておりますればこそ、こんなにまで世間に例のございませんほどにもお親しくおつきあい申し上げているのでございます。それがおわかりになりませんのは、あなたのほうに不純な点がおありになるのではないかと疑われます。少女でもないとおっしゃいますが、実際こんな寄るべない身の上になっていましては、ありとあらゆることを普通の人であれば考え尽くしていなければなりませんのに、どんなことにも幼稚で、ことに今のお話のようなことは、宮が生きておいでになりましたころにも、こんな話があればとかそうであればとか将来の問題としてほかの話の中ででもおっしゃらなかったことでしたから、やはり宮様のお心は、私たちはただこのままで、他の方のような結婚の幸福というようなことは念頭に置かずに一生を過ごすようにとお考えになったに違いないとそう思っているものですから、兵部卿の宮様のことにつきましても可否の言葉の出しようがないのでございます。けれど妹は若くて、こうした山陰に永久に朽ちさせてしまうのがあまりに心苦しゅうございましてね、なにも私と同じ道を取らずともよいはずであるとも考えられまして、ほかのほうのことも空想いたしますが、どんな運命が前途にありますことか」 と言って、物思わしそうに大姫君の歎息をするのが哀れであった。中の君の結婚談にもせよはっきりと年長者らしく、若い貴女は縁組みの話の賛否を言い切りうるはずはないのである、と同情した薫は、別の所で例の老女の弁を呼び出して、 「以前は宮様を仏道の導きとしてお訪ねしていたものですが、お心細くお見えになるようになった御薨去前になって、お二方の将来のことを私の計らいに任せるというような仰せがあったのですよ。ところが宮様の御希望あそばしたようになろうとは姫君がたはお思いにならないで、限りなくささげる尊敬と熱情を無視されるのですから、何か別に対象とあそばされる人があるのではないかという疑いとでもいうようなものが私の心に起こってきましたよ。あなたは世間で言っていることも聞いておいでになるでしょう、変わった性情から私は人間並みに結婚をしようというような考えは全然捨てていたものでした。それが宿命というものなのでしょうか、こちらの姫君に心をお惹かれすることになって、今ではもう世間の噂にも上っているだろうと思われるまでになっているのですから、できることなら宮様の御遺志にもかなう結果を生じさせたいと私の思うのは、勝手なことかはしれませんが、だれからも批難をされないでいいことかと思う。例のあることだしね」 と薫は話し続け、また、 「兵部卿の宮様のことも、私がお勧めしている以上は安心して御承諾くだすっていいものを、そうでないのはお二方の女王様にそれぞれ別なお望みがあるのではないのですか。あなたからでもよく聞きたいものですよ。ねえ、どんなお望みがあるのだろう」 とも、物思わしそうにして言うのであった。こんな時によくない女房であれば、姫君がたを批難したり、自身の立場を有利にしようとしたり試みるものであるが、弁はそんな女ではなかった。心の中では二人の女王の上にこの縁がそれぞれ成立すればどんなにいいであろうとは思っているのであるが、 「初めからそんなふうに少し変わった御性格なのでございますからね。どうして、どうしてほかの方を対象にお考えなどなさるものでございますか。女房なども宮様のおいでになりました当時と申しても何の頼もしいところのある親王家ではなかったのですから、わが身を犠牲にしますのを喜びません人たちは、それぞれに相当な行く先を作ってお暇をとってまいるのでございましてね。昔のいろいろな関係で切るにも切られぬ主従の御縁のある人でも、こんなにだれもが出て行ってしまいますのを見ておりましては、しばらくでも残っているのがいやでならぬふうを見せましてね、そしてまたその人たちは姫君がたに、『宮様の御在世中はお相手によって尊貴なお家を傷つけるかと御遠慮もあそばしたでしょうが、お心細いお二人きりにおなりになったのですもの、どんな結婚でもなすったらいいはずです、それをとやかくと言う人はもののわからぬ人間だとかえって軽蔑あそばしたらいいのです、どうしてこんなふうにばかりしておいでになることができますか、松の葉を食べて行をするという坊様たちでさえ、生きんがために都合のよい一派一派を開いていくものでございますから』などと、こんないやなことを申しましてね、若い姫君がたのお心を苦しめまして利己的に媒介者になろうといたしますが、女王様はそんな浮薄な言葉にお動きになるような方がたではございません。お妹様だけには人並みな幸福を得させたいとお考えになっているようでございます。こうした路のたいへんな所へ御訪問をお欠かしあそばさないあなた様の御好意は長い年月の間によくおわかりになっていらっしゃることでもございますし、ただ今になりましてはことさらあなた様のあたたかい御庇護のもとにいらっしゃるわけでございますからね。大姫君は中の君様をお望みになればとそう希っていらっしゃるらしゅうございます。兵部卿の宮様からお手紙は始終おいただきになるのですが、それは誠意のある求婚者だとも認めておられないようでございます」 弁は姫君の意志を伝えようとしただけである。 「宮様の御遺言を身に沁んで承った私は、生きているかぎりこちらのお世話を申し上げる義務があると思うのですから、両女王のどなたでもお許しくだされば結婚してもいいわけですが、同じことのようで、しかも姫君が中姫君のために私を撰んでくださいましたことはうれしいことですが、ともかくも私が捨てたい世にただ一つ深く心の惹かれる感じを味わい、また死後までもこの思いは残ろうと思った方から、ほかの方へ愛を移すことはできるものでありませんよ。改めて心をそう持とうとしても無理なことです。私の望むところは世間並みの恋の成立ではありません。ただ今のようなふうに何かを隔てたままでも、何事に限らず話し合う相手にいつまでもなっていていただきたいだけです。私には姉妹などでそうした間柄になりうるような人もなくて寂しいのですよ。人生の身にしむ点も、おもしろいことも、困ることも、その時その時ただ一人で感じているだけであるのが物足りないのです。中宮はあまりに御身分が高過ぎて、なれなれしく私の思うとおりのことを何から何まで申し上げられないし、三条の宮様は母とも思われぬ若々しいお気持ちの方ではありましても、子は子の分があって、どんな話も申し上げるというわけにはゆきません。そのほかの女性というものはすべて皆私には遠い遠い所にいるとしか考えられませんで、私にいつも孤独の感を覚えています。心細いのですよ。その場かぎりの戯れ事でも恋愛に関したことはまぶしい気がして、人から見れば見苦しい頑固な男になっているのです。まして深く恋しく思う方にはそれをお話しすることも困難なことに思われます。恨めしく思ったり、悲しんだりしている恋の悶えもお知らせすることができなくて、われながら変わった生まれつきが憎まれます。兵部卿の宮のことも私がお受け合いする以上は不安もなかろうと思って任せてくだすってよさそうなものですがね」 こんなことを薫は言っていた。老いた弁もまたこの心細い身の上の姫君たちに上もない二つの縁が成立するようにとは切に願うところであったが、二女王ともに天性の気品の高さに、自身の思うことのすべてが言われなかった。 薫は今夜を泊まることにして姫君とのどかに話がしたいと思う心から、その日を何するとなく山川をながめ暮らした。この人の態度が不鮮明になり、何かにつけて怨みがましくものを言う近ごろの様子に、煩わしさを覚え出した姫君は、親しく語り合うことがいよいよ苦しいのであったが、その他の点では世にもまれな誠意をこの一家のために見せる薫であったから、冷ややかには扱いかねて、その夜も話の相手をする承諾はしたのであった。 仏間と客室の間の戸をあけさせ、奥のほうの仏前には灯を明るくともし、隣との仕切りには御簾へ屏風を添えて姫君は出ていた。客の座にも灯の台は運ばれたのであるが、 「少し疲れていて失礼な恰好をしていますから」 と言い、それをやめさせて薫は身を横たえていた。菓子などが客の夕餐に代えて供えられてあった。従者にも食事が出してあった。廊の座敷にあたるような部屋にその人たちは集められていて、こちらを静かにさせておき、客は女王と話をかわしていた。打ち解けた様子はないながらになつかしく愛嬌の添ったふうでものを言う女王があくまでも恋しくてあせり立つ心を薫はみずから感じていた。この何でもないものを越えがたい障害物のように見なして恋人に接近なしえない心弱さは愚かしくさえ自分を見せているのではないかと、こんなことを心中では思うのであるが、素知らぬふうを作って、世間にあったことについて、身にしむ話も、おもしろく聞かされることもいろいろと語り続ける中納言であった。女王は女房たちに近い所を離れずいるように命じておいたのであるが、今夜の客は交渉をどう進ませようと思っているか計られないところがあるように思う心から、姫君をさまで護ろうとはしていず、遠くへ退いていて、御仏の灯もかかげに出る者はなかった。姫君は恐ろしい気がしてそっと女房を呼んだがだれも出て来る様子がない。 「何ですか気分がよろしくなくなって困りますから、少し休みまして、夜明け方にまたお話を承りましょう」 と、今や奥へはいろうとする様子が姫君に見えた。 「遠く山路を来ました者はあなた以上に身体が悩ましいのですが、話を聞いていただくことができ、また承ることの喜びに慰んでこうしておりますのに、私だけをお置きになってあちらへおいでになっては心細いではありませんか」 薫はこう言って屏風を押しあけてこちらの室へ身体をすべり入らせた。恐ろしくて向こうの室へもう半分の身を行かせていたのを、薫に引きとめられたのが非常に残念で、 「隔てなくいたしますというのはこんなことを申すのでしょうか。奇怪なことではございませんか」 と批難の言葉を発するのがいよいよ魅力を薫に覚えしめた。 「隔てないというお気持ちが少しも見えないあなたに、よくわかっていただこうと思うからです。奇怪であるとは、私が無礼なことでもするとお思いになるのではありませんか。仏のお前でどんな誓言でも私は立てます。決してあなたのお気持ちを破るような行為には出まいと初めから私は思っているのですから、お恐れになることはありませんよ。私がこんなに正直におとなしくしておそばにいることはだれも想像しないことでしょうが、私はこれだけで満足して夜を明かします」 こう言って、薫は感じのいいほどな灯のあかりで姫君のこぼれかかった黒髪を手で払ってやりながら見た顔は、想像していたように艶麗であった。何の厳重な締まりもないこの山荘へ、自分のような自己を抑制する意志のない男が闖入したとすれば、このままで置くはずもなく、たやすくそうした人の妻にこの人はなり終わるところであった、どうして今までそれを不安とせずに結婚を急ごうとはしなかったかとみずからを批難する気にもなっている薫であったが、言いようもなく情けながって泣いている女王が可憐で、これ以上の何の行為もできない。こんなふうの接近のしかたでなく、自然に許される日もあるであろうとのちの日を思い、男性の力で恋を得ようとはせず、初めの心は隠して相手を上手になだめていた。 「こんな心を突然お起こしになる方とも知らず、並みに過ぎて親しく今までおつきあいをしておりました。喪の姿などをあらわに御覧になろうとなさいましたあなたのお心の思いやりなさもわかりましたし、また私の抵抗の役だたなさも思われまして悲しくてなりません」 と恨みを言って、姫君は他人に見られる用意の何一つなかった自身の喪服姿を灯影で見られるのが非常にきまり悪く思うふうで泣いていた。 「そんなにもお悲しみになるのは、私がお気に入らないからだと恥じられて、なんともお慰めのいたしようがありません。喪服を召していらっしゃる場合ということで私をお叱りなさいますのはごもっともですが、私があなたをお慕い申し上げるようになりましてからの年月の長さを思っていただけば、今始めたことのように、それにかかわっていなくともよいわけでなかろうかと思います。あなたが私の近づくのを拒否される理由としてお言いになったことは、かえって私の長い間持ち続けてきた熱情を回顧させる結果しか見せませんよ」 薫はそれに続いてあの琵琶と琴の合奏されていた夜の有明月に隙見をした時のことを言い、それからのちのいろいろな場合に恋しい心のおさえがたいものになっていったことなどを多くの言葉で語った。姫君は聞きながら、そんなことがあったかと昔の秋の夜明けのことに堪えられぬ羞恥を覚え、そうした心を下に秘めて長い年月の間表面をあくまでも冷静に作っていたのであるかと、身にしみ入る気もするのであった。薫はその横にあった短い几帳で御仏のほうとの隔てを作って、仮に隣へ寄り添って寝ていた。名香が高くにおい、樒の香も室に満ちている所であったから、だれよりも求道心の深い薫にとっては不浄な思いは現わすべくもなく、また墨染めの喪服姿の恋人にしいてほしいままな力を加えることはのちに世の中へ聞こえて浅薄な男と見られることになり、自分の至上とするこの恋を踏みにじることになるであろうから、服喪の期が過ぎるのを待とう。そうしてまたこの人の心も少し自分のほうへなびく形になった時にと、しいて心をゆるやかにすることを努めた。秋の夜というものは、こうした山の家でなくても身にしむものの多いものであるのに、まして峰の嵐も、庭に鳴く虫の声も絶え間なくてここは心細さを覚えさせるものに満ちていた。人生のはかなさを話題にして語る薫の言葉に時々答えて言う姫君の言葉は皆美しく感じのよいものであった。 宵を早くから眠っていた女房たちは、この話し声から悪い想像を描いて皆部屋のほうへ行ってしまった。召使は信じがたいものであると父宮の言ってお置きになったことも女王は思い出していて、親の保護がなくなれば女も男も自分らを軽侮して、すでにもう今夜のような目にあっているではないかと悲しみ、宇治の河音とともに多くの涙が流れるのであった。そして明け方になった。薫の従者はもう起き出して、主人に帰りを促すらしい作り咳の音を立て、幾つの馬のいななきの声の聞こえるのを、薫は人の話に聞いている旅宿の朝に思い比べて興を覚えていた。 薫は明りのさしてくるのが見えたほうの襖子をあけて、身にしむ秋の空を二人でながめようとした。女王も少しいざって出た。軒も狭い山荘作りの家であったから、忍ぶ草の葉の露も次第に多く光っていく。室の中もそれに準じて白んでいくのである。二人とも艶な容姿の男女であった。 「同じほどの友情を持ち合って、こんなふうにいつまでも月花に慰められながら、はかない人生を送りたいのですよ」 薫がなつかしいふうにこんなことをささやくのを聞いていて、女王はようやく恐怖から放たれた気もするのであった。 「こんなにあからさまにしてお目にかかるのでなく、何かを隔ててお話をし合うのでしたら、私はもう少しも隔てなどを残しておかない心でおります」 と女は言った。外は明るくなりきって、幾種類もの川べの鳥が目をさまして飛び立つ羽音も近くでする。黎明の鐘の音がかすかに響いてきた、この時刻ですらこうしてあらわな所に出ているのが女は恥ずかしいものであるのにと女王は苦しく思うふうであった。 「私が恋の成功者のように朝早くは出かけられないではありませんか。かえってまた他人はそんなことからよけいな想像をするだろうと思われますよ。ただこれまでどおり普通に私をお扱いくださるのがいいのですよ。そして世間のとは内容の違った夫婦とお思いくだすって、今後もこの程度の接近を許しておいてください。あなたに礼を失うような真似は決してする男でないと私を信じていてください。これほどに譲歩してもなおこの恋を護ろうとする男に同情のないあなたが恨めしくなるではありませんか」 こんなことを言っていて、薫はなおすぐに出て行こうとはしない。それは非常に見苦しいことだと姫君はしていて、 「これからは今あなたがお言いになったとおりにもいたしましょう。今朝だけは私の申すことをお聞き入れになってくださいませ」 と言う。いかにも心を苦しめているのが見える。 「私も苦しんでいるのですよ。朝の別れというものをまだ経験しない私は、昔の歌のように帰り路に頭がぼうとしてしまう気がするのですよ」 薫が幾度も歎息をもらしている時に、鶏もどちらかのほうで遠声ではあるが幾度も鳴いた。京のような気がふと薫にした。
山里の哀れ知らるる声々にとりあつめたる朝ぼらけかな
姫君はそれに答えて、
鳥の音も聞こえぬ山と思ひしをよにうきことはたづねきにけり
と言った。姫君の居間の襖子の口まで送って行った。そして中の間を昨夜はいった戸口から客室のほうへ出て薫は横になったが、もとより眠りは得られない。別れて来た人が恋しくて、こんなにも思われるなら今まで気長な態度がとれなかったはずであるとも歎かれて、京へ帰る気もしないのであった。 姫君は人がどんな想像をしているかと思うのが恥ずかしくて、すぐにも枕へつくことはできなかった。いろいろな思いが女王の胸にわく。親のない娘の心細さにつけこむような女房の取り次いでくる幾件かの縁談、その青年たちが今一歩思いやりのないことを進めた時に、自分はどうなるであろうと、心にもなく、人の妻になってしまう運命が自分を待っているのであろうと、いろいろにも考え合わせてみれば、薫は良人として飽き足らぬところはなく、父宮も先方にその希望があればと、そんなことを時々お洩らしになったようであった。けれども自分はやはり独身で通そう、自分よりも若く、盛りの美貌を持っていて、この境遇に似合わしくなく、いたましく見える中の君に薫を譲って、人並みな結婚をさせることができればうれしいことであろう、自分のことでなくなれば力の及ぶかぎりの世話を結婚する中の君のためにすることができよう、自分が結婚するのではだれがそうした役を勤めてくれよう、親もない、姉もない。薫が今少し平凡な男であれば、長く持ち続けられた好意に対してむくいるために、妻になる気が起きたかもしれぬ。けれどあの人はそうでない、あまりにすぐれた男である、気品が高く近づきにくいふうもあるではないか、自分には不似合いに思われてならぬ、自分は今までどおりの寂しい運命のままで一人いようと、思い続けて朝まで泣いていたあとの身体のぐあいがよろしくなくて、中姫君の寝ている帳台の奥のほうへはいって横になった。 昨夜は平常とは変わっておそくまで話し声がするのを怪しく思いながら、中の君は寝入ったのであったから、大姫君のこうして来たのがうれしくて、夜着を姉の上へ掛けようとした時に、高いにおいがくゆりかかるように立つのを知った。あの宿直の侍が衣服をもらって、困りきった薫のにおいであることが思い合わされて、男の熱情と力に姉君が負けたというようなこともあったであろうかと気の毒で、それからまたよく眠りに入ったようにして何も言わなかった。 薫は朝になってからまた老女の弁に逢いたいと呼び出して、昨日も話した自身の気持ちをこまごまとまた語って行き、そして姫君へは礼儀的な挨拶を言い入れて帰った。 昨日は総角を言葉のくさびにして歌を贈答したりしていたが、催馬楽歌の「尋ばかり隔てて寝たれどかよりあひにけり」というようなあやまちをその人としてしまったように妹も思うことであろうと恥ずかしくて、気分が悪いということにして大姫君はずっと床を離れずにいた。女房たちは、 「もう御仏事までに日がいくらもなくなりましたのに、そのほかには小さいこともはかばかしくできる人もない時のあやにくな姫君の御病気ですね」 などと言っていた。組紐が皆出来そろってから、中の君が来て、 「飾りの房は私にどうしてよいかわからないのですよ」 と訴えるのを聞いて、もうその時にあたりも暗くなっていたのに紛らして、姫君は起きていっしょに紐結びを作りなどした。 源中納言からの手紙の来た時、 「今朝から身体を悪くしておりますから」 と取り次ぎに言わせて、返事を出さなかったのを、あまりに苦々しい態度だと譏る女たちもあった。 喪の期が過ぎて除服をするにつけても、片時も父君のあとには生き残る命と思わなかったものが、こうまで月日を重ねてきたかと、これさえ薄命の中に数えて二人の女王の泣いているのも気の毒であった。一か年真黒な服を着ていた麗人たちの薄鈍色に変わったのも艶に見えた。姉君の思っているように、中の君は美しい盛りの姿と見えて、喪の間にまたひときわ立ちまさったようにも思われる。髪を洗わせなどした中の君の姿を大姫君はながめているだけで人生の悲しみも皆忘れてしまう気がするほどな麗容だった。姫君はすべて思うとおりな気がして、結婚して良人に幻滅を覚えさせることはよもあるまいと頼もしくうれしくて、自身のほかには保護者のない妹君を親心になって大事がる姉女王であった。 薫はいくぶんの遠慮がされた恋人の喪服ももう脱がれた時と思って、結婚の初めには不吉として人のきらう九月ではあったが、待ちきれぬ心でまた宇治へ行った。これまでのようにして話し合いたいと取り次ぎの女は薫の意を伝えて来るのであったが、 「不注意からまた病をしまして苦しんでいる際ですから」 というような返事ばかりを言わせて大姫君は会おうとしなかった。
存外にあなたは人情味に欠けた方です。女房たちが私をどう見ていることでしょう。
と今度は文に書いて薫がよこした。
父の喪服を脱ぎました際の悲しみがずっと続きまして、かえって今のほうが深い暗さの中に沈んでおります私ですから、お話を承ることができませぬ。
返事はこう書いて出された。しかたのない気のする薫は、例のように弁を呼び出して、この人の力を借ろうと相談した。心細いこの山荘にいて源中納言だけを唯一の庇護者と信じてたよる心のある女房たちは、弁からの話を聞いて、この結婚を成立させることほどよいことはないと皆言いあわせ、どんなにしても姫君の寝室へ薫を導こうと手はずを決めていた。 姫君は女房たちがどんなことを計画しているかを深くは知らないのであるが、弁を特別な者にしてなつけている薫であるから、自分として油断のできぬ考えをしているかもしれぬ、昔の小説の中の姫君なども、自身の意志から恋の過失をしてしまうのは少ないのである、他の女房と質は違っても、弁には弁の利己心が働くはずであるからと、なんとなく今日の家の中の空気のただならぬのによって思い寄るところがあった。薫がしいて近づいて来た時には妹を自分の代わりに与えよう、目的としたものに劣っていたところで、そうして縁の結ばれた以上は軽率に捨ててしまうような性格の薫ではないのだから、ましてほのかにでも顔を見れば多大な慰めを感じるに価する妹ではないか、こんなことは話として持ち出しても、眼前に目的を変えて見せる人があるはずはない、この間から弁に言わせてもいるが、初めの志に違うなどと言って聞き入れるふうがないというのは、自分に対して今まで言っていたことが、こんなに根底の浅いものであったかと思わせることを避けているにすぎまい、とこう考えを決める姫君であったが、少しそのことを中の君に知らせておかないでその計らいをするのは仏法の罪を作ることではあるまいかと、先夜の闖入者に苦しんだ経験から妹の女王がかわいそうになり、ほかの話をした続きに、 「お亡くなりになったお父様のお言葉は、たとえこうした心細い生活でも、それを続けて行かねばならぬとして、浮薄な恋愛を、感情の動くままにして、世間の物笑いになるなということでしたね。一生お父様の信仰生活へおはいりになるお妨げをしてきたその罪だけでもたいへんなのだから、せめて終わりの御訓戒にそむきたくないと私は思って、独身でいるのを心細いなどと考えないのですがね、女房たちまでむやみに気の強い女のように言って悪く見ているのは困ったものですわね。まあそう変わった人間に思われていてもいいとして、私のあなたと暮らしている月日があなたの青春をむだにしてしまうのではないかと、私はそれが始終惜しく思われてならないのですよ。気の毒でかわいそうでね。だからあなただけは普通の女らしく結婚をして、あなたの幸福を見ることで私も慰められるようになりたい気がします」 と言うと、どんな考えがあって姉君はこんなことを言いだしたのであろうと急に情けなく中の君はなって、 「あなたお一人だけにお残しになった御訓戒だったのでしょうか。あなたほど聡明でない私のほうをことに気がかりにお父様は思召してのお言葉かと私は思っています。心細さはこうしていつもごいっしょにいることだけで慰めるほかに何があるでしょう」 少し恨めしがるふうに中の君の言うのが道理に思われて姫君はかわいそうに見た。 「いいえね、女房たちが私らを頑固過ぎる女だと言いもし、思いもしているらしいから、いろいろとほかの道のことも考えたのですよ」 あとはこんなふうにだけより言わなかった。日は暮れていくが京の客は帰ろうとしない。姫君は困ったことであると思っていた。弁が来て薫の言葉を伝えてから、あの人の恨むのが道理であると言葉を尽くして言うのに対して、答えもせず、歎息をしている姫君は、どうすればよい自分なのであろう、父宮さえおいでになれば、何となるにもせよ、だれの妻になるにもせよ、娘として取り扱われて、宿命というものがある人生であってみれば、自身の意志でなくとも人の妻になることもあろうし、結婚生活が不幸なことになっても、親に選ばれた良人であるからと、そう恥を思わずにも済むであろう、周囲にいる女房は皆年を取っていて、賢げな顔をしては自身の頼まれた男との縁組みだけが最上のことのように言って勧めに来るが、そんなことがどうしてよかろう、彼女らの見る世界は狭く、その判断力は信じられないと思っている姫君は、その人たちが力で引き動かそうとせんばかりにして言うことも、いやなこととより聞かれず心の動くことはないのである。どんなことも話し合う妹の女王はこうした結婚とか恋愛とかいうことについては姫君よりもいっそう関心を持たぬようであったから、圧迫を感じる近ごろの話をしても、そう深く苦しい心境に立ち入っては来てくれないのであったから、姫君は一人で歎くほかはなかった。室の奥のほうに向こうを向いてすわっている女王の後ろでは薄鈍でない他のお召し物に姫君をお着かえさせるようにとか女房らが言っていて、だれもが今夜で結婚が成立するもののようにして、こそこそとその用意をするらしいのを、姫君はあさましく思っていた。皆が心を合わせてすれば、狭い山荘の内で隠れている所もないのである。 薫はこんなふうにだれもが騒ぎ立てることを願っていず、そうした者を介在させずにいつから始まったことともなく恋の成立していくのを以前から望んでいたのであって、姫君の心が自分へ傾くことのない間はこのままの関係でよいとも思っているのであるが、老女の弁が自身だけでは足らぬように思って、他の女たちに助力を求めたために、あらわにだれもが私語することになったのである。多少洗練されたところはあっても、もともとあさはかな女であるにすぎぬ弁が、その上老いて頭の働きが鈍くなっているせいでもあろう。不快に思っていた姫君は、弁の出て来た時に、 「お亡れになりました宮様も、珍しい同情をお寄せくださる方だと始終喜んでばかりおいでになりましたし、今になっては何でも皆御親切におすがりするほかもない私たちで、例もないようなお親しみをもって御交際をしてまいりましたが、意外なお望みがまじっていまして、あなた様はお恨みになり、私は失望をいたすことになりました。人間としてはなやかな幸福を得たいと願う身でございましたら、あなた様の御好意に決しておそむきなどはいたされません。しかし、私は昔から現世のことに執着を持たぬ女だものですから、お言いくださいますことはただ苦しいばかりにしか承れないのでございます。それで思いますのは妹のことでございます。むなしくその人に青春を過ぎさせてしまうのが私として忍ばれないことに思われます。この山荘の生活も、あなた様の御好意だけで続けていかれる現状なのですから、父を御追慕してくださいますお志がございましたら、妹を私に代えてお愛しくださいませ。身は身として、心は皆妹のために与えていくつもりでございますとね。この意味をもっとあなたが敷衍して申し上げたらいいでしょう」 と、恥じながらも要領よく姫君は言った。弁は同情を禁じがたく思った。 「あなた様のそういう思召しは私にもわかっているものでございますから、骨を折りまして、そうなりますようにと申し上げるのですが、どうしても自分の心をほかへ移すことはできない、中姫君と自分が結婚をすれば兵部卿の宮様のお恨みも負うことになる、そちらの御縁組が成り立てばまた自分は中姫君に十分のお世話を申し上げるつもりだとおっしゃるのでございます。それもけっこうなお話なのでございますから、お二方ともそうした良縁をお得になりまして、まれな御誠意をもって奥様がたをあの貴公子様がたが御大切にあそばす時のごりっぱさは世間に類のないものになりますでございましょう。失礼な言葉ですが、こんなふうに不十分なお暮らしをあそばすのを拝見しておりますと、どうおなりになるのかと、私どもは不安で、悲しくてなりませんのにお一方様のお心持ちはまだ私はわかっておりませんでございますが、ともかくも最も高いお身分の方でいらっしゃいます。宮様の御遺言どおりにしたいと思召すのはごもっともですが、それは似合わしからぬ人が求婚者として現われてまいらぬかと、その場合を御心配あそばして仰せになりましたことで、中納言様にどちらかの女王様をお娶りになるお心があったなら、そのお一人の縁故で今一人の女王様のことも安心ができてどんなにうれしいだろうと、おりおり私どもへお話しあそばしたことがあるのでございますよ。どんな貴い御身分の方でも親御様にお死に別れになったあとでは、思いも寄らぬつまらぬ人と夫婦になっておしまいになるというような結果を見ますのさえたくさんに例のあることでございまして、それはしかたのないこととして、だれも噂にかけはいたしません。ましてこんな理想的と申しましょうか、作り事ほどに何もかものおそろいになった方で、そして御愛情が深くて、誠心誠意御結婚を望んでおいでになる方がおありになりますのに、しいてそれを冷ややかにお扱いになりまして、御遺言だからと申して、仏の道へおはいりになるようなことをなさいましても、仙人のように雲や霞を召し上がって生きて行くことはできるでございましょうか」 とも能弁に言い続ける老女を憎いように思い、姫君はうつぶしになって泣いていた。中の君もわけはわからぬながら姉君の様子を気の毒に思ってながめていた。そしていっしょに常の夜のように寝室へはいった。 薫が客となって泊まっている今夜であることを姫君は思うと気がかりで、どういう処置を取ろうかと考えられるのであったが、特に四方の戸をしめきってこもっておられるような所もない山荘なのであるから、中の君の上に柔らかな地質の美しい夜着を被け、まだ暑さもまったく去っているという時候でもないのであるから、少し自身は離れて寝についた。 弁は姫君の言ったことを薫に伝えた。どうしてそんなに結婚がいとわしくばかり思われるのであろう、聖僧のようでおありになった父宮の感化がしからしめるのかと、人生の無常さを深く悟っている心は、自分の内にも共通なものが見いだせる薫には、それが感じ悪くは思われない。 「ではもう物越しでお話をし合うことも今夜はしたくないという気におなりになったのだね。最後のこととして今夜だけでいいから御寝室へ私をそっと導いて行ってください」 と中納言は言った。老女はその頼み事をよく運ばせようとして、他の女房たちを皆早く寝させてしまい、計画を知らせてある人たちとともに油断なく時の来るのを待っていた。荒い風が吹き出して簡単な蔀戸などはひしひしと折れそうな音をたてているのに紛れて人が忍び寄る音などは姫君の気づくところとなるまいと女房らは思い、静かに薫を導いて行った。二人の女王の同じ帳台に寝ている点を不安に思ったのであるが、これが毎夜の習慣であったから、今夜だけを別室に一人一人でとは初めから姫君に言いかねたのである。二人のどちらがどれとは薫にわかっているはずであるからと弁は思っていた。 物思いに眠りえない姫君はこのかすかな足音の聞こえて来た時、静かに起きて帳台を出た。それは非常に迅速に行なわれたことであった。無心によく眠入っていた中の君を思うと、胸が鳴って、なんという残酷なことをしようとする自分であろう、起こしていっしょに隠れようかともいったんは躊躇したが、思いながらもそれは実行できずに、慄えながら帳台のほうを見ると、ほのかに灯の光を浴びながら、袿姿で、さも来馴れた所だというようにして、帳の垂れ布を引き上げて薫ははいって行った。非常に妹がかわいそうで、さめて妹はどんな気がすることであろうと悲しみながら、ちょっと壁の面に添って屏風の立てられてあった後ろへ姫君ははいってしまった。ただ抽象的な話として言ってみた時でさえ、自分の考え方を恨めしいふうに言った人であるから、ましてこんなことを謀った自分はうとましい姉だと思われ、憎くさえ思われることであろうと、思い続けるにつけても、だれも頼みになる身内の者を持たない不幸が、この悲しみをさせるのであろうと思われ、あの最後に山の御寺へおいでになった時、父宮をお見送りしたのが今のように思われて、堪えられぬまで父君を恋しく思う姫君であった。 薫は帳台の中に寝ていたのは一人であったことを知って、これは弁の計っておいたことと見てうれしく、心はときめいてくるのであったが、そのうちその人でないことがわかった。よく似てはいたが、美しく可憐な点はこの人がまさっているかと見えた。驚いている顔を見て、この人は何も知らずにいたのであろうと思われるのが哀れであったし、また思ってみれば隠れてしまった恋人も情けなく恨めしかったから、これもまた他の人に渡しがたい愛着は覚えながらも、やはり最初の恋をもり立ててゆく障害になることは行ないたくない。そのようにたやすく相手の変えられる恋であったかとあの人に思われたくない、この人のことはそうなるべき宿命であれば、またその時というものがあろう、その時になれば自分も初めの恋人と違った人とこの人を思わず同じだけに愛することができようという分別のできた薫は、例のように美しくなつかしい話ぶりで、ただ可憐な人と相手を見るだけで語り明かした。 老いた女房はただの話し声だけのする帳台の様子に失敗したことを思い、また一人はすっと出て行ったらしい音も聞いたので、中の君はどこへおいでになったのであろうか、わけのわからぬことであるといろいろな想像をしていた。 「でも何か思いも寄らぬことがあるのでしょうね」 とも言っていた。 「私たちがお顔を拝見すると、こちらの顔の皺までも伸び、若がえりさえできると思うようなりっぱな御風采の中納言様をなぜお避けになるのでしょう。私の思うのには、これは世間でいう魔が姫君に憑いているのですよ」 歯の落ちこぼれた女が無愛嬌な表情でこう言いもする。 「魔ですって、まあいやな、そんなものにどうして憑かれておいでになるものですか。ただあまりに人間離れのした環境に置かれておいでになりましたから、夫婦の道というようなことも上手に説明してあげる人もないし、殿方が近づいておいでになるとむしょうに恐ろしくおなりになるのですよ。そのうち馴れておしまいになれば、お愛しになることもできますよ」 こんなことを言う者もあってしまいには皆いい気になり、どうか都合よくいけばいいと言い言いだれも寝入ってしまった。鼾までもかきだした不行儀な女もあった。恋人のために秋の夜さえも早く明ける気がしたと故人の歌ったような間柄になっている女性といたわけではないが、夜はあっけなく明けた気がして、薫は女王のいずれもが劣らぬ妍麗さの備わったその一人と平淡な話ばかりしたままで別れて行くのを飽き足らぬここちもしたのであった。 「あなたも私を愛してください。冷酷な女王さんをお見習いになってはいけませんよ」 など、またまた機会のあろうことを暗示して出て行った。自分のことでありながら限りない淡泊な行動をとったと、夢のような気も薫はするのであるが、それでもなお無情な人の真の心持ちをもう一度見きわめた上で、次の問題に移るべきであると、不満足な心をなだめながら帰って来た例の客室で横たわっていた。 弁が帳台の所へ来て、 「お見えになりませんが、中姫君はどちらにおいでになるのでございましょう」 と言うのを聞いて、突然なことの身辺に起こって、昨夜の幾時間かを親兄弟でもない男と共にいたという羞恥心から、中の君は黙ってはいたが、どんな事情があの始末をもたらしたのであろうと考えるのであった。昨日語られたことを思い出してみると中の君の恨めしく思われるのは姉君であった。今一人の壁の中の蟋蟀は暁の光に誘われて出て来た。中の君がどう思っているだろうと気の毒で互いにものが言われない。ひどい仕向けである。今からのちもまたどんなことがしいられるかもしれぬ、姉をさえ信じることのできぬのがこの世であるかと中姫君は思いもだえていた。
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