さよ衣着てなれきとは言はずとも恨言ばかりはかけずしもあらじ
これは戯れに威嚇して見せたのである。中の君に対して言われているのであろうが、いずれにもせよ羞恥を感ぜずにはいられないことであったから、返事の書きようもなく姫君の困っている間に、纏頭を辞する意味で使いのおもだった人は帰ってしまった。下の侍の一人を呼びとめて姫君の歌が渡された。
隔てなき心ばかりは通ふとも馴れし袖とはかけじとぞ思ふ
心のかき乱されていたあの夜の名残で、思っただけの平凡な歌より詠まれなかったのであろうと受け取った薫は哀れに思った。 兵部卿の宮はその夜宮中へおいでになったのであるが、新婦の宇治へ行くことが非常な難事にお思われになって、人知れず心を苦しめておいでになる時に、中宮が、 「どんなに言ってもあなたはいつまでも一人でおいでになるものだから、このごろは私の耳にもあなたの浮いた話が少しずつはいってくるようになりましたよ。それはよくないことですよ。風流好きとか、何々趣味の人とか人に違った評判は立てられないほうがいいのですよ。お上もあなたのことを御心配しておいでになります」 と仰せになって、私邸に行っておいでがちな点で御忠告をあそばしたために、兵部卿の宮は時が時であったから苦しくお思いになって、桐壺の宿直所へおいでになり、手紙を書いて宇治へお送りになったあとも、心が落ち着かず吐息をついておいでになるところへ源中納言が来た。宇治がたの人とお思いになるとうれしくて、 「どうしたらいいだろう。こんなに暗くなってしまったのに、出られないので煩悶をしているのですよ」 こうお言いになり、歎かわしそうなふうをお見せになったが、なおよく宮の新婦に対する真心の深さをきわめたく思った薫は、 「しばらくぶりで御所へおいでになりましたあなた様が、今夜宿直をあそばさないですぐお出かけになっては、中宮様はよろしくなく思召すでしょう。先ほど私は、台盤所のほうで中宮様のお言葉を聞いておりまして、私がよろしくないお手引きをいたしましたことでお叱りを受けるのでないかと顔色の変わるのを覚えました」 と申して見た。 「私がひどく悪いようにおっしゃるではないか。たいていのことは人がいいかげんなことを申し上げているからなのだろう。世間から非難をされるようなことは何もしていないではないか。何にせよ窮窟な身の上であることがいけないね。こんな身分でなければと思う」 心の底からそう思召すふうで仰せられるのを見て、お気の毒になった薫は、 「どうせ同じことでございますから、今晩のあなた様の罪は私が被ることにいたしましょう、どんな犠牲もいといません。木幡の山に馬はいかがでございましょう(山城の木幡の里に馬はあれど徒歩よりぞ行く君を思ひかね)いっそうお噂は立つことになりましても」 こう申し上げた。夜はますます暗くなっていくばかりであったから、忍びかねて宮は馬でお出かけになることになった。 「お供にはかえって私のまいらぬほうがよろしゅうございましょう。私は宿直することにいたしまして、あなた様のために何かと都合よくお計らいいたしましょう」 と言って、薫は残ることにした。 薫が中宮の御殿へまいると、 「兵部卿の宮さんはお出かけになったらしい。困った御行跡ね。お上がお聞きになれば必ず私がよく忠告をしてあげないからだとお思いになってお小言をあそばすだろうから困るのよ」 こうお后は仰せになった。多くの宮様が皆大人になっておいでになるのであるが、御母宮はいよいよ若々しいお美しさが増してお見えになるのであった。女一の宮もこんなのでおありになるのであろう、どんな機会によって自分はこれほど一の宮へ接近することができるであろう、お声だけでも聞きうることができようと、幼い日からのあこがれが今またこの人の心を哀れにさせた。好色な人が思うまじき人を思うことになるのも、こうした間柄で、さすがにある程度まで近づくことが許されていて、しかもきびしい隔てがその中に立てられているというような時に、苦しみもし、悶えもするのであろう、自分のように異性への関心の淡いものはないのであるが、それでさえもなお動き始めた心はおさえがたいものなのであるから、などと薫は思っていた。侍女たちは容貌も性情も皆すぐれていて、欠点のある者は少なく、どれにもよいところが備わり、また中には特に目だつほどの人もあるが、恋のあやまちはすまいと決めているから、薫は中宮の御殿に来ていてもまじめにばかりしていた。わざとこの人の目につくようにふるまう人もないのではない。気品を傷つけないようにと上下とも慎み深く暮らす女房たちにも、個性はそれぞれ違ったものであるから、美しい薫への好奇心が、おさえられつつも外へ現われて見える人などに、薫は憐れみも感じ、心の惹かれそうになることがあっても、何事も無常の人世なのであるからと冷静に考えては見ぬふりを続けた。 宇治では薫から大形な使いなどもよこされてあるのに、深更まで宮はお見えにならず、お手紙の使いだけの来たために、これであるから頼もしい方とは思われなかったのであると、姉女王が煩悶していたうちに、夜中近くなって、荒い風の吹き立つ中に、兵部卿の宮は艶なにおいを携えて、美しいお姿をお見せになったのであったから、喜びを覚えないわけもない。新夫人の中の君も前に似ぬ好意をお持ちしたことと思われる。中の君は非常に美しい盛りの容貌を、まして今夜は周囲の人たちによってきれいに粧われていたのであったから、また類もない麗人と思われた。多くの美女を知っておいでになる宮の御目にも欠点をお見いだしになることはなくて、姿も心も接近してますますすぐれたことの明らかになった恋人であると思召すばかりであったから、山荘の老いた女房などは満足したか自身の表情がどんなに醜いかも知らずに、ゆがんだ笑顔をしながら中の君を見て、これほどにもりっぱな方が凡人の妻におなりになったとしたらどんなに残念に思われるであろう、御運よく理想的な良人をお持ちになることができてよかったと言い合い、大姫君が薫の熱心な求婚に応じようとしないのをひそかに非難していた。こうした中年になった人たちが薫から贈られた美しいいろいろな絹で衣装を縫って、それぞれ似合いもせぬ盛装をしている中に一人でも感じのよいと思われる女房はなかった。総角の姫君がこれを見て、自分も盛りの過ぎた女である、このごろ鏡を見ると顔は痩せてばかりゆく、この人たちでも自身では皆相当にきれいであるという自信を持っていて、醜いと認める者はないはずである、頭の後ろの形がどうなっているかも思わずに額髪だけを深く顔に引っかけて化粧をした顔を恥ずかしいとは思わぬらしい。自分はまだあれほどにはなっていず、目も鼻も正しい形をしていると思うのは、わがことであって身勝手な思いなしによるものなのであろうと気恥ずかしいような思いをしながら茫と外をながめつつ寝ていた。すべての整ったりっぱな青年である源中納言の妻になることはいよいよ似合わしからぬことと自分は思われる、もう一、二年すれば衰え方がもっと急速度になることであろう、もともと貧弱な体質の自分なのであるからと、大姫君はほっそりとした手首を袖の外に出しながら人生の悲しみを深く味わっていた。 兵部卿の宮は今夜のお出かけにくかったことをお考えになると、将来も不安におなりになって、今さえそれでお胸がふさがれてしまうようになるのであった。中宮の仰せられた話などをされて、 「変わりない愛を持っていながら来られない日が続いても疑いは持たないでください。仮にもおろそかにあなたを思っているのだったら、こんな苦心を払って今夜なども出て来られるはずはありません。それだのに私の愛を信じることがおできにならないで、煩悶したりされるのが気の毒で、自分のことはどうともなれとまで思って出かけて来たのですよ。始終これが続けられるとも思われませんからね、あなたの住むのに都合のよい所をこしらえて私の近くへ移したく思いますよ」 宮はこれを真心からお言いになるのであったが、間の途絶えるであろうことを今からお言いになるのは、名高い多情な生活から、恨ませまいための予防の線をお張りになるのであろうと、心細さに馴らされた女王は前途をも悲観せずにはおられなかった。夜明けに近い空模様を、横の妻戸を押しあけて宮は女王も誘って出ておながめになるのであった。霧が深く立って特色のある宇治の寂しい景色の作られている中を、例の柴船のかすかに動いて通って行くあとには、白い波が筋をなして漂っていた。珍しい景をかたわらにした家であると風流心におもしろく宮は思召した。東の山の上からほのめいてきた暁の微光に見る中の君の容姿は整いきった美しさで、最上の所にかしずかれた内親王もこれにまさるまいとお思われになった。現在の帝の皇子であるからという気持ちで自分のほうの思い上がっているのは誤りである、この人の持つよさを今以上によく見もし、知りもしたいと思召す心がいっぱいになり、その人を少し見ることがおできになってかえってより多くがお望まれになった。河音はうれしい響きではなかったし、宇治橋のただ古くて長いのが限界を去らずにあったりして、霧の晴れていった時には、荒涼たる感じの与えられる岸のあたりも悲しみになった。 「どうしてこんな土地に長い間いることができたのですか」 とお言いになり、宮の涙ぐんでおいでになるのを見て、女王は恥ずかしい気がした。そして今よく見る宮のお姿はきわめて艶であった。この世かぎりでない契りをおささやきになるのを聞いていて、思いがけず結ばれた人とはいえ、かえってあの冷静なふうの中納言を良人にしたよりはこの運命のほうが気安いと女王は思っているのであった。あの人の熱愛している人は自分でなくもあったし、澄みきったような心の様子に現われて見える点でも親しまれないところがあった、しかもこの宮をそのころの自分はどう思っていたであろう、まして遠い遠い所の存在としていた。短いお手紙に返事をすることすら恥ずかしかった方であるのに、今の心はそうでない、久しくおいでにならぬことがあれば心細いであろうと思われるのも、われながら怪しく恥ずかしい変わりようであると中の君は心で思った。お供の人たちが次々に促しの声を立てるのを聞いておいでになって、京へはいって人目を引くように明るくならぬようにと、宮はおいでになろうとする際も御自身の意志でない通い路の途絶えによって、思い乱れることのないようにとかえすがえすもお言いになった。
中絶えんものならなくに橋姫の片敷く袖や夜半に濡らさん
帰ろうとしてまた躊躇をあそばされた宮がこの歌をささやかれたのである。
絶えせじのわが頼みにや宇治橋のはるけき中を待ち渡るべき
などとだけ言い、言葉は少ないながらも女王の様子に別れの悲しみの見えるのをお知りになり、たぐいもない愛情を宮は覚えておいでになった。 若い女性の心に感動を与えぬはずのない宮の御朝姿を見送って、あとに残ったにおいなどの身にしむ人にいつか女王はなっていた。お立ちのおそかった今朝になってはじめて女房たちは宮をおのぞき見した。 「中納言様はなつかしい御気品のよさに特別なところがおありになります。今一段上の御身分という思いなしからでしょうか、はなやかな御美貌は何と申し上げようもないくらいにお見えになりましたね」 こんなことを言ってほめそやした。 京への道すがら、別れにめいったふうを見せた女王をお思い出しになって、このままもう一度山荘へ引き返したいと、御自身ながら見苦しく思召すまで恋しくお思われになるのであったが、世間の取り沙汰を恐れてお帰りになって以来、容易にお通いになれずお手紙だけを日ごとに幾通もお送りになった。誠意がないのではおありになるまいと思いながらもお途絶えの日が積もっていくことで、姉の女王は思い悩んで、こんな結果を見て苦労をすることがないようにと願っていたものを、自身が当事者である以上に苦しいことであると歎かれるのであったが、これを表面に見せてはいっそう中の君が気をめいらせることになろうと思う心から、気にせぬふうを装いながらも、自分だけでも結婚しての苦を味わうまいといよいよ薫の望むことに心の離れていく大姫君であった。 薫も兵部卿の宮の宇治へおいでになれない事情を知っていて、山荘の女王が待ち遠しく思うことであろうと、自身の責任であるように思い、宮にそれとなくお促しもし、宮の御近状にも注意を怠らなかったが、宮が宇治の女王に愛情を傾倒しておいでになることは明らかになったために、今の状態はこうでも不安がることはないと中の君のために胸をなでおろす思いをした。 九月の十日で、野山の秋の色がだれにも思いやられる時である、空は暗い時雨をこぼし、恐ろしい気のする雲の出ている夕べであった、宮は平生以上に宇治の人がお思われになって、何が起ころうとも行ってみようか、どうしたものかとお一人では決断がおできにならないで迷っておいでになるところへ、そのお思いを想像することのできた薫がお訪ねして来た。 「山里のほうはどうでしょう」 中納言の言ったことはこれであった。お喜びになって、 「では今からいっしょに出かけよう」 とお言いになったため、匂宮のお車に薫中納言は御同車して京を出た。山路へかかってくるにしたがって、山荘で物思いをしている恋人を多く哀れにお思いになる宮でおありになった。同車の人へもその点で御自身も苦しんでおいでになることばかりをお話しになった。行く秋の黄昏時の心細さの覚えられる路へ、冷たい雨が降りそそいでいた。衣服を湿らせてしまったために、高い香はまして一つになって散り広がるのが艶で、村人たちは高華な夢に行き逢ったように思った。 毎日毎日婿君の情の薄さをかこっていた山荘の女房たちは、悦びを胸に満たせてお席を作ったりなどしていた。京のあちらこちらへ女房勤めに出ている娘とか姪とかをにわかに手もとへ呼び寄せて、中の君のそば仕えをさせることにした女房も二、三人あったのである。今まで軽蔑をしていた浮薄な人たちにとって、尊貴な婿君の出現は驚異に価することであった。 大姫君はこの寂しい夜を訪ねたもうた宮をうれしく思うのであったが、少し迷惑な人が添って来たと薫を思わないでもないものの、慎重な、思いやりのある態度を恋にも忘れずにいてくれた人とその人を思う時、匂宮の御行為はそうでなかったと比較がされ感謝の念は禁じられなかった。中の君の婿君として宮に山荘相当な御饗応を申し上げて、薫は主人がたの人として気安く扱いながらも、客室の座敷に据えられただけであるのを恨めしくその人は思っていた。さすがに気の毒に思われて姫君は物越しで話すことにした。自分の心の弱さからつまずいて、またも初めに恋は返されたではないか、こんな状態を続けていくことはもう自分には不可能であると思い、薫は言葉を尽くして恋人に恨みを告げようとした。ようやくこの人の尊敬すべき気持ちも悟った姫君であるが、中の君が結婚をしたために物思いに沈むことの多くなったことによって、いっそう恋愛というものをいとわしいものに思い込むようになり、これ以上の接近は許すまい、清い愛を今では感じている相手であるが、この人を恨むことが結婚すれば生じるに違いない、自身もこの人も変わらぬ友情を続けていきたいとこう深く心に決めているためであった。宮についての話になって、薫のほうから中の君の様子などを聞くと、少しずつ近ごろのことで、薫の想像していたようなことも姫君は語った。薫は気の毒になり、宮が深い愛着をお持ちになること、自分が探って知っている御自由のない近ごろの憂鬱なお日送りなどを話していた。姫君は平生より機嫌よく話したあとで、 「こんなふうな、新たな心配にとらわれておりますことも終わりまして、気の静まりましたころにまたよくお話を伺いましょう」 と言った。反感を起こさせるような冷淡さはなくて、しかも襖子は堅く閉ざされてあった。しいてその隔てを取り除こうとするのは甚だしく同情のないふるまいであると姫君の思っているのを知っている薫は、この人に考えがあることであろう、軽々しく他人の妻になってしまうようなことはないと信じられる人であるからと、いつもゆとりのある心のこの人は、恋に心を焦しながらもそれをおさえることはできた。 「あなたの御意志はどこまでも尊重しますが、こうして物越しでお話ししていることの不満足感を救ってだけはください。先日のように近くへまいってお話をさせていただきたいのです」 と責めてみたが、 「このごろの私は平生よりも衰えていましてね、顔を御覧になって不愉快におなりになりはしないかと、どうしたのでしょう、そんなことの気になる心もあるのですよ」 と言い、ほのかに総角の姫君の笑った気配などに怪しいほどの魅力のあるのを薫は感じた。 「そんなつきも離れもせぬお心に引きずられてまいって、私はしまいにどうなるのでしょう」 こんなことを言い、男は歎息をしがちに夜を明かした。 兵部卿の宮は、薫が今も一人臥をするにすぎない宇治の夜とは想像もされないで、 「中納言が主人がたぶって、寝室に長くいるのが恨めしい」 とお言いになるのを、不思議な言葉のように中の君はお聞きしていた。 無理をしておいでになっても、すぐにまたお帰りにならねばならぬ苦しさに宮も深い悲しみを覚えておいでになった。こうしたお心を知らない中の君は、どうなってしまうことか、世間の物笑いになることかと歎いているのであるから、恋愛というものはして苦しむほかのないことであると思われた。京でも多情な名は取っておいでになりながら、ひそかに通ってお行きになる所とてはさすがにない宮でおありになった。六条院では左大臣が同じ邸内に住んでいて、匂宮の夫人に擬している六の君に何の興味もお持ちにならぬ宮をうらめしいようにも思っているらしかった。好色男的な生活をしていられるといって、容赦なく宮のことを御非難して帝にまでも不満な気持ちをお洩らし申し上げるふうであったから、八の宮の姫君という、だれにも意外な感を与える人を夫人としてお迎えになることにはばかられるところが多かった。軽い恋愛相手にしておいでになる女性は、宮仕えの体裁で二条の院なり、六条院なりへお入れになることも自由にお計らいになることができて、かえってお気楽であった。そうした並み並みの情人とは少しも思っておいでにならないのであって、もし世の中が移り、帝と后のかねての御希望が実現される日になれば、だれよりも高い位置にこの人をすえたいと思うのであるからと、現在の宮のお心は宇治の中の君に傾き尽くされていて、その人をいかにして幸福ならしめ常に相見る方法をいかにして得ようかとばかり考えておいでになった。中納言は火災後再築している三条の宮のでき上がり次第によい方法を講じて大姫君を迎えようと考えていた。やはり人臣の列にある人は気楽だといってよい。 これほど愛しておいでになりながら、結婚を秘密のことにしておありになるために、宮にも中の君にも煩悶の絶えないらしいことが気の毒で、このお二人の関係を自分から中宮に申し上げて御了解を得ることにしたい。当座はお騒がれになって、めんどうな目に宮はおあいになるかもしれぬが、中の君のほうのためを思えば、それは一時的なことであって、直接苦痛になることもあるまい、こんなふうに夜も明かし果てずに帰ってお行きになる宮のお気持ちのつらさはさぞとお察しができて心苦しい、結婚が公然に認められるようになれば、中の君に十分な物質的援助をして、宮の夫人たるに恥のない扱いを兄代わりになってしてみたい、とこう思うようになった薫は、しいて内密事とはせずに、このごろも冬の衣がえの季節になっているが、自分のほかにだれがその仕度に力を貸すものがあろうと思いやって、御帳の懸け絹、壁代などというものは、三条の宮の新築されて移転する準備に作らせてあったから、それらを間に合わせに使用されたいというふうに伝えて宇治へ送った。またいろいろな山荘の女房たちの着用するものも自身の乳母などに命じて公然にも製作させた薫であった。 十月の一日ごろは網代の漁も始まっていて、宇治へ遊ぶのに最も興味の多い時であることを申して中納言が宮をお誘いしたために、兵部卿の宮は紅葉見の宇治行きをお思い立ちになった。宮にお付きしていて親しく思召される役人のほかに殿上役人の中で特に宮のお愛しになる人たちだけを数にして微行のお遊びのつもりであったのであるが、大きな勢いを負っておいでになる宮でおありになったから、いつとなくたいそうな催しになっていき、予定の人数のほかに左大臣家の宰相中将がお供申し上げた。高官としては源中納言だけが随いたてまつった。殿上役人の数は多かった。 必ず女王たちの山荘へお寄りになることを信じている薫から、
宮のお供をして相当な数の客が来ることを考えてお置きください。先年の春のお遊びに私と伺った人たちもまた参邸を望んで、不意にお訪ねしようとするかもしれません。
などとこまごま注意をしてきたために、御簾を掛け変えさせ、あちこちの座敷の掃除をさせ、庭の岩蔭にたまった紅葉の朽ち葉を見苦しくない程度に払わせ、小流れの水草をかき取らせなど女王はさせた。薫のほうからは菓子のよいのなども持たせて来、また接待役に出す若い人たちも来させてあった。こんなにもする薫の世話を平気で受けていることは気づらいことに姫君は思っていたが、たよるところはほかにないのであるから、こうした因縁と思いあきらめて好意を受けることにし、兵部卿の宮をお迎えする用意をととのえた。 遊びの一行は船で河を上り下りしながらおもしろい音楽を奏する声も山荘へよく聞こえた。目にも見えないことではなかった。若い女房らは河に面した座敷のほうから皆のぞいていた。宮がどこにおいでになるのかはよくわからないのであるが、それらしく紅葉の枝の厚く屋形に葺いた船があって、よい吹奏楽はそこから水の上へ流れていた。河風がはなやかに誘っているのである。だれもが敬愛しておかしずきしていることはこうした微行のお遊びの際にもいかめしくうかがわれる宮を、年に一度の歓会しかない七夕の彦星に似たまれな訪れよりも待ちえられないにしても、婿君と見ることは幸福に違いないと思われた。 宮は詩をお作りになる思召しで文章博士などを随えておいでになるのである。夕方に船は皆岸へ寄せられて、奏楽は続いて行なわれたが、船中で詩の筵は開かれたのであった。音楽をする人は紅葉の小枝の濃いの淡いのを冠に挿して海仙楽の合奏を始めた。だれもだれも楽しんでいる中で、宮だけは「いかなれば近江の海ぞかかるてふ人をみるめの絶えてなければ」という歌の気持ちを覚えておいでになって、遠方人の心(七夕のあまのと渡るこよひさへ遠方人のつれなかるらん)はどうであろうとお思いになり、ただ一人茫然としておいでになるのであった。おりに合った題が出されて、詩の人は創作をするのに興奮していた。船中の人の動きの少し静まっていくころを待って山荘へ行こうと薫も思い、そのことを宮へお耳打ちしていたうちに、御所から中宮のお言葉を受けて宰相の兄の衛門督がはなばなしく随身を引き連れ、正装姿でお使いにまいった。こうした御遊行はひそかになされたことであっても、自然に世間へ噂に伝わり、あとの例にもなることであるのに、重々しい高官の御随行のわずかなままでお出かけになったことがお耳にはいって、衛門督が派遣され、ほかにも殿上役人を多く伴わせて御一行に加えられたのである。こんなためにもまた騒がしくなって、思う人を持つお二人は目的の所へ行かれぬ悲哀が苦痛にまでなって、どんなこともおもしろくは思われなくなった。宮のお心などは知らずに酔い乱れて、だれも音楽などに夢中になった姿で夜を明かした。それでも次の日になればという期待を宮は持っておいでになったが、また朝になってから中宮大夫とまた多くの殿上役人が来た。宮は落ちいぬ心になっておいでになって、このまま帰る気などにはおなりになれなかった。 山荘の中の君の所へはお文が送られた。風流なことなどは言っておいでになる余裕がお心になく、ただまじめにこまごまとお心持ちをお伝えになったものであったが、人が多く侍している際であるからと思って女王は返事をしてこなかった。自身のような哀れな身の上の者が愛人となっているのに、不釣合いな方であると女は深く思ったに違いない。遠い道が間にある時は相見る日のまれなのも道理なことに思われ、こんな状態に置かれていても忘られてはいないのであろうとみずから慰めることもできた中の君であったが、近い所に来て派手なお遊びぶりを見せられただけで、立ち寄ろうとされない宮をお恨めしく思い、くちおしくも思って悶えずにはいられなかった。 宮はまして憂鬱な気持ちにおなりになって、恋しい人に逢われぬ不愉快さをどうしようもなく思召された。網代の氷魚の漁もことに多くて、きれいないろいろの紅葉にそれを混ぜて幾つとなく籠にしつらえるのに侍などは興じていた。上下とも遊山の喜びに浸っている時に、宮だけは悲しみに胸を満たせて空のほうばかりを見ておいでになった。そうするとお目につくのは女王の山荘の木立ちであった。大木の常磐木へおもしろくかかった蔦紅葉の色さえも高雅さの現われのように見え、遠くからはすごくさえ思われる一構えがそれであるのを、中納言も船にながめて、自分がたいそうに前触れをしておいたことがかえって物思いを深くさせる結果を見ることになったかと歎かわしく思った。 一昨年の春薫に伴われて八の宮の山荘をお訪ねした公達は、その時の川べの桜を思い出して、父宮を失われた女王たちがなおそこにおられることはどんなに心細いことであろうと同情し合っていた。一人を兵部卿の宮が隠れた愛人にしておいでになるという噂を聞いている人もあったであろうと思われる。事情を知らぬ人も多いのであるから、ただ孤女になられた女王のことを、こうした山里に隠れていても、若い麗人のことは自然に世間が知っているものであるから、 「非常な美人だということですよ。十三絃の琴の名手だそうです。故人の宮様がそのほうの教育をよくされておいたために」 などと口々に言っていた。宰相の中将が、
いつぞやも花の盛りに一目見し木の下さへや秋はさびしき
八の宮に縁故の深い人であるからと思って薫にこう言った。その人、
桜こそ思ひ知らすれ咲きにほふ花も紅葉も常ならぬ世に
衛門督、
いづこより秋は行きけん山里の紅葉の蔭は過ぎうきものを
中宮大夫、
見し人もなき山里の岩がきに心長くも這へる葛かな
だれよりも老人であるから泣いていた。八の宮がお若かったころのことを思い出しているのであろう。兵部卿の宮が、
秋はてて寂しさまさる木の本を吹きな過ぐしそ嶺の松風
とお歌いになって、ひどく悲しそうに涙ぐんでおいでになるのを見て、秘密を知っている人は、評判どおりに宮はその人を深く愛しておいでになるらしい、こんな機会にさえそこへおいでになることがおできにならないのはお気の毒であると思っているのであるが、そうした人たちだけをつれて山荘へおはいりになることも御実行のできないことであった。人々の作った詩のおもしろい一節などを皆口ずさんだりしていて、歌のほうも平生とは違った旅のことであるから相当に多くできていたが、酒酔いをした頭から出たものであるから、少しを採録したところで、佳作はなくつまらぬから省く。 山荘では宮の一行が宇治を立って行かれた気配を相当に遠ざかるまで聞こえた前駆の声で知り、うれしい気持ちはしなかった。御歓待の仕度をしていた人たちは皆はなはだしく失望をした。大姫君はましてこの感を深く覚えているのであった。やはり噂されるように多情でわがままな恋の生活を事とされる宮様らしい、よそながら恋愛談を人のするのを聞いていると、男というものは女に向かって嘘を上手に言うものであるらしい、愛していない人を愛しているふうに巧みな言葉を使うものであると、自分の家にいるつまらぬ女たちが身の上話にしているのを聞いていた時は、身分のない人たちの中にだけはそうしたふまじめな男もあるのであろう、貴族として立っている人は、世間の批評もはばかって慎むところもあるのであろうと思っていたのは、自分の認識が足りなかったのである、多情な方のように父宮も聞いておいでになって、交際はおさせになったがこの家の婿になどとはお考えにならなかったものらしかったのに、不思議なほど熱心に求婚され、すでにもう縁は結ばれてしまい、それによっていっそう自分までが心の苦労を多くし不幸さを加えることになったのは歎かわしいことである。接近して愛の薄くおなりになった宮のお相手の妹を、中納言は軽蔑して考えないであろうか、りっぱな女房がいるのではないが、それでもその人たちがどう思うかも恥ずかしい。人笑われな運命になったと煩悶することによって姉女王は健康をさえもそこねるようになった。当の中の君はたまさかにしかお逢いしない良人であるが、熱情的な愛をささやかれていて、今眼前にどんなことがあろうともお心のまったく変わるようなことはあるまい、常においでになることのできないのも余儀ない障りがあるからに相違ないとたのむところもあるのであった。ここしばらくおいでにならなかったのであるから切なく思わぬはずもないのに、近くへお姿をお現わしになっただけで行っておしまいになったことでは恨めしく残念な思いをして気をめいらせているのが、総角の姫君には堪えられぬほど哀れに見えた。世間並みの姫君らしい宮殿にかしずかれていたならば、この邸がこんな貧弱なものでなければ宮は素通りをなされなかったはずであるのにと思われるのである。自分もまだ生きているとすれば、こうした目にあわされるであろう、中納言がいろいろな言葉で清い恋を求めるというのも、自分をためそうとする心だけであって、自分一人は友情以上に出まいとしていても、あの人の本心がそれでないのでは行くところは知れきったことで、自分のしりぞけるのにも力の限度がある、家にいる女たちは媒介役の失敗に懲りもせず、今もどうかして中納言を自分の良人にさせたいと望まない者もないのであるから、自分の気持ちは尊重されず、結果としては自分があの人の妻にされてしまうことになるのであろう、これが取りも直さず父君が、みずからをよく護っていくようにと仰せられたことに違いない、不幸な自分たちは母君をも早く失い、父宮にもお別れしてしまったが、薄命な者であるからどうなってもよいと自身を軽く扱って、見苦しい捨てられた妻というものになり、お亡くなりになったあとの父君のお心までをお悩ましさせることになるのは悲しい。自分一人だけでもそうした物思いに沈まないで済む処女を保ったままで病死をしてしまいたいと、こんなことを明け暮れ思い続ける大姫君は、心細い死の予感をさえ覚えて、中の君を見ても哀れで、自分にまで死に別れたあとではいっそう慰みどころのない人になるであろう、美しいこの人をながめることが自分の唯一の慰安で、どうかして幸福な女にさせたいとばかり願っていた、どんなに高貴な方を良人に持ったといっても、今度のような侮辱を受けながらなお尼にもならず妻として孤閨を守っていくことは例もないほど恥ずかしいことに違いないと、それからそれへと思い続けていく大姫君は、自分ら姉妹は現世で少しの慰めも得られないままで終わる運命を持つものらしいと心細くなるのであった。 兵部卿の宮は御帰京になったあとでまたすぐに微行で宇治へお行きになろうとしたのであったが、 「兵部卿の宮様は宇治の八の宮の姫君とひそかな関係を結んでおいでになりまして、突然に時々近郊の御旅行と申すようなことをお思い立ちになるのでございます。御軽率すぎることだと世間でもよろしくはお噂いたしません」
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