姫宮はあの事件があってから煩悶を続けておいでになるうちに、お身体が常態でなくなって行った。御病気のようにお見えになるが、それほどたいしたことではないのである。六月になってからはお食慾が減退してお顔色も悪くおやつれが見えるようになった。衛門督は思いあまる時々に夢のように忍んで来た。宮のお心には今も愛情が生じているのではおありにならないのである。罪をお恐れになるばかりでなく、風采も地位もそれはこれに匹敵する価値のない人であることはむろんであったし、気どって風流男がる表面を見て、一般人からは好もしい美男という評判は受けていても、少女時代から光源氏を良人に与えられておいでになった宮が、比較して御覧になっては、それほど価値に思われる顔でもないのであるから、無礼者であるという御意識以外の何ものもない相手のために、妊娠をあそばされたというのはお気の毒な宿命である。気のついた乳母たちは、 「たまにしかおいでにならないで、そしてまたこんなふうに重荷を宮様へお負わせになる」 と院をお恨みしていた。寝んでおいでになることをお知りになって、院は訪ねようとあそばされた。 夫人は暑い時分を清くしていたいと思い、髪を洗ってやや爽快なふうになっていた。そしてそのまままた横になっていたのであるから、早くかわかず、まだぬれている髪は少しのもつれもなく清らかにゆらゆらと、病む麗人に添っていた。青みを帯びた白い顔は美しくてすきとおるような皮膚つきである。虫のもぬけのようにたよりない。しかも長く捨てて置かれた二条の院は女王の美の輝きで狭げにさえ見えた。昨日今日になって人ごこちが夫人に帰ってきたことによって院内が活気づいてにわかに流れも木草も繕われだした。そうした庭をながめても、それが夏の終わりの景色であるのに病臥していた間の月日の長さが思われた。池は涼しそうで蓮の花が多く咲き、蓮葉は青々として露がきらきら玉のように光っているのを、院が、 「あれを御覧なさい。自分だけが爽快がっている露のようじゃありませんか」 とお言いになるので、夫人は起き上がって、さらに庭を見た。こんな姿を見ることが珍しくて、 「こうしてあなたを見ることのできるのは夢のようだ。悲しくて私自身さえも今死ぬかと思われた時が何度となくあったのだから」 と、院が目に涙を浮かべてお言いになるのを聞くと、夫人も身にしむように思われて、
消え留まるほどやは経べきたまさかに蓮の露のかかるばかりを
と言った。
契りおかんこの世ならでも蓮の葉に玉ゐる露の心隔つな
これは院のお歌である。六条院へはお気が進まないのであるが、宮中の聞こえと法皇への御同情から、宮の床についておられる知らせを受けていながら、いっしょに住むほうの妻の大病の気づかわしさから訪ねて行くこともあまりしなかったのであるから、女王の病のこんなふうに少しよい間にしばらくあちらの家へ行っていようという心におなりになって院はお出かけになった。 宮は心の鬼に院の前へ出ておいでになることが恥ずかしく晴れがましくて、ものをお言いになる返辞もよくされないのを長い絶え間にこの子供らしい人もさすがに恨んでいるのであろうと院は心苦しくお思いになり、慰めることにかかっておいでになった。お世話役の女房をお呼び出しになり、宮の御不快の経過などを院がお聞きになると、それは妊娠の徴候があってのことであるという答えをした。 「今になって全く珍しいことが起こってきたね」 とだけ院はお言いになったが、お心の中では長くそばにいる人たちの中にもそうしたことはないのであるから、不祥なことがこちらで起こっているのではないかというような疑いをお覚えになりながら、それをくわしく聞こうとはされないで、ただ悪阻に悩む人の若い可憐な姿に愛を覚えておいでになった。やっと思い立っておいでになったのであるから、すぐにお帰りになることもできず、二、三日おいでになる間にも、二条の院の女王の容体ばかりがお気づかわれになって、そのほうへ手紙ばかりを書き送っておいでになった。 「あんなにもしばらくの間にお言いになる感情がたまるのですかね。宮様をとうとうお気の毒な方様とお見上げする時が来ましたよ」 などと宮の御過失などは知らぬ人たちが言う。秘密に携わっている小侍従は院の御滞留の間を無事に過ごしうるかと胸をとどろかせていた。 衛門督は院が六条のほうへ来ておいでになることを聞くと、だいそれた嫉妬を起こして、自己の恋のはげしさをさらに書き送る気になって手紙をよこした。院が暫時対のほうへ行っておいでになる時で、だれも宮のお居間にいない様子を見て、小侍従はそれを宮にお見せした。 「いやなものを読めというのね。私はまた気分が悪くなってきているのに」 こう言って、宮はそのまま横におなりになった。 「この端書きがあまりに身にしむ文章なんでございますもの」 小侍従は衛門督の手紙を拡げた。ほかの女房たちが近づいて来た気配を聞いて、手でお几帳を宮のおそばへ引き寄せて小侍従は去った。宮のお胸がいっそうとどろいている所へ院までも帰っておいでになったために、手紙をよくお隠しになる間がなくて、敷き物の下へはさんでお置きになった。二条の院へ今夜になれば行こうと院はお思いになり、そのことを宮へお言いになるのであった。 「あなたはたいしたことがないようですから、あちらはまだあまりにたよりないようなのを見捨てておくように思われても、今さらかわいそうですから、また見に行ってやろうと思います。中傷する者があっても、あなたは私を信じておいでなさいよ。また忠実な良人になる日が必ずありますよ」 これまではこんな時にも、子供めいた冗談などをお言いになって、朗らかにしている方なのであったが、非常にめいっておしまいになり、院のほうへ顔を向けようともされないのを、内にいだく嫉妬の影がさしているとばかり院はお思いになった。昼の座敷でしばらくお寝入りになったかと思うと、蜩の啼く声でお目がさめてしまった。 「ではあまり暗くならぬうちに出かけよう」 と言いながら院がお召しかえをしておいでになると、 「『月待ちて』(夕暮れは道たどたどし月待ちて云々)とも言いますのに」 若々しいふうで宮がこうお言いになるのが憎く思われるはずもない。せめて月が出るころまででもいてほしいとお思いになるのかと心苦しくて、院はそのまま仕度をおやめになった。
夕露に袖濡らせとやひぐらしの鳴くを聞きつつ起きて行くらん
幼稚なお心の実感をそのままな歌もおかわいくて、院は膝をおかがめになって、 「苦しい私だ」 と歎息をあそばされた。
待つ里もいかが聞くらんかたがたに心騒がすひぐらしの声
などと躊躇をあそばしながら、無情だと思われることが心苦しくてなお一泊してお行きになることにあそばされた。さすがにお心は落ち着かずに、物思いの起こる御様子で晩饗はお取りにならずに菓子だけを召し上がった。 まだ朝涼の間に帰ろうとして院は早くお起きになった。 「昨日の扇をどこかへ失ってしまって、代わりのこれは風がぬるくていけない」 とお言いになりながら、昨日のうたた寝に扇をお置きになった場所へ行ってごらんになったが、立ち止まって目をお配りになると、敷き物のある一所の端が少し縒れたようになっている下から、薄緑の薄様の紙に書いた手紙の巻いたのがのぞいていた。何心なく引き出して御覧になると、それは男の手で書かれたものであった。紙の匂いなどの艶な感じのするもので、骨を折った巧妙な字で書かれてあった。二重ねにこまごまと書いたのをよく御覧になると、それは紛れもない衛門督の手跡であった。院のお座の所で鏡をあけてお見せしている女房は御自分の御用の手紙を見ておいでになるものと思っていたが、小侍従[#「小侍従」は底本では「小待従」]がそれを見た時、手紙が昨日の色であることに気がついた。胸がぶつぶつと鳴り出した。粥などを召し上がる院のほうを小侍従はもう見ることもできなかった。まさかそうではあるまい、そんな運命の悪戯が不意に行なわれてよいものか、宮はお隠しになったはずであると小侍従は努めて思おうとしている。宮は何もお知りにならずになお眠っておいでになるのである。こんな物を取り散らしておいて、それを自分でない他人が発見すればどうなることであろうとお思いになると、その人が軽蔑されて、これであるから始終自分はあぶながっていたのである。あさはかな性格はついに堕落を招くに至ったのであると院は解釈された。 お帰りになったので、女房たちがあらかた宮のお居間から去った時に、小侍従が来て、 「昨日の物はどうなさいました。今朝院が読んでいらっしゃいましたお手紙の色がよく似ておりましたが」 と宮へ申し上げた。はっとお思いになって宮はただ涙だけが流れに流れる御様子である。おかわいそうではあるがふがいない方であると小侍従は見ていた。 「どこへお置きになったのでございますか。あの時だれかが参ったものですから、秘密がありそうに思われますまいと、それほどのことは何でもなかったのですが、よいことをしておりませんと心がとがめまして、私は退いて行ったのでございますが、院がお座敷へお帰りになりましたまでにはちょっと時間があったのでございますもの、お隠しあそばしたろうと安心をしておりました」 「それはね、私が読んでいた時にはいっていらっしゃったものだから、どこへしまうこともできずに下へはさんでおいたのをそのまま忘れたの」 こう伺った小侍従は、この場合の気持ちをどう表現すればよいかも知らなかった。そこへ行って見たが手紙のあるはずもない。 「たいへんでございますね。あちらも非常に恐れておいでになりまして、毛筋ほどでも院のお耳にはいることがあったら申し訳がないと言っておいでになりましたのに、すぐもうこんなことができたではございませんか。全体御幼稚で、男性に対して何の警戒もあそばさなかったものですから、長い年月をかけた恋とは申しながら、こうまで進んだ関係になろうとはあちらも考えておいでにならなかったことでございますよ。だれのためにもお気の毒なことをなさいましたね」 と無遠慮に小侍従は言う。お若い御主人を気安く思って礼儀なしになっているのであろう。宮はお返辞もあそばさないで泣き入っておいでになった。御気分がお悪いばかりのようでなく、少しも物を召し上がらないのを見て、 「こんなにもお苦しそうでいらっしゃるのに、それを捨ててお置きになって、もうすっかり快くなっておいでになる奥様の御介抱を一所懸命になさらなければならないとはね」 と乳母たちは恨めしがった。 院はお帰りになってから、まだ不審のお晴れにもならぬ今朝の手紙をよく調べて御覧になった。女房のうちであの中納言に似た字を書く女があるのではないかという疑いさえお持ちになったのであるが、言葉づかいは明らかに男性であって、他の者の書くはずのないことが内容になってもいた。昔からの恋がようやく遂げられたのではあるが、なお苦しい思いに悩み続けていることが、文学的に見ておもしろく書かれてあって、同情は惹くが、こんな関係で書きかわす手紙には人目に触れた時の用意がかねてなければならぬはずで、露骨に一目瞭然に秘密を人が悟るようなことはすべきでないものをと、院はお思いになり、りっぱな男ではあるが、こうした関係の女への手紙の書き方を知らない、落ち散ることも思って、昔の日の自分はこれに類する場合も文章は簡単にして書き紛らしたものであるが、そこまでの細心な注意はできないものらしいと、衛門督を軽蔑あそばされるのであった。それにしても宮を今後どうお扱いすればよいであろうか、妊娠もそうした不純な恋の結果だったのである。情けないことである。人から言われたことでもなく、直接に証拠も見ながら、以前どおりにあの人を愛することは、自分のことながら不可能らしい。一時的の情人として初めから重くなどは思っていない相手さえ、ほかの愛人を持っていることを知っては不愉快でならぬものであるが、これはそうした相手でもない自分の妻である。無礼な男である。お上の後宮と恋の過失に陥る者は昔からあったが、それとこれとは問題が違う。宮仕えは男女とも一人の君主にお仕えするのであって、同輩と見る心から友情が恋となって不始末を起こす結果も作られるのである。女御や更衣といってもよい人格の人ばかりがいるわけではないから、浮き名を流す者はあっても、破綻を見せない間は宮仕えを辞しもせずしていて、批難すべきことも起こったであろうが、自分の宮に対する態度は第一の妻としてのみ待遇してきたではないか、心ではより多く愛する人をもさしおいて、最大級の愛撫を加えていた自分を裏切っておしまいになるようなことと、そんなことは同日に論ずべきでない、これは罪深いことではないかと反感のお起こりになる院でおありになった。侍している君主のほうでもただ一通りの後宮の女性と御覧になるだけで、御愛情に接することもないような不幸な人に、異性の持つ友情が恋愛にも進んでゆけば、あるまじいこととは知りながらも、苦しむ男に一言の慰めくらいは書き送ることになり、相互の間に恋愛が成長してしまう結果を見るような間柄で犯す罪には十分同情してよい点もあるが、自分のことながらも、あの男くらいに比べて思い劣りされるほどの無価値な者でないと思うがと、院は宮を飽き足らずお思いになるのであったが、またこの問題はほかへ知らせてはならぬと思うことで御煩悶もされた。父帝もこんなふうに自分の犯した罪を知っておいでになって知らず顔をお作りになったのではなかろうか、考えてみれば恐ろしい自分の過失であったと、御自身の過去が念頭に浮かんできた時、恋愛問題で人を批難することは自分にできないのであると思召された。 素知らぬふりはしておいでになるが、物思わしいふうは他からもうかがわれて、夫人は危い命を取りとめた自分をお憐みになる心から、こちらへはお帰りになったものの、六条院の宮をお思いになると心苦しくてならぬ煩悶がお起こりになるのであろうと解釈していた。 「私はもう恢復してしまったのでございますのに、宮様のお加減のお悪い時にお帰りになってお気の毒でございます」 「そう。少し悪い御様子だけれど、たいしたことでないのだから安心して帰って来たのですよ。宮中からはたびたび御使いがあったそうだ。今日もお手紙をいただいたとかいうことです。法皇の特別なお頼みを受けておられるので、お上もそんなにまで御関心をお持ちになるのですね。私が冷淡であればあちらへもこちらへも御心配をかけて済まない」 院が歎息をされると、 「宮中への御遠慮よりも、宮様御自身が恨めしくお思いになるほうがあなたの御苦痛でしょう。宮様はそれほどでなくてもおそばの者が必ずいろいろなことを言うでしょうから、私の立場が苦しゅうございます」 などと女王は言う。 「私の愛しているあなたにとって、あちらのことは迷惑千万に違いないが、それをあなたは許して、つまらない者の感情をまで思いやってくれる寛大な愛に比べて、私のはただお上が悪くお思いにならないかという点だけで苦労をしているのは、あさはかな愛の持ち主というべきですね」 微笑をしてお言い紛らわしになる。 「六条院へはあなたが快くなった時にいっしょに帰ればいいのですよ。宮の御訪問をするのもそれからあとのことです」 そうきめておいでになるように仰せられた。 「私は静かな独棲みというものもしてみとうございますから、あちらへおいでになって、宮様のお心のお慰みになりますまでずっといらっしゃい」 夫人からこんな勧めを聞いておいでになるうちに日数がたった。 院のおいでにならぬ間の長いことで今までは院をお恨みにもなった宮でおありになるが、今はその一部を自身の罪がしからしめているのであるということをお知りになって、しまいに法皇のお耳へもはいったならどう思召すことであろうと、生きておいでになることすらも恐ろしくばかりお思われになるのであった。お逢いしたいとしきりに衛門督は言ってくるが、小侍従は面倒な事件になりそうなのを恐れて、こんなことがあったと緑の手紙のことを書いてやった。衛門督は驚いて、いつの間にそうしたことができたのであろう、月日の重なるうちにはいろいろな秘密が外へ洩れるかもしれぬと思うだけでも恐ろしくて、罪を見る目が空にできた気がしていたのに、ましてそれほど確かな証拠が院のお手にはいったということは何たる不幸であろうと恥ずかしくもったいなくすまない気がして、朝涼も夕涼もまだ少ないこのごろながらも身に冷たさのしみ渡るもののある気がして、たとえようもない悲しみを感じた。長い歳月の間、まじめな御用の時も、遊びの催しにもお身近の者として離れず侍してきて、だれよりも多く愛顧を賜わった院の、なつかしいお優しさを思うと、無礼な者としてお憎しみを受けることになっては、自分は御前で顔の向けようもない。そうかといって、すっかりお出入りをせぬことになれば人が怪しむことであろうし、院をばさらに御不快にすることになろうと煩悶する衛門督は、健康もそこねてしまい、御所へ出仕もしなかった。大罪の犯人とされるわけはないが、もう自分の一生はこれでだめであるという気のすることによって、このことを予想しないわけでもなかったではないかと、あやまった大道に踏み入った最初の自分が恨めしくてならなかった。だいたい御身分相当な奥深い感じなどの見いだせなかった最初の御簾の隙間も、しかるべきことではない。大将も軽々しいと思ったことはあの時の表情にも見えたなどと、こんなことも今さら思い合わせたりした。しいてその人から離れたいと願う心から欠点を捜すのかもしれない。どんなに貴人といっても、おおようで、気持ちの柔らかい一方な人は世間のこともわからず、侍女というものに警戒をしなければならぬこともお知りにならないで、取り返しのつかぬあやまちを御自身のためにも作り、人にも罪を犯させる結果になったと思い、衛門督の心は、宮のお気の毒なことを思いやって堪えがたい苦悶をするのであった。 宮が可憐な姿で悪阻に悩んでおいでになるのが院のお目に浮かんで、心苦しく哀れにお思われになった。良人としての愛は消えたように思っておいでになっても、恨めしいのと並行して恋しさもおさえがたくおなりになり、六条院へおいでになった。お顔を御覧になると胸苦しくばかりおなりになる院でおありになった。祈祷を寺々へ命じてさせてもおいでになるのである。表面のお扱いでは以前と何も変わっていない。かえって御優遇をあそばされるようにも見えるのであるが、夫婦としてお親しみになることはそれ以来断えてしまった。人目を紛らすために御同室にお寝みになりながら、院がお一人で煩悶をしておいでになるのを御覧になる宮のお心は苦しかった。秘密を知ったともお言いにならぬ院でおありになったが、女宮は御自身で罪人らしく萎縮しておいでになるのも幼稚な御態度である。こんなふうの人であるから不祥事も起こったのであろう。貴女らしいとはいってもあまりに柔らかな性質は頼もしくないものであるとお考えになると、いろいろの人の上がお気がかりになった。女御があまりに柔軟な様子であることは、この宮における衛門督のような恋をする男があるとすれば、その目に触れた以上精神を取り乱して大過失を引き起こすに至るかもしれぬ、女性のこうした柔らかい一方である人は、軽侮してよいという心を異性に呼ぶのか、刹那的に不良な行為をさせてしまうものであると、院はこんなこともお思いになった。右大臣夫人がそれという世話を受ける人もなくて、幼年時代から苦労をしながら才も見識もあって、自分なども義父らしくはしながらも、恋人に擬しておさえがたい情念を内に包んでいたのを、かどだたず気がつかぬふうに退け続けて、右大臣が軽佻な女房の手引きでしいて結婚を遂げた時にも、自身は単なる受難者であることを、それ以後の態度で明らかにして、親や身内の意志で成立した夫婦の形を作らせたことなどは、今思ってみてもきわめてりっぱなことであったと、玉鬘のこともこのふがいない人に比べてお思われになった。深い宿縁があって夫婦になった人であるから、離婚をしようとは考えないが、品行問題で世評の立つことになれば、それにしたがって知らず知らず多少の侮蔑を自分は加えることになるであろう。あまりにも実質に伴わない尊敬をしてきたと、以前からのことを思ってもごらんになった。 院は二条の朧月夜の尚侍になお心を惹かれておいでになるのであったが、女三の宮の事件によって、後ろ暗い行動はすべきでないという教訓を得たようにお思いになって、その人の弱さにさえ反感に似たようなものをお覚えになった。尚侍が以前から希望していたとおりに尼になったことをお聞きになった時には、さすがに残念な気がされてすぐに手紙をお書きになった。その場合に臨んで、されてよい予報のなかったことをお恨みになる言葉がつづられてあった。
あまの世をよそに聞かめや須磨の浦に藻塩垂れしもたれならなくに
人世の無常さを味わい尽くしながらも、今日まで出家を実行しえない私を、あなたはどんなに冷淡になっておいでになってもさすがに回向の人数の中にはお入れくださるであろうと、頼みにされるところもあります。
などという長いお文であった。早くからの志であったが、六条院がお引きとめになるために、それでない表面の理由は別として、尚侍は尼になるのを躊躇するところがあったのでさえあるから、このお手紙を見て青春時代から今日までの二人のつながりの深さも今さらに思われて身にしむ尚侍であった。返事はもう今後書きかわすことのない終わりのものとして心をこめて書いた尚侍の手跡が美しかった。
無常は私だけが体験から知ったものと思っておりましたが、しおくれたと仰せになりますことで、こんなにも思われます。
あま船にいかがは思ひおくれけん明石の浦にいさりせし君
回向には、この世のすぐれた方として決してあなた様を洩らしはいたしません。
これが内容である。濃い鈍色の紙に書かれて、樒の枝につけてあるのは、そうした人のだれもすることであっても、達筆で書かれた字に今も十分のおもしろみがあった。この日は二条の院においでになったので、夫人にも、もう実際の恋愛などは遠く終わった相手のことであったから、院はお見せになった。 「こんなふうに侮辱されたのが残念だ。どんな目にあっても平気なように思われて恥ずかしい。恋愛的な交際ではなしに、友人として同程度の趣味を解する人で、仲よくできる異性はこの人と斎院だけが私に残されていたのだが、今はもう尼になってしまわれた。ことに斎院などは尼僧の勤めをする一方の人になっておしまいになった。多くの女性を見てきているが、高い見識をお持ちになって、しかもなつかしい匂いの備わっているような点であの方に及ぶ人はなかった。女を教育するのはむずかしいものですよ。夫婦になる宿命というものは、目に見えないもので、親の力でどうしようもないものだから、結婚するまでの女の子の教育に親は十分力を尽くすべきだと思う。私は娘を一人しか持たなくてその責任の少ないのがうれしい。まだ若くて人生のよくわからなかったころは、子の少ないことが寂しく思われもしたものですがね。まあ孫の内親王をよくお育てしておあげなさい。女御はまだ大人になりきらないで宮廷へはいってしまったのだから、すべてがいまだに不完全なものだろうと思われる。姫宮の教育は最高の女性を作り上げる覚悟で、微瑕もない方にして、一生を御独身でお暮らしになってもあぶなげのない素養をつけたいものですね。結婚をすることになっている普通の家の娘はまた良人さえりっぱであれば、それに助けられてゆくこともできますがね」 などと院がお言いになると、 「りっぱなお世話はできませんでも、生きています間は姫宮のおためになりたい心でございますが、健康がこんなのではね」 と答えて夫人は心細いふうにわが身を思い、自由に信仰生活へはいることのできた人々をうらやましく思った。 「尚侍の所は尼装束などもまだよくととのっていないことだろうから、早く私から贈りたいと思うが、袈裟などというものはどんなふうにしてこしらえるものだろう。あなたがだれかに命じて縫わせてください。一そろいは六条の東の人にしてもらいましょう。あまりに法服らしくなっては見た感じもいやだろうから、その点を考慮して作るのですね」 と院はお言いになった。青鈍色の一そろいを夫人は新尼君のために手もとで作らせた。院は御所付きの工匠をお呼び寄せになって、尼用の手道具の製作を命じたりしておいでになった。座蒲団、上敷、屏風、几帳などのこともすぐれた品々の用意をさせておいでになった。
|