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壊滅の序曲(かいめつのじょきょく)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-23 13:41:32 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


「来たぞ」といって、清二は正三の眼の前に一枚の紙片を差出した。点呼令状であった。正三はじっとその紙に眼をおとし、印刷の隅々すみずみまで読みかえした。
「五月か」と彼はそうつぶやいた。正三は昨年、国民兵の教育召集を受けた時ほどにはもう驚かなかった。がしかし清二は彼の顔に漾う苦悶くもんの表情をみてとって、「なあに、どっちみち、今となっては、内地勤務だ、大したことないさ」と軽くうそぶいた。……五月といえば、二カ月さきのことであったが、それまでこの戦争が続くだろうか、と正三はひそかに考えふけった。
 何ということなしに正三は、ぶらぶらと街をよく散歩した。妹の息子むすこの乾一を連れて、久し振りに泉邸へも行ってみた。昔、彼が幼かったとき彼もよく誰かに連れられて訪れたことのある庭園だが、今も淡い早春のざしのなかに樹木や水はひっそりとしていた。絶好の避難場所、そういう想念がすぐひらめくのであった。……映画館は昼間から満員だったし、盛場の食堂はいつもにぎわっていた。正三は見覚えのある小路を選んでは歩いてみたが、どこにももう子供心に印されていたなつかしいものは見出みいだせなかった。下士官に引率された兵士の一隊が悲壮な歌をうたいながら、突然、四つ角から現れる。頭髪に白鉢巻しろはちまきをした女子勤労学徒の一隊が、兵隊のような歩調でやって来るのともすれちがった。
 ……橋の上にたたずんで、川上の方を眺めると、正三の名称を知らない山々があったし、街のはての瀬戸内海の方角には島山が、建物のかげから顔をのぞけた。この街を包囲しているそれらの山々に、正三はかすかに何かよびかけたいものを感じはじめた。……ある夕方、彼はふと町角を通りすぎる二人の若い女に眼が惹きつけられた。健康そうな肢体したいと、豊かなパーマネントの姿は、明日の新しいタイプかとちょっと正三の好奇心をそそった。彼は彼女たちの後を追い、その会話をれ聴こうと試みた。
「お芋がありさえすりゃあ、ええわね」
 間ののびた、げっそりするような声であった。

 森製作所では六十名ばかりの女子学徒が、縫工場の方へやって来ることになっていた。学徒受入式の準備で、清二は張切っていたし、その日が近づくにつれて、今までぶらぶらしていた正三も自然、事務室の方へ姿を現し、雑用を手伝わされた。新しい作業服を着て、ガラガラと下駄をひきずりながら、土蔵の方から椅子を運んでくる正三の様子は、慣れない仕事に抵抗しようとするような、ぎごちなさがあった。……椅子が運ばれ、幕が張られ、それに清二の書いた式順の項目が掲示され、式場は既に整っていた。その日は九時から式が行われるはずであった。だが、早朝から発せられた空襲警報のために、予定はすっかり狂ってしまった。
「……備前びぜん岡山、備後灘びんごなだ、松山上空」とラジオは艦載機来襲を刻々と告げている。正三の身支度みじたくが出来た頃、高射砲がうなりだした。この街では、はじめてきく高射砲であったが、どんよりと曇った空がかすかに緊張して来た。だが、機影は見えず、空襲警報は一旦いったん、警戒警報に移ったりして、人々はただそわそわしていた。……正三が事務室へ這入はいって行くと、鉄兜てつかぶとを被った上田の顔と出逢であった。
「とうとう、やって来ましたの、なんちゅうことかいの」
 と、田舎いなかから通勤して来る上田は彼に話しかける。そのたくましい体躯たいくや淡泊な心を現している相手の顔つきは、いまも何となしに正三に安堵あんどの感をいだかせるのであった。そこへ清二のジャンパー姿が見えた。顔は颯爽さっそうみを浮べようとして、眼はキラキラ輝いていた。……上田と清二が表の方へ姿を消し、正三ひとりが椅子に腰を下ろしていた時であった。彼はしばらくぼんやりと何も考えてはいなかったが、突然、屋根の方を、ビュンとうなる音がして、つづいて、パリパリと何か裂ける響がした。それはすぐ頭上にちて来そうな感じがして、正三の視覚はガラス窓の方へつっ走った。向うの二階ののきと、庭の松のこずえが、一瞬、異常な密度で網膜に映じた。音響はそれきり、もうきこえなかった。暫くすると、表からドヤドヤと人々が帰って来た。「あ、魂消たまげた、度胆どぎもを抜かれたわい」と三浦はゆがんだ笑顔をしていた。……警報解除になると、往来をぞろぞろと人が通りだした。ざわざわしたなかに、どこか浮々した空気さえ感じられるのであった。すぐそこで拾ったのだといって誰かが砲弾の破片を持って来た。
 その翌日、白鉢巻をした小さな女学生の一クラスが校長と主任教師に引率されてぞろぞろとやって来ると、すぐに式場の方へ導かれ、工員たちも全部着席した頃、正三は三浦と一緒に一番後からしんがりの椅子に腰を下ろしていた。県庁動員課の男の式辞や、校長の訓示はいい加減に聞流していたが、やがて、立派な国民服姿の順一が登壇すると、正三は興味をもって、演説の一言一句をききとった。こういう行事には場を踏んで来たものらしく、声も態度もキビキビしていた。だが、かすかに言葉に――というよりも心の矛盾に――つかえているようなところもあった。正三がじろじろ観察していると、順一の視線とピッタリ出喰でくわした。それは何かにいどみかかるような、不思議な光を放っていた。……学徒の合唱が終ると、彼女たちはその日からにぎやかに工場へ流れて行った。毎朝早くからやって来て、夕方きちんと整列して先生に引率されながら帰ってゆく姿は、ここの製作所に一脈の新鮮さをもたらし、多少の潤いを混えるのであった。そのいじらしい姿は正三の眼に映った。
 正三は事務室の片隅かたすみボタンを数えていた。卓の上に散らかった釦を百箇ずつまとめればいいのであるが、のろのろとれない指さきで無器用なことを続けていると、来客と応対しながらじろじろ眺めていた順一はとうとうたまりかねたように、「そんな数え方があるか、遊びごとではないぞ」と声をかけた。せっせと手紙を書きつづけていた片山が、すぐにペンをいて、正三の側にやって来た。「あ、それですか、それはこうして、こんな風にやって御覧なさい」片山は親切に教えてくれるのであった。この彼よりも年下の、元気な片山は、恐しいほど気がきいていて、いつも彼を圧倒するのであった。

 艦載機がこの街に現れてから九日目に、また空襲警報が出た。が、豊後水道ぶんごすいどうから侵入した編隊は佐田岬さたみさき迂廻うかいし、続々と九州へ向うのであった。こんどは、この街には何ごともなかったものの、この頃になると、にわかに人も街も浮足立って来た。軍隊が出動して、街の建物を次々に破壊して行くと、昼夜なしに疎開の馬車が絶えなかった。
 昼すぎ、みんなが外出したあとの事務室で、正三はひとり岩波新書の『零の発見』を読みふけっていた。ナポレオン戦役の時、ロシア軍の捕虜になったフランスの一士官が、憂悶ゆうもんのあまり数学の研究に没頭していたという話は、妙に彼の心に触れるものがあった。……ふと、そこへ、せかせかと清二が戻って来た。何かよほど興奮しているらしいことが、顔つきに現れていた。
「兄貴はまだ帰らぬか」
「まだらしいな」正三はぼんやりこたえた。相変らず、順一は留守がちのことが多く、高子との紛争も、その後どうなっているのか、第三者にはつかめないのであった。
「ぐずぐずしてはいられないぞ」清二は怒気を帯びた声で話しだした。「外へ行って見て来るといい。竹屋町の通りも平田屋町辺もみんな取払われてしまったぞ。被服支廠ひふくししょうもいよいよ疎開だ」
「ふん、そういうことになったのか。してみると、広島は東京よりまず三月ほど立遅れていたわけだね」正三が何の意味もなくそんなことをつぶやくと、
「それだけ広島が遅れていたのは有難いと思わねばならぬではないか」と清二は眼をまじまじさせてなおもかたい表情をしていた。
 ……大勢の子供をかかえた清二の家は、近頃は次から次へとごったかえす要件で紛糾していた。どの部屋にも疎開の衣類が跳繰はねくりだされ、それに二人の子供は集団疎開に加わって近く出発することになっていたので、その準備だけでも大変だった。手際てぎわのわるい光子はのろのろと仕事を片づけ、どうかすると無駄話に時を浪費している。清二は外から帰って来ると、いつも苛々いらいらした気分で妻にあたり散らすのであったが、その癖、夕食が済むと、奥の部屋に引籠ひきこもって、せっせとミシンを踏んだ。リュックサックなら既に二つも彼の家にはあったし、急ぐ品でもなさそうであった。清二はただ、それをこしらえる面白さに夢中だった。「なあにくそ、なあにくそ」とつぶやきながら、針を運んだ。「職人なんかに負けてたまるものか」事実、彼の拵えたリュックは下手へたな職人の品よりか優秀であった。
 ……こうして、清二は清二なりに何か気持を紛らし続けていたのだが、今日、被服支廠に出頭すると、工場疎開を命じられたのには、急に足許あしもとが揺れだす思いがした。それから帰路、竹屋町辺まで差しかかると、昨日まで四十何年間も見馴れた小路が、すっかり歯の抜けたようになっていて、兵隊は滅茶苦茶になたを振るっている。二十代に二三年他郷に遊学したほかは、殆どこの郷土を離れたこともなく、与えられた仕事を堪えしのび、その地位もようやく安定していた清二にとって、これは堪えがたいことであった。……一体全体どうなるのか。正三などにわかることではなかった。彼は、一刻も速く順一に会って、工場疎開のことを告げておきたかった。親身で兄と相談したいことは、いくらもあるような気持がした。それなのに、順一は順一で高子のことに気を奪われ、今は何のたよりにもならないようであった。
 清二はゲートルをとりはずし、しばらくぼんやりしていた。そのうちに上田や三浦が帰って来ると、事務室は建物疎開の話で持ちきった。「乱暴なことをするのう。うちに、のこぎりで柱をゴシゴシ引いて、なわかけてエンヤサエンヤサと引張り、それで片っぱしからめいで行くのだから、かわらも何もわや苦茶じゃ」と上田は兵隊の早業はやわざに感心していた。「永田の紙屋なんか可哀相かわいそうなものさ。あの家は外から見ても、それは立派な普請だが、親爺おやじさん床柱をでてわいわい泣いたよ」と三浦は見てきたように語る。すると、清二も今はニコニコしながら、この話に加わるのであった。そこへえない顔つきをして順一も戻って来た。

 四月に入ると、街にはそろそろ嫩葉わかばも見えだしたが、壁土の土砂が風にあおられて、空気はひどくザラザラしていた。車馬の往来は絡繹らくえきとつづき、人間の生活が今はむき出しでさらされていた。
「あんなものまで運んでいる」と、清二は事務室の窓から外を眺めて笑った。大八車に雉子きじ剥製はくせいが揺れながら見えた。「情ないものじゃないか。中国が悲惨だとか何とか云いながら、こちらだって中国のようになってしまったじゃないか」と、流転のすがたに心を打たれてか、順一もつぶやいた。この長兄は、要心深く戦争の批判を避けるのであったが、硫黄島が陥落した時には、「東条なんか八つ裂きにしてもあきたらない」ともらした。だが、清二が工場疎開のことをかすと、「被服支廠から真先に浮足立ったりしてどうなるのだ」と、あまり賛成しないのであった。
 正三もゲートルを巻いて外出することが多くなった。銀行、県庁、市役所、交通公社、動員署――どこへ行っても簡単な使いであったし、帰りにはぶらぶらとちまたを見て歩いた。……堀川町の通りがぐいと思いきり切開かれ、土蔵だけを残し、ギラギラと破壊の跡が遠方まで展望されるのは、印象派の絵のようであった。これはこれで趣もある、と正三は強いてそんな感想をいだこうとした。すると、ある日、その印象派の絵の中に真白なかもめが無数に動いていた。勤労奉仕の女学生たちであった。彼女たちはピカピカと光る破片の上におりたち、白い上衣うわぎに明るい陽光を浴びながら、てんでに弁当をひらいているのであった。……古本屋へ立寄ってみても、書籍の変動が著しく、狼狽ろうばいと無秩序がここにもうかがわれた。「何か天文学の本はありませんか」そんなことを尋ねている青年の声がふと彼の耳に残った。
 ……電気休みの日、彼は妻の墓を訪れ、そのついでに饒津にぎつ公園の方を歩いてみた。以前この辺は花見遊山はなみゆさんの人出でにぎわったものだが、そうおもいながら、ひっそりとした木蔭こかげを見やると、老婆と小さな娘がひそひそと弁当をひろげていた。桃の花が満開で、柳の緑は燃えていた。だが、正三にはどうも、まともに季節の感覚が映って来なかった。何かがずれさがって、恐しく調子を狂わしている。――そんな感想を彼は友人に書き送った。岩手県の方に疎開している友からもよく便たよりがあった。「元気でいて下さい。細心にやって下さい」そういう短い言葉の端にも正三は、ひたすら終戦の日を祈っているものの気持を感じた。だが、その新しい日までおれは生きのびるだろうか。……

 片山のところに召集令状がやって来た。精悍せいかんな彼は、いつものように冗談をいいながら、てきぱきと事務の後始末をして行くのであった。
「これまで点呼を受けたことはあるのですか」と正三は彼にたずねた。
「それも今年はじめてある筈だったのですが、……いきなりこれでさあ。何しろ、千年に一度あるかないかの大いくさですよ」と片山は笑った。
 長い間、病気のため姿を現さなかった三津井老人が事務室の片隅かたすみから、憂わしげに彼の様子をながめていたが、このとき静かに片山のそばに近寄ると、
「兵隊になられたら、馬鹿になりなさいよ、ものを考えてはいけませんよ」と、息子むすこに云いきかすように云いだした。
 ……この三津井老人は正三の父の時代から店にいた人で、子供のとき正三は一度学校で気分が悪くなり、この人に迎えに来てもらった記憶がある。そのとき三津井は青ざめた彼を励しながら、川のほとりで嘔吐おうとする肩をでてくれた。そんな、遠い、細かなことを、無表情に近い、すぼんだ顔はおぼえていてくれるのだろうか。正三はこの老人が今日のような時代をどう思っているか、尋ねてみたい気持になることもあった。だが、老人はいつも事務室の片隅で、何か人を寄せつけないかたくななものを持っていた。
 ……あるとき、経理部から、暗幕につける環を求めて来たことがある。上田が早速さっそく、倉庫から環の箱を取出し、事務室の卓に並べると、「そいつは一箱いくつ這入はいっていますか」と経理部の兵は訊ねた。「千箇でさあ」と上田は無造作に答えた。隅の方で、じろじろ眺めていた老人はこのとき急に言葉をさしはさんだ。
「千箇? そんな筈はない」
 上田は不思議そうに老人を眺め、
「千箇でさあ、これまでいつもそうでしたよ」
「いいや、どうしても違う」

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