二十
朝礼の体操も終って、校長先生の訓話が始まる頃、葉のまばらになった校庭の桜の梢に、もずがきゃっきゃっといった鳴声で呼びたてた。もずは、木のてっぺんで鳴く鳥だと啓吉は誰かに教わったことがあった。よくみていると、初秋に飛んで来るみそさざいが、ちょん、ちちちっと気ぜわしく飛びはねているが、死んだ田舎の祖母が、「みそさざいが来ると、雪が降るだよ」と言った事を思い出して、秋はいいなア、と啓吉は思わず空を見上げた。 「おい、外見をしてはいかん!」 背中で手を組んでいる体操の教師が、後からやって来て啓吉の後頸をつついた。皆、くすくすと笑った。啓吉は赤くなってうつむいた。 朝礼が済むと、啓吉は自分の級の先頭に立って教室に這入って行った。 びゅうびゅう口笛を吹く者や、唱歌をうたう者、読本と首っ引きの者、復習をしてなかったと、泣きそうになっている者や、まるで教室は豆が弾ぜたようだ。啓吉は気が弱くて、 「静粛!」 という声がかけられなかったのだが、不意に副級長の饗庭芳子が、 「皆さん! 静粛にして下さいッ!」 と呶鳴った。 一寸の間静かになったが、誰かが隅の方で、 「凄げえなア」 と感嘆の声をもらすと、津浪のように皆がどっと笑い出した。とりとめようもない程、笑い声が続いた。啓吉は、益々小さくなった。田口七郎兵衛は教壇に上って、 ――静カニセヨ―― と白墨で黒板に書いた。すると、また笑い声がもり返って来て、風呂屋のように机を叩いて唄うものが出て来た。 女生徒達の方では、 「困るわねえ、男の生徒ってきらいだわ……」 とぐちぐちこぼし始めたが、やがて、饗庭芳子は何を思ったのか、つかつかと教壇に上って、 ――男のセイトキライ―― と書いた。 窓が開いて、ひときわ空が高く澄んでいるせいか、黄いろいジャケツを着た饗庭芳子は、輝くように美しく見えた。ガラス越しに、頭髪が繻子のように光っている。 饗庭芳子が教壇から降りようとすると、田口七郎兵衛が教壇へどんどん上って行って、 ――オンナノセイトスキ―― と書いた。皆どっと笑った。 「あら、先生よッ!」 「先生がいらっしたよ、饗庭さん早くウ!」 扉がすうっと開いた。 田口七郎兵衛は矢庭に黒板消しをつかんだが間にあわなかった。饗庭芳子はそっと机に帰った。 啓吉は立ちあがると、 「起立!」 と号令をかけた。 白雲頭の田口七郎兵衛は黒板消しを持ったまま不動のしせいをとった。 無雑作に衿元で髪をつかねた色の白い先生は、黒板の字を見ると、急に顔を赧めて、 「貴方がこんないたずらを書いたの?」 と田口七郎兵衛に訊いた。 田口七郎兵衛は悄気てしまって黙っていた。先生は、また――男のセイトキライ――と書かれている方を見て微笑しながら、 「さア、その黒板消しを先生にお返して、席におつきなさい」 と、静かに教壇に上って行った。啓吉には、新しい先生がひどく神々しく見える。田口七郎兵衛は頭をすぼめて降りて行ったが、七郎兵衛が席につくと、啓吉は大きい声で、 「着席!」と号令した。 「貴方が級長さんですか?」 啓吉は赧くなってうなずいた。先生は、黒板の方へ向くと、まず饗庭芳子の書いた――男のセイトキライ――から静かに消して行った。
二十一
「復習して来ましたか?」 先生は黒板を消し終ると、机の上の本をパラパラと繰って、 「饗庭さん、第十四課の六十六頁を開けて、四行目から読んでみて下さい」 饗庭芳子は立ちあがると声を張りあげて、 「今日はお前たちに一つ聞いてみたい事がある。お前たちのうちで誰が一番この父を大事に思ってくれるか。わしはそれが知りたいのだ。先ず姉のゴネリルからいってみよ。と尋ねた。……」 張りのあるいい声で、啓吉はうっとりと聴きとれていた。何時か、饗庭芳子が、学芸会の席で、鎌倉を暗誦して読みあげたことがあったが、実にいい声であった。
由比の浜辺を右に見て 雪の下道過行けば 八幡宮の御やしろ
のあたりなどは、彼女の得意のところらしく、啓吉はいまでも饗庭芳子の振袖姿を思い出すのだ。 「はア、そこンところで次に級長さんに読んで貰いましょう。級長さんは、何ていうお名前?」 「…………」 啓吉が赧くなっていると、饗庭芳子が、大人びた物いいで、 「田崎啓吉さんておっしゃいます」 と言った。 「そう、田崎さん、ではその七十二頁の、饗庭さんの次から読んで御覧なさい……」 すると立ちあがった啓吉は、すっかり周章てて、何行目だったろうと、七十二頁を繰ったが、やたらに、「王は男泣きに泣いた」というところだけが目にはいって来た。 誰か後の方で、 「怒りと失望と後悔と……」 と、いってくれている。啓吉は益々うろたえてしまった。どの行を見ても、「怒りと失望と」の活字がないのだ。 「田崎さんはお休みになったのですね。じゃ、外の方に読んで貰いましょう……」 啓吉はそっと席へついた。脇へ汗がにじんだ。一番前にいる近眼の中原という子が立って読んだ。 「怒りと失望と後悔とに身も魂もくだけた王は……」 読本へ目を据えると、ちゃんと自分の正面へその活字が並んでいる。そっと目を上げると、先生は目を閉じて立っていた。啓吉は、一遍も復習しなくても、すらすら読めて行った。まごまごした自分が口惜しかった。 「はいッ、そのくらいで、少し書取りでもしてみましょうか?」 先生は、皆に雑記帳を出させた。 「御本はみんな伏せてしまって、ようござんすか、リヤ王はもう八十の坂を越えた……」 甘い声であった。大勢の鉛筆の音がすっすっと走っている。 「姉二人は既に、ですよ、既にさる貴族に嫁し、妹はかねてフランスの后になることにきまっていた……」 森と静まり返った廊下をこつこつ誰か歩いて来ている。 扉が開くと、小使いのお爺さんが、 「先生、この組に田崎啓吉という子供さんはおりますかな?」 と尋ねた。 「田崎? ああ級長さんでしょう、いますよ」 鉛筆の音が止まった。啓吉はどきりとした。 「一寸お母さんが、急用があるそうでなア、周章てて来ていなさるで……」 「そう、じゃそっと行ってらっしゃい」 先生は立ち上った啓吉の肩を押して、扉の出口へ連れて行った。啓吉が出て行くと、先生はまた声を張り上げて、 「領地をゆずる日に、王は娘たちを面前に呼んで……」 と愉しそうに朗読するのであった。
二十二
学校へなんぞ来た事のない母親が、何の用事でわざわざ啓吉を尋ねて来たのか、啓吉は不安で仕方がなかった。 小使い部屋では貞子が、大火鉢にしゃがみ込んであたっていた。 「まア、お使いだてして、本当に済みません」 小使いに世辞をいうと、貞子はすぐ立ちあがって、 「啓ちゃん、一寸」 と、啓吉を、外へ連れ出した。校庭では二組ばかりの体操があった。ポプラの樹の下に来ると、貞子は白い封筒を出して、 「ねえ、お母さまね、暫くの間だけど、九州へ行って来なくちゃならなくなったの。おじさん、御商売が駄目になってしまってねえ、とても、大変なのよ。それで、一寸の間だけれど、この手紙持って、寛子叔母様のところへ行っているの、伸ちゃんのお守りをしてあげて、少しの間だからおとなしく待っていらっしゃい、判った? ええ」 「…………」 「今度は啓ちゃん、連れてゆけないのよ。ねえ……」 「遠いの?」 「ああ遠いの、だけどすぐに帰って来るから……この手紙大事なのよ、いい?」 啓吉はうなずいた。貞子は流石にしょんぼりしている啓吉を見ると、何となく心痛いものを感じたが、 「じゃ、お教室へ行ってらっしゃい。母さんが、いいものを啓ちゃんに送ってあげようね」 「学校、またお休みすンの?」 「さア、叔母様に相談して、あの近くの学校へ行くようにしてもいいでしょ」 「帰れっていわない?」 「帰れっていったかい?」 「ううん、いわないけど……」 「それ御覧、大丈夫だよ、それで勘三叔父さんは、啓ちゃんと仲良しだものねえ」 体操の組では綱引きが始まった。オーエス、オーエスと叫び声があがっている。 貞子が帰って行くと、啓吉は白い封筒を襯衣のポケットへ入れて教室へ帰って来たが、教室ではリヤ王が劇に組まれて、饗庭芳子が、男の声でリヤ王を演じていた。饗庭芳子のリヤ王があんまりうまいので、啓吉が教室へ這入って来ても誰も振りむかなかった。 先生は陽が縞になって流れ込んでいる窓に凭れて、目をつぶって対話に聴きとれている。 休みの鐘が高く鳴り響いた。 「先生、田口さんいけませんのよッ」 「さア、鐘が鳴りましたからおしまいにしましょう。では、この次に、リヤ王の対話を空で出来るようによく復習していらっしゃい。それから、書取りもおさらいして来るンですよ」 先生が、袴をさばいて教壇へ歩んで行くと、啓吉は、 「起立!」 といって立ち上った。 「礼」 誰か、くすくす笑って首をさげているようだったが、礼が済んでも先生は、つっ立ったまま出て行かなかった。 「田崎さんと、饗庭さんと一寸残って下さい、あとは外へ出て遊ぶこと……」 啓吉と饗庭芳子とが残った。先生は椅子を引き寄せて腰かけながら、 「さア、こっちへいらっしゃい! 先生が変ると、皆の気持ちがゆるむものですけれど、貴方たちは級長さんと副級長さんですから、先生を助けてしっかりして下さらないといけませんよ。饗庭さんも、副級長さんでしょ。黒板なンかにいたずらしないように……」 啓吉も饗庭芳子も赧くなった。
二十三
「田崎さんのお家から、何の御用でいらっしゃったの?」 と先生が、啓吉の襯衣の釦をはめてやりながら訊いた。 「…………」 啓吉は黙っていた。優しい先生に、自分の家庭の話をする事は面倒でもあったし、可愛らしい饗庭芳子がくりくりした目をして微笑しているので、何と返事をしていいか判らなかった。 「どなたか御病気?」 「いいえ――」 「級長さんは随分おとなしいのね」 そういって先生が立ちあがると啓吉は、またこの先生にも嫌われてしまったような、淋しい気持ちになりながら、自分の机へ行ってぽつんと腰を掛けた。饗庭芳子は先生の袴へもつれるようにくっつきながら先生と一緒に廊下へ出て行ってしまったが、明らかに、啓吉は、自分の孤独さを感じるのであった。運動場では、マリのように子供達がはずんでいる。 啓吉は落ちつかなかった。――啓吉は正午の時間になると、先生へ黙って、ランドセールを背負ったまま裏門から外へ出て行った。早く帰って、どんなにしてでも九州とかいう、遠い土地へ連れて行って貰おうと思ったのだ。もう心の中では「母アさん、母アさん」と泣き声をあげていた。 檜葉の垣根に添って這入って行くと、家の中が森としているのが啓吉によく判った。啓吉は裏口へ回って見た。雨戸が閉ざされている。節穴から覗いてみたが、中は真暗だった。啓吉は庭へ立ったまま途方に暮れてしまったが、自分の影が一寸法師のように垂直に落ちているそばに、何時かの植木鉢が目についた。コツンと足で蹴ると、ごろごろと植木鉢が転んで行って、その跡には雌の蟋蟀がしなびたようになって這っていた。小さい雄は、植木鉢の穴からでも逃げたのであろう。啓吉はしゃがんで、乾物のようになった雌を取り上げると、一本一本ぴくぴくしている脚をむしってみた。 「母アさアん!」 返事がなかった。 「母アさんてばア……」 四囲が森としているので、声は自分の体中へ降りかかって来た。 大きい声で、再び啓吉は、 「母アさん!」 と呼んでみたが、声が咽喉につかえて、熱いものが目のふちに溢れ出て来た。本当に皆で九州へ行ってしまったのに違いない。啓吉は、ランドセールにしまいこんだ白い手紙の事を想いだすと、いよいよ自分一人捨てられてしまったような悲しさになった。 小さな風が吹くたび、からからと木の葉が散って来て、誰もいないとなると、自分の家が大変小さく見える。 啓吉は腹が空いたので、ランドセールから弁当を出して沓ぬぎ石に腰を掛けて弁当を開いた。弁当の中には、啓吉の好きな鮭がはいっていたが、珍しい事に茄で玉子が薄く切って入れてあった。 その玉子を見ると、母親は自分を置いて行く事にきめていたのに違いなかったのだと、また、新しく涙があふれた。 弁当が終ると、啓吉は井戸端へ回って、ポンプを押しながら、水の出口へ唇をつけてごくごく飲んだ。水を飲んでいると、まだその辺で、「啓吉!」と母親が呼んでくれそうな気がして、母親が始終つかったポンプ押しの握るところを、そっと嗅いでみた。冷い金物の匂いがするきりで母親の匂いはしなかった。啓吉はランドセールを肩にすると、夏の初めにやって来る若布売りの子供のような気がして、何だか物語りの中の少年のように考えられ出して来た。
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