九
――この車庫二階尺八教習所・都山流水上隆山――一台も自動車の這入っていないガレージの横に、ペンキ塗りのこんな看板が出ている。 鍵の抜けたピアノのようながらんとした車庫の中へ這入ると、ドスンドスンと跫音が天井へ響く。 「おい、小僧! 待ってな、いいかい」 啓吉は泥まみれな足で、車庫の入口につっ立っていた。酔っぱらいの叔父さんなんかどうでもいいや、俺は発明家になってやるんだから、そう力んでいても、看板の上の五燭の電灯がまるで、一つ目小僧のようで、啓吉の胸の中は鳴るような動悸がしている。 「おい! 小僧ッ、馬穴をやるから足を洗って [#全角空きはママ]その鉄梯子から上って来な」 ガレージの隅がほのあかるくなった。そこから鉄梯子がさがっていて、小さい馬穴が紐にぶらさがって降りて来た。啓吉は尺八を吹く男の、大きな下駄を持って、水道のそばへ行った。黒い駄犬が啓吉にもつれついて来た。 小僧小僧だなんて、大人になったら大学へ行くんだのに莫迦にしてらア、啓吉は、よく母親のところへやって来る「小僧小僧」と呼び捨てにする男の事を思い出した。俺は小僧に見えるのかな。厭だなア、二階へ上ったら名前を言ってやろう……啓吉は、雑巾で足を拭いて、鉄梯子を上って行った。啓吉が二階へ上って行くと、暗い三和土の上でいっとき黒犬が降りて来いと甘えて吠えていた。 尺八教習所といっても、部屋の隅には布団が三四人分も重ねてあり、七輪だの、茶碗だの、古机などが雑居している。 「腹はどうだね?」 「…………」 「ええ? 遠慮はいらないンだよ」 「…………」 「おや! 小僧は何時の間に唖になったンだ?」 「田崎、啓吉ってね、いうんだよ」 「ああそうか。ま、名乗りはどうでもいいや、これから飯の支度だ。その辺にごろごろしてな」 隆山は新聞紙を丸めて、七輪の中へそれを入れ、手攫みで炭をその上に乗せマッチを擦った。机の上には尺八の譜本のようなものが一二冊載っていたが、ハヒハヒチレツロ……などと、啓吉にはさっぱり面白くない。女気がないと見え、四囲は鼠の巣のようで、天井には雨漏りの跡の汚点だらけだ。 「おい! 鮭で茶漬はどうだい?」 濡れた新聞包みの中から、鮭の切身が二切出て来た。隆山は指で摘まんで、七輪の炭火の上に、じかにそれをあてて茶碗を畳の上に並べ始めた。――啓吉は叔母達の生活を貧乏だとは思っていたが、まだまだこの方がひどいような気がした。この部屋の主人は教習所の尺八指南だけでは食ってゆけないらしく、時々、酒場の多い街裏を流して歩いてゆくのであろう。 「明日は鱈腹飯を食って、お母さんとこへ帰ってきゃいいよ。なア、おい、中野の駅まで行けば道が判るのかい?」 啓吉はうなずいた。 酔っぱらった叔父をおでん屋へのこして来たままどこを歩いたのか、尺八を吹く男に拾われてこんなところへ来たのさえ不思議で仕方がない。礼子ちゃんは寝てるかな。母さんも眠ってるだろう……啓吉は、あの男と母親が、愉しそうに笑いあっているのではないかと思うと、自分が余計者のようで不図涙が出た。 「おい、ほら鮭が焼けたぜ」 いっぱい飯の盛られた飯茶碗を胸の辺へかかえ上げると押入の方で蟋蟀がりいい……と鳴き始めた。 「ああッ」 啓吉はごくんと飯の塊を飲み込み、植木鉢の下に伏せた、雌を呼ぶ蟋蟀の物哀しい声を何気なく思い出した。
十
飯を食べた。布団の中へもぐり込んだ。 深夜になると、何台も自動車が帰って来るようで、ギイッと階下の車庫の中へ滑り込む自動車のブレーキの音がしていた。啓吉は色々な夢を見た。 「この子は薄目を開けて眠るので気味が悪いわ」 と、男が泊ってゆく度、母親が弁解していたが、薄目を開けて寝ると、眠っていても声をたてる事がある。 朝になって啓吉は目覚めて見ると、夢に見たものが、部屋いっぱい散らかっていた。自分のそばには運転手や助手達が三四人も大鼾で寝ていた。隆山は寝床に腹這ったまま手紙のようなものを書いている。 「どうだ! ゆんべは寝られたかい?」 「…………」 「中野まで送ってゆくかな。安心しな」 「ねえ、ここはどこ?」 「ここか、ここは神田美土代町さ……」 手紙を書き終ると、隆山は厚い唇で封をしめして、「さて、これで田舎の神さんも御安心だ」と、立ちあがるなり、裏の小窓を開け、尿を二階から飛ばした。 寝ていた啓吉にはその小窓がよく見えた。雲の去来を見ていると、啓吉は、雲が一つ一つ生きているように思えた。 「なぜ、雲は浮いたり走ったりするの?」 「雲かい? さア、煙だから軽いンだろう……」 啓吉は学校へ行って先生に訊くに限ると思った。陽が当っていい天気のせいか、啓吉は革の匂いのするランドセルが懐しくなった。 「僕、やっぱりねえ、渋谷の叔母さんとこへ帰ろう……」 「渋谷? よし来た。どこだって送ってってやるよ。どうせ昼間は遊びだもの……」 隆山は袂の底を小銭でちゃらちゃら音させながら、啓吉を連れて表通りへ出た。啓吉は、濡れた靴が気持ち悪かったが、四囲が爽かなので、じき忘れて歩いた。二人は電車通りにある一膳めし屋に這入った。まず壁に――朝飯定食八銭――と出ているのが啓吉に読めた。 「定食二人前くンなッ」 隆山が意勢よく呶鳴った。 その定食という奴が若布の味噌汁にうずら豆に新香と飯で、隆山は啓吉の飯を少しへずると、まるで馬のように音をたてて食べた。 「小僧! 美味か?」 「…………」 啓吉は只目で合点いた。合点きながら、返事をしいられる事が何となく厭だった。だが飯も味噌汁も啓吉には美味い。うずら豆の甘いのは、長い間甘いものを口にしない啓吉にとって、天国へ登るような美味さであった。 飯屋を出て、すぐ市電へ乗った。隆山は心のうちで尺八でも吹いているのか、こつりこつり首で拍手を取っている。 窓外を見ている啓吉の目の中に段々記憶のある町が走って来る。――渋谷の終点で降りると、隆山は陽向に目をしょぼしょぼさせて、 「じゃ、さよならするぜ。覚えてるかい? 覚えてたら、又遊びにおいでよ……」 といった。啓吉は吃驚したような顔をして隆山を見上げた。「遊びにお出でよ」と親切なことをいってくれたのは、大人でこの男が始めてであったから――。 「ああ」 啓吉は有難うをいいたかったのだが、何となくそれがいえないで走り出した。 花屋がある。コロッケ屋がある。啓吉はその路地へ片足でぴょんぴょん溝板を踏んで這入って行った。突き当りの二階の手摺には、伸一郎を抱いて背を向けた勘三が、つくねんとしている。 「只今」 と格子を開けると呆れたような寛子が、 「まア、厭な子だねえ、人にさんざ心配させて……貴方! 啓ちゃん帰って来ましたよッ」 と、ほっとした容子で二階へ呶鳴った。
十一
田の麦は足穂うなだれ 茨には紅き果熟し 小河には木の葉みちたり いかにおもうわかきおみなよ
「ああいかにおもう、野崎澄子よ、か……」 勘三は、拾ったハンドバッグの中から、匂いのいいコンパクトを出して、鼻にあてながら、ストルムの詩をうたった。妻にはない若い女の匂いだ。伸一郎はぽかんとして父親の容子を見ている。 「貴方ン! 啓ちゃん帰って来ましたよッ」 急わしく上って来そうな寛子の声だ。勘三は、矢庭にハンドバッグを懐へしまった。何時も原稿の束をしまいつけているので、ふくれた懐も目立たない。 「へえ! 昨夜はどこへ泊ったンだ? 新聞社のところから急にいなくなったじゃないかッ」 勘三は目玉をパチパチさせて階下へ降りて来るなり、啓吉に合図をする。で、啓吉は、叔父と別れてからの話をしなければならない。 「へえ、随分親切な人もあるもンね。尺八を吹く人なのかい?」 「…………」 「他人様だってそンな親切なお方があるンだのに、手前エはどうだ。血のつながった甥じゃアないかよ。ええ? それをさア、姉きへ意地を張って、方々へ預けようとするから、こんな間違いがおきるンだ」 「そンなことはどうでもいいわ……何も、啓坊がいなくなったからって、酒を呑んでへべれけになって帰る事はないでしょう……あとで、どうなのか、啓ちゃんに聞いてみますよ、怪しいもンだからねえ」 「余計なことを訊かなくてもいいよ。子供は天真なのだからね……」 「へへッだ! ――だって、啓ちゃんは動物園へ連れてってやっても、猿同士がおんぶしあってる事ちゃんと識ってて、顔を赧めるンですもの、もう天真じゃないわよ」 「莫迦ッ! 場所を考えて言えよ。――早く啓坊に飯でも食べさせてやりッ」 「白ばくれて、何ですかッ、私が何にも知らないと思って……皆知ってますよ」 「知ってたらなおいいじゃないか、俺が虎になって帰ったからって、何も手前エが知ってるッて威張るこたアないだろう………」 「兎に角いいわよ、後で啓吉に訊いてみますからねえ……」 「啓吉! こんな莫迦な、叔母さんに余計なことをいうと承知しないよ。いいかい、ええ? そのかわり叔父さんが金魚鉢買ってやるよ、欲しいっていったろう……」 「まア、そンな金あったら、伸ちゃんの襟衣を買ってやりますよ。啓吉啓吉なンて何ですか! 弱味があるンでしょう? ――本当に、死んだ義兄さんそっくりで、梟みたいな目玉……啓ちゃんには罪はないけど、厭になっちゃうわ……」 「あ、あ、秋日和で、菅公なぞはハイキングとしゃれてるのに、朝から夫婦喧嘩か、こっちが厭になるよ。――伸ちゃんもお出でッ、襯衣買ってやるよ」 勘三は、寛子の容子をうかがっている啓吉の頭を押して伸一郎を背負うと、どんどん路地の外へ出て行った。 「いいかい、叔母さんに何でも黙ってンだよ」 「…………」 「おい、こら、判ったのか、判らンのか?」 「うン、でも、あのお金を使っちゃったんだろう?」 「ううんいいんだよ。叔父さん明日は沢山お金が這入るンだから返しに行くよ。解ったろう……」 硝子屋の前には、青色で染めた硝子鉢が出ていた。啓吉はそれを指でおさえて、 「これがいい」 といった。
十二
金魚鉢は青くて、薄く透けていて、空へ持ちあげると雲が写っている。啓吉には素晴らしい硝子の壺だ。啓吉はそれを覗き眼鏡にして、拡ろがった空を見ながら、 「ねえ、空はどうしてあんなに青いの?」 「空かい?」 「うん」 「さア、何かで空の青いことを読んだが……大気の中にいる微粒子ってものがさ、水蒸気になってさ、その微粒子の沢山な量が、むくむく重なると、あンなに青い空になるンだと……」 「微粒子って青いものなの?」 「面倒だな、叔父さんだって、本当は覚えてやしないよ。微粒子ってのはねえ……ほら、海の水だって掬ってみると青くないけど、どっさりだと青くなるじゃないか、ねえ、お前のその鼻水もそうだよ……」 啓吉はずるりと鼻汁をすすった。 「さアて、金魚鉢買ったら洋品屋にまわって、伸公の襯衣を買ってやらなくちゃ、叔母さん怒るからねえ」 「あの青い袋のお金で買うの?」 「余計なことをいわンでもいいよ。叔父さんがちゃんと明日は持って行くンだから……」 伸一郎は蜂の腹のようなだんだらの襯衣を買ってもらった。 「さア、伸公、ずいずいずっころばしを唄って帰ろうや」 啓吉達が勇んで路地の中へ帰って行くと、寛子は開けっぱなしの玄関に立っていて、気味の悪い程な機嫌のいい顔でニコニコ笑ってつっ立っていた。 「貴方!」 「何だッ」 勘三は故意に強い顔をして見せた。 「貴方ッ、三百円三百円……三百円よ」 「何のことだ、周章てくさって、ええ?」 「懸賞が当ったのよ」 「ホウ……どこだい?」 「まア、呑気だ。そんなに方々心当りがあるの?」 「余計なことをいいなさんな。亭主を何時も莫迦にばかりしているから亭主だって、方々へ心当りをつけとくンさ……」 勘三は寛子から手紙を受取ると、そそくさと二階へ上り、すぐに支度をして降りて来た。 「また、昨夜みたいに、へべれけになって帰っちゃ困りますよ。いい? 家賃だって今月は少しかためて払わないじゃ、追っ払われそうだし、判りましたか?」 「あああだ、君の顔をみると、家賃の請求書に見えて仕方がないよ。ま、兎に角、俺の留守には、支那蕎麦の十杯も食べて呑気に待っていなさい。ええ?」 勘三が元気よく、往来へ出て行くと、寛子は落ちつきのない容子で、鏡台の前に坐った。化粧水も髪油もとうの昔に空っぽだ。ああ早く三百円にお目にかかってあれもこれも……ねえ伸ちゃんといいたい気持ちで、寛子が振り返ると、啓吉も伸一郎も、裏の貧弱な椹の垣根の下で、盛んに泥をこねかえしている。 「伸ちゃん! あんまり、ばばっちいことしちゃ駄目よッ」 玄関を開け拡げておくと、小さい鏡の中へまで、路地の上の空が写って見える。――啓吉が女の子だったら、女中がわりにでも置いてやるのだけれど、……何にしても三百円は大金だ。寛子は油気のないばさばさした髪に櫛をとおしながら、昨夜持って帰った、女持ちの青いハンドバッグが気にかかって仕方がなかった。 「一寸見せてよ」 と言ったら、周章ててしまいこんでしまったけれど……寛子は思い出したように急に立ちあがると、泥いじりしている啓吉へ、 「啓ちゃん、一寸お出で、一寸でいいの……」 と、裏口から啓吉を呼びたてた。
十三
星の奇麗な晩で、頭の芯が痛くなる程、啓吉は二階からあおむいて空を眺めた。 階下では、ハイキングに行った中の叔母の菅子が、野菊や赤い実のついた木の枝を土産にして、寛子と話しこんでいる。 「電気つけて……」 伸一郎が、つまらなくなったのか、手摺から離れると、啓吉に電気をつけてとせがんだ。机は茶餉台がわりに階下へ降りているので、踏台になるものが何もない。 「うん、電気よか、星の方がピカピカしているよ、伸ちゃん、僕がアメリカを見せてやるからお出でよ……」 「アメリカ」 「ああとてもよく見えるよ、明るくて国旗がいっぱい出ててさ……」 啓吉が、伸一郎の腋の方へ手をまわしてかかえ上げると、伸一郎の胸の動悸がことこと激しく鳴っている。 「怖いかい」 「うん」 「怖かないよ……」 かかえ上げると、伸一郎が手摺に足をふんばったので、大きな音をたててどすんと、二人とも尻餅をついた。 「何、おいたしてるのッ! どすんどすん暴れて、埃がおちて来るじゃないのウ」 啓吉は首を縮めた。伸一郎はわざと、足を畳に投げつけた。啓吉は吃驚して、伸一郎の上へ馬乗りになったが、暗い闇のなかで、伸一郎の顔の上へ、自分の顔を持って行くと、乳くさい息が、微風のように啓吉の咽喉へ吹いて来た。啓吉は遠いものを探しあてたように、伸一郎の唇の上へ、自分の額を押しつけた。 「ぐりぐり坊主、ぐりぐり坊主……」 と、小さい声でささやきながら、啓吉は、伸一郎の腋の下を擽ぐった。擽ぐりながら、二人はころころ転げまわった。啓吉は冷たい畳の上を伸一郎と転がりながら、あくびまじりに涙が溢れた。 「おい! おいたしてると、きかないよッ」 二階の梯子段の上から、寛子の顔が生首のように覗いた。階下では、菅子の優しい声で、 「子供だもの放っときなさいよ」 と、姉をたしなめている、ぽつんとした声がきこえる。 「真暗だね? 眠いンなら、二人とも降りていらっしゃい。その辺をばらばらにしていると叔父さんに叱られるよ」 啓吉はまた首を縮めた。 階下では、菅子が、牡丹色のジャケツに黒のジャアジイのスカートをはいて、横坐りになったままで、 「そりゃ勿論、姉さんがだらしがないのさ、だけど、女ってものは三十になったって、あンたのいうような、そンな分別なンてつかないと思うわ。しかも、五年も一人でいたンですもの、子供なンかかまってられないと思うの……」 「母性愛なンてものはなくなるかしら?」 「母性愛? 冗談じゃないわ、そンなことはあンたみたいに御亭主のある人のいうことさ、――あンなにまだ若づくりで、むちむちしてンですもの、苦労してる気持ち判るわよ……」 「おやおや一人者の癖して、よく三十女の気持ちがお判りになりますねえ?」 「判るも判らないも、本当の事よ。蓮ちゃんだって、そうだわ。たった十七だけど、あんなになって、子供の癖にいっぱしの女房気取りで、……一番、あンたを莫迦にしている位よ」 「へえ、私を莫迦に? 何時逢ったの?」 「ううん、一寸尋ねて来たンだけど……まるきり変ってしまってねえ、苦労はしてるらしいけど、一人者のあたしの方が、よっぽど羨ましかったわよ」
十四
九時が打った。 勘三はまだ帰らなかった。誂らえた支那蕎麦が本当に十杯ばかりも並んだ。 「こんなに御馳走になって済まないわ」 「何いってンのよ、さア、伸公も啓ちゃんもたンとお上りよ」 啓吉は茶碗をかかえ上げて、湯気で頬を濡らしながら、青いハンドバッグの事を知らないで押し通した事に気がひけながら、蕎麦を食べた。小さい電気の下に、四ツの大きな影が部屋いっぱいに重なりあって、いっとき静かに蕎麦の音をさせていたが、寛子が思い出したように、 「あンたも、蓮ちゃんを羨ましがらないで、早く結婚したらいいじゃないの?」 「うふッ……何を思い出してンの、さ、私は私よ。いまにもっともよき人を選んでね」 「薹がたってはお終いだから……」 「まア、有難う! 三人のいい見本がありますから、せいぜい利巧に立ちまわるわ……」 「莫迦! ところで考えてるンだけど、四人のうちで私が一番貧乏性かも知れないわね。――酒呑みで、呑気そうで浮気者の亭主をかかえてさ、おまけに、呆んやりした子供をぶらさげてて、一生に一度、あンたみたいに、安香水でもいいからふりかけて見たいよ本当に……」 「皮肉ねえ……」 「ん、そ、そうじゃないさ、つくづく亭主ってもの持ってみて、女ってものの利巧さかげんがよく判ったのよ」 「だって、義兄さんは、あれで芯はしっかりしているわ、啓坊のお父さんみたいだと困るじゃないの? あれもいけない、これもいけないっていうから、義兄さんが亡くなっちゃうと、姉さんはいっぺんに若返って、娘のやりなおしみたい甘くなっちまってさ……」 「結局、早稲も晩稲も駄目で、あンたみたいなのがいいってことでしょ」 「あら、厭だア、冗談でしょ。私だって情熱があれば、蓮ちゃんの轍を踏む位何でもないけれど……職業なンか持ってると、そうそう男のひと一と目見て、一途にやれないからなの、――でもそろそろ本当は困ってンのよ。二十四にもなって、別に処女を大事にしてるってのじゃないけど、いまさらその辺へ一寸安々捨てられもしないし……」 「もてあましている?」 「全く、本当にそうなのホホ……」 「厭なお菅ちゃんだ……。ところで、父さん、どうしたんだろう? 遅いわねえ」 伸一郎は、早、寛子の膝を枕に眠りこけている。隣家では時計が十時を打った。 「昨日も電話があったけど、ねえ、本当に困るンなら、私が明日連れてって、姉さんの容子、どんな風か見てこようか?」 「拝むわ、そうしてよ、何だか虫が……」 好かないと言おうとしたが、啓吉が、痩せた影をしょんぼり壁に張りつけさせて、叔母達の話を聞いているので流石に寛子も言葉を濁した。
「啓坊が一番苦労するね」 菅子が、そういって立ちあがった。朽葉色の靴下が細っそりしていて、啓吉の目に美しく写った。 「じゃ、そろそろ帰ろう……啓坊連れてきましょうか?」 「頼むわ」 寛子は、襯衣のない啓吉が風邪を引くといけないといって、勘三の縮んだ夏襯衣を、啓吉の下着に着せてやった。 「さア、子供のうちは、何でもいいッと、じゃ、二三日してまた来ます。義兄さんによろしく。大金が這入ったら、それこそ安香水でも買ってね」 小麦色の合いの外套を引っかけた菅子の後から、啓吉は、眠た気な目をして、 「さよなら」 といって戸外へ出た。路地には風が出ていた。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] 下一页 尾页
|