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樋口一葉(ひぐちいちよう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-23 9:32:15 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


       四

 さても、さほどまでに多くの人々に懐かしまれた女史の、胸の隠処おくがに秘めた恋は、片恋であったであろうか、それともまた、互に口に出さずとも相恋の間柄であったであろうか。日記に見える女史の心は動揺している。すくなくとも八分の弱身はあったように見られる。はじめから女史はその人を恋人として見たのではない。最初は小説の原稿を見てもらうために、先生として逢い、同時に、原稿を金子きんすに代えることも頼んだのだ。その人の友達が一葉の友でもあったので、二人を紹介したのがはじめだった。ところが、その人は、友達のように親しく一葉に同情し、友達よりも深い信実心まごころを示した。いかほど用心深い性質さがでも、若い女には若い血潮が盛られている。十九の一葉はその人を心から兄と思い慕った。そしてその慕わしさは恋心となった。
「よもぎふ日記」二十六年四月六日の記に、

こぞの春は花のもとに至恋の人となり、ことしの春はうぐいすの音に至恋の人をなぐさむ。
    春やあらぬわが身ひとつは花鳥の
        あらぬ色音にまたなかれつゝ
とある末に、
もゝのさかりの人の名をおもひて、
    もゝの花さきてうつろふ池水の
        ふかくも君をしのぶころかな
とある。桃の花のうつらう水というのこそ、彼女の二なき恋人の名なのである。その人こそ現今いまも『朝日新聞』に世俗むきの小説を執筆し、歌沢うたざわ寅千代の夫君として、歌沢の小唄こうたを作りもされる桃水とうすい半井なからい氏のことである。
 半井氏を一葉はどれほど思っていたであろうか、そして半井氏は――
 昔時むかしは知らずやや老いての半井氏は、訪客の談話が彼女の名にうつると、迷惑そうな顔をされるということである。そして一ことも彼女については語らぬということである。関如来氏の談によれば、ある日朝から一葉が半井氏をたずねたことがある。彼女の声が、訪れたということを格子戸こうしどの外から告げられると、二階に執筆中の半井氏は不在るすだと言ってくれと関氏に頼んだ。関氏が階下へおりてゆくと、彼女は上って坐って待っていた。関氏は何時いつも彼女の家を絶えずおとずれる訪客の一人であって、いつも彼女に饗応きょうおうをうける側の人であったので、こういう時こそと、自らが主人気取りで、半井氏が留守ならばとしきりにいとまを告げようとする女史を引止めたうえに、すしなどまでとって歓待した。そしてひるごろまで語りあった。階上の半井氏は、時がたつにしたがって、階下に用事があるようになったが、さりとて留守と言わせたのでおりる事は出来ず、人を呼ぶことは出来ず、その上灰吹はいふきをポンとならして煙管キセルをはたくのが癖であることを、彼女がよく知っているので、そんな事にまで不自由を忍ばなければならなかったので、彼女が辞し去ったあとで、こんな事ならば逢って時間をつぶした方がよかったとつぶやいたということである。その一事ひとことをもってすべての推測を下すのではないが、憎くはないがこの女一人のためには、何もかも失ってもと思い込むほどの熱情は、なかったのであろう。その、どこやら物足らなさを、彼女の魂の中の暴君が、誇をきずつけられたように感じ、恋もし、慕いもしたが、また悔みもした。
 勝気の女はかなしかった。女人の誇りを、恋人の前でまで、赤裸せきらに投捨てられないものの恋は、かなしいが当然で、彼女は自ら火をけたほのおを、自らの冷たさをもって消そうと争った。
 彼女の恋愛記は成恋でもなければ勿論もちろん失恋でもない。恋というものに対して、自らの魂のなかで、冷熱相戦った手記であると同時に、肉体と霊魂との持久戦でもあった。彼女もまた旧道徳に従って、ひそかに恋に苦しむのを、恋愛の至上と思っていたらしい。
 彼女を恋に導いた友達――野々宮某女は、思いあがった彼女の誇りを利用して、巧みに離間しようとして成功した。とはいえ、その実それは、一葉自身の弱点でもあった。
 恋するものの女らしさ――私はそう思う時に女心の優しさにほほえまずにはいられない。それは彼女が初めて島田まげった時のことである。その日彼女が半井氏を訪れたのは、人の口に仇名あだながのぼり、あらぬ名をうたわれるのを憤って、暫時、絶交しようと思っての訪問であった。そうした日であるのに、珍らしくも一葉は島田髷の初結はつゆいをした。その日は二十五年六月二十五日のことである。
「しのぶぐさ日記」には、
梅雨つゆ降りつゞく頃はいとわびし、うしがもとにはいと子君伯母おば二処にしょ居たり、君は次の間の書室めきたるところに打ふし居たまへり。雨いたく降りこめばにや雨戸残りなくしめこめていとくらし、いと子君伯母なる人に向ひて、御覧ごろうぜよ樋口さまのおぐしのよきこと、島田は実によく似合給へりといへば、伯母君も実になり/\、うしろ向きて見せたまへ、まことに昔の御殿風と見えて品よき髷の形かな。我は今様いまようの根の下りたるはきらひなどいひ給ふ。半井君つとたちて、いざや美しうなりたまひし御姿みるに余りもさし込めたる事よとて、雨戸二、三枚引あく、口の悪き男かなとて人々笑ふ。我もほゝゑむものから、あの口より世になき事やいひふらしつると思ふにくらしさに、我しらずにらまへもしつべし。
とある。けれども、何のためにさまで憎く思ったかといえば、その前日、彼女が師の家にて同門の友達と雑談にふけったおり、誰彼のうわさに夜をふかすうちに、かしましきがつねとて、誰にはかかる醜行あり、彼れにはこうした汚行ありとあげつらうを聞いて、彼女はもう臥床ふしどに入ろうとした師歌子の枕もとへいって身の相談をしようとした。それは、それより前の日に、伊藤夏子という人が席を立って一葉をものかげに呼び、声をひそめて、
「貴女は世の中の義理の方が重いとお思いなさるか、それとも御家名の方がおしいと思いなさるか」
と聞かれたので、
「世の義理は重んじなければならないものだと私は思います。けれども家の名も惜くないことはありません。甲乙がないといいたいけれど、どうも私の心は家の方へ引かれがちです。何故なぜというのに、自分ばかりのことでなく、母もあれば兄妹きょうだいもあるので」
と答えた。
「では言わなければならないことでありますが、貴女は半井さんと交際を断つ訳にはいかないでしょうか」
といった。
 彼女は友の視線があまりまぶしいので、何事と知らねど胸の中にもののたたまるように思われた。
「妙なことを仰しゃるのね。それは何時いつぞやもおはなししたとおり、あの方はおとしも若いし、美しい御顔でもあるし私が行ったりするのは、はばからなけりゃなるまいと思っています。幾度交際を断とうと思ったかも知れはしません。けれど受けた恩義もあり、そうは出来かねているのよ、私というものの行いに、汚れのないのを御存知でありながら……」
と彼女はうらみもした。
「そりゃあ道理はそうですけれど――まあ訳はいずれ話しますが、どうしても交際が断てないというのならば、私でも疑うかもしれませんよ」
 そういって友は立別れた。一葉は、ふとその日のいぶかしい友の言葉を思い出したので、歌子によってその惑いを解いてもらおうとしたのであった。
「半井さんの事は先生がよく御承知であって、訪問をお止めにならないのを、何ぞ噂するのでございましょうか」
と歌子にたずねた。すると歌子の返事は、実に意外に彼女の耳に鳴り響いた。
「では、行末の約束を契ったのではないのか」と。
 彼女は仰天して、七年の年月を傍においた弟子の愚直な心を知らないのかと、うらみ泣いた。
「でも、半井氏という人は、お前は妻だといい触らしているというではないか。もし縁があってゆるしたのならば、他人がなんと言おうとも聞入れないがよい。もしそうでないのならば、交際しない方がよいだろう」
と歌子はさとした。それ故にこそ彼女は梅雨の日を訪ずれたのである。そして、絶交する人の目に、島田に結んだ姿を残そうとしたのである。
 愛するあまりに、妻とも言ったであろうかの恋人に、その故に絶交しなければならない彼女は、たった一月前には思う人の病を慰めるためにと、乏しい中から下谷の伊予紋いよもん(料理店)へよって、口取りをあつらえたり、本郷の藤村へ立寄ってむし菓子を買いととのえたりして訪れていた。ある時は、朝早くから訪れて午過ひるすぎまで目ざめぬ人を、雪の降る日の玄関わきの小座敷につくねんと、火桶ひおけもなくまちあかしていたこともあった。彼女が手伝って掃除そうじすると、まめやかな男主あるじは、手製のおしるこを彼女にと進めたりした。彼女はその日のことを記した末、
半井うしがもとをいでしは四時ころ成りけん、はく皚々がいがいたる雪中、りん/\たる寒気をおかして帰る。中々おもしろし、堀ばた通り九段のあたりふきかくる雪におもてむけがたくて頭巾ずきんの上に肩かけすつぽりとかぶりて、折ふしばかりさし出すもをかし、種々の感情胸にせまりて、雪の日といふ小説の一編あまばやの腹稿なる。
とある。恋に対して傲慢ごうまんであった彼女にも、こうした夢幻境もあった。恋という感想に、
我はじめよりかの人に心をゆるしたることもなく、はた恋しゆかしなどと思ひつることかけてもなかりき。さればこそあまたたびの対面に人げなき折々はそのことゝもなく打かすめてものいひかけられしこともありしが、知らず顔につれなうのみもてなしつるなり。さるを今しもかう無き名など世にうたはれてはじめて処せくなりぬるなん口惜くちおしとも口惜しかるべきは常なれど、心はあやしき物なりかし、この頃降りつゞく雨の夕べなどふと有し閑居のさま、しどけなき打とけたる姿などそこともなくおもかげに浮びて、の時はかくいひけり、この時はかう成りけん、さりし雪の日の参会の時手づから雑煮ぞうににて給はりし事、母様の土産にしたまへと、干魚の瓶漬送られしこと、我参る度々に嬉しげにもてなして帰らんといへば今しばし/\君様と一夕の物語には積日の苦をも忘るるものを、今三十分二十五分と時計打眺めながら引止められしことまして我ためにとて雑誌の創立に及ばれしことなどいへば更なり、久しうわずらひ給ひその後まだよわよわと悩ましげながら、夏子さま召上りものは何がお好きぞや、この頃の病のうち無聊ぶりょうたえがたくそれのみにて死ぬべかりしを朝な夕なに訪ひ給ひし御恩何にか比せん、御礼には山海の珍味も及ぶまじけれどとて、兄弟などのやうにの給ふ。我料理は甚だ得手なり殊に五もくずし調ずること得意なれば、近きに君様正客にしてこの御馳走ごちそう申すべしと約束したりき。さるにてもその手づからの調理ものは、いつのよいかにして賜はることを得べきなど思ひいづるまゝに有しこと恋しく、世の人のうらめしう、今より後の身心ぼそうなど取あつめて一つ涙ひぬものから、かく成行なりゆきしも誰ゆゑかは、その源はかの人みづから形もなき事まざ/\言触しうしたればこそ……
とあるが、その実は野々宮某という女友達の嫉妬しっとから言触らされたのを知らなかったのである。
 彼女は恋人から離れたと思い信じたが、彼女の心はそうゆかなかった。或時は、
吹風のたよりはきかじおぎの葉の
    みだれて物を思ふころかな
とまで思い乱れ、またある時は伯父おじの病床に侍して(かゝる時の折ふしにもなお彼の人を忘れ難きはなぞや)といい、ある時は用もなきに近きみちをえらんでゆき、その人の住む家の前を通りて見、その家の下女げじょ行逢ゆきあいて近状を聞き、(万感万嘆この夜ねむることかたし)と書いたのは、彼女の青春二十一歳のことであった。次の年の一月二十九日雪の降るのを見つつ、
わが思ひ、など降る雪のつもりけん
    つひにとくべき中にもあらぬを
と嘆き四月の雨の日の記には、
わが心より出たるかたちなればなどか忘れんとして忘るゝにかたき事やあると、ひたすら念じて忘れんとするほど、唯身にせまりくるがごとおもかげのまのあたりに見えて堪ゆべくもあらず、ふと打みじろげばかの薬の香のさとかをる心地して思ひやる心や常に行通ふとそゞろおそろしきまでおもひしみたる心なり、かの六条の御息所みやすどころのあさましさを思ふにげに偽りともいはれざりける。
    おもひやる心かよはゞみてもこん
        さてもやしばしなぐさめぬべく

    恋は、
見ても聞きてもふと思ひむるはじめいと浅し、
いはでおもふいと浅し、
これよりもおもひかれよりも思はれぬるいと浅し、
これを大方おおかたのよに恋の成就じょうじゅとやいふならん、あいそめてうたがふいと浅し、
わすられてうらむいと浅し、
逢んことは願はねど相思はん事を願ふいと浅し、
名取川なとりがわ瀬々のうもれ木あらはればと人のため我ためををしむたぐひ、うきに過たる年月のいつぞは打とけてとはかなきをかぞへ、心はかしこに通ふものか、身は引離れてことさまになりゆく、さては操を守りて百年ももとせいたづらぶしのたぐひ、いづれか哀れならざるべき、されど恋に酔ひ恋に狂ひ、この恋の夢さめざらんなかなかこの夢のうちに死なんとぞ願ふめる、おもへば浅きことなり――誠入立いりたちぬる恋のおくに何物かあるべきもしありといはゞみぐるしく、憎く、憂く、つらく、浅間しく、かなしく、さびしく、恨めしく取つめていはんにはいとわしきものよりほかあらんともおぼえず、あはれその厭ふ恋こそ恋の奥なりけれ……
 彼女の恋の信仰は頑固であった。彼女は何処までも人生のほろにがさを好んだ。
 暖かくかなしい心持をいだいて帰った雪の途中で出来上った小説「雪の日」は、その翌年に発表された。十六になる薄井うすいの一人娘おたまが、桂木かつらぎ一郎という教師と家出をしたというのが筋である。「なかだちは過し雪の日ぞかし」ともあれば「かくまでに師は恋しかりしかど、ゆめさらこの人を夫と呼びて、ともに他郷の地をふまんとは、かけても思ひよらざりしを、行方なしや迷ひ……窓の呉竹くれたけふる雪に心下折したおれて、我も人も、罪は誠の罪になりぬ」
とある。言わずともわが身――世馴よなれぬ無垢むく乙女おとめなればこうもなろうかと、彼女自身がそうもなりかねぬ心のうちを書いて見たものと見ることが出来よう。

 彼女は恋に破れても名には勝った。困窮はたえ忍び得たが病苦には打敗うちまけてしまった。彼女の生存の末期は作品の全盛時にむかっていた。『国民の友』の春季附録には、江見水蔭えみすいいん星野天知ほしのてんち後藤宙外ごとうちゅうがい、泉鏡花に加えて彼女の「別れみち」が出た。評家は口をそろえて彼女をたたえた。世人はそれを「道成寺どうじょうじ」に見たて、彼女を白拍子しらびょうし一葉とし、他のものを同宿坊と言伝えたほどであった。それは二十九年一月のことである。その年の四月には咽喉のどれ、七月初旬には日々卅九度の熱となった。山竜堂さんりゅうどう樫村かしむら博士も、青山博士も医療は無効だと断言した。十一月の三日ごろから逆上のぼせのために耳が遠くなってしまった。そして二十三日午前に逝去せいきょした。かつて知人の死去のおりに持参する香奠こうでんがないとて、
我こそは達磨だるま大師になりにけれとぶらはんにもあしなしにして
といい、また他行のため洗張あらいはりさせし衣を縫うに、はぎものに午前だけかかり、下まえのえり五つ、そでに二つはぐとて、
宮城みやぎのにあらぬものからから衣なども木萩こはぎのしげきなるらん
恬然てんぜんと一笑した人の墓石は、現今も築地つきじ本願寺の墓地にある。その石の墓よりも永久に残るのは、短い五年間に書残していった千古不滅の、あの名作名篇の幾つかである。
――大正七年六月――


昭和十年末日附記 随筆集『筆のまに/\』は、佐佐木竹柏園ちくはくえん先生御夫妻の共著だが、その一二五頁「思ひ出づるまに/\」大正七年六月の一節に「自分がいつか夏目漱石さんの所へ遊びに行って昔話などをした時、夏目さんが、自分の父と一葉さんの父とは親しい間柄で、一葉さんは幼い時に兄の許嫁いいなずけのようになっていた事もあったと言われた。明治の二大文豪の間に、さる因縁があったとは面白いことである」とあった。





底本:「新編 近代美人伝(上)」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年11月18日第1刷発行
   2001(平成13)年7月9日第5刷発行
底本の親本:「近代美人伝」サイレン社
   1936(昭和11)年発行
初出:「婦人画報」
   1918(大正7)年6~8、10月
入力:小林繁雄
校正:門田裕志
2006年1月21日作成
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