四
さても、さほどまでに多くの人々に懐かしまれた女史の、胸の隠処に秘めた恋は、片恋であったであろうか、それともまた、互に口に出さずとも相恋の間柄であったであろうか。日記に見える女史の心は動揺している。すくなくとも八分の弱身はあったように見られる。はじめから女史はその人を恋人として見たのではない。最初は小説の原稿を見てもらうために、先生として逢い、同時に、原稿を金子に代えることも頼んだのだ。その人の友達が一葉の友でもあったので、二人を紹介したのがはじめだった。ところが、その人は、友達のように親しく一葉に同情し、友達よりも深い信実心を示した。いかほど用心深い性質でも、若い女には若い血潮が盛られている。十九の一葉はその人を心から兄と思い慕った。そしてその慕わしさは恋心となった。 「よもぎふ日記」二十六年四月六日の記に、
こぞの春は花のもとに至恋の人となり、ことしの春は鶯の音に至恋の人をなぐさむ。 春やあらぬわが身ひとつは花鳥の あらぬ色音にまたなかれつゝ
とある末に、
もゝのさかりの人の名をおもひて、 もゝの花さきてうつろふ池水の ふかくも君をしのぶころかな
とある。桃の花のうつらう水というのこそ、彼女の二なき恋人の名なのである。その人こそ現今も『朝日新聞』に世俗むきの小説を執筆し、歌沢寅千代の夫君として、歌沢の小唄を作りもされる桃水、半井氏のことである。 半井氏を一葉はどれほど思っていたであろうか、そして半井氏は―― 昔時は知らずやや老いての半井氏は、訪客の談話が彼女の名にうつると、迷惑そうな顔をされるということである。そして一ことも彼女については語らぬということである。関如来氏の談によれば、ある日朝から一葉が半井氏を訪ねたことがある。彼女の声が、訪れたということを格子戸の外から告げられると、二階に執筆中の半井氏は不在だと言ってくれと関氏に頼んだ。関氏が階下へおりてゆくと、彼女は上って坐って待っていた。関氏は何時も彼女の家を絶えずおとずれる訪客の一人であって、いつも彼女に饗応をうける側の人であったので、こういう時こそと、自らが主人気取りで、半井氏が留守ならばとしきりに暇を告げようとする女史を引止めたうえに、鮨などまでとって歓待した。そして午ごろまで語りあった。階上の半井氏は、時がたつにしたがって、階下に用事があるようになったが、さりとて留守と言わせたのでおりる事は出来ず、人を呼ぶことは出来ず、その上灰吹をポンとならして煙管をはたくのが癖であることを、彼女がよく知っているので、そんな事にまで不自由を忍ばなければならなかったので、彼女が辞し去ったあとで、こんな事ならば逢って時間をつぶした方がよかったと呟いたということである。その一事をもって総ての推測を下すのではないが、憎くはないがこの女一人のためには、何もかも失ってもと思い込むほどの熱情は、なかったのであろう。その、どこやら物足らなさを、彼女の魂の中の暴君が、誇を疵つけられたように感じ、恋もし、慕いもしたが、また悔みもした。 勝気の女はかなしかった。女人の誇りを、恋人の前でまで、赤裸に投捨てられないものの恋は、かなしいが当然で、彼女は自ら火を点けた焔を、自らの冷たさをもって消そうと争った。 彼女の恋愛記は成恋でもなければ勿論失恋でもない。恋というものに対して、自らの魂のなかで、冷熱相戦った手記であると同時に、肉体と霊魂との持久戦でもあった。彼女もまた旧道徳に従って、秘に恋に苦しむのを、恋愛の至上と思っていたらしい。 彼女を恋に導いた友達――野々宮某女は、思いあがった彼女の誇りを利用して、巧みに離間しようとして成功した。とはいえ、その実それは、一葉自身の弱点でもあった。 恋するものの女らしさ――私はそう思う時に女心の優しさにほほえまずにはいられない。それは彼女が初めて島田髷に結った時のことである。その日彼女が半井氏を訪れたのは、人の口に仇名がのぼり、あらぬ名をうたわれるのを憤って、暫時、絶交しようと思っての訪問であった。そうした日であるのに、珍らしくも一葉は島田髷の初結をした。その日は二十五年六月二十五日のことである。 「しのぶぐさ日記」には、
梅雨降りつゞく頃はいと侘し、うしがもとにはいと子君伯母君二処居たり、君は次の間の書室めきたるところに打ふし居たまへり。雨いたく降りこめばにや雨戸残りなくしめこめていと闇し、いと子君伯母なる人に向ひて、御覧ぜよ樋口さまのお髪のよきこと、島田は実によく似合給へりといへば、伯母君も実に左なり/\、うしろ向きて見せたまへ、まことに昔の御殿風と見えて品よき髷の形かな。我は今様の根の下りたるはきらひなどいひ給ふ。半井君つと立て、いざや美しうなりたまひし御姿みるに余りもさし込めたる事よとて、雨戸二、三枚引あく、口の悪き男かなとて人々笑ふ。我もほゝゑむものから、あの口より世になき事やいひふらしつると思ふにくらしさに、我しらずにらまへもしつべし。
とある。けれども、何のためにさまで憎く思ったかといえば、その前日、彼女が師の家にて同門の友達と雑談にふけったおり、誰彼の噂に夜をふかすうちに、姦しきがつねとて、誰にはかかる醜行あり、彼れにはこうした汚行ありと論つらうを聞いて、彼女はもう臥床に入ろうとした師歌子の枕許へいって身の相談をしようとした。それは、それより前の日に、伊藤夏子という人が席を立って一葉をものかげに呼び、声をひそめて、 「貴女は世の中の義理の方が重いとお思いなさるか、それとも御家名の方が惜いと思いなさるか」 と聞かれたので、 「世の義理は重んじなければならないものだと私は思います。けれども家の名も惜くないことはありません。甲乙がないといいたいけれど、どうも私の心は家の方へ引かれがちです。何故というのに、自分ばかりのことでなく、母もあれば兄妹もあるので」 と答えた。 「では言わなければならないことでありますが、貴女は半井さんと交際を断つ訳にはいかないでしょうか」 といった。 彼女は友の視線があまりまぶしいので、何事と知らねど胸の中にもののたたまるように思われた。 「妙なことを仰しゃるのね。それは何時ぞやもお咄したとおり、あの方はお齢も若いし、美しい御顔でもあるし私が行ったりするのは、憚からなけりゃなるまいと思っています。幾度交際を断とうと思ったかも知れはしません。けれど受けた恩義もあり、そうは出来かねているのよ、私というものの行いに、汚れのないのを御存知でありながら……」 と彼女は怨みもした。 「そりゃあ道理はそうですけれど――まあ訳はいずれ話しますが、どうしても交際が断てないというのならば、私でも疑うかもしれませんよ」 そういって友は立別れた。一葉は、ふとその日の訝しい友の言葉を思い出したので、歌子によってその惑いを解いてもらおうとしたのであった。 「半井さんの事は先生がよく御承知であって、訪問をお止めにならないのを、何ぞ噂するのでございましょうか」 と歌子にたずねた。すると歌子の返事は、実に意外に彼女の耳に鳴り響いた。 「では、行末の約束を契ったのではないのか」と。 彼女は仰天して、七年の年月を傍においた弟子の愚直な心を知らないのかと、怨み泣いた。 「でも、半井氏という人は、お前は妻だと言触らしているというではないか。もし縁があってゆるしたのならば、他人がなんと言おうとも聞入れないがよい。もしそうでないのならば、交際しない方がよいだろう」 と歌子は諭した。それ故にこそ彼女は梅雨の日を訪ずれたのである。そして、絶交する人の目に、島田に結んだ姿を残そうとしたのである。 愛するあまりに、妻とも言ったであろうかの恋人に、その故に絶交しなければならない彼女は、たった一月前には思う人の病を慰めるためにと、乏しい中から下谷の伊予紋(料理店)へよって、口取りをあつらえたり、本郷の藤村へ立寄って蒸菓子を買いととのえたりして訪れていた。ある時は、朝早くから訪れて午過ぎまで目ざめぬ人を、雪の降る日の玄関わきの小座敷につくねんと、火桶もなく待あかしていたこともあった。彼女が手伝って掃除すると、まめやかな男主は、手製のおしるこを彼女にと進めたりした。彼女はその日のことを記した末、
半井うしがもとを出しは四時ころ成りけん、白皚々たる雪中、りん/\たる寒気をおかして帰る。中々おもしろし、堀ばた通り九段の辺、吹かくる雪におもてむけがたくて頭巾の上に肩かけすつぽりとかぶりて、折ふし目斗さし出すもをかし、種々の感情胸にせまりて、雪の日といふ小説の一編あまばやの腹稿なる。
とある。恋に対して傲慢であった彼女にも、こうした夢幻境もあった。恋という感想に、
我はじめよりかの人に心をゆるしたることもなく、はた恋し床しなどと思ひつることかけてもなかりき。さればこそあまたたびの対面に人げなき折々はそのことゝもなく打かすめてものいひかけられしことも有しが、知らず顔につれなうのみもてなしつるなり。さるを今しもかう無き名など世にうたはれて初て処せくなりぬるなん口惜しとも口惜しかるべきは常なれど、心はあやしき物なりかし、この頃降りつゞく雨の夕べなどふと有し閑居のさま、しどけなき打とけたる姿などそこともなくおもかげに浮びて、彼の時はかくいひけり、この時はかう成りけん、さりし雪の日の参会の時手づから雑煮にて給はりし事、母様の土産にしたまへと、干魚の瓶漬送られしこと、我参る度々に嬉しげにもてなして帰らんといへば今しばし/\君様と一夕の物語には積日の苦をも忘るるものを、今三十分二十五分と時計打眺めながら引止められしことまして我ためにとて雑誌の創立に及ばれしことなどいへば更なり、久しう病らひ給ひその後まだよわよわと悩ましげながら、夏子さま召上りものは何がお好きぞや、この頃の病のうち無聊堪がたく夫のみにて死ぬべかりしを朝な夕なに訪ひ給ひし御恩何にか比せん、御礼には山海の珍味も及ぶまじけれどとて、兄弟などのやうにの給ふ。我料理は甚だ得手なり殊に五もくずし調ずること得意なれば、近きに君様正客にしてこの御馳走申すべしと約束したりき。さるにてもその手づからの調理ものは、いつのよいかにして賜はることを得べきなど思ひ出るまゝに有しこと恋しく、世の人のうらめしう、今より後の身心ぼそうなど取あつめて一つ涙ひぬものから、かく成行しも誰ゆゑかは、その源はかの人みづから形もなき事まざ/\言触しうしたればこそ……
とあるが、その実は野々宮某という女友達の嫉妬から言触らされたのを知らなかったのである。 彼女は恋人から離れたと思い信じたが、彼女の心はそうゆかなかった。或時は、
吹風のたよりはきかじ荻の葉の みだれて物を思ふころかな
とまで思い乱れ、またある時は伯父の病床に侍して(かゝる時の折ふしにも猶彼の人を忘れ難きはなぞや)といい、ある時は用もなきに近き路をえらんでゆき、その人の住む家の前を通りて見、その家の下女に行逢いて近状を聞き、(万感万嘆この夜睡ることかたし)と書いたのは、彼女の青春二十一歳のことであった。次の年の一月二十九日雪の降るのを見つつ、
わが思ひ、など降る雪のつもりけん つひにとくべき中にもあらぬを
と嘆き四月の雨の日の記には、
わが心より出たるかたちなればなどか忘れんとして忘るゝにかたき事やあると、ひたすら念じて忘れんとするほど、唯身にせまりくるがごとおもかげのまのあたりに見えて得堪ゆべくも非ず、ふと打みじろげばかの薬の香のさとかをる心地して思ひやる心や常に行通ふとそゞろおそろしきまでおもひしみたる心なり、かの六条の御息所のあさましさを思ふにげに偽りともいはれざりける。 おもひやる心かよはゞみてもこん さてもやしばしなぐさめぬべく
恋は、 見ても聞きてもふと思ひ初むるはじめいと浅し、 いはでおもふいと浅し、 これよりもおもひかれよりも思はれぬるいと浅し、 これを大方のよに恋の成就とやいふならん、逢そめてうたがふいと浅し、 わすられてうらむいと浅し、 逢んことは願はねど相思はん事を願ふいと浅し、 名取川瀬々のうもれ木あらはればと人のため我ためををしむたぐひ、うきに過たる年月のいつぞは打とけてとはかなきをかぞへ、心はかしこに通ふものか、身は引離れてことさまになりゆく、さては操を守りて百年いたづらぶしのたぐひ、いづれか哀れならざるべき、されど恋に酔ひ恋に狂ひ、この恋の夢さめざらんなかなかこの夢のうちに死なんとぞ願ふめる、おもへば浅きことなり――誠入立ぬる恋のおくに何物かあるべきもしありといはゞみぐるしく、憎く、憂く、愁く、浅間しく、かなしく、さびしく、恨めしく取つめていはんには厭しきものよりほかあらんとも覚えず、あはれその厭ふ恋こそ恋の奥なりけれ……
彼女の恋の信仰は頑固であった。彼女は何処までも人生のほろにがさを好んだ。 暖かくかなしい心持を抱いて帰った雪の途中で出来上った小説「雪の日」は、その翌年に発表された。十六になる薄井の一人娘お珠が、桂木一郎という教師と家出をしたというのが筋である。「媒は過し雪の日ぞかし」ともあれば「かくまでに師は恋しかりしかど、ゆめさらこの人を夫と呼びて、倶に他郷の地をふまんとは、かけても思ひよらざりしを、行方なしや迷ひ……窓の呉竹ふる雪に心下折れて、我も人も、罪は誠の罪になりぬ」 とある。言わずともわが身――世馴れぬ無垢の乙女なればこうもなろうかと、彼女自身がそうもなりかねぬ心の裏を書いて見たものと見ることが出来よう。
彼女は恋に破れても名には勝った。困窮は堪忍び得たが病苦には打敗てしまった。彼女の生存の末期は作品の全盛時にむかっていた。『国民の友』の春季附録には、江見水蔭、星野天知、後藤宙外、泉鏡花に加えて彼女の「別れ路」が出た。評家は口をそろえて彼女を讃えた。世人はそれを「道成寺」に見たて、彼女を白拍子一葉とし、他のものを同宿坊と言伝えたほどであった。それは二十九年一月のことである。その年の四月には咽喉が腫れ、七月初旬には日々卅九度の熱となった。山竜堂樫村博士も、青山博士も医療は無効だと断言した。十一月の三日ごろから逆上のために耳が遠くなってしまった。そして二十三日午前に逝去した。かつて知人の死去のおりに持参する香奠がないとて、
我こそは達磨大師になりにけれとぶらはんにもあしなしにして
といい、また他行のため洗張りさせし衣を縫うに、はぎものに午前だけかかり、下まえのえり五つ、袖に二つはぐとて、
宮城のにあらぬものからから衣なども木萩のしげきなるらん
と恬然と一笑した人の墓石は、現今も築地本願寺の墓地にある。その石の墓よりも永久に残るのは、短い五年間に書残していった千古不滅の、あの名作名篇の幾つかである。
――大正七年六月――
昭和十年末日附記 随筆集『筆のまに/\』は、佐佐木竹柏園先生御夫妻の共著だが、その一二五頁「思ひ出づるまに/\」大正七年六月の一節に「自分がいつか夏目漱石さんの所へ遊びに行って昔話などをした時、夏目さんが、自分の父と一葉さんの父とは親しい間柄で、一葉さんは幼い時に兄の許嫁のようになっていた事もあったと言われた。明治の二大文豪の間に、さる因縁があったとは面白いことである」とあった。
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