二
一葉女史は江戸っ子だ、いや甲州生れだという小さな口論争を私は折々聴いた。それはどっちも根拠のないあらそいではなかった。女史が生れたのは東京府庁のあった麹町の山下町に初声をあげた。明治五年には他にどんな知名の人が生れたか知らぬが、私たち女性の間には、ことに文芸に携わるものには覚えていてよい年であろう。数え年の六歳に本郷小学校へ入学した。その年は明治の年間でも、末の代まで記憶に残るであろう西南戦争のあった年で、西郷隆盛が若くから国家のために沸かした熱血を、城山の土に濺いだ時である。翌年の七歳には特に手習師匠にあがった。一葉女史の筆蹟が実に美事であるのも、そうした素養がある上に、後に歌人で千蔭流の筆道の達者であった中島師についたからだ。十五年の夏には下谷池の端の青海小学校へ移り、その翌年に退校した。その後は他で勉学したとは公にはされていない。十九年になって中島歌子刀自の許へ通うまでは独学時代であったろうと考えられる。 それまでが女史の両親の揃っていた勉学時代、少女時代で、甲州は両親の出生地であった。父君は樋口則義、母君は滝といって、安政年間に志をたてて共に江戸に出、母は稲葉家に仕え、父は旗本菊池家に奉公し、後に八丁堀衆(与力同心)に加わった。そして維新後に生れた女史は、両親の第四子で二女である。甲斐の国東山梨郡大藤村は女史の両親を生んだ懐しい故郷なので。 小説「ゆく雲」の中には桂次という学生の言葉をかりて、
我養家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩峠の山々峰々垣をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺はをしみて面かげを視さねども、冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚といひては甲府まで五里の道をとりにやりて、やう/\鮪の刺身が口に入る位――
とある。その後の章には、
小仏の峠もほどなく越ゆれば、上野原、つる川、野田尻、犬目、鳥沢も過ぎて猿はし近くにその夜は宿るべし、巴峡のさけびは聞えぬまでも、笛吹川の響きに夢むすび憂く、これにも腸はたたるべき声あり勝沼よりの端書一度とゞきて四日目にぞ七里の消印ある封状二つ……かくて大藤村の人になりぬ。
と故郷の山野の景色がかなり細叙してある。
父則義氏は廿二年ごろに世を去られた。それからの女史の生活は流転をきわめている。陶工であった兄の虎之助氏は早くから別に一家をなしていたので、女史は母滝子と、妹の国子と、疲細い女三人の手で、その日の煙りを立てなければならなかった。廿四年廿歳の時から廿九年までの六年間が製作の時代であった。 生活の流転は、その感想、随筆、日記、が明らさまに語っている。女史の幼時にも彼女の家は転々した。本郷に移り下谷に移り、下谷御徒町へ移り、芝高輪へ移り、神田神保町に行き、淡路町になった。其処で父君を失ったので、その秋には悲しみの残る家を離れ本郷菊坂町に住居した。その後下谷竜泉寺町に移った。俗に大音寺前という場処で、吉原の構裏であった。一葉の家は京町の非常門に近く、おはぐろ溝の手前側であったという。ここの住居の時分から、女史の名は高くなったのである、そして生活の窮乏も極に達していた。荒物店をはじめたのも此家のことであれば、母上は吉原の引手茶屋で手のない時には手伝いにも出掛けた。女史と妹の国子とは仕立ものの内職ばかりでなく蝉表という下駄の畳表をつくることもした。一葉女史のその家での書斎は、三畳ほどのところであったという。荒物店の三畳の奥で、この閨秀の傑作が綴りだされようと誰が知ろう、それよりもまた、その文豪が、朝は風呂敷包みを背負って、自ら多町の問屋まで駄菓子を買出しにゆき、蝋燭を仕入れ、羽織を着ているために嘲笑されたと知ろうか。彼女の家から灯が暁近くなるまで洩れるのは、彼女の創作のためばかりではなかった。あの、筆をもてば、倏忽に想をのせて走る貴い指さきは、一寸の針をつまんで他家の新春の晴着を裁縫するのであった。半日に一枚の浴衣を縫いあげるのはさして苦でもなかったらしいが、創作の気分の漲ってくるおりでも、米の代、小遣い銭のために齷齪と針をはこばなくてはならなかったことを想像すると、わびしさに胸が一ぱいになる。明治廿五年の正月には、元日ですら夜まで国子氏と仕立物をしていたという事を日記が語っている。
国子当時蝉表職中一の手利に成たりと風説あり今宵は例より、酒甘しとて母君大いに酔給ひぬ。 ――片町といふ所の八百屋の新芋のあかきがみえしかば土産にせんとて少しかふ、道をいそげばしとど汗に成りて目にも口にもながれいるをはんけちもておしぬぐひ/\して――
とあるのにもその生活の一片が見られる。父の則義氏は漢学の素養もあり文芸の何物かをも知っていられたが、母君は普通の気量な、かなり激しい気質の人であったらしい。日記にあらわれた借財のことは、廿年の九月七日にはじまっている。そして、
――我身ひとつの故成りせばいかゞいやしきおり立たる業をもして、やしなひ参らせばやとおもへど、母君はいといたく名をこのみ給ふ質におはしませば、児賤業をいとなめば我死すともよし、我をやしなはんとならば人めみぐるしからぬ業をせよとなんの給ふ、そもことはりぞかし、我両方ははやく志をたて給ひてこの府にのぼり給ひしも、名をのぞみ給へば成りけめ。
とあるにも母君の面影が知れる。そうした気位が高くていながら、乏しい暮しのために、しかもそうした堅気の士族出が、社会の最暗黒面である廓近くに住居して、場末の下層級の者や、流れ寄った諸国の喰詰めものや、そうでなくても闇の女の生血から絞りとる、泡く銭の下滓を吸って生きている、低級無智な者の中にはさまれて暮していなければならなかった母君の、ジリジリした気持ち――(気勝者)といわれる不幸な気質は、一家三人の共通点であった。 一葉女史が近視眼だったのは、幼時土蔵の二階の窓から、ほんの黄昏の薄明りをたよりにして、草双紙を読んだがためだという事ではあるが、そうした世帯の、細心の洋燈の赤いひかりは、視力をいためたであろうし、その上に彼女は肩の凝る性分で、かつて、年若い女史にそう早く死の来ることなどは、誰人も思いよらなかったおり(死の六年前に)医学博士佐々木東洋氏が「この肩の凝りが下へおりれば命取りだから大事にせよ」と言われたということなどを思って見ても、早世は天命であったかも知れないが、あまり身心を費消させた生活が、彼女の死を早めさせたのだ。
私は頃日、馬琴翁の日記を読返して見て感じたのは、あの文人が八十歳にもなり、盲目にもなっていながら、著作を捨てなかった一生が、女史のそれと同様に、焼火箸を咽喉もとに差込まれるような感じをさせることであった。 女史の記録を読むと、明治廿四年――(一葉廿歳の時)十月十日に兄の家は財産差押えになるという通知をうけたくだりに、金三円斗りもあれば破産の不幸にも至るまいという書状から推しても、杖とも頼む男兄弟の、たよりにならなかったことがしれ、かえって妹たちの方が苦しいなかからその急を救った。 「家の方は私の稽古着を売ってもよいから」といって、親子の膏であり、血となる代の金四円を、母を車に乗せて夜中ではあれど届けさせた。 ある時は貧に倦じた老女の繰言とはいえ、
「あな侘し、今五年さきに失なば、父君おはしますほどに失なば、かゝる憂き、よも見ざらましを我一人残りとゞまりたるこそかへす/″\口をしけれ、我詞を用ひず、世の人はたゞ我れをぞ笑ひ指さすめる、邦も夏もおだやかにすなほに我やらむといふ処、虎之助がやらむといふ処にだにしたがはゞ何条ことかはあらむ、いかに心をつくりたりとて手を尽したりとて甲斐なき女の何事をかなし得らるべき、あないやいやかかる世を見るも否也」
と朝夕に母に掻くどかれては、どれほどに心苦しかったであろう。おなじ年(廿六年四月十三日の記に)、
母君更るまでいさめたまふ事多し、不幸の子にならじとはつねの願ひながら、折ふし御心にかなひ難きふしの有こそかなし。
とあるに知る事が出来る。 朝には買出しの包みを背負って、駄菓子問屋の者たちから「姐さん」とよばれ、午後には貴紳の令嬢たちと膝を交えて「夏子の君」と敬される彼女を、彼女は皮肉に感じもした。けれども恩師中島歌子は、一葉の夏子を自分の跡目をつぐものにしようとまで思っていたのであった。であればこそ、同門の令嬢たちも、一葉という文名嘖々と登る以前にも、内弟子同様な身分である夏子を卑しめもしなかったのであろう。 ある時、女史は雨傘を一本も持たなかった。高下駄の爪皮もなかった。小さい日和洋傘で大雨を冒して師のもとへと通った。またある時は(新年のことであったと思う)晴着がないので、国子の才覚で羽織の下になるところは小切れをはぎ、見える場処にだけあり合せの、共切れを寄せて作った着物をきていったことがある。勿論裾廻しだけをつけたもので、羽織が寒さも救えば恥をも救い隠したのである。そうしても師の許へ顔をだす事を怠らなかったわけは、他にもあるのであった。歌子は裁縫や洗濯を彼女の家に頼んで、割のよい価を支払らっていた。師弟の情誼のうるわしさは、あるおり、夏子に恥をかかせまいとして、歌子は小紋ちりめんの三枚重ねの引ときを、表だけではあったが与えもした。 「蓬生日記」の十月九日のくだりには、
師の君に約し参らせたる茄子を持参す。いたく喜びたまひてこれひる飯の時に食はばやなどの給ふ、春日まんぢうひとつやきて喰ひたまふとて、おのれにも半を分て給ふ。
とあるにも師弟の関係の密なのが知られる。けれども歌子は一葉をよく知っていた。あるおり『読売新聞』の文芸担当記者が、当時の才媛について、萩の屋門下の夏子と龍子――三宅花圃女史――の評を求めたおり、歌子は、龍子は紫式部であり夏子は清少納言であろうと言ったとか、一葉も自分で、清少納言と共通するもののあるのを知っていたのかとも思われるのは、随感録「棹のしづく」に、
少納言は心づからと身をもてなすよりは、かくあるべき物ぞかくあれとも教ゆる人はあらざりき。式部はおさなきより父為時がをしへ兄もありしかば、人のいもうととしてかずかずにおさゆる所もありたりけんいはゞ富家に生れたる娘のすなほにそだちて、そのほどほどの人妻に成りたるものとやいはまし――仮初の筆すさび成りける枕の草紙をひもとき侍るに、うはべは花紅葉のうるはしげなることも二度三度見もてゆくに哀れに淋しき気ぞ此中にもこもり侍る、源氏物がたりを千古の名物とたゝゆるはその時その人のうちあひてつひにさるものゝ出来にけん、少納言に式部の才なしといふべからず、式部が徳は少納言にまさりたる事もとよりなれど、さりとて少納言をおとしめるはあやまれり、式部は天つちのいとしごにて、少納言は霜ふる野辺にすて子の身の上成るべし、あはれなるは此君やといひしに、人々あざ笑ひぬ。
と同情している。 とはいえその間に女史一代の天華は開いた。 「名誉もほまれも命ありてこそ、見る目も苦しければ今宵は休み給へ」 と繰返し諫める妹のことばもききいれず、一心に創作に精進し、大音寺前の荒物屋の店で、あの名作「たけくらべ」の着想を得たのであった。けれどもまた、漸く死の到来が、正面に廻って来たのでもあったが、そうとは知りようもなく、ただ家の事につき、母を楽しませる事についても、一層気掛りの度合が増したものと見え、彼女は相場をして見ようかとさえ思ったのだ。 私は此処まで書きながら、私も母の望みを満そうと、そんな考えを起した事が一再ならずあったので、この思いたちが突飛ではない、全く無理もないことだと肯定する。その相場に関して、「天啓顕真術本部」という、妙な山師のところへ彼女がいったことから、すこしばかり恋愛をさがしてみよう。 荒物店を開いた時のことも書残してはならない。 ――夕刻より着類三口持ちて本郷いせ屋にゆき、四円五十銭を得、紙類を少し仕入れ、他のものを二円ばかり仕入れたとある。
今宵はじめて荷をせをふ、中々に重きものなり。
ともいい、日々の売上げ廿八、九銭よりよくて三十九銭と帳をつけ、五厘六厘の客ゆえ、百人あまりもくるため大多忙だと記したのを見れば、
なみ風のありもあらずも何かせん 一葉のふねのうきよなりけり
と感慨無量であった面影が彷彿と浮かんでくる。
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