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樋口一葉(ひぐちいちよう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/23 9:32:15 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


       三

 廿七年二月のある日の午後に、本郷区真砂町(まさごちょう)卅二番地の、あぶみ坂上の、下宿屋の横を曲ったのは彼女であった。その路は馴染(なじみ)のある土地であった。菊坂(きくざか)の旧居は近かった。けれども其処を歩いていたのは、謹厳深(つつしみぶか)い胸に問いつ答えつして、様々に思い悩んだ末に、天啓顕真術会本部を訪れようとしていたのであった。
 黒塀(くろべい)の、欅(けやき)の植込みのある、小道を入って、玄関に立った彼女は、その家の主、久佐賀(くさか)先生というのは、何々道人とでもいうような人物と想像していたのであろう。秋月と仮名(かめい)して取次ぎをたのんだ。
 彼女は久佐賀某に面接したおり、
(逢(あい)見ればまた思ふやうの顔したる人ぞなき)
と、『つれづれ草』の中にある詞(ことば)を思出しながら、四十ばかりの音声の静かにひくい小男に向(むき)合った。
 鑑定局という十畳ばかりの室(へや)には、織物が敷詰められてあり、額は二ツ、その一つには静心館と書してあり、書棚、黒棚、ちがい棚などが目苦(めまぐるし)いまでに並べたててあり、床(とこ)の間(ま)には二幅対(にふくつい)の絹地の画、その床を背にして、久佐賀某は机の前に大きな火鉢を引寄せ、しとねを敷いていて彼女を引見したのであった。
「申歳(さるどし)の生れの廿三、運を一時に試(ため)し相場をしたく思えど、貧者一銭の余裕もなく、我力にてはなしがたく、思いつきたるまま先生の教えをうけたくて」
と彼女は漸くに口を切った。それに答えた顕真術の先生は、
「実に上々のお生れだが金銭の福はない。他の福禄が十分にあるお人だ。勝(すぐ)れたところをあげれば、才もあり智もあり、物に巧(たくみ)あり、悟道の縁(えに)しもある。ただ惜むところは望(のぞみ)が大きすぎて破れるかたちが見える。天稟(てんぴん)にうけえた一種の福を持つ人であるから、商(あきな)いをするときいただけでも不用なことだと思うに、相場の勝負を争うことなどは遮(さえぎ)ってお止めする。貴女はあらゆる望みを胸中より退(のぞ)いて、終生の願いを安心立命しなければいけない。それこそ貴女が天から受けた本質なのだから」
と言った。彼女は表面慎(つつま)しやかにしていても、心の底ではそれを聴いてフフンと笑ったのであろう。
「安心立命ということは出来そうもありません。望みが大に過ぎて破れるとは、何をさしておっしゃるのでしょう。老たる母に朝夕のはかなさを見せなければならないゆえ、一身を贄(にえ)にして一時の運をこそ願え、私が一生は破(や)ぶれて、道ばたの乞食(こじき)になるのこそ終生の願いなのです。乞食になるまでの道中をつくるとて悶(もだ)えているのです。要するところは、よき死処がほしいのです」
と言出すと、久佐賀は手を打っていった。
「仰(おっ)しゃる事は我愛する本願にかなっている」
 彼女と久佐賀との面会は話が合ったのであろう。月を越してから久佐賀は手紙をもって、亀井戸の臥龍梅(がりょうばい)へ彼女を誘った。手紙には、

君が精神の凡ならざるに感ぜり、爾来(じらい)したしく交わらせ給わば余が本望なるべし
などと書いたのちに、
君がふたゝび来たらせ給ふをまちかねて、として、
  とふ人やあるとこゝろにたのしみて
      そゞろうれしき秋の夕暮
と歌も手も拙(つた)ないが、才をもって世を渡るに巧みなだけな事を尽してあった。とはいえ、それを受けたのは一葉である。そんな趣向で手中にはいると思うのかと、直(すぐ)に顕真術先生の胸中を見現(みあらわ)してしまった。日本全国に会員三万人、後藤大臣並びに夫人(象次郎(しょうじろう)伯)の尊敬一方(ひとかた)でないという先生も、女史を知ることが出来ず、そんな甘い手に乗ると思ったのは彼れが一代の失策であったであろう。
 彼女は久佐賀の価値(ねうち)を知った。彼れは世人の前へ被(かぶ)る面で、彼女も贏得(かちう)ることが出来ると思ったのであろう。彼女の手記には利己流のしれもの、二度と説を聴けば、厭(いと)うべくきらうべく、面に唾(つば)きをしようと思うばかりだとも言い、かかるともがらと大事を語るのは、幼子(おさなご)にむかって天を論ずるが如きものだ、思えば自分ながら我も敵を知らざる事の甚だしきだと、自分をさえ嘲笑(あざわら)っている。けれども久佐賀の方では、自分の方は名と富と力を貯えているものだと、慢じていたのであろう。そしてその上に、一葉の美と才と、文名とを合せればたいしたものだと己惚(うぬぼれ)たのであろう。他の者には洩(もら)すのさえ恥(はじ)ているだろうと思われる貧乏を、自分だけがよく知っていると思いもしたのであろう。まだそれよりも、彼女が親と妹のために、物質の満足を得させたいと願っている弱みを、彼れは自分一人が承知しているのだと思い上っていた。それのみならず彼れは、一葉を説破しえたつもりでいたかも知れない。
 久佐賀は、金力を持って、さも同情あるように附込(つけこ)んでゆこうとした。そうした男ゆえ、俺ならば大丈夫良かろうと錨(いかり)をおろしてかかったのかも知れない。ともかく彼れはやんわりと、勝気なる、才女を怒らせないような文面をもって求婚を申入れた。それは廿七年の六月九日のことで女史が廿三歳の時である。
(貴女の御困苦が私の一身にも引くらべられて悲しいから、御成業の暁までを引受けさせて頂きたい。けれども唯(ただ)一面識のみでは、お頼みになるのも苦しいだろうから、どうか一身を私に委(ゆだ)ねてはくれまいか。)
 そんな風な申込に対して苦笑せずにいられるだろうか? いうまでもなく彼女は彼れを評して、笑うにたえたしれもの、投機師と罵(ののし)っている。世のくだれるをなげきて一道の光を起さんと志すものが、目前の苦しみをのがれるために、尊ぶべき操(みさお)を売ろうかと嘲笑した。とはいえ、救いは願っていたのである。そうした悲しい矛盾を忍ばねばならなかった貧乏は、彼女に女らしさを失わぬ返事を認(したた)めさせた。
(どうかそういう事は仰しゃらないで、大事をするに足りるとお思いになるならば扶助をお与え下さい。でなければ一言(ひとこと)にお断り下さい)
と彼女は明らかな決心を持って、とはいえ事の破れにならぬようにと、余儀なく祈る返事を出した。その後も五十金の借用を申込んだこともある。久佐賀も彼女の家を度々(たびたび)訪ずれた。
 久佐賀と懇意になった後(のち)、直に彼女の一家は本郷へ引移った。荒物店を譲って、丸山福山町の阿部家の山添いで、池にそうた小家へ移った。其処は「守喜(もりき)」という鰻屋(うなぎや)の離れ座敷に建てたところで、狭くても気に入った住居であったらしかった。家賃三円にて高しといったのでも、質素な暮しむきが見える。現にこの間(あいだ)、歌舞伎座で河合、喜多村の両優によって、はじめて女史の作が劇として上場されたあの「濁り江」は、この家に移ってから、その近傍の新開地にありがちな飲屋の女を書いたものであった。女史は其処に移ってからもそうした種類の人たちに頼まれて手紙の代筆をしてやった。ある女は女史の代筆でなくてはならないとて、数寄屋(すきや)町の芸妓になった後もわざわざ人力車に乗って書いてもらいに来たという。「濁り江」のお力は、その芸妓になった女をモデルにしたともいわれている。そしてそこが終焉(しゅうえん)の地となった。
 引越しの動機が彼女の発起でないことは、
国子はものに堪(たえ)忍ぶの気象とぼし、この分厘にいたく厭(あき)たるころとて、前後の慮(おもんばかり)なくやめにせばやとひたすら進む。母君もかく塵(ちり)の中にうごめき居らんよりは小さしといへど門構への家に入り、やはらかき衣類にても重ねまほしきが願ひなり、されば我もとの心は知るやしらずや、両人とも進むること切なり。されど年比(としごろ)売尽し、かり尽しぬる後の事とて、この店を閉ぢぬるのち、何方(いずかた)より一銭の入金のあるまじきをおもへば、ここに思慮を廻(めぐ)らさざるべからず。さらばとて運動の方法をさだむ。まづかぢ町(ちょう)なる遠銀(えんぎん)に金子(きんす)五十円の調達を申込む。こは父君存生(ぞんしょう)の頃よりつねに二、三百の金はかし置(おき)たる人なる上、しかも商法手広く表をうる人にさへあれば、はじめてのこととて無情(なさけな)くはよもとかゝりしなり。
(「塵中日記」より)

 私はもうこの辺で、その人のためには、茅屋(ぼうおく)も金殿玉楼と思いなして訪(と)いおとずれた、その当時はまだ若盛りであった、明治文壇の諸先輩の名をつらねることも、忘れてならない一事だろうと、ほんの、当時の往来だけでもあっさり書いておこうと思う。
 第一に孤蝶子――馬場氏が日記の中で巾(はば)をきかしている――先生の熱心と、友愛の情には、女史も心を動かされた事があったのであろう。その次には平田禿木(ひらたとくぼく)氏であろう、この二人のためにはかなり日記に字数が納められている。そしてこの二人の親密な友垣の間にあって、女史は淡い悲しみとゆかしさを抱いていたのであろう。
「水の上日記」五月十日の夜のくだりには、池に蛙(かえる)の声しきりに、燈影(とうえい)風にしばしばまたたくところ、座するものは紅顔の美少年馬場孤蝶子、はやく高知の名物とたたえられし、兄君辰猪(たつい)が気魂を伝えて、別に詩文の別天地をたくわゆれば、優美高潔かね備えて、おしむところは短慮小心、大事のなしがたからん生れなるべけれども歳は、廿七、一度跳(おど)らば山をも越ゆべしとある。
 平田禿木は日本橋伊勢町の商家の子、家は数代の豪商にして家産今漸(ようや)くかたぶき、身に思うこと重なるころとはいえ、文学界中出色の文士、年齢は一の年少にして廿三とか聞けり。今の間に高等学校、大学校越ゆれば、学士の称号目の前にあり、彼れは行水(ゆくみず)の流れに落花しばらくの春とどむる人であろうといい、(親密々々)これは何の言葉であろうと言い、情に走り、情に酔う恋の中に身を投げいれる人々と、何気なくは書いているものの、更(ふ)けて風寒く、空には雲のただずまい、月の明暗する窓によりて、沈黙する禿木氏と、燈火(ともしび)の影によく語る孤蝶子との中にたって、茶菓(さか)を取まかなっていた女史の胸は、あやしくも動いたのであろう。
 此処へ川上眉山(びざん)氏がまた加わらなければならない。彼女は初めて逢った眉山氏をどう見たろうか、彼女はこう言っている。
年は廿七とか、丈(たけ)高く、女子の中にもかゝる美しき人はあまた見がたかるべし、物言ひ打笑(うちえ)むとき頬のほどさと赤うなる。男には似合しからねど、すべて優形(やさがた)にのどやかなる人なり、かねて高名なる作家ともおぼえず心安げにおさなびたり。
とて、孤蝶子の美しさは秋の月、眉山君は春の花、艶(えん)なる姿は京の舞姫のようにて、柳橋(やなぎばし)の歌妓にも譬(たと)えられる孤蝶子とはうらうえだと評した。
 馬場氏の思いなげに振舞うのが、禿木の気を悪くするのであろうと、侘(わび)しげにも言っている。そして眉山氏も一葉党の一人になってしまった。禿木は孤蝶子との間に疑いを入れて、ねたましげでもあったであろう。それもそのはずで、
孤蝶子よりの便りこの月に入りて文三通、長きは巻紙六枚を重ねて二枚切手の大封(おおふう)じなり。
とある。同じ中に、
優なるは上田君ぞかし、これもこの頃打しきりてとひ来る。されどこの人は一景色(ひとけしき)ことなり、万(よろず)に学問のにほひある、洒落(しゃらく)のけはひなき人なれども青年の学生なればいとよしかし
とあるは、柳村、敏(びん)博士のことである。その他に一葉の周囲の男性は、戸川秋骨(とがわしゅうこつ)、島崎藤村、星野天知(てんち)、関如来(にょらい)、正直正太夫(しょうじきしょうだゆう)、村上浪六(なみろく)の諸氏が足近かった。
 正太夫は緑雨(りょくう)の別号をもつ皮肉屋である。浪六はちぬの浦浪六と号して、撥鬢奴(ばちびんやっこ)小説で溜飲(りゅういん)を下げてしかも高名であった。渋仕立(しぶじたて)の江戸っ子の皮肉屋と、伊達小袖(だてこそで)で寛濶の侠気を売物の浪六と、舞姫のように物優しい眉山との三巴(みつどもえ)は、みんな彼女を握ろうとして、仕事を巧みすぎて失敗した。眉山は強(し)いて一葉の写真を手に入れたのちに、他から出た噂(うわさ)のようにして、眉山一葉結婚云々と言触(いいふら)したのでうとまれてしまった。
正太夫年齢は廿九、痩(や)せ姿の面(めん)やうすご味を帯びて、唯口許(くちもと)にいひ難き愛敬(あいきょう)あり、綿銘仙(めんめいせん)の縞(しま)がらこまかき袷(あわせ)に木綿(もめん)がすりの羽織は着たれどうらは定めし甲斐絹(かいき)なるべくや、声びくなれど透(すき)通れるやうの細くすずしきにて、事理明白にものがたる。かつて浪六がいひつるごとく、かれは毒筆のみならず、誠に毒心を包蔵せるのなりといひしは実に当れる詞(ことば)なるべし
と評した斎藤緑雨を、そう言ったほど悪くはあしらいもしなかった。かえって二人は人が思うより気が合った。皮肉屋同士は会心の笑みをうかべあいもした。妻帯の事についてもかなり打明けて語りあっている。でありながら最後に(彼れの底の心は知らぬでもない)と冷たくあしらったのは、あまり正太夫が自分の筆になる鋭利な小説評が、その当時の文壇の勢力を左右した力をもって、折々何事にもあれ一葉の行方を差示(さししめ)し顔に、その力量をほのめかして、感得させようとしたのから、反抗を買ってしまった。浪六にはその前年から頼んであった金策のことで、大晦日(おおみそか)の夜も待明(まちあか)したのであったが、その年の五月一日になってもまだ絶えて音信をしなかったので、
誰もたれも言ひがひのなき人々かな、三十金五十金のはしたなるに夫(それ)をすらをしみて出し難しとや、さらば明かに調(ととの)へがたしといひたるぞよき、えせ男作りて、髭(ひげ)かき反(そら)せどあはれ見にくしや
と吐(は)[#ルビの「は」は底本では「ほ」]きだすように言われている。その他に樋口勘次郎は、身は厭世教を持したる教育者で、しかも不娶(めとらず)主義の主張者でありながら、おめもじの時より骨のなき身になったといって、
勿体なくも君を恋まつれる事幾十日、別紙御一覧の上は八つざきの刑にも処したまへ
とて熱書を寄せもした。されば、
にくからぬ人のみ多し、我れはさは誰と定めて恋渡るべき、一人のために死なば、恋しにしといふ名もたつべし、万人のために死ぬればいかならん、知人(しるひと)なしに、怪しうこと物にやいひ下されんぞそれもよしや。

と思慕の情を寄せてくれる人々に対して誠を語っている。とはいえ、それは思われるに対してである。物思う側の彼女をも、思われた唯(ただ)一人の幸福者をも記(しる)そう。

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