詩集の始に
この詩集には、詩六十篇を納めてある。内十六篇を除いて、他はすべて既刊詩集にないところの、單行本として始めての新版である。 この詩集は「前篇」と「後篇」の二部に別かれる。前篇は第二詩集「青猫」の選にもれた詩をあつめたもの、後篇は第一詩集「月に吠える」の拾遺と見るべきである。即ち前篇は比較的新しく後篇は最も舊作に屬する。 要するにこの詩集は私の拾遺詩集である。しかしながらそのことは、必しも内容の無良心や低劣を意味しない。既刊詩集の「選にもれた」のは、むしろ他の別の原因――たとへば他の詩風との不調和や、同想の類似があつて重複するためや、特にその編纂に際して詩稿を失つて居た爲や――である。現に卷初の「蝶を夢む」「腕のある寢臺」「灰色の道」「その襟足は魚である」等の四篇の如きは、當然「青猫」に入れるべくして誤つて落稿したのである。(もし忠實な讀者があつて、此等の數篇を切り拔き「青猫」の一部に張り入れてもらへば至幸である。)とはいへ、中には私として多少の疑案を感じてゐるところの、言はば未解決の習作が混じてゐないわけでもない。むしろさういふのは、一般の讀者の鑑賞的公評にまかせたいのである。 詩集の銘を「蝶を夢む」といふ。卷頭にある同じ題の詩から取つたのである。
西暦千九百二十三年
著者 [#改丁]
蝶を夢む 詩集前篇 [#改ページ]
この章に集めた詩は、「月に吠える」以後最近に至るまでの作で「青猫」の選にもれた分である。但し内八篇は「青猫」から再録した。
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蝶を夢む
座敷のなかで 大きなあつぼつたい翼をひろげる 蝶のちひさな 醜い顏とその長い觸手と 紙のやうにひろがる あつぼつたいつばさの重みと。 わたしは白い寢床のなかで眼をさましてゐる。 しづかにわたしは夢の記憶をたどらうとする 夢はあはれにさびしい秋の夕べの物語 水のほとりにしづみゆく落日と しぜんに腐りゆく古き空家にかんするかなしい物語。
夢をみながら わたしは幼な兒のやうに泣いてゐた たよりのない幼な兒の魂が 空家の庭に生える草むらの中で しめつぽいひきがへるのやうに泣いてゐた。 もつともせつない幼な兒の感情が とほい水邊のうすらあかりを戀するやうに思はれた ながいながい時間のあひだ わたしは夢をみて泣いてゐたやうだ。
あたらしい座敷のなかで 蝶が翼をひろげてゐる 白い あつぼつたい 紙のやうな翼をふるはしてゐる。
腕のある寢臺
綺麗なびらうどで飾られたひとつの寢臺 ふつくりとしてあつたかい寢臺 ああ あこがれ こがれいくたびか夢にまで見た寢臺 私の求めてゐたただひとつの寢臺 この寢臺の上に寢るときはむつくりとしてあつたかい この寢臺はふたつのびらうどの腕をもつて私を抱く そこにはたのしい愛の言葉がある あらゆる生活のよろこびをもつたその大きな胸の上に 私はすつぽりと疲れたからだを投げかける ああこの寢臺の上にはじめて寢るときの悦びはどんなであらう そのよろこびはだれも知らない祕密のよろこび さかんに強い力をもつてひろがりゆく生命のよろこびだ。 みよ ひとつの魂はその上にすすりなき ひとつの魂はその上に合掌するまでにいたる ああかくのごとき大いなる愛憐の寢臺はどこにあるか それによつて惱めるものは慰められ 求めるものはあたへられ みなその心は子供のやうにすやすやと眠る ああ このひとつの寢臺 あこがれもとめ夢にみるひとつの寢臺 ああこの幻の寢臺はどこにあるか。
青空に飛び行く
かれは感情に飢ゑてゐる。 かれは風に帆をあげて行く舟のやうなものだ かれを追ひかけるな かれにちかづいて媚をおくるな かれを走らしめろ 遠く白い浪のしぶきの上にまで。 ああ かれのかへつてゆくところに健康がある。 まつ白な 大きな幸福の寢床がある。 私をはなれて住むときには かれにはなんの煩らひがあらう! 私は私でここに止つてゐよう まづしい女の子のやうに 海岸に出で貝でも拾つてゐよう ねぢくれた松の木の幹でも眺めてゐよう さうして灰色の砂丘に坐つてゐると 私は私のちひさな幸福に涙がながれる。 ああ かれをして遠く遠く沖の白浪の上にかへらしめろ かれにはかれの幸福がある。 ああかくして、一羽の鳥は青空に飛び行くなり。
冬の海の光を感ず
遠くに冬の海の光をかんずる日だ さびしい大浪の音をきいて心はなみだぐむ。 けふ沖の鳴戸を過ぎてゆく舟の乘手はたれなるか その乘手等の黒き腕に浪の乘りてかたむく
ひとり凍れる浪のしぶきを眺め 海岸の砂地に生える松の木の梢を眺め ここの日向に這ひ出づる蟲けらどもの感情さへ あはれを求めて砂山の影に這ひ登るやうな寂しい日だ 遠くに冬の海の光をかんずる日だ ああわたしの憂愁のたえざる日だ かうかうと鳴るあの大きな浪の音をきけ あの大きな浪のながれにむかつて 孤獨のなつかしい純銀の鈴をふり鳴らせよ わたしの傷める肉と心。
騷擾
重たい大きな翼をばたばたして ああなんといふ弱弱しい心臟の所有者だ 花瓦斯のやうな明るい月夜に 白くながれてゆく生物の群をみよ。 そのしづかな方角をみよ この生物のもつひとつの切なる感情をみよ 明るい花瓦斯のやうな月夜に ああなんといふ悲しげな いぢらしい蝶類の騷擾だ。
群集の中を求めて歩く
私はいつも都會をもとめる 都會のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる。 群集は大きな感情をもつたひとつの浪のやうなものだ どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛慾とのぐるうぷだ。 ああ ものがなしき春のたそがれどき 都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ 大きな群集の中にもまれて行くのはどんなに樂しいことか みよ この群集のながれてゆくありさまを ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり 浪はかずかぎりなき日影をつくり 日影はゆるぎつつひろがりすすむ 人のひとりひとりにもつ愁ひと悲しみと みなそこの日影に消えてあとかたもない。 ああなんといふやすらかな心で 私はこの道をも歩いてゆくことか。 ああこの大いなる愛と無心のたのしき日影 たのしき浪の彼方につれられてゆく心もちは涙ぐましくなるやうだ。 うらがなしい春の日のたそがれどき このひとびとの群は建築と建築との軒を泳いで どこへどうして流れゆかうとするのか 私のかなしい憂愁をつつんでゐるひとつの大きな地上の日影 ただよふ無心の浪のながれ ああどこまでもどこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい。
内部への月影
憂鬱のかげのしげる この暗い家屋の内部に ひそかにしのび入り ひそかに壁をさぐり行き 手もて風琴の鍵盤に觸れるはたれですか。 そこに宗教のきこえて しづかな感情は室内にあふれるやうだ。
洋燈を消せよ 洋燈を消せよ 暗く憂鬱な部屋の内部を しづかな冥想のながれにみたさう。 書物をとりて棚におけ あふれる情調の出水にうかばう。 洋燈を消せよ 洋燈を消せよ。
いま憂鬱の重たくたれた 黒いびらうどの帷幕のかげを さみしく音なく彷徨する ひとつの幽しい幻像はなにですか。 きぬずれの音もやさしく こよひのここにしのべる影はたれですか。 ああ内部へのさし入る月影 階段の上にもながれ ながれ。
陸橋
陸橋を渡つて行かう 黒くうづまく下水のやうに もつれる軌道の高架をふんで はるかな落日の部落へ出よう。 かしこを高く 天路を翔けさる鳥のやうに ひとつの架橋を越えて跳躍しよう。
灰色の道
日暮れになつて散歩する道 ひとり私のうなだれて行く あまりにさびしく灰色なる空の下によこたふ道 あはれこのごろの夢の中なるまづしき乙女 その乙女のすがたを戀する心にあゆむ その乙女は薄黄色なる長き肩掛けを身にまとひて 肩などはほつそりとやつれて哀れにみえる ああこのさびしく灰色なる空の下で 私たちの心はまづしく語り 草ばなの露にぬれておもたく寄りそふ。 戀びとよ あの遠い空の雷鳴をあなたは聽くか かしこの空にひるがへる波浪の響にも耳をかたむけたまふか。
戀びとよ このうす暗い冬の日の道邊に立つて 私の手には菊のすえたる匂ひがする わびしい病鬱のにほひがする。 ああげにたへがたくもみじめなる私の過去よ ながいながい孤獨の影よ いまこの竝木ある冬の日の街路をこえて わたしは遠い白日の墓場をながめる ゆうべの夢のほのかなる名殘をかぎて さびしいありあけの山の端をみる。 戀びとよ 戀びとよ。
戀びとよ 物言はぬ夢のなかなるまづしい乙女よ いつもふたりでぴつたりとかたく寄りそひながら おまへのふしぎな麝香のにほひを感じながら さうして霧のふかい谷間の墓をたづねて行かうね。
その手は菓子である
そのじつにかはゆらしい むつくりとした工合はどうだ そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ 指なんかはまことにほつそりとしてしながよく まるでちひさな青い魚類のやうで やさしくそよそよとうごいてゐる樣子はたまらない ああその手の上に接吻がしたい そつくりと口にあてて喰べてしまひたい なんといふすつきりとした指先のまるみだらう 指と指との谷間に咲く このふしぎなる花の風情はどうだ。 その匂ひは麝香のやうで 薄く汗ばんだ桃の花のやうにみえる。 かくばかりも麗はしくみがきあげた女性の指 すつぽりとしたまつ白のほそながい指 ぴあのの鍵盤をたたく指 針をもて絹をぬふ仕事の指 愛をもとめる肩によりそひながら わけても感じやすい皮膚の上に かるく爪先をふれ かるく爪でひつかき かるくしつかりと押へつけるやうにする指のはたらき そのぶるぶるとみぶるひをする愛のよろこび はげしく狡猾にくすぐる指 おすましで意地惡のひとさし指 卑怯で快活な小指のいたづら 親指の肥え太つた美しさとその暴虐なる野蠻性。 ああ そのすべすべとみがきあげたいつぽんの指をおしいただき すつぽりと口にふくんでしやぶつてゐたい いつまでたつてもしやぶつてゐたい。 その手の甲はわつぷるのふくらみで その手の指は氷砂糖のつめたい食慾 ああ この食慾 子供のやうに意地のきたない無智の食慾。
その襟足は魚である
ふかい谷間からおよぎあがる魚類のやうで いつもしつとり濡れて青ざめてゐるながい襟足 すべすべと磨きあげた大理石の柱のやうで まつすぐでまつ白で それでゐて恥かしがりの襟足 このなよなよとした襟くびのみだらな曲線 いつもおしろいで塗りあげたすてきな建築 そのおしろいのねばねばと肌にねばりつく魚の感覺 またその魚類の半襟のなかでおよいでゐるありさまはどうです ああこのなまめかしい直線のもつふしぎな誘惑 そのぬらぬらとした魚類の音樂にはたへられない あはれ身を藻草のたぐひとなし はやくこの奇異なる建築の柱にねばりつきたい はやく はやく この解きがたい夢の Nymph に身をまかせて。
春の芽生
私は私の腐蝕した肉體にさよならをした そしてあたらしくできあがつた胴體からは あたらしい手足の芽生が生えた それらはじつにちつぽけな あるかないかも知れないぐらゐの芽生の子供たちだ それがこんな麗らかの春の日になり からだ中でぴよぴよと鳴いてゐる かはいらしい手足の芽生たちが さよなら、さよなら、さよなら、と言つてゐる。 おおいとしげな私の新芽よ はちきれる細胞よ いま過去のいつさいのものに別れを告げ ずゐぶん愉快になり 太陽のきらきらする芝生の上で なまあたらしい人間の皮膚の上で てんでに春のぽるかを踊るときだ。
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